It's a Wonderful Life.-Family Plan.-

第21話 A Pawprint in the Light.
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 デュークから連なる系統を、自分たちの都合で断ち切ってしまう事実と言い表せない感情を胸に、それでも今まで以上に愛情も手間暇も掛けようと二人が決めた頃。  ドイツ南部のとある町のヴィルトハウス――地元料理が評判の居酒屋兼レストラン――の奥、居住エリアの一室で、孫の身を案じている女性がベッドで目を覚ましていた。  彼女の部屋に賑やかな声が聞こえてくることから、今日も店が繁盛しているのだと気付き、永遠に若いままの顔で笑いかけてくる夫の写真を手に取る。  夫とは随分と昔に死別したため、夫が残した店を一人で切り盛りしている時間のほうが長くなったと小さく笑みを浮かべる。  つい先ほど夢の中で再会した夫も、写真と同じように若いままだった。  自分一人が年老いた現実にやるせない溜息を零すと、孫とそのパートナー――自分たちの若い頃には想像もできなかった同性のパートナー――と、二人の間でこちらも嬉しそうに舌を出しているジャーマン・シェパードとの写真を手に取り、写真の孫と同じ笑みを浮かべて胸に抱え込む。  この額に入れた写真が届いたのはいつだっただろうか。  小さなコロコロとした、黒と茶色の毛玉だったが、今では精悍な顔つきになったシェパードは、手の掛かる弟のような存在になったとも教えられ、画面の向こうの孫に何度も頷いたのは、先日のビデオ通話のときだった。  幼い頃に泣く泣く遠縁の青年に託した孫息子だった。だが彼は、あちらで悲喜こもごもありながらも、自分らしく生きていたようだった。  その中でかけがえのない人と出会い、紆余曲折を経て家族になった。その結婚式に参列した娘夫婦の報告を受け、肩の荷が下りたと思ったのだ。  その直前だっただろうか。事件に巻き込まれたパートナーを自分ひとりで支えるのは無理だから、ばあちゃんにこちらに来て欲しいと頼ってきたのは。  10歳で家族から見放されたと思っても仕方のない環境で、独りで苦労しながらも真っ直ぐに成長した孫からの初めてのそれを断ることなどできず、当時はまだ恋人だった孫のパートナーが事件の傷から立ち直るのを少しだけ手助けをしたのだ。  振り返れば全てが眩しい世界だった。  ただひとつ残念なのは、そのキラキラと光り輝く瞬間に、夫が横にいないことだった。  どうして先に死んでしまったんだいと、自然と流れる涙のまま写真に不満をぶつけると、そんな事を言われてもなぁと、我儘に困惑している様な声が遠い過去から聞こえてくる。  初めて夫と出会ったとき、困惑気味に頭に手を宛てながらも、一目惚れをしたと告白された事を思い出す。  あれから何年が経っただろうか。  思い出すことも難しくなってきた遠い昔。懐かしさに細めた目尻から零れた涙がこぼれ落ちていく。  彼女が夫と出会った頃は、世界を戦雲が覆っている暗い時代だった。  その雲の下を何とかくぐり抜け、戦後の混乱も帰還した夫と共に乗り切った彼女は、当時は西ドイツと呼ばれた国――戦後に突如として生まれた国家だった――で、夫と共に地元料理を提供するヴィルトハウスを切り盛りしていた。  そんな彼女達の間に一人娘が生まれ、その娘も無事に成長し優しい大男と結婚し、家族揃って店を切り盛りしていた。  その頃には彼女と夫の店は地元だけではなく、少し離れた地方でも名前が挙がるような人気店になっていた。  