昨今の異常気象に眉を寄せながらも真夏がいきなり真冬になることはない安心を覚えつつクリスマスを終えた街はその余韻をいつまでも引きずっているようだったが、いつしか街は近年定着し始めたバレンタインカラーに染まり始める。
そんなある週末、仕事を終えてナイトライフを満喫しようと友人知人と街に繰り出す人たちの中、外見的特徴がバラバラだが仲が良いことを雰囲気で教えるような男四人が何やら楽し気に話しながら目的の店に向かっていた。
彼らの目的地は四人が揃えば向かうパブで、今日は全員が集まることができて良かったと互いの腕を叩いたりしながら再会を喜んでいるようだった。
パブに入り顔馴染みのスタッフに窓際を案内されて腰を下ろすとそれぞれがビールを注文し、チップスは外せないと一人が笑い、イモだけ食っているつもりか、ここのポテトも美味いがお前が作る方がもっと美味いと他の三人が揶揄うように笑いだす。
そんな男四人の笑い声がビールが運ばれてくると一度収まるものの、乾杯と同時に声を上げてジョッキを触れさせると、ああ、仕事終わりのビールは最高だと四人の中では自然と纏め役になる男が笑い、口ひげに少しの泡を乗せた体格の良い男が次いで笑うと、口ひげと顎や頬に髭を蓄えた男の顔を見た三人の口から無意識のように安堵のため息が零れ落ちる。
ビールを旨そうに飲みながら笑うのは体格の良い男だったが、三人の顔に安堵の笑みが浮かんでいることに気付いてジョッキをコースターに置き、お前たちには本当に心配をかけたと自嘲気味に呟くと、三人が顔を見合わせて一人が太い腕を組んで大仰に頷く。
「本当に心配したぞ、リアム」
心配したぞと苦言を呈している素振りだが実は誰よりも心配してくれていたことが分かる為、肩を竦めるだけでその言葉を受け止めたリアムと呼ばれた男が少しだけ時間をかけて三人の顔を見る。
心配をかけたと謝罪をしたのは、シドニーから内陸部へと小一時間ほど進んだ町のクリニックでドクターとして働くリアム・ユズリハ=フーバーという男で、少し前にリアムとそのパートナーが、嫉妬した元恋人の嫌がらせを受けて別居を余儀なくされるという出来事があった。
この三人を含めた友人知人に何かと心配をかけてしまったことの謝罪をしたリアムだったが、それぞれの表情で受け止めたのは、リアムが学生時代から今でも付き合っている親友達だった。
パートナーと口論した傷心のリアムと偶然町で再会したのは皆の纏め役になることが多いフレデリックで、日ごろは穏やかで感情を爆発させることのない男の突沸したような感情に直面し戸惑ったものの、親友の様子から何か問題が発生したと気付いてすぐさま残りの二人に連絡を取った結果、リアムの感情を吐き出させることに成功したのだ。
当時のことを思い出しているような顔でフレデリックがもう一度心配したぞと苦笑交じりに告げ、その言葉にスラリとした細面に同じく笑みを浮かべたネイサンがそうだなと頷き、そうだそうだと四人の中では小柄なラルフがフレデリックの真似をするように腕を組んで大きく頷く。
「もう大丈夫なんだな?」
少しの不安と不必要な心配はしないと決めたように表情を切り替えたネイサンがリアムに問いかけ、もちろんと大きく頷かれることで安堵したのか、運ばれてきたチップスを摘まんだネイサンの言葉にリアムがもう一度大きく頷く。
「あの別居以降、ケイさんも思うことがあったみたいで今までしなかったこともしてくれるようになった」
「そうなのか?」
「ああ」
家事全般は苦手だから出来ないがと笑うリアムの顔から無理や嘘を読み取れなかった事に三人が安堵し、それぞれチップスを摘まむともう一度乾杯とフレデリックがにやりと笑う。
「それで話をしてたんだけどな」
そう切り出したリアムの言葉に三人が何だと言葉の続きを待ち、意外な言葉を聞いて目を丸くする。
「ハネムーンに行くことにした」
