秋が深まりつつある午後、地域の総括的な医療の提供について話し合う会議が、小高い丘の上にあるビクトリア・ノースヒル・ホスピタルで行われていた。
それにホーキンス・ファミリー・メディカルセンターの代表として参加していたリアムは、会議が終了すると同時に、運が良ければ己の夫に会えるかもしれないとの思いから、会議後に時間があるならカフェに行かないかとの誘いを断っていた。
すっかり今では客の顔で歩く廊下だが、数年前はリアム自身ここを毎日何度も往復していたことを思い出し、懐かしさに目を細めたとき、廊下の角の向こうから病院内ではあまり聞かない大きな物音が近付いてくる事に気付く。
その音にリアム以外にその場にいた人達も気付き、何事だと音のする方へと顔を向ける。
音がする方にあるのはERから繋がるエレベーターだと思い出したリアムは、ああ、急患をオペ室へと運ぶのだろうと察すると、邪魔にならない場所にまで身を引く。
リアムの予想は間違っていなかったようで、指示を飛ばす声とオペ室の準備は出来ているだのの言葉に、ストレッチャーのタイヤの音が重なる。
その音が否応がなしに緊張感を覚えさせ、思わず唾を飲んだとき、角を曲がってくる一団の姿が見える。
ストレッチャーと言うよりは病室から運び出したベッドのようなそれに、付き添う看護師達が早くと走るようにベッドを押し、その横で小走りになりながら指示を与える白衣姿が見え、何処の科の患者だろうとリアムが目を細めたとき、今朝、行ってこいとキスで見送った夫の顔が見え、思わず目を見張ってしまう。
長い廊下の向こうから病院内とは思えない速さでやって来る一団に己の夫がいる事は特段おかしい事では無かったが、再会できるかもと期待していたことが叶った可能性にただ驚いてしまう。
だが、悲しいかな言葉を交わす余裕どころか、通り過ぎるのをただ待っているリアムに気付いてくれるのだろうかという疑問が芽生えたとき、隣にいるラテン系の仔犬を連想させる青年に指示を飛ばした後、ふ、と此方に視線を流し、一瞬だけ足を弱める。
「……」
足を止めて言葉を交わす時間もない、外の道路を行き交う車のように目の前を過ぎる夫だったが、エレベーターに乗り込んだ後、ドアが閉まる寸前に顔を出す。
その顔に向け、リアムが出来たのはただひとつだった。
行ってこい。
その思いを込めた笑みを浮かべ、リングが光る右手を握って顔の高さに掲げると、エレベーターのドアの隙間から突き出された拳にきらりと光が生まれる。
それをそっと受け取り、足を止めて話をした以上の満足感を覚えたリアムは、何だったんだろうと訝る声を背中に、今日は会議が終われば直帰しても良いと言われていたことを思いだし、己に拳で行ってくると伝えた夫のために何を作ろうかと、会議の時以上の真剣さで考え始めるのだった。
今日は疲労が強いだろうか、それとも満足感が強いだろうか。
そんな事を思いながら、自分達のためのディナーの準備を終え、日課のトレーニングをしていたリアムは、リビングでそれぞれ好きなぬいぐるみ相手に遊んでいたデュークとマイロが顔を上げ、遠くを見るような目をした後、何かを押しようと己の横にやって来た事に気付き、手を止めて汗を拭く。
「どうした?」
犬特有の感覚で何かを捉えたらしいが、悲しいかなリアムは人間以上の感覚を有しておらず、どうしたと再度問いかけながらデュークの頭を撫でた時、マイロの短い尻尾が勢いよく左右に振られる。
デュークらの感覚を共有することは出来ないが、その身体が表現する感情を覚えることは出来ていたため、ああと笑みを浮かべてマイロを片手で抱き上げる。
小型犬特有の高い鳴き声を上げ、宙を駆けるように前足を動かす姿に苦笑するリアムだったが、大人しく座っていたデュークが尻を上げ、そわそわと動き始めたことから、何を察知したのかに気付き、苦笑を笑みへと切り替える。
程なくして、人以上の感覚を持たないリアムでも知覚したのは、聞き慣れたエンジン音で、それが一度止まったかと思うと、次いで聞こえてきたのはガレージのシャッターを巻き上げるウィンチが動作する音だった。
その音にすら笑顔になれる己に呆れそうになるが、特徴的な音が響いた後、エンジン音が再度聞こえ、覚えているタイミングでドアの向こうに沈黙が訪れる。
その頃には、リアムの腕の中でマイロが激しく動いていて、このまま床に下ろせばきっと飛び出してしまうだろう危惧からしっかりと抱えるが、まだまだ仔犬の為に教えないといけないと溜息を吐く。
