今までと同じ、だけど、何かがほんの少しだけ変わった気がした朝。
久し振りに愛車で出勤する慶一朗が開けた窓から顔を出し、行って来いのキスを返す。
赤いスポーツセダンのテールが見えなくなるまでその場を動かなかったリアムは、シャッターを下ろしてひとつ伸びをする。
ドアを開ければソファ横でデュークが丸まっていて、この晴天を利用して洗濯をするぞと呟くと、デュークがお好きにどうぞと言いたげに欠伸を返す。
慶一朗に対してはそんな態度を取らない癖に。不満未満のそれを口にしつつ洗面所に向かったリアムは、洗濯物という山をどのように制覇しようか思案する。
食事はどうにかクリア出来た様だが、洗濯までは手が回らなかったのだろう。足下に積もる衣類を前に、俄然やる気が出てくる。
仕分けを始めると、自分が思うよりも濃い色合いのものが多いと気付き、手が止まってしまう。
このひと月、お前が着ているものはダークカラーが多かった。
その言葉を聞かされても実感が湧かなかったが、これを見れば一目瞭然だった。
家を出る前は、その事実にすら気付かなかった。
こんな些細な事にも気付かなかったなんて。シャツに顔を埋めそうになるが、罪悪感や情けなさを衣類と一緒に洗い流して貰おうと突っ込む。
この後、デュークをかかりつけの動物病院に連れて行くが、今日中には帰宅できるそうだ。
だからその間、クリニックに顔を出した後、服を買いに行こうと決める。
クローゼットの中身を新しくしよう。
それを最後に、己の弱さや無自覚さに目を向けた結果、俯いてしまうのは止めにしよう。
愛する家族が、素直に感情を出すのは良いけれど笑顔が良い。そう願ってくれたのだ。
ならば、それに答えるだけだった。
洗濯機の蓋を閉めた後、気合いを入れるようにスイッチを押し、動き始めたそれをじっと見つめる。
衣類と一緒にこの情けなさも洗い流してくれ。
そう願いつつ回転する衣類を見つめていると、ふと視線を感じて振り返り、デュークがロープを咥えて待っている姿を発見する。
「洗濯が終わるまで少し時間があるから遊ぶか」
「ワン!」
リアムの言葉にデュークがその場でくるりと回転し、庭で遊ぶと言いたげに歩き出す。
庭に出て雲の隙間から差す日差しに手を翳すと、数日前までは灰色に見えた空が色を取り戻したかのように見え、もう大丈夫との確信を口にすると、デュークが足下に落としたロープの端を握り、反対側を咥えさせる。
リアムの腕力をもってしてもデュークに負けてしまいそうになり、少しずつ晴れてくる空の下、渾身の力でロープの引っ張り合いを満喫する。
リアムが休憩だと肩で息をしながら背後に倒れ込むと、デュークがその横で腹這いになり、緩く上下するリアムの腹に顎を載せて大きく欠伸をする。
デュークの重みと体温を腹で受け止め、頭に手を載せると嬉しそうに擦り寄せてくる。
こうして常に寄り添い、無償の愛をくれる存在から続くはずだった流れ。それを自分達の考えで断ち切っても良いのかなど、リアムには判断できないことだった。
ただ、もう一人の家族と一緒に、それならば最後まで見届けようと決めたのだ。
そして、一人であることを良く知る二人が出した結論は、弟を迎えるというものだった。
その為の準備も必要で、こうして寝転がっている場合ではないが、でもこの穏やかな時間にもう少しだけ身を委ねたくて、デュークの名を呼んで己の横をポンと掌で叩く。
その合図にデュークが身体に沿うように寝転がり、リアムの腕を枕にする。
「本当はケイさんだけなんだけどなぁ」
黙っていてやるからお前も黙っていろよと、デュークに共犯者の笑みを浮かべると、その言葉を全て理解しているのか偶然か、デュークが小さくワンと吠える。
冬の風が吹き抜け、肌寒さを覚える。けれど、隣に寄り添う人より早い鼓動と少し高い体温を持つデュークがいれば何も問題はない。