四人で店を回していた彼女達だったが、そこに元気いっぱいの息子が生まれ、生まれたばかりの乳児と一緒に帰宅した娘を労い、小さな小さな手を握りながら彼女達が初めてプレゼントしたのは、孫の名前だった。  だが、その名前に不満未満の気持ちを表したのは、彼女の亡き夫だった。  名前が長くないか、そう呟いた顔を彼女は今でも鮮明に思い出すことが出来、自然と笑顔になってしまう。  ウィリアムなんて長すぎないか。そう呟く夫に、夫以外の三人が一斉に、長くない、けれど呼びにくいから短縮形を考えてくれと伝えたのだ。  その結果、生まれた孫は出生届にはウィリアムと、周りからはリアムと呼ばれ、すくすくと成長したのだ。  その孫もいずれ成長し、彼女だと照れながら恋人を紹介してくれる日が来る。そんな日を心待ちに精一杯生きてきた。  だが、彼女が望むそんな日は訪れないことを、孫が10歳の年に思い知らされたのだ。  孫自身だけではなく家族全体の運命を変えたあの事故さえなければ、リアムはただひとり異国の地で暮らす事もなかったのだ。  思い出すだけでも涙が溢れる当時のことが甦り、掛布団で目頭を押さえていると、静かにドアが開いて誰かが入ってきた足音が聞こえてくる。 「……母さん? どうしたの?」  その声から入ってきたのが娘のフリーダだと気付き、何でもないよと涙声で笑いながら掛布団で涙を拭うと、どうしたのよと心配そうにベッドサイドに膝を着く。  私に似ずに優しい子に成長した、小さな頃から変わっていない表情の娘の頬を撫で、店は良いのかと問いかけると、テレーザがすごく上手く客をあしらってくれると笑われ、娘の幼馴染みも気持ち良く働いてくれていることに何度も頷く。  娘とその幼馴染みのテレーザも、一言では言い表せない人生を送ってきた。  歓喜に飛び上がる日もあれば、悲嘆に泣き暮れる日もあった。  だけど、振り返ることができる今となっては、それらすべてが、思い出というフィルターを通した世界で煌めいていた。 「……フリーダ、マールにも言っておきたい事があるから、後で一緒に部屋に来ておくれ」 「母さん?」 「頼んだよ」  今は少し眠くなったから寝るよと、不安そうに眉を寄せる娘の額にキスをし、ランチ営業が一段落したら二人で部屋に来てくれと繰り返すと、夫と孫達の写真を抱えたまま目を閉じるのだった。     遠く離れた祖国で祖母が両親に残しておきたい物や言葉を伝えだした頃、孫のリアムは冬の今どうしても増える季節性の感染症の患者や、ワクチン接種を求めてやって来る患者に向き合い、毎日忙しくしていた。  そんな忙しさの中、今や手の掛かる弟のような存在になった愛犬、デュークの去勢の日程を慶一朗と話し合い、今週末に行って貰おうと決定したのだ。  これから先、いつまでも健やかで元気よく過ごして欲しい思いから決断したが、デュークの去勢を考えたときに何とも言えない気持ちになるのは、種族は違えども同じオスという事だからだろうか。  そんな事を考えつつ今日も何本もワクチンを打ち、何人も診察をしたリアムが帰宅し、デュークに出迎えられて片膝をつく。  出勤する前に可能な限りのスキンシップを取ったからか、今日はさほど家中が散らかっている事はなかった。  リアムのサンダルを除いて。  デュークのベッドにテイクアウェイされている己のサンダルを見たリアムは、やれやれと溜息を吐くものの、止めさせることは出来ないと割り切っている為か、今もまたデュークの顔を両手で挟んで少し強めにわしゃわしゃと撫で回し、嬉しそうな遠吠えを上げさせる。 「こら、デューク」  あまり吠えるなと笑った後、立ち上がると同じようにデュークも尻を上げ、水飲み場へと向かう。  