クララ・フーバーが生を終えてから約ひと月後、今年は本当に寒いからと、年がら年中薄手のシャツで過ごすリアムが、黒のニット――それでも慶一朗が来ているセーターに比べれば薄手だった――――に黒のジーンズで出勤することが多くなっていた。
リアムのその小さな変化に気付いている者は周囲にはいなかったが、唯一、そんな些細な事に気付けたのかと驚かれるが、慶一朗だけがリアムの変化とその理由にも気付いていた。
だが、その変化を目の当たりにしても、慶一朗の持つ言葉では的確にそれを伝えられず、もどかしい思いをしていた。
そんなある日、今日は午後から休暇を取っている慶一朗の愛車が、リアムの勤務先であるクリニック近くのカフェに止まり、少しだけ慌てた様子で慶一朗が車から降りて店内に入る。
「ディアナ!」
待ち合わせ相手が店の奥にいるのを発見し、小さく呼びかけてほかの客の視線を受けるが、気にすることなく彼女達が待っているテーブルへと向かう。
「遅くなって悪い」
「大丈夫ですよ」
「ええ、大丈夫。それより何か食べなくても大丈夫なの?」
待ち合わせに少し遅れることの連絡をしていたが、申し訳ないと謝罪をした慶一朗を笑顔で気にするなと迎えたのは、ホーキンスとホワイトの二人だった。
彼女たちの前には食べ終えたらしい皿があり、食後の飲み物はどうだと問いかけると、それぞれがフラットホワイトを飲みたいと言ったため、カウンターで三人分注文する。
番号が書かれたプレートを持って戻ってきた慶一朗だったが、彼女らの前に腰を下ろすと同時に軽く頭を下げ、色の違う二対の目で見つめられてしまう。
「どうしました?」
「……突然呼び出したのに遅くなって申し訳ない」
その上で、これから話すことはあなた達、ひいてはクリニックに負担をかけてしまうことだ。
慶一朗の前置きにホーキンスとホワイトが顔を見合わせ、できるだけ詰問口調にならないように気を付けながらホワイトが掌を向ける。
彼女のその気遣いに頷いた慶一朗は、咳払いをした後にリアムのことだと切り出す。
その名前に特別驚くこともない彼女達に先を促された慶一朗は、先月ドイツの祖母が亡くなったことは聞いているだろうかと、リアムが職場でプライベートをどこまで見せているのかが分からない為に探るように問いかけると、二人の女性の頭が同時に上下する。
「もちろん、聞いているわ」
「おばあ様のことは残念だわ」
お悔やみを。
その言葉にありがとうと目を伏せた慶一朗は、前提を理解されている安堵に息を吐いた後、あれからリアムの様子がおかしいと切り出し、再度二人の顔に驚きの表情を浮かべさせる。
「そうなの?」
「ああ」
「特に目立った様子はないと思いましたが……」
先月、リアムの祖母が天寿を全うして彼女の夫のもとに旅立ったのだが、それからのリアムは特に感情の起伏が激しくなったり、逆に抜け殻のようになったりすることもなく、ワクチン接種の患者に注射をし、他の患者の診察に当たっていた。
だから慶一朗のその言葉に驚き顔を見合せたのだが、あなたにだけ見える何かがあるのかとホワイトに問われ、杞憂であることを願っていると慶一朗が再度目を伏せる。
「リアムが着ている服だ」
「服?」
「ああ……あいつのクローゼットは大体明るい色の衣類が多い」
けれど、このひと月はクローゼットの中は暗い色合いになった。
それが意味するところは分かっているがと告げたとき、フラットホワイトを店員が持ってきたため、一度口を閉ざしてそれを受け取る。
「喪に服す。その気持ちがあるんだろうと様子を見ていた」
そろそろひと月が経つが、クローゼットの中は相変わらず暗く、それどころか日課のトレーニングも行っていないようだった。
その変化はひとつ屋根の下で暮らし、職場以外では一緒にいる慶一朗だからこそ見抜けたものかも知れないと、ホーキンスとホワイトが顔を見合わせて頷く。