デュークの温もりを感じていたが、洗濯機の音が耳に入り、満足げに吐息をひとつ、風に乗せる。
芝生に座り込んだ後、デュークの頭を撫でて立ち上がり、出掛ける前にもう一仕事済ませるかと伸びをするのだった。
約10日ぶりに訪れたクリニックは、今日も忙しそうだった。
スタッフ専用の駐車場に車を止めると、午後の診察前らしい慌ただしさがドア越しに伝わってくる。
晴れてきた空を見上げて深呼吸をし、ドアを開けると、懐かしい消毒薬の匂いが鼻腔を擽る。
その時、廊下の奥からやってくる人影に気付き、自然と姿勢を正してしまう。
「リアム?」
どうしたのですかと、想像よりも柔らかな声で問われ、先週末に帰ってきたことを伝えると、リアムが休んでいたために休診の札が吊されている診察室のドアに手を掛けた彼女が振り返る。
「ここで話を聞きましょうか」
振り返り穏やかな顔で頷く彼女、ホーキンスにリアムも頷いた後、己の為に開けられているドアを潜って診察室に入る。
診察室のデスクで今は背後の壁が映り込んでいるモニターの下に、患者が綺麗な水だからあげると笑顔でくれた小さなボトルがあり、久し振りに点った照明を受けてきらりと光る。
「もう落ち着きましたか?」
「うん、落ち着いた。……休みをくれてありがとう、ディアナ」
ホーキンスの言葉に返しながらリアムが診察台に腰を下ろすと、彼女はリアムがいつも座っている椅子を半回転させて腰を下ろす。
「……良かった」
あなたの様子がおかしいと慶一朗から相談を受け、旅に出たと聞かされたときは心配しました。
クリニックの院長というよりは、息子や孫を案ずる顔で胸を撫で下ろすホーキンスに、リアムが心配を掛けたことを言葉で詫びると、心配をすることぐらしか出来ないと自嘲気味に笑われてしまう。
ホーキンスの毅然とした態度から厳しい人と思われているが、リアム自身はそうは感じていなかった。
ここで働くようになってから、患者について相談したり、時には意見の相違で口論になることもあった。だが、ティーブレイクを挟んだ後には口論したことも忘れたように接することができる、本当に貴重な存在だった。
そんな彼女が、自分のことを家族のように思ってくれている。
その雰囲気は、以前理不尽な出来事に巻き込まれながらも、彼女の行動によって救われた時から感じるようになったことだった。
それを今も感じ、心配を掛けたともう一度告げると、本当にそうですよと穏やかに笑われてしまう。
その言葉に弱いなぁと頭に手を宛てると、それでと先を促されたため、仕事の復帰は来週からでも良いだろうかと問いかけ、開いた足の間で不安そうに両手を組んでしまう。
それを目の端で捉えていたホーキンスの目が無言で細められ、その表情にも穏やかに向き合えたリアムが、祖母の死についてはもう自分の中に収められたこと、慶一朗がその手助けをしてくれたことを伝えると、彼女の目から険しさが薄れていく。
「そうですか」
「うん。……ばあちゃんが死んで、俺の様子がおかしかったことに俺は気付いていなかった」
「自覚がなかった?」
「……今日、洗濯をしていてやっと分かった」
一度言葉を切ると、ふ、とリアムが抜けるように息を吐く。
「ケイさんの言った通りだった。クローゼットの中が、暗くなっていた」
洗濯物の山を見て、確かに自分が来ていた衣類から色彩が喪われている事に気付いた。
素直な思いを口にすると、ホーキンスが何かを思い出しているような顔つきになるが、安堵の吐息を零す。
「ケイが言っていた通り、ね」
「ああ」
衣類の好みも変わっていたことにも気付かなかった、その理由は祖母の死を真正面から悲しんでいなかったからだと教えられたと続けると、右手薬指のリングを無意識にくるりと回転させる。
「ばあちゃんの遺言で、葬儀のためだけにドイツに帰ってくるなと言われた。だから家族と一緒に最後の別れが出来なかった。それがずっと引っかかっていたと言われた」
