ケネスという時季外れのサイクロンが去ってからの日々は、その日々が平穏とはかけ離れていた事を教えてくれるような日常で、こんなにも穏やかな時間が過ぎても良いのか、この後何かとんでもない事が起きるのでは無いかと疑ってしまいたくなるほどだった。
だが、事件の渦中にいた人々を安心させるようにささやかな喧噪はあれども騒動にまで発展することの無い問題は、関係者が尽力するだけで解決をし、その穏やかさに安堵できるようになっていた。
そんな日の午後、朝一番からのオペをスタッフ達と乗り切った慶一朗が、さすがに少しの疲労感を覚えた顔で廊下を歩いていたが、前方からやって来る体格の良い男とそれよりは小柄な男の姿を発見し、相手が己に気付いたと認識した瞬間、くるりと踵を返す。
「久し振りなのに何処に行くつもりだ?」
「逃げるんじゃない」
背中にぶつかる陽気と呆れの二種類の声に天を仰いで嘆息した後、大袈裟な仕草で半回転をした慶一朗は、目の前に立っている二人の男ににやりと笑いかける。
「久し振りと今朝ぶりですね、GG、テイラー部長」
体格の良い男をGGと呼んだ慶一朗だったが、すれ違うスタッフの中にさっきまで同じオペをしていて己より疲労感が強いファルケを発見し、失礼と呟いて彼を手招きする。
「はい?」
どうしましたかと疲れているがそれを何とか押し隠そうとする顔でやって来たファルケだったが、慶一朗の前にいるのが部長ともう一人直接の面識はないが仕事上で幾度も名前も顔も見聞きしたことのある男だと気付いて限界まで目を見張る。
「GG、彼を紹介させてくれ……俺のアシスタントドクターとして毎日頑張っているホアキン・ファルケだ。5年後が楽しみなドクターだ」
驚くファルケに顔を向け、もう分かってると思うけれどと前置きをした後、彼はGG、ドクター・ゴードンだと伝えると、ファルケが恐る恐るゴードンに手を差し出す。
「おう、ジャックからも聞いていた……よろしくな、ドクター・ファルケ」
「は、はい……!」
己が身を置く世界でおよそ直接の面識を得る機会などあるかどうかも分からない存在が笑顔で己の手を握りよろしくとまで言ってくれている事に茫然自失のファルケだったが、お前は俺に会ったときはここまで感激していなかったなとぼそりと呟く声に我に返り隣の端正な顔へと目を向けると斜め上を見ながら口笛を吹いていて、さっきとは違う意味で呆気に取られてしまう。
「おかしいな、精一杯の敬意を見せたつもりだったけれどな」
「この野郎」
目の前で突如繰り広げられるそれを呆然と見つめるファルケと呆れたように頭を振るテイラーだったが、冗談はともかく、ジャックの下で働くというのは本当に恵まれている事だ、その一番弟子であるドクター・ユズリハ=フーバーは口や性格はともかくドクターとしては最高に近い男だからしっかりと着いて学べと頷くゴードンの言葉にファルケが顔を輝かせてはいと頷き、廊下の先から呼ばれていることに気付いて三人に失礼しますと一礼をして歩いて行くが、その背中からは尊敬する存在を見つけた歓喜が滲んでいるようだった。
「俺が最高になるにはどうすればいいんだ?」
ファルケへの励ましの言葉の先をゴードンを横目に慶一朗が問いかけ、まずはジャックを越えろと豪快に笑われてしまえばさすがにそれに返す言葉は見つからず、だが素直に認めるのは悔しかったために無言で肩を竦める。
「それよりも今日はどうしたんだ?」
「ああ、近隣の病院に勤務するドクター達の噂話を持って来ただけだ」
ゴードンの言葉にテイラーを見れば同じような顔で頷いた為、善し悪しはともかくとして良い噂だけを残してくれと立ち去ろうとするが、ここ数日考えていたというよりは突然降って湧いてきたという方が相応しい言葉が脳裏に浮かび、咄嗟にゴードンを呼び止める。
「GG、少し時間は良いか?」
「おお、俺は大丈夫だ」
「ケイと話が終わったら部屋に来てくれ、GG」
慶一朗の様子から何かを察したのかテイラーが手を挙げて己のオフィスに一足先に戻り、二人でその背中を見送ると、ゴードンが廊下の壁に背中を預けて腕を組む。
