この国の海は、こんなにも灰色だっただろうか。
冬の風を受けつつ、赤いスポーツセダンが標識の速度に従って海が見え隠れする道を南下する。
目的地などあってないような旅の為、M1道路ばかりを走るのではなく、助手席で旅の相棒にしろと連れていくことを許可してくれたジャーマン・シェパードのデュークが、窓の外を見る様に頭を擡げた事から、森の中を走っているモーターウェイから、B65と書かれた標識が示す道路へと進路を変更する。
このまま南下を続ければ、辿り着くのは何処だろうか。
十歳でこの国に移住してきたが、車という必要不可欠な移動手段を手に入れても、己の行動範囲はシドニー周辺だったと思い出したリアムは、助手席で大人しくテディベアのぬいぐるみと遊んでいるデュークの頭に手を載せ、どうしたと言いたげに見上げられてサングラスの下で目を細める。
今回、旅のお供にデュークを連れて行けと提案をしてくれた夫は、ある事件に巻き込まれてから、ひとりになることを極端に恐れる様になっていた。
その事件の爪痕は彼の心を引き裂き、今でも流血を伴う痛みを与えていたが、そんな夫が、こいつがいると安心するからデュークを連れていけと言ってくれたのだ。
その事実は、本人が思う以上にリアムの中にあり、数日前に別れのキスをし、再会のキスはいつになるか不明だがなるべく早く帰ると伝えた時に見た端正な顔を思い出させる。
一人になると分かると恐慌を来すほどだが、そんな彼が同行させてくれたデュークは、家に来た時から一緒にいるテディベアを連れてきていて、心の中にいつも存在する夫の笑顔を思い浮かべる。
お互い一人ではないなと笑ったリアムは、プリンセス・ハイウェイとナビで表示されている森の間を縫うような道路を進み、市街地に入ったことに気付く。
この数日、家を出てからの宿は、興味を惹かれた町の案内所で教わった冬季でも営業しているキャンプ場や、トレーラーハウスに宿泊できるオートキャンプ場だった。
さて、今日の宿はどうしようか。
何となく南に向けて車を走らせていたが、ナビ上では比較的大きな湖が現在地の南に広がっている事に気付き、今南下している道路の西に湖畔が、東には海岸が広がっている事から、冬の今でもキャンプができる場所があるかもしれないと考えていた。
B65は市街地を走るハイウェイだったが、交通量は平日に見合ったもので、時折すれ違う大型車を見かけては、11学年時に知り合って以来友人付き合いをしているフレデリックを思い出してしまう。
彼は今頃どの空の下を走っているのか。
英語も碌に分からない、暗い顔をしていたであろう己を、最初は気の毒に思ったと笑ったフレデリックは、喜怒哀楽を見せ合う中で気の置けない存在になり、リアムの中では何かあればまず浮かぶ顔になっていた。
この国に移住してからは一人で生きてきたようなものだったリアムは、人に頼ることを上手くできず、すべてを一人で抱え込み、解消しようとする癖があった。
その癖は多感な学生時代を過ぎ、それぞれが夢の実現へと足を踏み出した今もそうで、夫である慶一朗と付き合い始めてからも、二人を飲みこもうとする問題を、リアムは親友達に相談するようなことはなかった。
だからといって彼らを信用していないのかと問われれば、その言葉が終わるよりも先に否定できるほどだった。
ただ、心配を掛けたくない。
その一心で、問題が解決をした頃に、通り過ぎた安堵から報告をすることが多かった。
その結果、気の好い親友達をやきもきさせる事が何度もあった為、ふと気になり、後続車に注意を払いつつ路肩に車を停めたリアムは、ダッシュボードに置いたスマホを操作し、スピーカーから聞こえてくる呼び出し音に少しだけ鼓動を速めてしまう。
『G'day, mate!』
平日のこんな時間に電話なんて珍しいな。
冬の空を感じさせない爽快な声で電話に応じたのは、つい先ほど思い浮かべていたフレデリックで、どうしたと更に問われて微苦笑を返してしまう。
『リアム?』
「悪い。今話をしていても平気か?」
『おー、平気だぞ、っと』