「服喪なら、黒い服でも理解できるわね」
「それだけなら、気にすることはない」
愛する家族を亡くした人たちの哀悼の意思表示の一つに黒い服を着ることがあり、慶一朗もそれは理解できていた。
だが、ボディメイクの為ではなく実用のために鍛えている男が、ここひと月は自宅のトレーニングエリアにも行かなくなっていた。
ここひと月、慶一朗が見守っていたリアムの様子を思い出しつつ伝えた後、二人を信用し信頼しているからと前置きをし、キス以上のことをしてこなくなったと続けると、その言葉の意味を理解したらしい二人が口元に手を当ててそれぞれ考え込んでしまう。
「それは……」
「特にあいつの性欲が強いとは思わない。多分普通だと思う。でも、トレーニングもしないしスキンシップもない」
人間、何かでストレスの発散をするべきなのに、今のあいつにはそれがない。
そう続ける慶一朗の言葉に、ホーキンスとホワイトが顔を見合わせた後、確かに気になる兆候ではあると頷き、慶一朗が感じた危惧に理解を示してくれる。
それに感謝しつつ、ひと月ぐらいは様子を見たほうがいいと思うが、このままだとリアムが静かに変化をして言ってしまい、気が付けば自分の手の届かない所に行ってしまうのでは無いか。
それが、怖い。
慶一朗がテーブルの上で手を握り締めると、ホワイトがやや躊躇った後にその手に手を重ねる。
以前ならばその手を思わず振り払っていた慶一朗だったが、目の前の二人が親友と同じように信頼できる女性たちであると理解している為、顔を伏せて情けないなと自嘲してしまう。
「情けないなんて言わないで良いのよ。……いくつになっても家族を亡くした時は悲しいわ」
人それぞれの立ち直り方があるが、それを見守ることしかできないのも辛いのよ。
慶一朗やリアムの人生とは比べられない、自分たちよりも人生の悲喜こもごもを経験してきているであろうホワイトの言葉に慶一朗が顔を上げる。
「その通りですよ、ケイ」
傍にいる事がどれほど力を要するか、それはその時その場にいる人でなければ分からないもの。
ホーキンスが孫を見るような目で頷き、慶一朗が俺たちの周りには本当に良き理解者がいてくれると安堵に目を細める。
「……だから、もしも可能なら、リアムをソロキャンプに行かせたい」
「キャンプ?」
「ああ……一人で自然の中にいれば、きっとあいつはあいつらしさを取り戻せると思う」
「一人になって、孤独になったことで馬鹿なことを考えないかしら」
ホワイトの危惧は当然で、確かにそれは考えたと慶一朗が彼女の眼を見て頷くが、ふわりと笑みを浮かべて眼を見開かせてしまう。
「それは心配していない。……あいつは、ひとりの世界を持っている。でも、孤独じゃない」
ひとりの意味を誰よりも理解している男だと、心の底から信頼している事を示すような笑みを浮かべ、慶一朗が大丈夫と穏やかに繰り返すと、確かにそうねとホワイトも安堵に胸を撫で下ろす。
「あいつがあいつに戻るため、キャンプが必要だと思った」
自宅で一人になることは難しい、だからソロキャンプに行けば少しでも気分転換になると思ったことを自身でも不思議な穏やかさで二人に伝える。
「……2週間」
「ディアナ?」
今まで慶一朗の言葉を黙って聞いていたホーキンスが、慶一朗をまっすぐに見つめた後、2週間ともう一度告げ、その意味に気づいた慶一朗が眼鏡の下で目を見張る。
「まずは様子を見てみましょう」
リアムがリアムらしさを取り戻すのに必要な時間は不明ですが、まずは2週間様子を見てみましょうと頷かれ、慶一朗が感謝の気持ちからテーブルに額をぶつけたくなってしまう。
「ありがとう、ディアナ」
「いいえ……人の心は脆いものです」
どれほど強靭な人に思えてもあっけないほど簡単に心が折れる事もあり、折れた心を元に戻すことは出来ない。