「まだ行ってなかったのか?」
「そういえば披露宴で募金箱を置いていたな」
「どこに行くんだ?」
リアムの言葉に三人が盛大に驚き口々に疑問を投げかけると、三人のそれに一括でリアムが返事をする。
「披露宴では冗談半分で募金箱を置いたけど結構な金額を入れてくれてたなぁ。次のイースターから月末まで休みを取っったから10日間ほど行く事にした。行き先はまだ決めてないけど」
いくらこの後ナイトクラブに行くからと言っても何も食べないのは辛いから何か食わないかと、腹の虫の声を聴いたように提案をするリアムの言葉に三人が己の腹を見下ろし、ついでメニューを広げるリアムの手元をのぞき込む。
「バッファローウイングを食う人」
「はいはいはい!」
リアムの問いに三人が一斉に唱和し、学生時代から全く変わらないそれにリアムの広い肩が揺れ、顔なじみの店員に人数分のバッファローウイングとシーザーサラダを注文すると、皆のジョッキが空になっていることに目敏く気付いたラルフが同じく人数分のビールを注文する。
「……リアム」
「何だ?」
フレデリックが咳払いをした後に表情を改めてリアムの名を呼び、呼ばれたほうも友人の表情から何かを察して目を細めると、無理をしていないなと問われてヘイゼルの瞳を見張るが、友人知人達からリアムらしいといわれる笑みを浮かべて自信満々の顔で頷く。
「していない」
「そうか」
その返事というよりは表情からようやく安心したようにフレデリックの顔にも似たような笑みが浮かび、その話はもう終わりだと宣言すると三人が賛成と声を上げ、タイミングよくお替りのビールが運ばれてきたために再度乾杯の声を上げてジョッキをぶつける。
少し前にこの人の好い親友を襲った不幸は友人たちが案じていた最悪の結末へと進むことはなく、今の顔を見せてくれるような結果を齎した事に自然とビールを飲むピッチが速くなる。
「俺たちも結婚したらハネムーンにすぐに行くつもりって話をしてるけど、どこに行きたいとか希望はないのか?」
ビールジョッキ片手に頬を少し赤らめたラルフがリアムにジョッキの飲み口をマイクか何かのように向け、向けられた方は笑いながらまだ決めてないんだよなぁと暢気な声を上げる。
「リゾートも良いし最近人気があるアジアも良いんじゃないか?」
「アジア?」
ラルフの言葉にリアムではなく他の二人がおうむ返しに呟くが、アジアは無理かもと少しだけ申し訳なさそうな声でリアムが呟き、三人の視線を受けた後に肩を竦める。
「どうした?」
「ああ、うん……ケイさんが日本がダメだからな」
リアムの呟きに三人が何度目になるか分からないが顔を見合わせ、確か日本出身だと言っていなかったかと問いかけるとその言葉を肯定するようにリアムの頭が上下するが、日本に良い思い出がないから多分他の地域になるんじゃないかなと肩を竦め、その仕草から三人はそれ以上事情を追求することをせずにモルディブや天国に一番近い島はどうだと提案をし、ラルフがニューカレドニアには俺も行きたいと思っているからどんな様子だったか教えてくれと笑みを浮かべる。
「ニューカレドニアか……悪くないな」
アクティビティも楽しめそうだしのんびりとビーチリゾートを楽しめそうだとリアムが天井を見上げるが、テーブルに出していたスマホが振動したことに気付き、四人が同時にリアムのスマホへと視線を向ける。
「……ハロ、もう帰ってきたか?」
リアムの大きな手がスマホを手に取り耳に宛がうと一瞬で柔和なものへと表情が切り替わり、通話相手が誰であるかを三人が理解すると舌打ちをしたり幸せだなと揶揄うように呟くが、注文した料理が運ばれてきたためにリアムは幸せで満腹だろうからあいつの分まで食ってやれとフレデリックが笑ってフォークでチキンを突き、ラルフもネイサンも同じようにチキンに齧りつく。
『……皆と楽しんでるのに悪い』