その声と重なるクラクションから、フレデリックが大型トレーラーを運転しているのだと気づき、話していて大丈夫なのかと更に問いかけると、言葉通りに安心させてくれる太い声が大丈夫と返してくれる。
その声に、言葉に、学生時代一体どれだけ己は救われてきただろうか。
クラスメイトの中で、何もしていなくても目立つ存在だったフレデリックは、率先しなくてもグループのリーダーになっていることが多かった。
根っからの世話焼きで、人望も厚い男の傍で、一言意見を口にするだけで物事が動くさまを見てきたが、大丈夫と言われるだけで無限に信じられた事を思い出し、お前の言葉には重みがあるなと苦笑してしまう。
リアムのその言葉から何かを感じ取ったらしいフレデリックが、本当にどうしたと再度問いかけると、リアムが助手席に手を伸ばしてデュークの頭を撫でながら、家出中だと現状を報告する。
『Stone the flamin' crows! 信じられねぇ! お前が家出だぁ!?』
盛大に驚く友の声に微苦笑し、俺も信じられないと返すリアムだったが、打って変わった口調でフレデリックが告げた言葉に口を閉ざす。
『今どこにいるんだ?』
ああ、くそ、荷物さえなければ今すぐ飛んで帰るのに。
フレデリックの心情を良く表すその言葉に一瞬きつく唇をかみしめたリアムは、シドニーからA1を経由してM1を南下している、ウーロンゴンビーチが東側にあると返すと、少し考え込んだ後にスプリングヒルの近くだなと返ってくる。
「知ってるのか?」
『ん? ああ、何度か往復したことがあるな』
ちなみに、ウーロンゴを更に南下すると湖がある、その辺りにお前の好きそうなキャンプ場も色々あるぞと、家出中という言葉に驚きつつもリアムの落ち着けるであろう場所を教えてくれるフレデリックの言葉に、思わずステアリングに額を軽くぶつけてしまう。
『今回の家出の理由は何だ?』
心配からそう問いかけてくれるフレデリックは、今、この灰色の空を見上げながら走っているのだろうか。
それとも、青空の下を走っているのか。
広いオーストラリアを何日もかけて荷物を運ぶ大型トレーラーに乗っているフレデリックは、今どこの空の下にいるのか。
そんなことを考えていると、来週末には家に帰るから飲みに行くかと誘われ、小さく掠れる声でいつ帰るかまだ決めていないと返すと、沈黙の後に盛大な溜息が聞こえる。
『そうかぁ』
フレデリックが今どんな顔をしているのか、それが手に取るように分かる声で笑われ、親友の顔に黙って頷いたリアムだったが、友の顔の向こうに同じ言葉を告げてくれた端正な顔も見えていて、二つの顔にきつく目を閉じる。
『今回は何があったんだ?』
お前とあの人は仲が良いと思っているし実際そうだが、ボタンを一つ掛け違えただけでそれはそれは恐ろしいケンカをするからと笑うフレデリックに、なんだそれと学生時代の顔で返すと、そうだろうがと自信満々の声が返ってくる。
「うるさい、くそったれ」
『Hey hey hey! 人に相談しておいてなんだその言い草は!』
この野郎。
リアムの珍しいぞんざいな口調にフレデリックも同じ口調で返すが、二人の間にそれによる蟠りなどは存在せず、互いを軽く罵り合う。
『で、本当のところ何があった?』
互いにバスタードだのなんだのと散々罵った後、フレデリックが息を吐いて気分を切り替えたことを教えると、リアムもドリンクホルダーの水を飲み、手の甲で口元を拭う。
「ああ……先月、ドイツのばあちゃんが亡くなった」
『そうだったな』
リアムの祖母が亡くなった、その一報を少し落ち着いた頃にフレデリックを筆頭とした親友達に伝えたリアムだったが、三人から返ってきたのは、訃報に対する驚きや同情の言葉で、その後、それぞれがそれぞれの哀悼の気持ちを込めた励ましの言葉を伝えてくれたのだ。
「俺は普通にしているつもりだったんだけどな」
ケイさんが、お前らしさを取り戻すためにソロキャンプに行って来いと背中を押してくれた。
リアムが家出中と表現した事態を軽く説明すると、フレデリックの口からああ、という嘆息が零れ落ちる。