帰宅した夜、慶一朗に優しく抱きしめられながら教えられた言葉。
それを口にすると、ホーキンスの目が軽く驚いたように見開かれ、次いで愛おしそうに細められる。
「彼の専門は脳神経外科だと思っていたけれど、あなた専属のカウンセラーでもあるのね」
「どうやらそうらしい」
俺たちの付き合いを浅いところでしか知らない人達からすると、リアムが甲斐甲斐しく世話を焼いているように見えるだろうが、その実本当に支えられているのは俺だった。
ホーキンスの優しい目に促されて告白すると、どちらか一方だけではない、お互いに支え合っているのは良いことだと褒められて頬に熱を感じてしまう。
「あなたがそれに気付けたのは、本当に良いことよ。……良く帰ってきてくれたわね、リアム」
「うん……ディアナ、俺に時間をくれてありがとう」
あなたの判断で俺は俺を見失わなくて済んだ、それは畢竟俺の愛する家族をも守ることになった。
そう笑うと、彼女の頬に赤味が差し、どうしたとリアムが小首を傾げる前、掌を立てたホーキンスが咳払いをする。
「……週明けからの復帰なのね?」
「うん、大丈夫か?」
「それは何の問題もないわ」
でも、あなたには少しだけペナルティーを受けてもらいますと宣告され、リアムの背筋が伸び顔から笑みが消える。
その様子に立てた掌を口元に移動させた彼女が、ティーブレイク時に美味しいお菓子を食べたいと続けると、ヘイゼルの双眸が大きく丸くなるが、思わず彼女が絶句してしまうような満面の笑みがリアムの顔に浮かぶ。
慶一朗が、あの日自分達に相談をしたのは、この笑顔を守りたかったからだ。
それが守られた事に胸の奥で安堵する。
「今の時期だと何が美味しいかしら」
パウンドケーキでもカップケーキも良いわねと、ホーキンスが茶目っ気たっぷりに目を細める様子にリアムが天井を見上げるが、顔を戻したときには口元に太い笑みを浮かべていて、期待してくれと片目を閉じる。
「そうね」
あなたの料理を食べたいのが本音だけれど、さすがにクリニックのスタッフ皆の分を作らせるのはダメだと笑う彼女を、今度ソフィーと二人で家に来てくれとリアムが誘う。
「良いの?」
「もちろん。何を食べたいかリクエストをしてくれればそれを作る」
きっとケイさんも二人なら歓迎してくれるはず。そう笑ったリアムだったが、大切なことを思い出したと苦笑し、彼女の首を傾げさせる。
「今デュークが去勢手術を受けてる」
「そうなの?」
「それで、デュークに弟を作ってやりたいとケイさんが言ったから、小型犬を探しているんだ」
だからディアナとソフィーを自宅に招いたとき、もしかすると躾がまだ出来ていない小型犬が家中を走り回るかも知れないと、少し先の未来を予知しているような顔でリアムが苦笑すると、犬は私も好きだから大丈夫だとホーキンスが今日一番の穏やかな笑みを浮かべる。
「どんな犬種にするつもりなの?」
「ケイさんが言うには、尻尾が本体の犬が良い、だそうだ」
「……」
ホーキンスの眉が一瞬奇妙な角度になり、その顔を見たリアムが、自分も同じような顔になっていたのだろうと気付く。
そんな彼女に助け船をだすように、嬉しいときに尻尾がピコピコ動くのが良いらしいと笑うと、彼女の顔に安堵の笑みが浮かぶ。
「あなたが時々、彼の事をエキセントリックと言う意味が分かったわ」
「そうなんだ」
でも、そんなあの人が良いんだと笑うリアムにホーキンスも同じ顔で頷き、家に行く日を楽しみにしていると立ち上がろうとするが、何かを逡巡するようにリアムが視線を左右に流した後、彼女の名を呼んで動きを止めさせる。
「少し、相談がある」
そう切り出したリアムを特に急かすでもなく次に出てくる言葉を待っていたホーキンスは、リアムの表情が真摯なものに変化をしたことに気付いて何事かと内心訝ってしまう。