「そういえば、少し前にリアムと大げんかをしたと聞いたぞ」
「……お喋りジャックめ」
上司であり友人でもあるテイラーの噂好きめと舌打ちをした慶一朗だったが、笑いながらゴードンがその言葉を訂正し、それに慶一朗の目が丸くなる。
「残念だな、情報源はホーキンス先生だ」
「ディアナ!?」
「ああ……ここに来る前にあちらに寄ってきた」
その時に見かけたリアムが一回りも大きく見えたこと、子どもと話している顔がその子よりも子どもみたいだったから何かあったのかと先生に聞いたと教えられ、己が最高の一歩手前と褒められた時とは比べられない歓喜がじわりと胸に生まれ、自然と慶一朗の口角を持ち上げる。
その無意識の表情の変化を好ましそうに見つめていたゴードンだったが、その顔が消えることが惜しいと思いつつも話とは何だと掌を向けると、我に返った慶一朗が視線を二度三度と左右に泳がせた後、弟の店に行きたいと羞恥を覚えているような声で呟かれて目を瞬かせる。
「ダレンの店か?」
「ああ……今はまだ言えないけど、あいつに内緒で買いたいものがある」
その相談をしたいと微苦笑気味に告げる慶一朗を揶揄うような顔でゴードンが見つめるが、揶揄うような内容では無いと察したのかスマホを取りだして電話をかけ始める。
「今大丈夫か?」
『少しなら』
そんなやり取りがあった後に少し待ってくれと告げてスマホを慶一朗に向けたゴードンは、直接話をしろと告げてにやりと笑う。
「……久し振りだけど覚えていてくれていれば嬉しい」
そんな回りくどい言い方をする慶一朗の横でゴードンが小さく吹き出し、その脇腹に肘鉄を決めた慶一朗だったが、ああ、勿論覚えているぞ、ケイだろうと返されて安堵に目元を和ませる。
「突然で悪いけど、相談に乗って欲しい」
『ああ、何だ?』
「欲しいものがある。店に行きたいと思うけどいつだったら都合が良い?」
慶一朗と弟のやり取りを一方の言葉だけを聞きながら予想していたゴードンだったが、弟が明後日から少しシドニーを離れることを慶一朗の言葉から察し、満足そうに息を吐きながらスマホを返されて受け取ると通話は終わっているようで、何を買うんだと問いかけると、先日の大げんかから仲直りはしたけどと肩を竦める慶一朗の言葉の先を待ってしまう。
「今までもそうだったけど、いつもあいつから手を伸ばしてくれる」
内容の軽重や大小はあれども、どれだけ俺があいつを傷付けたとしても、最後には手を伸ばして許してくれると続けられ、二人同時に同じ男の顔を脳裏に思い浮かべて同じような顔になってしまう。
「だから今回は俺から何か形のあるもので謝罪をしたくなった」
「……頑張れ」
慶一朗の告白にいつものゴードンならば揶揄うような言葉を投げかけるが、目の前の年下の友人の真摯な横顔など滅多にお目に掛かることは無いために素直に応援の言葉を伝えてしまうと、ゴードンもだが慶一朗もそれに驚いたように顔を見つめてきたため、何だと返し何だと返される。
人間、滅多にしないことはしない方が良いと異口同音に呟き同時に吹き出すが、それでもあいつに対しては滅多にしないことをこれから先は当たり前にやっていきたい、その一歩にしたいと目を細め呟く横顔を見たゴードンがそれ以上は何も言わずに大きく頷き、お前の成果が目に見える日を楽しみにしているとサムズアップを決めると、そんなゴードンに素っ気なく慶一朗が手を振り、じゃあまたと笑みを浮かべてファルケが立ち去った方へと歩いて行く。
慶一朗と少し先に立ち去ったファルケの背中が同じ色を滲ませている気がし、若いというのは良いなと嘯いた後、テイラーを待たせていることを思い出したゴードンが友人の職場である事実を忘れているような顔で彼のオフィスに軽い足取りで向かうのだった。
久し振りに訪れたゴードンの弟が経営する店は豪華よりも瀟洒な店構えで、店の前のコインパーキングに停めた車から降りた慶一朗は、セキュリティスタッフの視線を受けつつ軽く目礼をし、ドアを開けて中に入る。