『……茶化して悪かったな、リアム』
「……なあ、フレッド」
俺らしさって何だろうな。
いつだったか、俺らしさについてお前と口論になった事があったが、そのきっかけになった言葉を今も口にすると、大型トレーラーのエンジン音だけが聞こえてくる。
だが、少しの間の後、からりと青空の下を吹き抜ける風を連想させる声が返ってくる。
『とんでもないお人好しで、あの人が言ってたように、人畜無害のマッチョマン、だな』
「おい」
『自分が傷付こうが悩もうが、目の前に苦しんでいる人がいれば放っておけない、ついつい構い過ぎてしまうお人好し』
小さな子どもが絡めば何を擲っても救いに行く行動力もある、愛すべきお人好し。
カラカラと笑いながら繰り返されるお人好しの言葉に、最初は不満に唇を尖らせたリアムだったが、次第に尖りが左右に広がっていき、気が付けば口角を持ち上げるまでになっていた。
『自分のことは二の次三の次、ケイさんや俺たちの為なら火の中水の中』
「……おい」
『でも、向こう見ずじゃない、ちゃんとその先を考えている』
無謀な事はしないが、腹を括ればどんな無茶なことでもやってのけるヒーローだ。
臆面もなく続けられる言葉に、さすがに恥ずかしいと小さく零しながらステアリングに額をゴツンとぶつけてしまう。
その様子を助手席から見ていたデュークが、リアムがおかしくなったと言いたげに目を丸くし、シートの上でくるくると回り始めてしまう。
『……愛すべきお人好しのバカ、だな』
「バカバカうるさいなぁ」
『ははは。……きっとケイさんならそう答えるんじゃないか?』
フレデリックの言葉にリアムが目を見張った後、きっとそうだと肩を揺らすとデュークへと顔を向け、落ち着けと伝える代わりに頭をわしゃわしゃと撫でる。
『俺としてはだなぁ』
今まで人一倍苦労をしてきた男だから、人一倍幸せになって欲しいと思える相手だと思ってる。
フレデリックの少しだけ早口になった言葉にリアムがグッと唇を噛みしめた後、ありがとうと小さく礼を言う。
『おー』
「でも、それがお前が思う俺らしさか?」
何かおかしくないか。
そう不満を訴えるリアムだったが、フレデリックと話をする前までの何やら張り詰めていたような雰囲気は霧散していて、慶一朗が見れば驚くだろうが、フレデリック達の間では当たり前だったぞんざいな口調で問いかける。
『お前らしさだろうが』
バカが付くほどのお人好しで無駄に体力も精神力もあるから、自分が傷付いていることも自覚できない筋肉バカだと笑われ、それが懐かしい学生時代を記憶の中から引きずり出してくる。
「誰が筋肉バカだ」
『お前だ、お前』
豪快に笑い飛ばすフレデリックに何か上手い返しをと考え込んだリアムだったが、ふ、と息を吐くと同時に張り詰めていた何かが全身から抜け出した事に気付く。
「フレッド」
『おう、どうした』
「……来週末、いつものパブに集合したいな」
その口調から、憑き物が落ちたのだと気付いてくれと祈りつつにやりと口の端を持ち上げると、嬉しそうな口笛の音が聞こえてくる。
『来週末だな』
この荷物を超特急で配達して、スピード違反ギリギリの速さで帰って来るから、お前も家出から帰って来い。
フレデリックがアクセルを踏み込んだのか、トレーラーのエンジンが低く唸り、ひゃっほうと叫ぶ声も聞こえてくる。
それを受けたリアムの顔にも太い笑みが浮かび、ああ、お前がいてくれて本当に良かったと素直な思いを口にすると、何だってと聞き返されてしまう。
「お前がいて良かった。愛してるぞ、クソッタレ」
『てめぇ! だーれがバスタードだ!』
良い子ぶったバスタードはてめぇだと、フレデリックがエンジン音に負けない声で叫び、思わず大声で笑い返したリアムだったが、発作のような笑いが収まった後、うん、本当にありがとう、フレッドと小さく返す。
『気が済んだか?』
「ああ……でも、せっかくあの人が行って来いって背中を押してくれたんだ、もう少しだけひとり旅をしてくる」