だが、続いて聞かされた言葉が想像していなかったものだったため、珍しく呆然としてしまうのだった。
帰ってきたら少し大切な話があるから聞いて欲しい。
愛車の中でメッセージを受け取った慶一朗は、一瞬息を呑んでスマホの画面を睨み付けてしまう。
リアムと付き合いだしてから、こんな思わせ振りなメッセージを受け取ったのは初めてだった。
初めての経験に、今日一日の全ての疲れが吹き飛んだような気持ちになる。
それと同時に、今では考える事も馬鹿馬鹿しいと理解出来るが、まだ完全には捨て去れないある思いが頭を擡げてくる。
その思いを掻き消すようなスピードで帰宅し、ガレージから家に飛び込んだ慶一朗が目の当たりにしたのは、ソファの肘置きに腰を下ろし、いつもと変わらない笑顔で出迎えてくれるリアムの姿だった。
「お帰り、ケイさん」
満面の笑みと大きく広げられる腕に条件反射で吸い寄せられ、お帰りのキスを頬と唇で受け止め、同じ場所に返す。
あのメッセージは何だ、そう問いかけようとした時、よろよろとやってくる影に気付き、視線を落とす。
「デューク? どうした?」
どうしてそんなに弱っているんだ。
リアムとデュークの顔を交互に見つめ、不安そうに呟いた慶一朗だったが、リアムが足下を一瞥した後、呆れたように肩を竦める。
「ケイさんに構って欲しくて演技をしてるだけだ」
「演技……?」
リアムの言葉の意味を咄嗟に理解出来ず、瞬きでその思いを伝えると、リアムが鼻息をひとつ。
「俺が病院に迎えに行った時は、どうして残していったんだと盛大に責められたのにな」
病院でガウガウ吠えながら車に乗り、そこでもブツブツと不満を訴えていただろうと、それでもデュークが可愛いのか、頭をわしゃわしゃと撫で回すリアムを前に、慶一朗が呆然としてしまう。
「デューク、それは本当か?」
リアムの言葉を疑う訳ではなかったが、本当かと思わず問いかけると、ピンと立った耳が、前後左右に忙しなく動き出す。
それが、デュークにとって都合が悪いときの癖だと慶一朗も今では理解している為、おいと声を低くすると、途端に甲高い声を上げながらデュークが慶一朗の足の上に腹這いになってしまう。
「こら、デューク」
靴が脱げないだろうと微苦笑しつつデュークの横に膝を着いた慶一朗だったが、身体の大半がクリーム色の布地で覆われている事に気付き、リアムを見上げる。
「術後に着るボディスーツだな」
エリザベスカラーを嫌がったからボディスーツにしてもらった。簡潔に事情を説明するリアムにそうかと納得の声を上げた慶一朗だったが、上目遣いのデュークに苦笑し、迎えに来てくれたからもう拗ねるなと頭を撫でる。
リアムが僕を置いていった、その時にとても大切なものを無くした気がするんだ。
デュークが人語を話せれば、きっとそう訴えそうな顔で見つめられ、一瞬覚えた罪悪感を打ち消すように鼻先にキスをする。
「メシを食ったらイケメンにしてやる。機嫌を直せ」
慶一朗の言葉にすっくと起き上がったデュークが、機嫌を直したとばかりにワンと吠える。
「現金だなぁ」
ケイさんに構ってもらえるのが嬉しいんだろうと笑うリアムに、同じように立ち上がった慶一朗が咳払いをし、聞いて欲しい話とは何だと問いかけると、意味の分からないうんという言葉が二人の間に落ちる。
「リアム?」
「……落ち着いて話をしたい。メシの後でも良いか?」
「あ、ああ」
「ダンケ。……仕上げをするから着替えてきてくれ」
今日は朝から家中のものを洗濯した、お気に入りのバスローブはベッドルームのクローゼットから出してきてくれ。
リアムが笑いながら告げた後、デューク、ケイさんにキスして貰えて良かったなと笑いかけ、嬉しそうな声が一つ上がる。
その様子に慶一朗がやれやれと溜息を吐き、階段を上ってベッドルームに入る。