そんな親友達の様子を横目に聞こえてくる声に元気がないことに気付いたリアムが少し眉を寄せると、楽しい時間の邪魔をして悪いと再度謝罪をされ、謝る必要は無いと告げて安堵の吐息を引き出す。
「ケイさん」
友人達の名を呼ぶときとは全く違う声で電話を掛けてきた夫の名を呼んだリアムは、さっき友人に告げたようにあの別離以来変わったことを信じて疑わない顔で続きの言葉を待つと、うんという小さな声が聞こえた後に願いがあると教えられる。
「うん、どうした?」
『……今日はアポフィスに行くのが辛い』
今朝出勤前に話をしたように店で待ち合わせをするつもりだったけれど今日はそれが難しいと教えられ、軽く目を見開いた後に心配よりも愛おしさを感じさせる表情で目を細める。
「そうか」
『ああ……悪い』
「いや、何も問題は無いよ」
だから何度も謝らなくて良いと告げるといつもならば聞こえてこない類いの言葉が耳に流れ込み、思わず尻を浮かせてしまいそうになる。
愉快な仲間達と盛り上がっているだろうが、予定している電車の一本早いそれに乗って帰ってきてくれないか。
常日頃の彼の言動を思えば信じられない程の小さな我儘にリアムが腿の上で手を握りしめ、顔を見て話をしたいと小さく告げて待っていると、程なくしてリアムの心臓を鷲掴みにするような表情を浮かべた端正な顔が映し出される。
「ダンケ、ケイさん……デュークは近くにいる?」
スマホの画面越しに己の夫であり最大の理解者である慶一朗に呼びかけると、程なくして不安そうな顔のジャーマンシェパードの顔が見える。
「デューク」
画面越しに同じように名を呼ぶと小さな鳴き声が聞こえたために俺が帰るまでケイさんの傍を離れるなと命じると、自宅にいるときと同じようにデュークがその命令に従って慶一朗にそっと寄り添う。
「ケイさん、デュークがいるから大丈夫だな?」
リアムの問いかけに籠もっているのが全幅の信頼だと気付いているのか、画面の向こうで慶一朗が目を伏せつつ小さく頷きデュークと待っていると残して通話が終わり、ふぅと息を吐いたリアムを三人がニヤニヤとした顔で見つめていることに気付いて思わず飛び上がりそうになる。
「な、なんだ、お前ら」
気持ち悪い顔をしているぞと眉を顰めると、誰が気持ち悪い顔だとチキンウイングのソースを口の端に付けたフレデリックがじろりと睨み、そうだそうだと二人が同じような顔で同意をする。
「ケイさんに何かあったのか?」
「……少し早く帰ってきて欲しいって」
心配だなと呟くリアムにチキンウイングが載った皿を突きつけたのはフレデリックで、その行動の意味を図りかねたリアムが目を瞬かせると、お前の家には優秀なボディガードがいる、だからチキンを食ってから帰るぐらい大丈夫だと笑われ、その言葉にリアムの全身から緊張が抜けていく。
「……Ta, フレッド」
「どういたしまして」
サンクスと短く礼を言ってチキンに齧りついた友人を三人が微笑ましそうに見守るものの、残念ながらシーザーサラダを食う時間はお前にはない、だから諦めてビールを飲んでチキンだけを食って帰れと告げられて三人をじろりと睨んだリアムだったが、自分達のことを気にせず家に帰って傍にいてやれと言われていることに気付いている為、大急ぎでチキンを食べ終えてビールも飲み干すと、少し多めの現金を取り出してフレデリックに手渡す。
「ハネムーンの行き先が決まったら教えてくれ」
「勿論。ラルフも色々候補を調べて良い所があれば教えてくれ」
気の良い友人達に手を挙げて店を出たリアムの背中を見送った三人は、全くあいつはと学生時代から変わっていないようで一番大きく変化をした親友の素直さに呆れるやら感心するやらの顔になるが、少し前のことを思えば今の方が遙かにマシだと笑い合い、ここで少し腹拵えをした後に行く予定だったナイトクラブに行くぞと笑い合うのだった。
