今年は休みを取るぞ。
そう宣言されたのは、今から約ひと月ほど前だった。
その時には何を言っているのかをイマイチ理解していなかったが、日が近付くにつれ、心なしか浮かれているような様子も見えるようになっていた。
それを見て初めて、休みを取るという言葉が実体を伴って体内で大きくなった。
夫の言葉を疑う訳では無いが、奇妙な乖離感があったため、リアムが漸くそれが現実だと理解したのは、いつも通りの時間に起こした時、今日は休みだからまだ寝ると寝惚け眼を瞬かせながら寄り掛かられたときだった。
ああ、本当に休みを取るんだ。
己にもたれ掛かりながら寝息を立てる夫を呆然と見下ろしたリアムだったが、不意にその実感を覚え、片手で口元を覆う。
付き合い始めて何度目のカウントダウンを迎えるのか数えることはしなくなったが、新たな年へと一歩を踏み出す瞬間は例年ならば慶一朗の職場の仮眠室なり駐車場だった為、自宅で年を越えられるという現実に顔がにやけてしまう。
現象としては昨日から今日へと変わる瞬間と同じ筈だった。
なのに、年が変わるというだけで、どうしてこんなにも特別感が生まれるのだろうか。
そう思いつつ、寝起きなのにいつ見ても端正な顔を見下ろすと、そんなに見つめられると寝られないだろうと、眠気と呆れが絶妙にブレンドされた声に笑われ、気恥ずかしさから天井を見上げてしまう。
「……今日一日、ケイさんと一緒にいられるって思ったら……」
何だかすごく舞い上がってしまった。
付き合い始めたティーンエイジャーを彷彿とさせる顔で、何やら不明瞭な言葉で己の気持ちを表すリアムにふぅんという興味がなさそうな声が欠伸混じりに届けられるが、目が覚めたと笑った後、ヒゲに覆われている頬にキスをする。
「まだ寝られたのに起こしたバツだ、絶品のモーニングを食わせてくれ」
まだ後一時間は寝られたのにと、不満の割には名残惜しさを感じさせない顔で伸びをした慶一朗の言葉に、勿論と頷いたリアムだったが、今日は何を食べたいと問いかけながらベッドから降りると、慶一朗ものそのそと起き上がり、リアムに向けて両手を広げる。
朝一番の甘えるような姿にリアムがもう一度天井を仰ぐが、その手の中に身体を押し込むと、軽々とその身体を抱き上げる。
「今日は朝からコアラに変身だな」
「カンガルーよりマシだろ」
己の肩に頬を預け、ああ、腹が減ったと笑う慶一朗に、ケイさんがカンガルーかと楽しそうに肩を揺らしたリアムだったが、カンガルーに対して悪い印象は持っていないけれど、あなたにそうなられると困るなぁと続け、ベッドルームを出る。
階段を下りるとその先ではジャーマン・シェパードのデュークと、ミニチュア・シュナウザーのマイロが遊んでいたが、二人に気付くとリアムの足下に駆け寄ってくる。
「Servus, ihr scheena Buam!」
おはよう、ハンサムボーイズと、二匹に向けて朝一番の笑顔を見せる慶一朗だったが、リアムがそろそろ降りないかと微苦笑混じりに告げた為、コアラから人類へと一瞬で進化を遂げる。
大理石のフロアに素足で降り立った慶一朗にマイロが、抱き上げろ、今すぐ抱き上げろと尻尾を忙しなく振り、その横ではデュークがリアムの腿を前足で掻き、水が欲しいと強請り出す。
「ケイさん、デュークとマーロに水を飲ませてやってくれないか?」
その間にあなたと俺の朝食を作るからと笑うリアムに頷いた慶一朗は、階段横の壁際に二つ並べて置いたステンレス製のボウルを片手に、片手でマイロを抱き上げるが、アイランドキッチンのカウンターから向こうにはデュークやマイロを連れて行けないことを思い出し、頭にキスをした後、デュークの隣に下ろす。
どうして下ろすんだと抗議の声を上げるマイロだったが、そんな弟を兄がうるさいと言いたげに睨んだ後、背中に前足を載せて軽く力を込める。
自分よりも大きい上に年上のデュークに身体を押さえられてしまえば逆らえず、マイロが耳も尻尾もしおしおとさせてしまうが、その間に慶一朗がハンサムボーイズの為の水を手早く用意し、飲みやすく高さを付けた台にはデューク用の、その隣の低い台にはマイロの為のボウルをセットする。