フレデリックの心配の声にリアムが感謝を込めつつ返すが、その言葉に助手席からデュークが吠える声が響き、スピーカーの向こうでフレデリックが慌てたように何だと叫ぶ。
「ああ、デュークも一緒なんだ」
『おぉ? じゃあ本当にひとりじゃないんだな?』
フレデリックが確認をするように問いかける言葉の意味を理解し、ああ、ひとりじゃないとリアムが密かな自慢を込めて頷く。
この国でほぼひとりで生きてきたような己だったが、振り返ればこうして無駄話とも思える愚痴に付き合ってくれる友人がいる。
そして、いざという時に遠く離れたドイツから駆けつけてくれる人がいた。
自分は見捨てられた訳じゃなかった。
ひとりで生きてきた中でずっと心の中にあった仄暗い思い。
それを昇華してくれた存在が祖母だった。
だけど、そんな祖母の隣には、いつも己の言動をただ見守り受け入れてくれた両親が、心配と信頼を綯い交ぜにした笑みを浮かべて立っているのだ。
視線を少し流せば、嬉しそうに舌を出して荒い息を吐きながら、床掃除をしているのかと言いたくなるほど尻尾を左右に振るデュークと、良く似た顔立ちで少し毛並みの色合いが違うビクターが並んでいる。
その後ろには今日はお気に入りのリップを塗ったと笑うルカと、そんなルカの腰に腕を回し、口数は少ないがそれでも気遣ってくれている事を教える笑顔のラシードがいた。
二人と同じラインに、学生時代から見慣れた顔で笑うフレデリックやネイサン、ラルフといったリアムの人生で欠かせない人達がいて、こちらに向けて大きく手招きをしている。
その同心円状の一歩後ろでは、心身に傷を負った人達を日夜癒やしている、厳しい顔を見せながらも実は温かく見守ってくれているホーキンスや、そんな彼女を支えているホワイトが穏やかな笑みを浮かべていて、仕事上で知り合ったが、今ではそれ以外でも付き合ってくれるゴードン達もいた。
そして、そんな人達の中心で、リアムにだけ見せる笑みを浮かべ、リアムにだけ向けて両手を広げて立っている慶一朗がいて。
無自覚のまま慶一朗に背中を押されて旅立ち、デュークと二人になった途端、己の現状を理解したリアムは、己らしさを端的に表す穏やかさや笑みを失っていたことに気付き、呆然と目を見張ってしまう。
祖母の存在は思っていた以上に己の中で大きかったようで、その喪失は無意識にリアムを仄暗いどこかへと押し流そうとしているようだった。
その手始めが、己らしさを見失っている現状だったのではないか。
それに気づき、無意識に救いを求めたのが、リアムらしさを誰よりも知る慶一朗ではなく、一歩引いた場所から見守り、振り返れば懐かしい笑みを浮かべている学生時代の友人、フレデリックだったのは、こうして明るい声で笑い飛ばしてほしかったからではないのか。
無意識に己が求めているものを与えてくれる、そんな人たちが自分の周りには沢山いるのだ。
それに気付けば、自分らしさに悩むこともバカバカしく思えてくる。
己に向けて広げられる腕、手招きしてくれる腕。その中に飛び込めば良いのだ。
たとえ自分らしさを見失っていたとしても、きっとそこに飛び込めば、その腕が再確認させてくれるだろう。
フレデリックとの会話のように。
そう感じさせてくれる腕に、今すぐ飛び込みたかった。
ステアリングから顔を上げ、大丈夫かとそっと問いかけてくるフレデリックに、何かがすっきりとした顔で頷いたリアムは、なあと呼びかけて何だとぞんざいに返される。
それが学生時代から何も変わっていない光景だった為、愛してるぞ、フレッドと告白すると、少しの沈黙の後に周囲に誤解を与えてしまうのではないかと思えるほどのクラクションが鳴らされる。
『俺が帰ったら、パブで飲んで、アポフィスで踊ろうぜ』
「良いな、それ」
きっとその前にアポフィスの親友達からも怒られる気がすると笑うリアムに、それだけのことをしているんだから大人しく叱られろ、そしてその前に一人と一匹の旅を満喫して怒られることへの耐性をつけて来いと笑われる。
「ああ、そうする」
運転中に話し相手になってくれてありがとう、安全運転で荷物を運んでくれ。