今日は特別に難しいオペがあった訳でも午後の診察で気難しい患者に対応した訳でも無いのに、帰宅する頃には全身に疲労感が蓄積していて、そのまま最後の気力で帰路に就いたのは、蓄積していた疲労感を顔中に広げているような慶一朗だった。
いつもならばガレージのドアを開けて家に入るが、今日はリアムが気の置けない親友達と飲みに行くと出勤前に聞いていたため、辛うじて人が通る隙間を残しているシャッターをくぐり抜けて玄関ポーチへと向かい、隣家との仕切りを果たしている植え込みに設置されているポストを開けて中身を確認する。
滅多にしない行動をすると碌な事が無いと落ち着いた頃ならば考えられるが、疲労とリアムの不在から少しだけ気を張りポストのチェックをするべきだろうとの思いからの行動は、良いものと悪いものの双方を報せる結果を齎したようだった。
良い報せはハワイ在住の双子の兄、総一朗からの郵便物で分厚さのある封筒だったが、悪い報せは定期的に届くこれもまた双子の兄の父である男からの手紙だった。
珍しく玄関のドアを開けて総一朗からの郵便物を意味も無く裏返したりしながら中に入ったからか、慶一朗の帰宅に気付いたジャーマンシェパードのデュークが足下に駆け寄ってきたことにも気付けなかった。
定期便をニースだかどこかからか送ってきた双子の兄の父は己にとっても父親の筈だが、慶一朗は父のことを父と思ったことも呼んだ事もなかった。
10歳の夏を迎えるまで一人きりの世界にいた慶一朗に、生物学的な理由以外で父と呼べる存在など不在だった。
血の繋がりというものに重きを置かない為に一緒に入っていたピザ屋の新規開店のチラシよりも興味も関心も無い男からの定期便だったが、いつもならばリアムが処分をしているはずで己自身それをどうこうした記憶が無いために苛立ちから目の前のソファに投げ出すものの、いつものようにハグとキスがない事に不思議そうに首を傾げる愛犬のデュークが間違って食べてしまってはいけないと思い至り、デュークが絶対に手を出さない本棚の上にそっと載せる。
「くぅん?」
帰ってきたのにどうしてハグもキスもしてくれないんだとの不満を声と鼻先を足に押しつけることで表したデュークの声に我に返り、ああ、悪いと謝りつつ彼の前に膝を着くと、ただいまといつもより元気はないがそれでも小さく笑みを浮かべてデュークを抱きしめる。
「……お前がいてくれて良かった」
無意識に零れ落ちた言葉と溜息にデュークが慰めようとしているのか、慶一朗の顔を舐めて顔を擦り寄せてくる。
その暖かさに抱きしめる手に力を込めた後、今一番必要としているものを求めた本能がスマホを取りだし、リダイヤルの一番回数が多い番号へと電話を掛けてしまう。
今頃、気の置けない友人達と楽しく酒を飲み他愛も無い話で盛り上がっているのを邪魔するのでは無いか。
その危惧がコール音と共に脳裏に響くが本能が求めるものを押し留める力が今は無く、ハロと耳にすっかり馴染んでいる穏やかな声が聞こえた瞬間、全身から力が抜けそうになる。
『どうした』
その優しい声に甘えても良いのだろうかという躊躇いと、それを遙かに凌駕する本能が出来れば今すぐ帰ってきて欲しいと言いたくなるが、どうしても解き放てない心が伝えたのはそんな相反する気持ちの間のような言葉だった。
それを聞いてリビングのソファへと移動し、ビデオ通話を求められて情けない顔を見せるのは気が引けると思いつつも顔を見せた後、隣にいるデュークへの命令の言葉に安堵し、帰ってくるのを待っていると伝えて通話を終える。
その直後から芽生える後悔に座っていられずにソファに横になると、画面越しの命令にも忠実に従うようにデュークが顔の傍に座り、座面に顎を載せて時折慶一朗の顔を舐める。
その舌触りにそろそろと手を伸ばしてデュークの首に腕を回すと、身を委ねるように身体を寄せてくれる。