クローゼットを開けた時、飛び込んできた色彩が明るかった。
思わず眼鏡の下で瞬きをし、原因を探ろうと一歩下がるが、それをするまでもなく自然と浮かぶ笑みを隠すように掌で口元を覆う。
クローゼットの中が、明るさを取り戻していたのだ。
リアムの好きなナチュラルな風合いと、慶一朗が好きなダークカラーが並び、互いを受け入れ馴染んでいた。
リアム自身の明るさが、光が戻ってきたようだった。
ガレージで鋼鉄の白馬が帰りを迎えてくれた時にも感じたが、今もまたそれを感じた慶一朗が満足そうに息を吐く。
大急ぎで着替えを済ませ、浮かれる足取りのまま階段を下りてキッチンに向かう。
キッチンでは、余程嬉しいのかどうなのか、鼻歌交じりに調理をするリアムの背中が見える。
「ヘイ、王子様」
そう呼びかけると同時に一歩を踏み出し、広い背中を抱きしめる。
「ケイさん?」
「……出来上がるまでこのままでも良いか?」
「うん」
穏やかな問いかけに穏やかに返すリアムの声に、慶一朗の口から吐息が一つ、背中を滑り落ちる。
料理が出来上がるまで、慶一朗はその背に頬を寄せたまま離れないのだった。
慶一朗が淹れるフラットホワイトを飲み、落ち着いた頃合いに話は何だと慶一朗が切り出すと、ソファの前にクッションを置いたリアムがそこに座り込む。
その姿勢から重要な話だと察した慶一朗は、つい癖で縋れる何かを探してしまうが、デュークを呼んでやって来る身体の傷口に注意を払いつつ抱きしめる。
「今日、ディアナと復帰の話をしてきた」
語り始めるリアムを遮ることなく聞き役に徹した慶一朗は、デュークの前足を掴んでいつかのリアムのように上下左右に振ると、それを見たリアムの顔に小さな笑みが浮かぶ。
「来週から復帰することになった」
「そうか」
「うん。……それと同時に、ペナルティーがあると言われた」
リアムが仕事を休んだ事へのペナルティーと呟くと、彼女は弱っている人をさらに追い詰めるような人だったかと眉を寄せる。
慶一朗のそんな様子にリアムが安堵に目を細め、ティーブレイクで食べるお菓子を作ってこいと言われたと続けると、眼鏡の下で慶一朗が目を丸くする。
そして、小さく笑った後にそれは受けなければと続けると、リアムも同じ顔で頷くが、本題を教えるように表情を変える。
「今、俺はビクトリア・ノースヒル・ホスピタルから出向している事になってる」
「そうだな」
その言葉が向かう先を読めずに慶一朗が思わずデュークの前足を強く握ると、不満を訴えるのか安心させようとしているのか、振り返ったデュークが慶一朗の頬を何度も舐める。
「……ディアナに、出向ではなくクリニックで直接雇って欲しいと話した」
「そ、れは……っ」
その言葉は慶一朗にとっては寝耳に水のことだった。
それを告げたリアムにとっても、降って湧いてきたような言葉だった。
だが、今日の午後、ディアナと向き合って復帰の話をしていた際、突如その考えが芽生えた。
そしてそれは、そうなって当たり前の未来のように思えたし、身体が軽くなる感覚を覚えたのだ。
突然の思いつきだが、自分にとって悪い話ではないこと、今回のようにプライベートの悩みで仕事を放棄してしまうような自分だが、それでも帰ってきてくれたことを喜んでくれる彼女と、今まで以上に一緒に働きたいと思ったのだ。
そう伝えた時、ホーキンスは呆然としていたが、永遠にも感じる沈黙の後に静かに頷くと、興奮したような笑みを浮かべ、これからもよろしくお願いねと手を取られた。
その手の温もりは、己の未来を賭しても構わないと思えるものだった。その時の様子を思い出しながら伝えたリアムは、ソファから滑り落ちるように床に膝を着く慶一朗を受け止め、背中を撫でる。
「いつか……またお前と一緒に働けると思ってたのに」
「……うん。それは難しくなったけど、でも今の職場が変わる訳じゃない」