リアムの気遣いの言葉にフレデリックが気軽に返し、じゃあまた来週末にと再会の約束を明るい声で告げると、通話が終わった事を示すように車内に沈黙が下りてくる。
「……デューク」
「くぅん?」
リアムに頭を撫でられながら満足そうに丸まっていたデュークだったが、名を呼ばれて顔を上げ、優しい目に見つめられている事に気付くと、丸くなりながら両耳を右左右と忙しなく動かす。
「あと少しだけ付き合ってくれ」
近いうちに必ず家に、ケイさんの元に帰るから、それまでは二人旅を楽しもう。
デュークの鼻先にキスをし、フレデリックに教わった湖畔のキャンプ場も良いが、気分が良いからもう少し南下してみようと笑い、路肩に車を停めた時とは比べられない明るい顔でシフトレバーに手を掛ける。
後続車が来ていないタイミングで、慶一朗が交換で貸してくれたセダンを本線へと合流させるのだった。
1日の仕事を終え、セダンではなく真新しい鋼鉄の白馬で帰宅した慶一朗は、ウインチで巻き上げられるシャッターを、ステアリングに顎を乗せて見守っていた。
リアムの背中をそっと押し、キスで送り出してから数日が経過したが、以前と何も変わらない日々が続いていた。
以前と同じようにオペをし、診察をして後進の育成にも少し手を出す。
リアムが出て行く前と同じなのに、倍々ゲームのように疲労が蓄積されていくようだった。
それはひとえに、こうして帰宅した慶一朗を、満面の笑みで出迎えてくれる家族が不在だからだった。
二人と出会う前ならば、一人の家に帰宅するのは当然で、己が立てる物音以外ではテレビやラジオ、動画などの物音だけが当たり前の静かな世界だった。
そこに戻っただけだろうと微苦笑し、駐車場の広いスペースで白馬を休ませる。
シャッターを下ろし、完全に閉まるまで家に入るドアを開けなくなったのは、黒と茶色の毛皮を持つ弟のようなデュークが、慶一朗の帰宅に合わせて家から飛び出さないようにするためだった。
ドアを開け、ただいまと呟く声に返事はなく、溜息を落として帰宅後のルーティーンを終えて出てくる。
リアムが出て行く前に可能な限り準備をしてくれてある証が詰まった冷凍庫を開け、レンジで温めるだけで食べられる料理を取りだし――今日は一央に教わったらしいハンバーグだった――を温め始め、これだけは自分でも出来るからと、マーサのベーカリーで買ったカンパーニュをブレッドナイフで切り分ける。
チーズを載せて焼けばどうだろうか、こんな時リアムはいつもどうしていた。
日頃の夫の行動を思い出し、冷蔵庫からチーズを取り出すと、今食べたいと思う分厚さにチーズをスライスする。
温めたハンバーグを大きめの皿に載せ、チーズを載せて焼いたカンパーニュ、これを食うようになったことを褒めろと言いながら、冷蔵庫から取り出した一枚のリーフレタスとひとつのプチトマト、そしてビールを、アイランドキッチンの反対側の作業スペースに並べる。
リアムが不在のカウンターに腰を下ろして食べる気になれず、野菜を食べた褒美の言葉が慶一朗に届く前に叱る声が届くんじゃないかと思われるが、立ったままその場で食べ始める。
リアムが作ってくれたハンバーグは、双子の兄のパートナーが教えたもののようで、懐かしい味がした。
それを思いながら、今どうして一人なのかと瞬間的に苛立ちを覚えるが、リアムがリアムであるために送り出したのだろうと呆れたような声に呟かれ、フォークを持つ手が止まる。
「そうだったな」
祖母を亡くした事実は、リアムという大きな男の心を静かに侵食し、気が付けば手の届かない場所へと運んでしまうのではないか。
その恐怖は、一人の家でこうして一人で食事をしたり、寝る前にリアムの髭の手触りを感じられない不満よりも強かった。
ひとりになることを怖がっていた俺が、笑顔で行って来いと送り出せたんだ。
褒めろ。
誰に対するものか分からない自慢を天井に向けて放つと、うん、あなたはすごいといついかなる時も褒めてくれる声が降ってくる。
それを自然と浮かべられる笑顔で受け止め、今日のハンバーグは美味いから帰ってきたら作ってくれと返し、ビールを飲む。