リアムと結婚してから生まれて初めて動物と接したのがデュークで良かったと思い、その首筋に顔を埋めるように両手で抱き寄せると、信頼している事を全身で教えるように擦り寄られ、本当にお前がいてくれて良かったと、今度は無意識では無い己の意志で感謝の気持ちを伝えるが、横になったことと緊張から解放されたことから小さく欠伸をし、うとうととしてしまう。
心地良いのかどうかも分からない小一時間程度のうたた寝から慶一朗が目を覚ましたのは、耳元で滅多に聞くことの無い低い唸り声を聞いたからだった。
何事だと眼鏡の下の目を瞬かせるとその唸り声がすぐ傍のデュークから発せられているものだと気付き、視線の先にある玄関のドアを見つめ再度デュークを見つめると、見たことがない恐怖を感じてしまいそうな顔で低く唸っていることに背筋を震わせてしまう。
デュークが本気で威嚇の声を発しているのだと気付いて不審者か何かがいるのかとソファ越しに玄関のドアを見つめていると乱暴な物音を立てながらドアノブが回り、過去の出来事が閉じ込めている箱の蓋を開けて頭を擡げようとする。
その恐怖に身体が強張り身動きすることも出来なくなった慶一朗の傍、デュークが警察犬が犯人に飛びかかる寸前の体勢になるが、ドアが開いた瞬間に鋭い声がリビングにまで届く。
「デューク、待て!」
その声はどれ程興奮していても緊張していてもデュークには届くもののようで、一瞬で飛びかかりそうな体勢から待ての姿勢になると大きな影がソファ前に駆け寄り、恐怖の余り硬直している慶一朗を抱きしめてそっと名を呼ぶ。
「ただいま、ケイさん」
硬直している体を解すような温もりと声に慶一朗の手が微かな震えを共に、予想以上に早い時間に帰宅したリアムの広い背中に回り、握りしめた瞬間に安堵の吐息が耳元を滑り落ちる。
「……リアム」
「うん。ただいま。デュークがちゃんとボディガード役を果たしてくれて良かった」
慶一朗を抱きしめたリアムが待ての姿勢のままこちらを見ているデュークを褒めるように目を細めると、来い、デュークと待ての命令を解除させる言葉を告げ、嬉しそうにやって来るデュークを片手で抱きしめる。
「Good boy, デューク。お前は本当に良い子だ」
そして、ケイさんがいつも言っているようにクレバーだと褒めながらデュークの頭にキスをすると、嬉しそうに鼻を鳴らし尻尾を振る。
その様子を間近で見ていた慶一朗の口から安堵の息が零れたことに気付いたリアムがもう大丈夫かと問いかけながら目を細めると、その思いに応えるように端正な顔が上下する。
「……随分と早く帰ってきてくれたんだな」
「うん。ケイさんは一本早い電車で帰ってきてくれって言ってたけど、デュークがボディガードの役目を果たせなくなる二本前の電車で帰ってきた」
電話で告げられた小さな我儘に最大限の力で応えたと笑う愛嬌のある顔に手を添えた慶一朗は、お前は本当に俺に甘いと目を細めるが、今はそれに甘えたいと小さく呟くとしっかりと抱きしめられる。
「アポフィスに行くつもりだったのにな」
「大丈夫。アポフィスもルカもラシードも逃げない」
慶一朗の残念そうな声にリアムが明るく返し、今日は疲れているのだろうからゆっくり休もうと伝えると、今日はもうベッドに行くと小さな声に教えられて髪にキスをする。
「準備をするからもう少しだけ待っていてくれ」
もう一度慶一朗の髪にキスを残してキッチンに向かい、必要になるかも知れない水や緊急の食料となるチョコをいくつか手に戻ってくると慶一朗の手に握らせ、寝る前の儀式のようにデュークをハグしてお休みを告げて良しと満足げに頷く。
「ケイさん」
ソファに気怠げに座っている己に向けて両手を広げるリアムを見上げた慶一朗だったが、その腕に飛び込みたいが気力が沸き起こらずに動けないでいると、それを見抜いたリアムによって信じられない程軽々と抱き上げられてしまう。