「ほら、沢山飲め」
特にマイロは、水分が不足すると罹りやすくなる病気があるんだからと、リアムから教わった知識を言葉で伝え、それに素直に従う兄弟に満足げに息を吐く。
「……ただ、水を飲んでるだけなんだけどな」
「ケイさん?」
デュークとマイロを見下ろしながら感慨深い溜息を吐いた慶一朗に、リアムがどうしたと言いたげに肩越しで振り返るが、背中に衝撃を受けて両足に力を込めて踏ん張る。
「……それだけなのに嬉しいんだな」
水を飲む、ただそれだけの行為から何かを感じ取ったらしく、ぽつりと背中を滑り落ちる言葉をリアムがふくらはぎでキャッチし、腹の前で組まれる手に手を重ねる。
「うん。嬉しいな」
そして、それに気付いてくれた事も、もっと嬉しい。
リアムの素直な感情が載った言葉に慶一朗が顔を上げ、どういうことだと愛嬌のある顔を後ろから見つめると、これから作るモーニングも残さず食べてくれると本当に嬉しいと返され、上目使いになったあと、頬にキスをする。
「お代わりしたくなるようなモーニングが食いたい」
「さて、腕を奮いますか」
慶一朗の言葉にリアムが軽口を返し、仕上げに掛かるからカトラリーを出しておいてくれとも告げると、リアムの指示に素直に従うように慶一朗が離れていく。
背中が急に涼しくなった事に寒さを覚えたリアムだったが、スクランブルエッグに必要以上に火が入らないように気を付けつつ、慶一朗のリクエストである絶品のモーニング作りに精を出すのだった。
一年の最終日に休みを取ると慶一朗が宣言してから、リアムの知らない場所でデュークとマイロを相手に何やらしている様子だったが、家中を走り回って彼方此方に大惨事の爪痕を付けたり、リビングのソファの中綿を部屋中に撒き散らしたりという、どうすることもできないような惨状には陥っていなかったため、リアムは見て見ぬフリをしていた。
今の慶一朗ならば、きっと何某かの答えを自らお披露目してくれるはず。
その信頼は、二人が付き合い始め、思い出した今なら笑ってしまえる事や、今でも笑えない出来事を乗り越え、同じ思いを宿したデザインが違うリングを右手に、色違いのカラーストーンが煌めくペンダントトップを付けるようになった今、敢えて口に出さなくてもそこかしこに存在しているものだった。
だからリアムは、初めて二人と二匹と過ごす12月31日の夜、何を食べようか、料理に合わせる酒は何にしようかと、己の持てる知識と技術を発揮しようと頭を悩ませていた。
そんなリアムが張り切ってディナーの用意をしているが、今日は特別だと笑って慶一朗に告げた言葉に、一瞬意味が分からなかった慶一朗が目を丸くする。
「今日はケイさんが家にいるから、やってみたかった事をしたい」
だから付き合ってくれると嬉しいと、鼻の頭を掻きながら照れくさそうに話すリアムをじっと見つめた慶一朗は、何をしたいんだと問い返し、実はと切り出しながら顔をリビングの仕切りの本棚へと向ける。
「じいちゃんが、年末だけは特別だって言って食わせてくれた料理があるんだ」
「じいちゃんが?」
「そう。……それを食えるのは年に一度って訳じゃ無いけど、特別感があった」
それを一緒に食いたいと笑うリアムに慶一朗も勿論と頷くと、その為に今日のディナーは軽く済ませようとリアムが続ける。
「カウントダウンを迎える前から食べ始めて、年を越しても食べる感じだな」
リアムが軽く説明をする言葉から慶一朗が想像出来るものは殆ど無かったが、自分がやりたいと思っている事が出来るかと一瞬だけ不安を覚え、カウントダウンの瞬間は今までと同じかと問いかける。
「うん、同じだ」
ただ今年は病院の仮眠室や駐車場では無く、自宅リビングだと笑うリアムに、それならば大丈夫と安堵に目を細めた慶一朗は、とにかく何を食うのか分からないが、楽しみにしていると頷き、不思議そうに見上げてくるデュークとマイロの頭をそれぞれ撫で、練習の成果を発揮するぞと小声で二匹に告げるのだった。
いつものディナーの時間より遙かに遅い11時過ぎ。