ホーキンスの声に滲む感情は慶一朗などには計り知れないものだったが、その一端だけでも理解できると頷いた後、二人の顔をじっと見つめながら感謝の言葉を伝えると、応援しているから何かあればまたすぐに教えてくれとホワイトが慶一朗の手を握り、ホーキンスも頷いてその手にそっと手を重ねてくれる。
二人がいてくれて本当に良かった、何か肩の荷が下りた気がした。
そう苦笑した時、慶一朗の腹の辺りから盛大な音が鳴り響き、慶一朗が顔を赤らめ、二人が息子や孫を見守るように優しい顔で口に手をあてがう。
「何か食べればどう?」
「……今日は、家で食べるようにランチを作ってくれてある、から」
だから大丈夫と返す慶一朗の端正な顔は赤く色づいていて、きっとこんな所をリアムは毎日目にしているのだろうとホワイトとホーキンスが気付いたように何度も頭を上下させる。
「では、これを飲んだらクリニックに戻りましょうか」
「そうね」
「……ありがとう、ディアナ、ソフィー」
何度礼を言っても言い足りないと慶一朗が照れたように笑うと、二人が鷹揚に頷き、あなたたちが健やかに日々を過ごしてくれることがきっと亡くなったおばあさまの願いだろうとホーキンスに諭される。
その言葉を受け止めたような穏やかな顔で慶一朗が頷き、フラットホワイトを飲んで一言、自分で淹れたほうが美味いかもと、店の人間が聞けば気を悪くするようなことを気恥ずかしさから口早に呟くのだった。
その提案をリアムが受けたのは、食後の家事をすべて終え、リビングのソファに移動しようかと思っていた時だった。
約ひと月前に祖母が亡くなってからトレーニングにも力が入らず、慶一朗のもの言いたげな視線に気づきつつも、そちらに足を向けられずにいたのだ。
そんなリアムの胸の内を教えるようにそちらに顔を向けて溜息を吐いたリアムに、慶一朗がブラッシングをしていた手を止めて視線を投げかける。
最愛の、そして最良の祖母との別れから約ひと月。
彼女の不在は、リアムの中で日に日に大きく存在感を増しているようだった。
常日頃、どちらかと言えばオフホワイトやグリーン系の無地のシャツにジーンズやカーゴパンツなど、清潔感と動きやすさを重視した服装のリアムだったが、祖母の訃報を聞いた翌日からは、黒や濃紺のシャツに黒っぽいジーンズ姿を見せていた。
事情を知らない者からすれば、それが彼なりのおしゃれだと思うだろうが、最も身近でその言動を見続けてきた慶一朗には、それが意味することを理解していた。
リアム自身が意識しているかどうかは別にして、服喪の意味が込められていることは、手に取るように理解できることだった。
服装に代表されるように、リアムらしさが喪われている。
このままでは、以前のようなリアムに戻らないのではないのか。
その恐怖から、先日、リアムの勤務先の上司であるホーキンスとホワイトに相談をし、優しく背中を押されたことを思い出し、今日こそはきちんと話し合おうと決意をする。
デュークをブラッシングし、その時に抜けた黒と茶色の毛を使っていつか分身を作るという野望のため、収集ボックスに抜けた毛をせっせと詰め込む。
ブラッシングでスキンシップをした次は遊ぶ時間だ。そう言いたげにロープを咥えて待ち構えているデュークの頭を撫でてキスをし、ソファの背もたれに座り込んでいる背中に呼びかける。
「ヘイ、王子様」
「……ん?」
慶一朗の呼びかけに振り返った顔はいつもと何ら変わらないものだったが、ヘイゼルの双眸に浮かぶ色が薄らいでいる事に内心ひやりとしたものを覚えつつソファによじ登ると、背凭れに両腕を載せて顎を載せる。
背もたれを挟んで前後で視線を重ねた後、慶一朗が隣にやって来たデュークの首に腕を回してにやりと笑みを浮かべる。
「ソロキャンプに行かないか?」
慶一朗が最近よく見せる、背もたれに顎をひっかける生首スタイルではなく、どこぞの絵画の天使のように頬杖を突き見上げると、リアムの目が驚きに丸くなる。
「ケイさん?」