付き合いだした頃からベッドルームに行く時はリアムが抱き上げることが習慣になっているが、それを知った友人達から呆れられたり揶揄われたりしている中、習慣になっているから今更止められないと慶一朗自身は嘯くことで羞恥を忘れるようにしていた。
だが、どれ程羞恥を覚えようが、こうして横抱きにされたり子どものように抱き上げられたり、時にはコアラか何かのようにしがみついたりすることで己の心に言い表しようのない平穏が齎されることも十二分に理解しているため、今もそれを覚えつつ短くダーと告げて髭に覆われている頬にキスをする。
「リアム」
「ん?」
「……デューク」
どうしたと顔を覗き込んでくるリアムに思っている言葉を伝える気力も沸き起こらず、ただ短くデュークの名を伝えると、仕方がない、今日だけだぞと言いたげに溜息を吐かれるが、それが床に落ちる前にリアムがデュークの名を呼び、己のベッドに向かおうとしている足を止めさせる。
「今日は一緒に寝るぞ」
「ワフッ!」
いつもはベッドルームに入ることを禁止しているが今日はケイさんの願いだからとリアムが笑い、慶一朗が嬉しそうに口の端を持ち上げ、デュークがブンブンと音を立てて尻尾を振りながら階段を上って行き、二人と一匹でベッドルームに向かうのだった。
ベッドヘッドにクッションを立てかけてそこに背中を預け、タブレットを見るリアムの身体に半ば乗り上げるように目を閉じていると、先ほどまで頭から爪先までを覆っていた疲労感が霧散していく気持ちになる。
この限りなく優しく強い腕の持ち主の存在が本当に奇跡のように思え、もしかするとこれは己の脳が見せている幻覚ではないのかというあり得ない疑問が思い浮かび、それを確かめようとタブレットを持つ手の甲の皮を摘まんで引っ張ってみる。
「痛い痛い。突然どうした、ケイさん」
呆れたような微苦笑交じりの声が聞こえ、ああ、幻覚ではないと思う反面、まだまだ疑う気持ちが晴れずにタブレットを奪い取ると、やれやれと言いたげに溜息を吐く愛嬌のある顔が見える。
呆れたようなそれに口を開くが、取り上げたタブレットを見ていると帰宅直後に確かめた郵便物の存在を思い出してそれを伝え、髪にキスを残したリアムがベッドを抜け出して部屋を出ていくと少ししてから分厚い封筒だけを手に戻ってくる。
ピザ屋のDMを見たが結構お手ごろな価格だったから今度注文してみないかと笑いながら戻ってきたリアムにそのDMと同等の価値しかないもう一通の封書はどうしたと問いかけようとしたが口を開くだけで結局聞かなかった慶一朗は、ペパロニがいいと小さく笑い、横に入ってきて同じようにクッションに凭れ掛かるリアムの上に今度は仰向けに乗り上げると、あごの下に太い腕が回される。
無自覚のうちに零れ落ちる安堵の息に足元に丸まっていたデュークがのそりと起き上がり、慶一朗の横で同じように腹を出してリアムの足に乗り上げると、さすがに二人に乗られると足が痺れると笑うが、だからと言って押し退けるような気配もないため、総一朗からの郵便物は何だと慶一朗がそれを指さす。
「開けていいのか?」
「ああ。開けてくれ」
慶一朗の許可を得て封筒の端をペーパーナイフで開けたリアムは、本が入っていると呟きつつポストカードと同じ大きさだが厚みが全く違う一冊の本を取り出し、興味津々の顔の慶一朗に手渡す。
「写真集?」
「みたいだな」
その本が写真集であることを教えるような表紙と裏表紙を見た後、南半球の夜空の写真集みたいだから双子の兄が送ってきたのだろうと笑うと、リアムが慶一朗の額にキスをする。
「星空の写真集みたいだ」
表紙には南半球の星座では人によって真っ先に思い浮かぶ南十字座がきらりと輝き、その背後に白っぽく見える帯のようなものが写っていて、これはなんだと慶一朗がリアムに表紙を見せながら問いかける。
「ミルキーウェイじゃないか?」
「ミルキーウェイ?」
「うん。天の川」