カウントダウンまで後1時間という、奇妙にそわそわしてしまう時間を、ソファに寝転がり、デュークとマイロが遊ぶ様子を見ていた慶一朗は、リアムが準備が出来たと声を掛けたことに気付き、ソファに起き上がる。
「リアム?」
「うん。お待たせ、ケイさん」
今日は天気も良いし31日の夜だから平気だろうと、庭にテーブルを出すのを手伝ってくれと笑われ、勿論と言いながら立ち上がる。
カウンターの上には小さな鍋や具材が並べられていて、リアムが冷蔵庫からチーズを取り出した時、チーズを食うのかと問いかける。
「うん。チーズフォンデュだな」
店で食べるような本格的なものでは無いけれどと笑うリアムに促され、庭に出た慶一朗がキャンプ道具などを収納している物置からテーブルを出し、庭の中央にセットする。
チェアはこれまたキャンプでよく使うハイバックチェアで、自宅の庭でキャンプかと笑うと、それも捨てがたいとリアムの顔に笑みが浮かぶ。
テーブルに次々にセットされる食材に、匂いに興味を持ったらしいデュークとマイロが二人の周囲をうろうろとし始めるが、デュークとマイロにはおやつを作ったからそれをあげようとリアムが二匹の頭を撫でる。
慶一朗がセットしたテーブルとチェアに、リアムが準備をした料理が並び、忘れていたと笑ったリアムが運んできたのは、良く冷やしていたらしいシャンパンのボトルだった。
「これはカウントダウンの乾杯用」
それまではいつも通りビールを飲もうと笑い、いつものように肩を並べてチェアに座った二人は、それぞれの横にデュークとマイロも座った事に気付き、いただきますの言葉をリアムが告げるのを待つ。
「どうぞ召し上がれ」
「ダンケ」
その言葉に、くつくつと温まったチーズが気泡を作る音が小さく重なり、それぞれ思い思いの食材をフォークで突き刺し、チーズに潜らせて食べ始めるのだった。
チーズフォンデュは店となんら遜色のないもので、カウントダウンまでの時間を使って食べる為、二人ともゆっくりと食べ、ゆっくりとビールを飲んでいた。
そして、11時55分を迎えた時、慶一朗がスマホを取りだし、シドニーのハーバーブリッジで打ち上がる花火の様子を配信している画面を開き、リアムがそそくさとシャンパンのボトルの栓を抜く。
リアムが手作りしたおやつを食べて満足したのか、その頃にはデュークもマイロも大人しく庭の芝生に寝そべっていたが、11時57分という声がスマホから流れ出した後、慶一朗がハイバックチェアから立ち上がる。
「ケイさん?」
スマホを何やら操作し、カウントダウンの声が聞こえるようにボリュームを調整した慶一朗だったが、周囲を見回してここなら大丈夫と確信を得た場所で、リアムに向けて片手を伸ばす。
「Prinz, kemman S' amoi her.」
王子様、どうか此方にお越し下さいと艶然と笑みを浮かべられ、意味が分からないと思いつつもその手の誘惑に逆らえないリアムが慶一朗の前に立つと、リアムの右手を取った慶一朗が手の甲に口付ける。
「ケイさん?」
「……マーロ、来い」
リアムの疑問が浮かぶ顔を目前に、マイロにも同じように呼びかけて駆け寄ってくる黒い小さな毛玉を片手で抱き上げた慶一朗は、スマホから流れる数字が間もなくその瞬間を迎える事に気付き、リアムに向けてにやりと笑みを浮かべる。
そして、スマホから3,2,1とカウントダウンの声が流れた瞬間、リアムの手をしっかりと握りしめながら、大きく口を開く。
「リアム、デューク、マーロ、……Hey Jump!」
その掛け声の真意などリアムは理解出来なかったが、ジャンプとの声と慶一朗の手に引っ張られるようにその場で飛び上がり、少し離れた場所にいたデュークも慶一朗の掛け声に従って飛び上がり、マイロも慶一朗の腕の中で嬉しそうに尻尾を振って伸び上がる。
「え……え?」
顔を困惑に染めながら着地したリアムだったが、マイロを片手に抱いたまま同じようにジャンプし、同じように着地した慶一朗が倒れ込んで来たため、しっかりと抱き留めて端正な顔を見つめる。