慶一朗が最大の不満だと教えるように呟く言葉。しっかりと受け止めたことを教えるように頷き、それについては無理だけど書類上の所属先が変わるだけだと言葉を重ねると、デュークが案じるようにリアムの首の後ろで交差している手を舐める。
慶一朗も受けた衝撃をやり過ごそうとしているのか、何度か深呼吸をした後、リアムの顔を見るように距離を取る。
「いつうちを辞めるんだ?」
「そうだなぁ。ディアナの方でも準備があると言っていたから、年が明けてからかな」
「そうか」
それならば年内はまだ同僚なんだと笑うと、リアムの口が綺麗な弧を描く。
「うん」
リアムの笑顔からこの選択が間違っていないことを予感し、それならば自分も受け入れようと内心で腹を括った慶一朗だったが、一つ気になることがあるとリアムの頬にキスをする。
「お前の給与はどうなるんだ?」
「少し年収が下がるかも」
今までの生活水準を保てなくなる可能性もある。少しの不安を目に浮かべたリアムを見下ろした慶一朗だったが、にやりと太い笑みを浮かべたかと思うと、分厚い胸板に拳をぶつけて目を見開かせる。
「舐めるな。お前の減った収入分は俺が稼いでやる」
だからお前は、お前に相応しい場所でお前らしく毎日働けば良い。
その言葉がリアムに届いた様子が仄かに色付く頬から感じ取れ、鼻先にキスをした慶一朗の前、最も望む笑みを浮かべたリアムがいて。
「さすがは俺のダーリンだ!」
その言葉は本当に心強いものだ。
手放しでの賛辞にどういたしましてとイタズラっぽく返し、鼻の頭が触れ合う距離で笑い合った二人だったが、落ち着いた頃に再度慶一朗がリアムの肩に頬を宛てて満足そうに息を吐く。
そんな慶一朗を抱きしめていたリアムだったが、唐突に顔が見たくなり、合図を送って己の足の上に横座りさせると、気恥ずかしさとリアムと同じ思いを天秤に掛けたらしい目尻を赤く染めた顔が見え、全ての感情を込めたように目を細める。
「ダンケ、慶一朗」
「お前らしくいて欲しいから旅に行かせたのは俺だからな」
リアムの真正面からの告白にはやはり羞恥を覚えるのか、素直な言葉で返せなかった慶一朗だったが、髭に覆われている頬に手を宛てて目を細めると、眼鏡がそっと外されて望みを教えられる。
リアムの望みを叶えるために目を閉じると、今までで一番静かにキスされる。
息が上がるものとは違う、穏やかさと、ただ愛情だけを感じるキス。
その後に見上げたリアムの顔を、慶一朗は一生のものにしようと記憶に焼き付ける。
明日になれば忘れている、そんな日常の一コマだが、それすらも覚えていたいと初めて強烈に願った慶一朗だったが、そこに僕も混ぜてと言わんばかりにデュークがヌッと頭を突っ込んでくる。
お前の存在を忘れていた訳じゃないと言い訳をし、デュークの頭を両手で抱きしめると、慶一朗の上に嬉しそうに身を乗り出してくる。
「……暖かい」
「うん」
腹の上で嬉しそうに尻尾をゆらゆらとさせるデュークと、背中をしっかりと支えてくれるリアムの体温。
この世でここ以上に安らげる場所はない。
そう考えた慶一朗だったが、あまりの心地良さに瞼が自然と下がってしまう。
「ケイさん?」
そう呼びかけられた気がするが、現実のリアムの言葉なのかどうかも判断がつかなくなってしまう。
己の腕の中から聞こえ始めた穏やかな寝息にリアムの目が見開かれる。
付き合い始めた頃からそうだったが、安心すると寝てしまう癖があることを思い出して小さく肩を揺らしてしまう。
このまま慶一朗とデュークを受け止めていると、足が痺れて立ち上がれなくなるかもと危惧するが、その時はその時だった。
二人分の寝息を聞ける幸福の中、リアムはそれぞれの頭にそっとキスをするのだった。
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