突然どうした、それに仕事を休んでキャンプには行けないだろうと肩を竦めるリアムに頷き、この体勢は結構辛いものがあるからここに来いと、ソファをポンポンと叩いてリアムを誘う。
その誘いを断れるはずもないリアムが隣に座ると、一つ頷いた慶一朗が誘ったくせにソファから立ち上がり、青い電話ボックス型のぬいぐるみをリアムに無理矢理押し付けると、何を望まれているのかを理解した愛嬌のある顔に微苦笑が浮かぶ。
その体勢は、二人にとってはあることをするための合図だった。
リアムが間違えることなくぬいぐるみを抱きしめたのを見届け、その前の床にクッションを置いた慶一朗が胡坐をかくと、何が始まるのかとデュークが二人の間で上目遣いに顔を左右に振る。
「いくらドクターと言っても家族が亡くなったときには悲しむ時間を持っても良いはずだ」
「それは、そうだけど……」
「お前が働くクリニックの院長やスタッフらは、皆信じられない程気遣いをしてくれる」
「……うん」
「だから、キャンプに行ってこい」
表情を切り替えた慶一朗がどうだと掌を向けると、その提案は嬉しいけれど行けないとハニーブロンドが左右に振られる。
「Warum?」
どうしてと小首を傾げると、何かを言いよどむ様に視線が左右に揺れた後、あなたを一人に出来ないし、したくないと小さく告白され、予想通りの言葉に慶一朗の頭が上下する。
「Danke, Mein Prinz. でも、うん、大丈夫だ」
ありがとう、俺の王子様。リアムの気遣いに安堵の笑みを浮かべた慶一朗だったが、頬杖をついた顔に安心してくれと言いたげな笑みを浮かべ、うん、大丈夫だと思うと繰り返す。
「ケイさん?」
「確かに、まだ夢を見て飛び起きることもあるし、お前がいないと家事ひとつもできない」
相変わらず俺はお前に背負われて庇護されたままの情けない男だと、自嘲ではなく事実を淡々と口にすると、そんなことはないとリアムが反論の声を上げる。
それが嬉しくて、もう一度礼を言った後、ぬいぐるみを抱く手を取って両手で挟むと、額をこつんとぶつける。
「でも……お前とデュークが、今までずっと守ってくれた」
だから次は俺の番だと穏やかな声で呟いた慶一朗は、顔を上げて驚きに見開かれる目に目を細め、伸びあがってその頬にキスをする。
「お前たちがいてくれた、だから俺はもう大丈夫だ」
お前がいない間、ひとりで過ごしてみる。そう思えるようになったのは、お前たちが今まで守ってくれたからだ。
無理や意地、意気込むでもない穏やかな顔で笑い、今までお前たちが守ってくれたから多分大丈夫だと笑った後、デュークの首に腕を回して顎の下を撫でると、嬉しそうに顔があげられる。
その様子を呆然と見ていたリアムだったが、ぐっと拳を握った後、顔を伏せて何度も深呼吸を繰り返す。
慶一朗は、幼い頃の事情で大きく環境が変化することへの恐怖が人一倍強く、また少し前に心身を回復不可能なまで壊しかねない事件に巻き込まれてからは、先日のように夢にうなされてしまう日々が続いた。
その日々を、リアム一人では支えられない為、ドイツから祖母に来てもらい、慶一朗が一歩を踏み出す様子を一緒に見守って貰ったのだ。
10歳で家族と離れ、気持ち的にはひとりだったリアムが、十数年ぶりに得た祖母との時間。
その日々が自然と蘇ったのか、リアムが片手で抱いていたぬいぐるみに濃いしみがひとつ、またひとつと作られていくことに慶一朗が気付き、その手からぬいぐるみを奪い取ってソファの向こうに投げ捨てると、震え始めた頭を両手で抱きしめ、肩で悲哀を受け止める。
「お前がいない間、ランチはマーサの店でサンドイッチか何かを買って持っていこうかな」
「……っ……カフェでは食わないのか?」
「あのカフェで食えるものが少なすぎる」
お前のランチボックスが美味すぎて他の店の料理が食えなくなったのは誤算だったが、マーサが作るサンドイッチなら大丈夫だろう。