さて、もう一人の家族である慶一朗が帰宅するまでに出来る限りの家事をやっておこうと、見えない服で腕捲りをするが、その時、尻ポケットに突っ込んであったスマホが震えている事に気付き、画面をロクに見ることなく通話に応じる。 「ハロー」 『……リアムかい?』  耳に流れ込む声は小さく掠れていて、聞き取りにくいものだった為、耳から離して画面を見る。  そこに、祖母の名前を発見し、慌てて再度耳に宛てる。 「ばあちゃん!?」 『ああ、そうだよ。今、電話しても大丈夫かい?』  聞こえてくる声は懐かしい祖母のもので、うん、大丈夫だと自然と顔を柔和にしながら頷き、ソファの背もたれに座って片足をぶらつかせながらどうしたと問いかける。 『いや、久し振りに声を聞きたくなっただけだよ』 「そうか? 今年は暑いんじゃないか?」  俺たちがいるシドニーは今年は何だか寒さが厳しいが、ドイツは暑いんじゃないのかと、高齢の祖母の身を案じながら問いかけると、水を飲み終えたデュークが近寄ってきて、誰と話をしているのかと言いたげに首を傾げる。  そんなデュークの頭を片手で撫で、祖母が話す言葉に集中していたリアムだったが、咳き込む声が聞こえてきて、大丈夫かと気遣う言葉を告げると、ありがとうねぇと何だか涙ぐんでいるような声が返ってくる。 「ばあちゃん、調子悪いのか?」 『悪い訳じゃないから安心しな、ウィリアム』 「……」  その名前に一瞬リアムが言葉を無くして目を見張るが、そういえばじいちゃんが時々呼んでいたと懐かしさに目を細める。 『そうだったねぇ。でもウィリアムは長いって真っ先に文句を言ったのはじいちゃんなんだよ』  遠い昔、祖父がまだ健康で家族揃ってヴィルトハウスで働き、幼いリアムも出来る手伝いをしていた頃、長いだの何だのと不満を口にしていたのに、何かあればリアムを出生届に記入したウィリアムと呼んでいたのだ。  そのセピアに染まる光景に目を細め、その名前を呼ばれても咄嗟に返事が出来なくなった程リアムという名前に馴染んでいるし、周囲もそう思っていると笑うと、少しの沈黙の後、家族に見放されたように感じていなかったかと、想像だにしていなかった疑問をぶつけられてリアムが絶句してしまう。 『本当なら、お前ひとりがそんな苦労を背負うことはなかった筈なんだよ』  何を言っても言い訳になるが、本当に苦労を掛けさせて悪かったと謝罪をされ、喉の奥に引っかかった言葉を何とか絞り出したリアムは、そのことについて俺は別に誰も恨んでいないと返す事が精一杯だった。  幼馴染みのエリアスと一緒に川に入り、二人揃って溺れた結果、エリアスだけが入院した事故。  その事故が家族ぐるみの関係を壊し、エリアスの父によってリアムの命が脅かされるようになったのだ。  そんな彼、サシャからリアムを逃がすことだけを考えた結果、大都市で繁盛していたヴィルトハウスを畳み、今の場所に家族揃って移住をしたのだ。  それでも執拗に追いかけてくるサシャに気付き、リアムを遠縁の青年に一人預けることにしたのだった。  その後の暮らしで、リアムが被るであろう苦労まで考える事も出来ずに。  許しておくれ。  そう謝罪をされたリアムは、デュークの頭を撫でていた手を離し、自らの頭に乗せて無意識に握りしめてしまう。  祖母は謝ってくれるが、今伝えたようにリアムはその件について、祖母をはじめとした大人達を誰も恨んではいなかった。  エリアスの父とも昨年和解をし、親同士の交流も再開しているようで、安堵しているぐらいだった。  リアムがこちらに移住した際に彼なりに面倒を見てくれていたユーリに対しても、他人に感じる無関心さを覚えていた。そして、彼との別れの儀式も行った今では彼に対する思いは風化していた。  