出迎えてくれるスタッフは初めて来たときと同じ女性で、慶一朗が来る事を聞いていたのか、すぐさま他のスタッフに会釈をした後、ショーケースが並ぶ廊下の奥から出てきたダークスーツの男にこちらですと案内される。
アクセサリーに余り興味が無い慶一朗でも思わず見惚れてしまいそうな品々を左右に廊下を進み、変哲の無いドアの前に通されたときに以前ここに入ったときにはリアムが隣にいたからか緊張しなかったと気付くと、あいつは本当に空気清浄機だとの思いが胸に沸き起こる。
澱んでいたり沈み込んだ空気を吸い込み、清涼なものに変換して吐き出すだけではなく、心までも軽やかにしてくれる高性能な空気清浄機だと考えた瞬間、自然と笑みが浮かんできて思わず部屋へと案内してくれる男に不思議な目で見つめられてしまい、咳払いをしてありがとうと礼を言う。
失礼しますと声を掛けて部屋に通された慶一朗は、ゆったりと座ることの出来るソファで己を待ってくれている男に気付き、無理を言って悪いと告げると兄とは全く違う穏やかな笑みを浮かべながらソファを勧められる。
「いや、構わない。連絡をくれて嬉しい」
中々忙しくて会えなかったからこうして会いに来てくれて嬉しいと、兄が弟が生まれる前に厳しさを母親の腹の中から全て吸い尽くしていったのかと思える程の穏やかな人当たりの良い笑みを浮かべたダレンが久し振りと手を出し、慶一朗も久し振りと笑顔でその手を握る。
「ああ、そうそう。この間ルカが新しい時計を見に来てね、一目で気に入って買ってくれたよ」
「そうなのか? まだ見てないから今度店に行ったら見せて貰おうかな」
「見てやってくれ」
少し前の騒動以来アポフィスを訪れる時間が取れず、新しい時計を見ていないことを慶一朗が素直に告白すると、ダレンも何某かの事情を知っているのかそれについては何も言わずに頷くだけだったが、ダレンが立ち上がると部屋の隅にあるドリンクコーナーらしい場所に向かい、何か飲むかと振り返る。
「炭酸水があればそれで」
「分かった」
二人分の飲み物を持って戻ってくるダレンだったが、相談とは何だと問いかけながら慶一朗の前に気泡が弾けるグラスをそっと置き、慶一朗と向き合うように腰を下ろす。
「……少し前に、この指輪を紛失してしまったことがあった」
そう話す慶一朗の顔には苦い笑みが浮かんでいて、右手薬指できらりと光るリングを左手で覆いながらぽつりと呟く声を聞いていたダレンだったが、新しいリングが欲しいのかと問いかけると、慶一朗の顔が小さく左右に振られる。
「マリッジリングを無くすなんて、あいつと一緒にいる資格がないと思い込んで家出をした」
「……そうか」
「ああ……でも、無くしたリングをルカが預かってくれていて無事に戻ってきた」
この指に戻ってきてくれたときは本当に嬉しかったが、それだけではダメだと思ったと続ける慶一朗に無理に先を促すことはせずにじっと見守っていたダレンは、慶一朗が来る少し前に兄から話を聞いていたことを思い浮かべ、もしかすると相談内容がそれと関係しているかもと予想をしていたが、今、どちらかと言えば言葉足らずの雰囲気を漂わせながらも必死に思いを口にしている様子を見てしまうとつい手を差し伸べたくなる。
「……もう一度プロポーズをしたいのか?」
慶一朗の言葉を要約すればそれかと、話を聞くことに対して苛立っている訳でもないがこれ以上無理に話させるのは忍びないという思いから助け船を出したダレンに慶一朗が目を見張った後に目尻を赤らめて顔を伏せてしまうが、次いで顔を上げた時にはしっかりとした意志を目に宿していて、小さいながらも同意の頷きを得た後にはダレンの顔に自然と笑みが浮かんでしまう。
それは、きっと不器用な子どもが自分なりに勇気を振り絞った姿を見守る大人が抱く感情と同じだったが、幸か不幸かどちらもそれには気付いていないようで、慶一朗が二度目のプロポーズというか、そんな大袈裟なものではないとの言い訳にも聞こえる言葉を口の中で転がすものの言い訳だなと苦笑交じりに呟くと、そうなんだと小さく笑みを浮かべる。