そう笑ってリアムの広い背中を撫でた慶一朗は、背中に回された手に力が籠り、文字通りの泣き笑いの声が聞こえたことに目を閉じる。
「ディナーは、そうだな、帰りに何か食って帰っても良いな」
二週間のディナーぐらい何とかなるだろうと笑った慶一朗だったが、お前が良いのなら何日分かの料理を冷凍なりなんなりしておいてくれと笑うと、作っておくと鼻声で返される。
「朝飯は……何とか頑張るか」
「うん、頑張れ、ケイさん」
あなたならできると涙声で笑われ笑うなと返すが、どちらも顔を上げることはせず、互いの背中を抱きしめながら間もなく訪れる別離に備えているようだった。
「ああ、そうだ、二つだけ、我儘を聞いてくれ」
慶一朗が何かを思い出したような、以前から決めていたような声でリアムに切り出した時、ようやくリアムが涙でぐちゃぐちゃの顔を上げ、なんて顔をしているんだと思わず慶一朗が小さく吹き出してしまう。
「世界一のイケメンが台無しだぞ」
そう笑いながら袖でリアムの顔を拭いた慶一朗に、泣かせるケイさんが悪いんだとリアムが子供じみた顔を見せる。
その顔にそっとキスをし、我儘を聞いてくれと繰り返すと、何だと首が傾げられる。
「デュークを連れていけ」
「ケイさん?」
それをすると本当に一人になってしまうぞと、リアムの眉根が心配から寄せられたのを見た慶一朗は、そうだなと穏やかな顔で頷いた後、正直俺にはデュークの世話は出来ないと肩を竦める。
ただ、こいつがいることで本当に気持ちが穏やかになると再度デュークの頭を撫でると、慶一朗の掌にデュークがぐいぐいと頭を押し付けてくる。
「やめろ、デューク」
笑いながら首を抱きしめ頭にキスをし、今のようにスキンシップを二人で図って来いとリアムを見ると、良いのかと無言で問われて同じく無言で頷く。
「もうひとつは何だ?」
リアムがデュークを呼んでソファに上る身体を片手で抱き、片手を慶一朗の好きにさせながらもうひとつの我儘は何だと首を傾げると、慶一朗の色素の薄い双眸が眼鏡の下で二度三度と左右に揺れるが、リアムの片手を両手で握りしめ、頬を宛てながら目を閉じる。
「……一日が終わる前に、声を聴きたい」
職場でも自宅でもお前が不在なのだ、一日の終わりと翌日の始まりの為にお前の声を聴いてから寝たい。
小さな声の懇願だったが、紛れもない慶一朗の本心だと首筋まで赤く染まっている事から気付いたリアムが微かに震える息を吐いた後、デュークにはまた後でと口早に告げ、両手で慶一朗を抱きしめその勢いのままフロアに倒れてしまう。
「!」
慶一朗の身体に衝撃を与えないよう己の身体で庇いつつもフロアに倒れこんだ二人だったが、リアムが寝返りを打って慶一朗を己の身体に載せると、赤く染まる端正な顔を両手で挟み、額を触れ合わせる。
「……愛してる、慶一朗」
日数はまだ決まっていないが、デュークと一緒にキャンプに行ってくる。
その言葉をそっと伝えると、慶一朗の顔が更に赤く染まるが、リアムの首に腕を回してしがみつくと、俺も愛していると、震える声で告白する。
年に一度聞ければ良い告白を受けたリアムの顔に満面の笑みが浮かび、恥ずかしいから顔を見るなと叫ぶ慶一朗の細い背中を抱きしめ、うん、見ないからしばらくこうしていてくれと強請ると、仕方のない王子様だと、自ら顔を見るなと言い放ったくせに、少しだけ距離を取って見下ろしてくる。
幼い子供が己のなすべきことをしたと、自慢げに浮かべる笑みにも似たそれに自然とリアムの肩が揺れ、愛していると再度告白すると、そっと髭の下の唇に柔らかなキスが降ってくる。
そのキスを受け止め、同じキスを返したリアムが満足そうに息を吐き、慶一朗も落ち着いたらしい様子に安堵し、リアムの肩に頬を宛てて小さく息を吐く。
「デュークと一緒にキャンプに行ってくる」
「ああ、行って来い」
そして気が済めば帰ってこい。