だから謝らなくて良いと、心からそう思っていると伝わってくれと願い、大丈夫だからと繰り返すと、鼻を啜るような音が聞こえた後、顔を見て話したいと笑うような声に強請られ、スマホを操作する。  スマホに映し出されたのは、ベッドヘッドにクッションを立てかけ、そこに背中を預けている祖母の姿で、誰かがスマホを支えているのだと気付くと、父さんか母さんかと呼びかける。 『俺だ』 「父さん? 店を開けなくて良いのか?」 『まだ大丈夫だ』  画面の端からひょっこりと見えた顔は父のもので、この時間だとランチ営業前だろうと心配から問いかけると、大丈夫と頷かれ、それならと画面の向こうの祖母に笑いかける。 「ばあちゃん」  前回帰省したときに比べて何だか小さくなっていないかと、孫だから口に出来る言葉を伝えると、クララの口から楽しそうな笑い声が零れ出す。 『そうかも知れないねぇ』 「ばあちゃんにはもっと元気になって貰わないとな」  今年も11月の下旬頃に帰省するつもりだから、その時はケイさんと一緒にドライブに行こう、今度はばあちゃんの行きたい所が良いと笑うと、楽しみにしているとクララが笑う。 『今年も帰ってくるんだね?』 「そのつもり。まだケイさんとは話し合ってないけど、誕生日に帰るって決めてるし」  昨年の帰省の様子を思い出しながらリアムが笑ったとき、去年は意外な再会があったとクララが思い出したように身体を震わせ、リアムも軽く目を伏せる。  前回の帰省時、リアムの運転で慶一朗とクララと三人でドライブに行ったが、観光地のカフェで慶一朗の父親に遭遇するという、世界が広いというのは嘘だろうと言いたくなるような経験をしてしまったのだ。  その時の慶一朗の様子を思い出すだけで嫌な汗が流れ落ちるが、頭を一つ振ることでそれを振り払い、もうあんなことは起きないだろうと肩を竦めると、そうだねぇとクララも安堵に目を細める。 『じゃあ帰省したときに会えるんだね』 「うん」  だからそれまでにばあちゃんも元気を取り戻しておいてくれと笑う孫に、祖母も何度も何度も頷くが、その顔に浮かんでいる感情をリアムはこの時読み取れずにいた。  そんなリアムを、掛布団をぎゅっと握りしめたクララが、背筋を伸ばしてスマホの画面越しに見つめる。 『リアム……ウィリアム』 「ばあちゃん?」  さっきから本当にどうしたと、さすがにクララの様子に何かを覚えたらしいリアムが眉を寄せ、滲み出る不安を隠さないで問いかけると、泣いても良いけれど、いつまでも泣き続けるんじゃないよと、幼い頃良く聞いていた厳しくも温かい声で諭され、聞いているリアムの背筋がピンと伸びる。 「ばあちゃん……」 『じいちゃんと一緒にずっと見守ってるからね』  祖母のその言葉にリアムがグッと唇を噛みしめ顔を背けると、宥めるような優しい声が聞こえてくる。 『……こうなるのは仕方のない事、あんたも医者なら分かるだろう?』  手で口を覆うリアムの横顔に寂しげな声で笑うクララだったが、先日往診して貰った時に、ある意味人が憧れる最後を迎えつつあると言われたと、画面外から父のやるせなさや寂しさだけではない感情の籠もった声が聞こえ、思わず顔を振り向ける。 「でも……っ!」 『ゆっくりとこうなる事は幸せだと、お医者さんと笑って話してたんだ』  世の中の人が皆このような穏やかな最後を迎えられるとは限らない、その現実を、長く生きてきたからこそ何度も何度も目の当たりにした彼女の顔を直視したリアムは、あんたも医者なら分かるだろうと諭されて微かに震えながら頷く。 『じいちゃんがそろそろ寂しくなったからって迎えに来ようとしてるって事だね』  長年放っておいた癖に、今になって寂しくなったのだろうと笑う祖母は透明な穏やかさに包まれていて、ああ、とリアムが納得した瞬間、一筋だけ涙が流れ落ちる。  