そんなリアムの横ではデュークがくるくると回り始め、デュークがマイロと同じサイズだった頃からの変わらない癖を目撃し、懐かしさに目を細める。
シャッターが地面に接する音が小さく聞こえた後、三対の色の違う瞳が見守る前、ガレージに繋がるドアが開き、溜息を吐きながらリアムの夫であり、デュークとマイロが落ち着きを喪うほど愛している男が姿を見せる。
「お帰り、ケイさん」
今日は本当にお疲れ。
マイロを床に下ろし、デュークが歓喜の声を上げる横、リアムが両手を広げて満面の笑みを浮かべると、その腕の中に痩躯が吸い込まれてくる。
朝以来のハグに、首筋に顔を寄せて小さく鼻を鳴らしたリアムだったが、背中をそっと抱きしめられた後、お前のお陰であの後頑張ることが出来たと囁かれ、眼鏡の下で目尻を赤く染める端正な顔を見下ろす。
「今日は話す暇も無かったけど、会えて嬉しかった」
職場での一瞬に近い遭遇だったが、それだけでも嬉しかった。
付き合い始めた頃ならば考えられない程素直に本音を吐露する夫、慶一朗を見つめていたリアムだったが、その言葉が体内を巡った後、薄く色付く頬にキスをし、そっと抱き上げる。
「うん。俺も嬉しかった」
そして、あれほど急いでいたオペを無事に終えて帰宅したあなたを自慢したい。
リアムの心からの賛辞を受けた慶一朗の目が二度三度と左右に泳いだ後、真っ直ぐにヘイゼルの光を宿す瞳を見つめ、口の端を持ち上げる。
「頑張った」
「うん。だから今日はあなたの好きなものをディナーで食べよう」
じいちゃん直伝のシュニッツェルにしたけれど、どうだろう。
少しだけ自身のなさげな顔で笑うリアムの額に額を重ねた慶一朗は、今日は疲れているから濃い味付けのものが良いと返す。
その言葉に正解だとリアムの顔が語り、マッシュルームソースを作ったから好きなだけ掛けて食べてくれと頬に再度キスをし、慶一朗を床に下ろす。
その途端、二人の足下から異口同音の不満声が上がり、慶一朗が視線を下げると、マイロがぴょんぴょんと跳びはね、デュークが尻尾をブンブンと振り始める。
「……ただいま、デューク、マーロ」
それぞれの名を呼んで頭を撫で、その手で顎の下を撫でて満足の声を上げさせると、着替えてくると残して洗面所に向かう。
その背中を見送ったリアムが二匹に向けて笑みを浮かべると、さあ、ディナーの準備だと腕捲りをし、デュークとマイロの声質は違うが同じ感情を由来とする声を上げさせるのだった。
ご褒美のようなディナーを終え、どれだけ疲れていてもこれは慶一朗がやると断言した、一日の疲れを取るようなフラットホワイトを二人で飲み、慶一朗の誕生日とクリスマスプレゼントを兼ねて買い換えたカウチがある新しいソファでリアムはテレビを見ていた。
カウチがあるソファが欲しい。
昨年の慶一朗の誕生日とクリスマスプレゼントに頭を悩ませていたリアムに告げられたのがその言葉だった。
なのに、気に入ったカウチ付きソファを買ったにも拘わらず、ソファのコーナーにリアムが座り、そのリアムの身体を慶一朗は以前同様クッション代わりにし、二人が一緒にいるときはカウチが使われることがなかった。
もっとも、リアム自身もクッション代わりにされる事を快く引き受けているため、二人がソファにいるときは、カウチはデュークやマイロの遊び場と化していた。
そのソファでテレビを見ながらフラットホワイトを飲み、今日一日の出来事で話せる事を互いに話す。
そんな、明日になれば何を話していたかも忘れてしまいそうな、穏やかな夜。
リアムの胸板にもたれ掛かりながら満足そうにしていた慶一朗は、今日の廊下での出会いを振り返り、あの時、急患の対応に頭がいっぱいになっていたが、リアムと再会した瞬間、脳味噌を覆っていた膜が音も無く剥がれ、一気に視界が広がったような錯覚を覚えたのだ。
ただ、リアムの顔を見ただけなのに。
ただそれだけで、いつも以上の集中力を発揮できたのは、やはりリアムがいたからだとしか思えなかった。
それを不思議と受け止めるのではなく、リアムが持つ特有のものだと受け止めた慶一朗は、背後に手を伸ばしてハニーブロンドを撫でる。
「ケイさん?」
どうしたと続けられる言葉に、本当に自慢できるのは俺じゃなくお前だと小さく返すと、首筋に満足の証の吐息がひとつ。
それにくすぐったいと首を竦めると、今度は髪やうなじや頬にキスの雨が降り始め、くすぐったいと声に出して笑ってしまう。