天の川と南十字座かと星空に関しては詳しくないリアムが感心したような声を上げ、その様子を細めた目で見つめた慶一朗は、本をパラパラと捲りながら星空とその星々を撮影した地の写真ばかりだと気付くが、最後のページの夜空に煌めく現象に目を奪われてしまう。
表紙にもなっている天の川が両開きのページに横たわり、その天の川の下に赤紫からオレンジへのグラデーションのような夜空とは思えない色彩に溢れた空が写し出されていたのだ。
双子の兄と違ってドクターの道へと進んだ慶一朗は仕事に必要な知識は吸収しているがそれ以外はからっきしで、この現象がどのような言葉で表されるものなのかも分からなかった。
だから己より遙かに一般常識を持ち合わせているリアムにそのページを見せながらこれはなんだと問いかけると、一瞬戸惑ったような気配が伝わってきたために名を呼びながら夫の顔を見上げる。
「……天の川と……なんだろうな、これ」
ページのキャプションには天の川とオーロラという文字が記されているだけで、撮影場所の情報は写真の中に存在するだけだった。
「オーロラ?」
「うん、そうらしい」
慶一朗の手から本を受け取ったリアムが巻末に羅列されている撮影者の名前や撮影場所を読み上げ、へえ、ニュージーランドで撮影されたんだなと呟き、慶一朗が驚いたように目を見張る。
「ニュージーランド南島で撮影したみたいだな」
「……見に行きたい」
「オーロラを?」
「ああ」
オーロラという現象についていつかどこかで聞いたことがあるが、その時は興味も何もなかったために記憶に残っていない、だから興味を持った今、この写真のようなものを見て見たいとリアムを見上げながら慶一朗がダメかと上目遣いになると優しいキスが額にひとつ。
「ケイさん、ハネムーンはニュージーランドにしないか」
リアムのその提案を少しだけ考え込んだ慶一朗だったが、指を一つ鳴らして賛成を伝えると嬉しそうなキスが今度は鼻の頭にひとつ。
それにくすぐったいと笑みを浮かべ、キャンピングカーをレンタルしても面白そうだしホテルを拠点にレンタカーで観光地巡りをしても面白そうだと続けると、顔中にキスの雨が降ってくる。
くすぐったいと笑いながらリアムの太い腕を抱え込むように抱きしめると、慶一朗の頭の下に腕が差し入れられて寝る体勢へと自然と誘われ、隣で同じように仰向けになってリラックスしていたデュークがのそりと立ち上がる。
眼鏡を外して枕の柔らかさとその下の逞しい腕の固さに安堵の息を無意識に吐き、もう一方の腕が腰に回されたことに気付いて条件反射のように欠伸をする。
「明日、一緒に調べよう」
この国に負けず劣らずの大自然がある隣国ではどんなアクティビティが楽しめるのか、どんな料理を食べられるのか、そしてどのような星空が広がっているのかを調べてみようと慶一朗の額にキスをしたリアムが笑みを浮かべ、楽しみだと返した慶一朗がもう一度欠伸をすると、二人の間にデュークが頭から潜り込んでくる。
「……甘えん坊め」
一緒に寝ると言ったが間に割り込んで良いとは言ってないぞとリアムが不満そうに零すが、上目遣いにデュークが見つめてきたため、仕方がないと頭を撫でて耳の付け根を撫でると大きく欠伸をする。
「おやすみ、ケイさん、デューク」
二人とも良い夢をとリアムが安眠への道しるべになるような言葉を告げ、慶一朗が無言で頷きデュークは耳を一度右左へと振る。
リモコンで照明を落とし眠りに落ちやすい環境を整えたリアムは、隣から聞こえてくる穏やかな寝息と二人の間から響く少し間の抜けたスピーという寝息に肩を揺らすが、自らも少し遅れて眠りに就くのだった。
穏やかな空気に満ちた家の上空、見上げてくれるのを待っていると教えるように特徴的な四つの星がきらりと光り、柔らかな風が雲を流していくのだった。
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