今こうして画面越しとは言え顔を見ながら話が出来ることは、ドイツとオーストラリアという、地球の北半球と南半球で、季節も時間も何もかも違う環境下では幸運なことではないのか。  ひとつ屋根の下に暮らしながらも、別れの時に顔を見ることも出来なければ、最後の声を聞くこともできない人も数多と存在するのだ。  それを思えば、今この時間は神が与えてくれた奇跡のように感じてしまう。  常日頃神を意識することは無いリアムだったが、さすがに神妙な気持ちになってしまい、流れる涙を肩でぐいと拭く。 「ばあちゃん、電話してきてくれてありがとうな」  話が出来て本当に良かった。  近いうちに訪れるであろう別れの前に顔を見れたことは本当に嬉しいと、幼い頃と変わっていない笑顔で頷くと、クララも安心したように何度も頷く。 『これからも、ケイと仲良くするんだよ』  いくらケンカをしても良いけれど翌日には持ち越さないこと、何が原因かをちゃんと話し合うことと、リアムの根幹をなすそれが、祖母から連綿と受け継がれてきた事だと気付き、驚きながらも笑顔で頷く。  慶一朗と付き合うと決めたとき、ケンカをしても話し合いで解決をしよう、その努力を怠らないでおこうと決めたことを思い出し、うん、もう大丈夫だともう一度頷く。 『ああ、リアム……あたしの可愛いリアム。ずっとずっと愛しているよ』  祖母の涙混じりの告白が面映かったが、その気持ちをグッと押し殺し、俺も愛してると画面にキスをする。 「今ここにケイさんがいればなぁ」 『リアム、あの子に伝えておいてくれないか?』 「ん?」  まだ仕事から帰ってきていない慶一朗がここにいれば、そう素直に呟くリアムにクララが少しだけ声を潜め、その変化に何事だとリアムの首が傾く。 『あんたが、ばあちゃんの二人目の孫になってくれて本当に嬉しいって』 「……っ!」 『これからも色々あるだろうけどね、二人なら一緒に乗り越えていけるからね』  ばあちゃんはそれを疑っていないからねと、孫を案じる顔で頷く祖母の言葉にリアムがきつく目を閉じた後、誰もがらしいと納得出来る笑みを浮かべ、サムズアップを見せる。 「大丈夫だ、ばあちゃん」  俺もケイさんも大丈夫。  リアムのその顔と言葉にクララが何度も頷き安堵の息を吐くと、ドアが開く音が聞こえ、そろそろ開店準備をするわよと二人に告げる母の声が聞こえてくる。 「母さん?」 『あら、リアム。仕事はもう終わったの?』  画面に先程の父と同じように顔を出して笑う母に頷いたリアムだったが、母さんとばかり話をしてないでたまには私にも電話をしてきなさいと、幼い頃に良く叱られていた時のように腰に手を宛てる母に、悪いと口だけで謝罪をすると、父もそうだと不満を零し始める。 「はは、ケイさんに言っておく」 『ケイじゃなくてあなたに言ってるのよ!』  このままでは母の不満が怒りへとエスカレートしかねない、それに気付いたリアムが助けを求めるように祖母を呼ぶと、店の準備があるんだろうと手を打ち、その音に両親が我に返ってそうねと頷く。 『リアム、時々はフリーダとマールに電話をするんだよ』 「……うん」 『今日は話が出来て嬉しかったよ』  ありがとうねぇ。  その柔らかな感謝の言葉は、その時の祖母の表情と共にリアムの中にいつまでも残るものだった。  通話を終え、ソファの背もたれに座ったままじっとスマホを見つめるリアムの腿にデュークが前足を載せ、頭を撫でろと強請ってくるが、それにも気付かずにただ放心したようにスマホを見続けてしまうのだった。    その日のランチ営業を終え、フリーダとマリウスがクララの部屋に来ると、ここ数日の日課になっていることをする為にノートとペンを取り出す。  