そんな顔になる時、お前の心の中に誰がいるんだと思わず問いかけたくなるようなその笑顔だったが、誰がいるのかなど慶一朗を知る者からすれば考えるまでもないことで、二人が初めてここに来てマリッジリングを探している時の様子を自然とダレンが思い浮かべ、あの時リアムも同じような顔をしていた事を思い出すと、自分の周囲でここまで互いを思い合っているカップルがいるだろうかとつい考えてしまう。
相思相愛等という言葉に振り回される程子どもでも無ければ純粋でも無いダレンだったが、この二人が互いをそこまで思い合うにはきっと大なり小なりの問題を乗り越えて来たのだろうと簡単に想像出来、どんな高い山や深い谷底に転落してもそれでも傍にいると思える相手と一緒にいる事に羨ましさも感じてしまう。
こんな事を思うなど随分と久し振りだと己の感情の動きを見つめて内心苦笑したダレンだったが、二度目のプロポーズに相応しいものは何だろうかと問われて思わず咳払いをする。
「ダレン?」
「……失礼」
兄であれば相手を気遣うような言葉を掛けないが弟はその辺の常識を持ち合わせているようで、掌を立てて失礼と詫びた後にソファの奥にあるデスクに向かい、受話器を取り上げて一言二言何かを告げた後に先程までとは雰囲気を変えて同じ場所に腰を下ろす。
「同じデザインのマリッジリングを選んでいないからもう一本買ってもいい気がするけれど、それじゃあ面白みがない」
マリッジリングは互いの指の太さを考えてリアムのものは幅のある艶消し、慶一朗のものは細身で艶ありのものにしたと慶一朗の手元を見ながらダレンの呟きに同意をするが、ノックの後に入ってきたスタッフがアクセサリーを載せていることが分かるベルベットのトレイをダレンに見せて一礼をして出て行くのをぼんやりと見守ってしまう。
「ペアのペンダントトップはどうだ?」
「ペンダントトップ?」
「ああ。ペアリングを増やすつもりがないのならお揃いのペンダントトップをすればどうだ?」
デザインは勿論色々あるが、今店にある現物はこれだとトレイをそっと置くダレンの説明を聞きながらペンダントトップを見下ろした慶一朗は、少し細い台形で特徴的な石がきらりと光るそれを手に取り、何となく形が気に入ったと顔の高さにそれを持ち上げる。
慶一朗の視線の先できらりと光る宝石は透明で、ダイヤか何かかと問いかけつつダレンの顔を見ると、好きな石に交換できるしカットする方法も選べることを教えられ、自然と思い浮かべたのは光が当たれば緑にも黄色にも見える不思議な色合いの瞳だった。
宝石の事など何も知らないと言い切れる慶一朗だったが、ここで知ったかぶりをする方が恥ずかしいと腹を括り、この瞳に似た色の宝石があるかと問いかけながらスマホを取りだしてリアムの目の色がはっきりと分かる写真を見せる。
「そうだな……この大きさにするのならペリドットも綺麗だと思うぞ」
慶一朗が手にしているペンダントトップを胸元に当ててみろと指示をし、その通りに己の胸元に当てた慶一朗は、見下ろした視界できらりと光るであろうリアムの瞳と良く似た色の宝石を想像し、綺麗だなと素直な感想を零す。
「よし、一つはそれで良いな。あとひとつはどうする?」
「石の種類は分からないけど、赤い色が良い」
好きな色と聞かれれば今は緑系だと返すが己の持ち物を思い返すと赤が多いことに気付き、もう一つのカラーと似合うものが良いとペンダントトップをトレイに置きながらダレンの顔を見ると、もう何か思いついたような顔で腕を組んでいた為、そっと名を呼ぶと我に返ったように顔を上げてお前達に良く似合うものを考えてやると自信ありげな笑みを見せつけてくる。
「楽しみにしてる」
「ああ、期待していろ」
ただ少し時間が掛かるかも知れないが構わないかと、デスクのカレンダーに目を向けたダレンの言葉に少し考え込んだ慶一朗は、本当は誕生日当日に渡したいと思っているが、良いものが出来るのならば当日で無くても構わないと頷き、誕生日を伝えるとさすがにその日には間に合わないと申し訳なさそうに肩を竦められ、当然だと納得の顔で頷くとダレンが手を出してきたために訝りつつ握手をすると、兄弟そっくりな強さで握り返される。