祖母を亡くして気落ちするだけではなく、お前らしさを失っていくのを見ているのは辛いと、今回の提案を思い立った理由を告白した慶一朗は、リアムのハグとキスを受けてデュークを呼ぶと、慶一朗の腕を持ち上げながらデュークが頭を突っ込んでくる。
リアムが不在の間、この温もりも不在になる。その不安は大きかったが、今までリアムとデュークが己に与えてくれた安心感を思い出せば堪えられると静かに決意を新たにする。
「……行って来る」
「ああ」
そして、お前らしさを取り戻して帰って来いとデュークの頭にキスをし、次いでリアムの髭に覆われている顎にもキスをすると、キスが左右の頬に返される。
どちらのキスも髭と毛が当たってくすぐったかったため、くすぐったいと大型犬と超大型犬の頭を両手で抱きしめ、元気になるための一時の別離を、慶一朗自身も想像していなかった穏やかさで受け入れるのだった。
慶一朗の愛車の助手席に、サングラスを掛けさせられながらも上機嫌なデュークが座り、トランクや後部シートにキャンプ道具一式を積み込んだリアムが、トランクのドアを閉めて振り返る。
その様子を、腕を組み壁に肩で寄りかかって見守っている慶一朗の前に戻ってくると、端正な頬の熱を忘れないように掌を宛がい、そっと顔を寄せて薄く開く唇にキスをする。
「……行ってくる」
「……ああ」
唇が離れた後に額を重ね、目を閉じたリアムが行ってくると吐息で告げ、同じく吐息で慶一朗が背中を押す言葉を口にする。
「ケイさんの車、絶対に乗って帰ってくる」
「当たり前だ。その間お前の車を借りるからな」
慶一朗の提案を受け入れたリアムが返した条件は、自分の車ではなく慶一朗の愛車を借りていくとのことだった。
それが意味することを正確に理解している慶一朗が、なるべく早く乗って帰って来いと、今まで何とか堪えていたが、心の奥底の感情をポロリと零すと、背中を抱きしめられてうんと頷く気配に気づく。
「寝る前には電話するから、毎日何があったか今までみたいに話をしよう」
「そうだな」
「デュークの顔も見せたいな」
「ああ」
互いに背中を撫で、いつまでもこのままでいたい思いを鉄の意志で押し込めると、そっと距離をとって互いの顔を目に納める。
自分の愛車の運転席に乗り込むリアムを、再度腕を組みながら見守っていた慶一朗だったが、窓が開いて愛嬌のある顔が突き出されたことに気づき、大股に近寄り頬を両手で挟むと、懐かしさを覚える前に帰って来いと伝えるように髭の下の唇にキスをする。
「……行ってくる」
「ああ」
名残惜しさなどいくらでも沸き起こってくるため、これ以上はだめだと歯を噛みしめた慶一朗は、助手席に回り込んで同じく身を乗り出すデュークの頭をわしゃわしゃと撫でまわすと、リアムを頼んだと鼻先にキスをする。
「くぅん?」
どうして慶一朗は来ないんだと言いたげに首を傾げるデュークに微苦笑し、再度頭にキスをすると、家に入るドアの前に向かう。
ドアノブに手をかけ振り返ると、シャッターがウィンチの音を響かせながら巻き上げられていて、何日間の別離か分からないが、自分が思うよりも一分でも一秒でも早く帰ってきてくれと願う。
その願いはリアムと同じもので、完全に上がったシャッターの向こうに静かに出ていく愛車の姿を見送った慶一朗は、こちらをじっと見つめるリアムに再度頷くと、人差し指を唇に当てた後、愛車に向けて指を弾く。
そして、いつまでもここにいればリアムが出発できないからと己に言い聞かせ、ドアノブを回して家の中に入るのだった。
慶一朗の細い背中に、シャッターが下ろされていく音と、己の愛車のエンジン音が小さくぶつかり、ふわりと霧散する。
自分が自分であるために、必要としている一時の別離を選んだ二人の頭上、冬の雲が悠然と風に乗って流れていくのだった。
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