先日、リアムとビデオ通話をしてから一気にクララの容態が悪化し、往診してくれる医者の言葉を借りれば、良くて数日との事だった。  避けられない事ならば可能な限り前を向いて。涙を拭ったフリーダが母の言葉を出来るだけ書き留めようとノートを用意するものの、自分では感情に揺れて書くことが出来ないからと、マリウスに書記の役を押しつけたのだ。  今日もそのノートにクララの言葉を書いていくが、リアムと慶一朗にこれだけは絶対に守って欲しいと、珍しく強い口調で伝えたのは、私の葬儀の為だけに帰省してくるなとの言葉だった。  さすがに母のその言葉に驚いた娘夫婦だったが、あんた達は医者なのだ、あんた達を必要とする人が沢山いる、その人達としっかり向き合う事と、自慢と寂寥感を綯い交ぜにした顔で二人の孫へ遺す言葉を口にする。 「ばあちゃんのこれはもうどうすることもできないことなんだ、だからあんた達は患者のことをまず考えなさい」 「……そうね」 「今年のケイの誕生日に帰ってきたら、ばあちゃんとじいちゃんの墓に顔を見せに来ておくれ」 「そうだな」  クララの言葉にフリーダとマリウスが寂しそうに答えるが、あんた達もだよと笑われて目を丸くする。 「あんた達も、いつまでもメソメソしてるんじゃないよ」 「……母さん」 「前にも言ったけどね、この店はあんた達の好きにすれば良いからね」  無理矢理残す必要はない、あんた達が満足したら他のことをすれば良いと、娘夫婦のこの先も続く人生を縛るつもりはないと笑うクララに、フリーダがそっと手を回して抱きつき、そんな妻の背中から夫が大きな腕で二人を抱きしめる。 「あたしはもう十分に生きた。じいちゃんも迎えに来てくれるみたいだし、久し振りに二人でデートして来ようかね」 「良いわね。私も落ち着いたらマールと旅行したいわ」 「良いな。……リアムの家に行こうか。ルカやラシードにも会いたいな」  その時は勿論、義父義母の写真を持って行こうと笑うマリウスの目尻から一つ、涙がこぼれ落ちる。 「楽しみだねぇ。……疲れたから、少し寝るよ」 「ええ。……お休みなさい、母さん」  マリウスがクララの掛布団を整え、満足そうに息を吐く義母の頬にキスをして部屋を出る。そんな夫を見送った妻は、母の手をそっと握り、お休みの言葉を告げて夫とは逆の頬にキスをする。  聞こえてきた穏やかな寝息を遮らないように気を付けつつベッドサイドを離れたフリーダは、ドアの前で振り返り、お休みなさいと三度告げて静かにドアを閉めるのだった。  彼女が大らかで朗らかな人柄だったことを示すように晴れ渡った夏の日。  最後の別れを言いに来た人達が、どんな夢を見ていたんだ、クラウスが迎えに来たのかと揶揄いたくなるほど、彼女は穏やかな顔をしていた。  そんな母の顔を見ながら、きっと若い頃に先立った父と同じ年頃に戻り、二人で今頃デートを楽しんでいるのだろうと、悲しみよりも母の人生を見届けた満足感を滲ませたフリーダが空を振り仰ぎ、そんな彼女の傍でマリウスも同じように空を見上げるのだった。  彼女との最後の別れの場だったが、彼女の言いつけ通り、二人の孫は姿を見せることはなかった。  その代わり、彼女の終の寝床から溢れ出しそうな程の季節の花々と、これからは彼女の寝所を守るために付き従うことにした見えない敵を威嚇するフィギュアと、ベッドサイドでいつも彼女がキスをしていた孫の家族写真が納められたのだった。    
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  あたしの可愛い孫達、愛しているよ。
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