「Frohes neues Jahr!」
慶一朗の口から新年を祝うドイツ語が流れ出し、その一言で全てを理解したのか、細い腰に腕を回してしっかりと抱きしめると、慶一朗の腕の中で伸び上がったマイロがリアムの顔を舐め回し、デュークが空いているリアムの手を目掛けてその場で何度もジャンプをする。
「Frohes neues Jahr、ケイさん」
新年おめでとう、そう言い合いながら、マイロが顔中を舐める擽ったさに自然と笑みを浮かべ、片手でデュークの身体を撫でていたリアムだったが、鼻の頭が触れ合う距離で慶一朗と見つめ合う。
付き合い始めてから自宅で二人きり――厳密にはデュークもマイロもいるが――で新年を迎えたことは今までなく、初めてのそれにリアムの顔が興奮から紅潮する。
「……一緒にジャンプして年を跨ぎたかった」
だから今年は休むことにしたとリアムの肩に寄り掛かり、腰に腕を回して笑う慶一朗の顔を見つめたリアムは、うん、それは嬉しいと髭の下の口を笑みの形にする。
「……もしかして、デュークにずっと教えていたのはジャンプだった?」
「一緒にジャンプしたいだろう?」
ただ、マイロは小さいからそれをさせるのが不安だった、だから俺が抱えてジャンプしたと、腕の中で今度は慶一朗の顔を舐めようとしていいるマイロの頭にキスをした慶一朗は、リアムが己の頬を手で覆った事に気付き、そちらに顔を向けてそっと目を閉じる。
新年おめでとう、今年も一緒に年を跨ぐことが出来て良かった。
そんな囁きをキスと共に受け取った慶一朗は、付き合い始めてからの約束である一緒にカウントダウンを迎えられた事に安堵し、リアムに寄り掛かるとしっかりと受け止められる。
新年のキスを交わした後に鼻の頭を再度触れ合わせた二人だったが、慶一朗がシャンパンを飲みたいと笑い、チェアに腰を下ろす。
「まだ料理が残ってるけど、食えるか?」
「もう無理かな。……明日何かの料理にリメイク出来るか?」
「うん、大丈夫だ」
ただ、一口だけでも良いけれどと断ったリアムが家の中に入ったかと思うと、戻ってきた時にはドーナツらしきものが載った皿を手にしていた。
「それは?」
「ベルリーナー」
砂糖をまぶしてあるから、一口だけでも良い、食べてくれ。
きっとこれが、リアムの祖父母や両親が幼い息子に特別だと言って食べさせていたものだと気付いた慶一朗は、リアムに向けて大きく口を開き、あ、と声で促す。
「無理に食わなくても良いから」
中にはジャムも入っていてかなり甘い筈だと言いながら、慶一朗の開けられている口の前にそれを持って行ったリアムは、己が思っているよりも大きく齧りつく慶一朗に内心焦ってしまうが、もぐもぐと咀嚼する顔を見ていると己の取り越し苦労だと気付き、半分ほどにまで減ったベルリーナーに自身も齧りつく。
「甘い」
「うん、甘いな」
初めて食べたけれど、お前さえ良ければ来年も今日と同じようにこれを食べたい。
慶一朗がリアムの口の端に付いている砂糖を指で拭き取った後、ペロリとそれを舐めながら笑うと、それぐらいお安いご用だとリアムが大きく頷く。
幼い頃の年越しの習慣を思い出して実践したリアムだったが、スマホから流れ出す花火の音らしきものに気付き、親友達は今頃店で大騒ぎをしているのかなと頬杖を突く。
「どうだろうな。今から店に行くのは多分無理だろうから、朝になってから行くか?」
「……二人には悪いけど、今日はケイさんと家でゆっくりしたいな」
リアムの珍しいワガママに慶一朗が小さく笑みを浮かべ、何の問題も無いと返すと、シャンパンのグラスを手に取り、リアムにも同じように持てと促す。
「乾杯」
「今年もよろしく、ケイさん」
「ああ」
此方こそ。
その言葉をシャンパンの細かな気泡と一緒に飲み込んだ慶一朗は、美味しそうにそれを飲むリアムの頬にキスをし、後片付けを手伝うから、それが終わればお楽しみの時間を過ごさないかと誘い、リアムの頬を更に赤く染めさせるのだった。
そんな二人の耳に、スマホから流れ出す、新年を迎えた歓喜の声や遠くで上がっているらしい花火の音が小さく流れ込むのだった。