「止めろ、リアム」
くすぐったい。
後ろから抱きしめられながらのキスの嵐に、実際のものに遭ったときとは違って楽しげな笑い声を上げながら首を竦めた慶一朗は、笑い疲れた事からしつこいと言い放ち、背後のクッションに体重を掛けるように身体を反らせるが、悲しいかな慶一朗よりもクッションの方が弾性があり、軽々と跳ね返されてしまう。
それも楽しさを増幅させ、この野郎と笑いながら口走った慶一朗だったが、抱きしめる腕の力が強くなった気がし、太い腕を叩きながら叫ぶ。
「ギブギブギブ! 止めろ、リアム!」
「……本当にあなたは」
学習能力があるはずなのに、どうしてそれを有効活用しないのか。
呆れたような溜息交じりの言葉に恐る恐る顔を振り向けた慶一朗は、そこに呆れとそれを遙かに凌駕する愛情に充ちた瞳を発見し、腕の中で器用に振り返って小さく両手を広げる。
「……良し」
その手を押し広げるようにリアムが抱きしめ、まったくと息を吐くものの、どちらも顔は笑っていて、明日のランチボックスに今日のシュニッツェルを入れてくれと慶一朗がリクエストすると、今日はポークだったけれど明日はチキンでも良いかとリアムが問い返す。
「食べてみたいな」
「うん」
いつからか、職場に持って行くことが多くなったランチボックス。
その中身をリクエストされる嬉しさを押し隠したリアムは、じゃあ明日の朝はドリップコーヒーが飲みたいと返す。
日常生活不能男が唯一出来る事と胸を張れるのは、リアムの為にコーヒーを淹れる事だけだった。
ならば、そのリアムからリクエストを受ければ、仕事以上に全力を出すだけだった。
「分かった」
ドリップ用のコーヒー豆を買ったからそれを飲もう。
リアムと鼻の頭を擦り合わせた慶一朗は、ある思いを伝えるために目を閉じ、耳に口を寄せる。
「……仲良くするか?」
「……うん」
慶一朗の密やかな夜の色香の滲んだ声に、同じ欲が滲んでいるのに真昼を連想させる明るい声が返し、少し密度の濃いキスをする事で予約完了の合図にするのだった。
昨日の、病院内にしては珍しく大きな音を立てていた一団のひとり、ホアキン・ファルケは、ロッカールームで同じ時間に出勤してきた慶一朗を発見し、おはようございますと声を掛ける。
「おはよう、ホアコ」
慶一朗の穏やかな声にまだ仕事モードになっていないのだと気付いたファルケは、昨日のオペのことを聞きたそうな顔になるが、朝一番のカンファレンスが終わってからにしようと決めるものの、どうしても気になった事をそっと問いかける。
「昨日、エレベーターの前で挨拶をしていた人って……」
もしかしてケイの夫のリアムですか。
その疑問はファルケにとってはある意味決死のものだったが、受けた慶一朗にとってもある種の驚きを齎すものだったのか、メガネの下で目を丸くしてしまう。
その様子から、プライベートに踏み入ってしまったと気付いたファルケが、後悔を顔に浮かべた事に気付き、ああ、そうじゃないと苦笑交じりにファルケを見た慶一朗は、お前は目が良いなと褒めるように目を細める。
「え……?」
「あの時、一瞬すれ違っただけなのに良くリアムだと分かったな」
何度か家族写真を見せていたから顔を覚えていたのかと、慶一朗が感心の声を上げながら問いかけると、ファルケが少し考え込んだ後、鍛えている身体と優しそうな笑顔に一瞬で目が惹き付けられたと笑い、端正な顔にも笑みを浮かべさせる。
「あいつの身体はある意味目印だな」
「待ち合わせをするとき、場所じゃなくリアムで待ち合わせができそうだな」
ファルケ独特の感性から発せられる言葉に一瞬どう返事をすべきか悩んだ慶一朗だったが、それが齎すものが不愉快なものではなかったため、息をひとつ吐いてロッカーを撫でる。
「行くぞ」
「はい」
今日も昨日同様、自分達を待つ人が沢山やってくるのだ。
昨日、廊下で行ってこいと拳で送り出し、今朝はいつものようにハグとキスで送り出してくれたリアムが、いつまでも自慢に思ってくれる男でいよう。
その思いを胸に、ファルケに行くぞと笑いかけた慶一朗の顔は、リアムが惚れて止まない、飄々としながらも、患者からも同僚からも頼られる医者のものになっているのだった。
その横顔をファルケが憧憬の眼差しで見つめ、いつか同じ位置に立てるようにと、医者になる決意をした時の思いを再度思い出したように、少し先を行く慶一朗を追いかけるのだった。