リアムと付き合う前を思えば、なんと立派なディナーを食べているんだと自画自賛すると、慶一朗の食生活の全てを知る男がクスクスと笑う。
その笑い声に楽しそうな遠吠えが重なり、今頃何処にいるんだろうなと呟くが、シャワーをすればここ数日のお気に入りタイムに突入だと笑みを浮かべ、使ったナイフやカトラリー類を手早く洗うのだった。
シャワーをし、寝る前の習慣にしようかと密かに考えている、リアムの香水を中空に撒いてその下でデュークのように頭を左右に振って髪に香りを纏う。
よしと鏡の中の己に頷き、お気に入りのバスローブの袖をくるくると折りながらベッドに移動すると、タブレットをセットし、クッションを抱え込んで腹這いになる。
付き合い始めたばかりの頃を思い出しながら画面をタップすると、程なくしてやや緊張気味の声が返ってくる。
「ハイ、ハニィ。寂しくて泣いてないか?」
慶一朗が立てた足をぶらぶらと揺らしながら問いかけると、少し寂しかったからデュークを相手にプロレスをしていたと返され、泣いてないんだなと更に問いかける。
『……うん。今はまだ平気だ』
その言葉の真意をすぐさま理解できなかったが、声は明るいものだった為に慶一朗の顔が自然と綻び、見送った夜にこうして話をしていたときのことを思い出す。
あの時のリアムの声は、慶一朗が聞いたことが無いほど、感情のないものだった。
それに気付いている様子がない為、大自然の中に放り出せばきっと無意識に思い出すのではとの思いから背中を押したが、日を追うごとに声に明るさが増してきた事に気付き、己のその判断が間違っていないことに気付き、枕に顔を埋める。
『ケイさん?』
その音も届いていたようで、どうしたと柔らかく問われてなんでもないと返すが、無性に顔を見たくなる。
「ヘイ、王子様、顔を見せろ」
『え?』
「Come on, Your Majesty, don't keep me waiting—let me see that royal face.」
そう繰り返しながら寝返りを打ち、タブレットを両手で持って腕を伸ばすと、ブラックアウトしていた画面が切り替わり、ベッドで同じように寝転がっている様子のリアムの顔が映し出される。
それを見た慶一朗が、先程覚えた確信は間違いではないと気付き、やっと顔を見せたなと笑いかける。
この数日、声を聴きたいからと約束をさせたが、見せることがなかったリアムの顔は、想像していたものより少し痩せていた。だが、光が当たれば金色にも緑にも見えるヘイゼルの双眸は、慶一朗が背中を押したときよりも生き生きとしているようだった。
それに安堵した慶一朗に、うんというはにかんだような笑みを浮かべたリアムが小さく頷き、実はと切り出す。
リアムが話してくれたのは、フレデリックと電話で話した内容で、それを聞きながら慶一朗が何度も相槌を打つ。
「良い友達を持ったな、リアム」
『うん……ケイさん』
「何だ?」
話を聞き終えて二人同時に満足そうに息を吐いた後、リアムがそっと名を呼んだ為、ごろりと寝返りを打って枕にタブレットを預けると、再度クッションを抱え込んで腹這いになる。
『……今すぐ帰りたい』
帰ってあなたをハグしたい。キスしたい。
その言葉にグッと顎を引いた慶一朗だったが、画面の向こうで俯くハニーブロンドに画面越しにキスをする。
「ヘイ、ハニィ。顔を上げろ」
『……うん』
慶一朗の言葉に素直に従うリアムに良しと頷くと、お前だけだと思っているのかと口の端を持ち上げる。
『……慶一朗』
「分かったならさっさと帰ってこい」
今すぐ、今どこにいるのか分からないが、帰ってこい。
慶一朗の優しい命令にリアムの顔がくしゃくしゃになるが、目尻から一粒の宝石のような涙が零れ落ちたのを見た慶一朗が目を細める。
『早く、帰りたい』
「そうだなぁ……特別に、ワインを買ってきてくれれば帰ってきても良いぞ」
今のままではリアムの感情の堤防が決壊する、それを見抜いた慶一朗がにやりと笑みを浮かべ、ここは王子様の財力を見せる場面だと提案をすると、リアムが小首を傾げて見返してくる。
その顔が、画面の端に時々映り込むデュークにそっくりで、おかしさに肩を揺らしながら慶一朗が頬杖を突く。
「今どこにいるか分からないけど、ハンターバレーのワインが飲みたい」
ああ、お前が他にも飲ませたいというのなら、クラフトビールも受け付けるぞ。
そんな軽口でリアムの堤防の決壊を防げるのならと、内心冷や汗を浮かべながら慶一朗が告げると、ハンターバレーと呟いたリアムが天井を見上げて何やらぶつぶつと呟き始める。
『ハンターバレーは……ちょっと遠いなぁ』
「そうか? じゃあお前が今いる場所に一番近いワインの生産地やクラフトビールを作ってる工場は?」
本当はハンターバレー産のワインで帰ってきたお前を出迎えたいが我慢すると笑う慶一朗に、リアムが寛大なお心に感謝しますと、おどけた風に返してくる。
それが、家を出る前、ひいては祖母を亡くす前のリアムを簡単に彷彿とさせ、無意識に安堵の息を零す。
「……My Dearest、リアム」
『……うん』
「早く、帰ってこい」
その言葉は、リアム自身が口にするまでは絶対に口にしないようにと決めていた一言だった。
それを、今のリアムならば大丈夫と確信し、そっと囁くと濡れた音がスマホから聞こえてくる。
今はまだ画面越しのキスだが、リアムが帰ってくれば、温もりや匂い、そして髭の感触を確かめながらキスができる。
その思いに思わず両足をバタバタとさせた慶一朗は、リアムがどうしたと不思議そうに問いかけてきた事に気付いて咳ばらいを一つ。
「帰ってきてからのお楽しみだ」
『……うん』
「あと少しだな?」
『うん』
あと少しだ。
その短いやり取りにありったけの感情を互いに込めるが、少しでも伝われと願いながら再度画面越しのキスを受け取り、同じキスをそっと返す。
「俺たちのクレバーボーイにもキスをしてやってくれ、リアム」
『うん……デューク、来い』
その言葉にリアムがデュークを呼び寄せ、ぬっと画面に突き出される鼻先に慶一朗が思わずくすくすと笑い声を零す。
「ヘイ、クレバーボーイ、リアムの言う事を聞いているか?」
『バウ!』
この世の誰よりも命令を聞いていると、胸を張るデュークを画面越しに褒めた慶一朗は、もうすぐ会えるからあと少しリアムとの二人旅を楽しめと告げ、嬉しさからぐるぐると回り始めるデュークをリアムが宥める様に抱きかかえる。
「また明日、電話する」
『うん……愛してる、慶一朗』
リアムの穏やかな告白にそっと頷いた慶一朗だったが、俺もと返す声はデュークの声にかき消されてしまい、この野郎と思わず呟くと同時に、告白など嘘だったと思えるような冷たさを感じさせる声に名を呼ばれてクッションの下に頭を突っ込んでしまう。
『ケーイさーん?』
「……ま、また明日!」
だから今のはナシだと口早に告げ、スマホにお休みのキスをして通話を終える。
久しぶりに口走った言葉だったが、ほどなくしてメッセージが届いたことに気付き、恐る恐るそれを確かめると、これからはその言葉を使うたびに叱るのではなく、キスをしてもらおうかという、上段から言い放っているにしては優しい言葉の羅列が目に飛び込んでくる。
それならばその言葉はお前とのキスの口実にできる、そう考えたことを伝えても良かったが、自分だけの秘密にしようと決め、お手柔らかにとだけ返すが、忘れないようにお休みのメッセージとキスを言葉で伝え、同じ言葉を受け取る。
もうすぐリアムが己らしさを取り戻して帰ってくる。
そう思うだけで、ここ数日間の疲労も一気に吹き飛んだような気がするのだった。
自宅ベッドとトレーラーハウスのベッドという違いはあれど、久しぶりにすぐ傍に互いの存在を感じ取った二人は、送り出した夜以来の穏やかな気持ちのまま眠りに就くことが出来るのだった。
そんな二人の頭上に、白い月が、たとえ離れていても同じ国内にいる為、同じ顔を二人に向けながら輝いているのだった。
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