「明後日から少しシドニーを離れるけど安心してくれ」
ああ、その二つがお前達の胸元で光っているのを早く見たいとそわそわしている様子のダレンに微苦笑し、俺も期待していると返して握手する手に力を込める。
「相談して良かった」
突然思いついた事をどのように形にすれば良いのかが分からなかった、だからあんたに相談できて良かったと本心を吐露するように笑みを浮かべるとダレンも似たような笑みを浮かべ、俺も話を聞けて良かったと頷きつつグレッグから話を少し聞いたけれど、あいつと前より仲良くなるために秘密にしておきたいんだろうと続けると、慶一朗の喉が奇妙な音を立ててしまう。
「……GGもお喋りなのか」
「安心しろ、グレッグがお喋りなのは仲の良い相手だけだ」
それを安心出来るというのかとブツブツ口の中で文句を転がしながらも満足そうに息を吐き、出来上がったら俺に連絡を欲しいとソファから立ち上がるとダレンも頷きながら立ち上がり、慶一朗の肩をポンポンと安心させるように叩く。
「ああ、そうだ、ルカが買った時計だけど、支払いはラシードだったぞ」
「……あいつ、ルカに何かしたのか?」
いつだったか、ここ最近よく働いているからご褒美だとラシードに時計を買って貰ったと見せつけられたことがあったが、今回は何をしたんだと慶一朗が隣を歩くダレンを見ると、詳しくは聞いていないが親友に随分と迷惑を掛けたからそのお詫びだそうだと笑うが、その迷惑を掛けられた親友が誰であるのかを誰よりも知っている慶一朗が少し不満げに口を尖らせ、その様子を興味深そうにダレンがチラリと窺う。
迷惑を掛けられたのはリアムなのにどうしてルカがお詫びの時計を買って貰うんだ、そのお詫びの対象はリアムであるはずだと納得がいかない様子でブツブツと呟く慶一朗を意外そうに見ていたダレンだったが、そうかそうか、お前の二度目のプロポーズとルカが時計を買って貰った理由は同じかと肩を揺らしてしまい、慶一朗が面白くなさそうな顔で舌打ちをする。
「まだリアムについて俺は第一印象しかないが、それが間違いでないのなら、あの人の良さそうな男を悲しませるのは程々にしておけよ」
年長者のアドバイスは素直に聞き入れておいた方が良いぞと笑うダレンをじろりと睨んだ慶一朗だったがは、これが迷惑を掛けるなという言葉ならすぐさま反論したのに、悲しませるなと言われてしまえば反論することも出来なかった為、悔し紛れにこれがGGだったら問答無用でヘッドロックを掛けているのにと嘯き、一瞬驚いたように見つめられて猛獣の尻尾を踏んでしまったのかと危惧するが、さすがは兄弟だと感心したくなるほど豪快な笑い声が廊下に響く。
「グレッグにヘッドロックか! 良いな、それ!」
もしも本当にそれを実行したら是非とも写真を撮って送ってくれと笑いながら慶一朗の背中を叩くダレンだったが、程良い喧噪に包まれていた店内に豪快な笑い声が響き、接客中のスタッフや客が驚きに目を丸くしながら廊下の奥から出てくる二人を見るが、そんな視線をものともせずにダレンが店の入口まで慶一朗の隣を歩き、気付いたスタッフが慌ててドアを開けると慶一朗に向き直って咳払いを一つする。
「出来たらすぐに連絡をするから待っていてくれ」
「ああ、頼む」
店のドアを開けてくれているスタッフに会釈しダレンの手をもう一度握って握手をした慶一朗だったが、その手が離れた後に背中を抱きしめられて軽く驚くものの、不快感を覚えることも無かったためにそっと背中を撫でてポンと叩くと、嬉しそうな吐息が一つ落ちてくる。
「じゃあ連絡を待ってる」
その言葉と信頼と急激に深まった親近感を笑みに混ぜた慶一朗が店を後にするが、それを店の前で見えなくなるまで見送ったダレンは、セキュリティスタッフが珍しいと呟く言葉に片目を閉じ、バカな子ほどかわいいと言うだろうと笑って屈強なスタッフの方をポンと叩いて店に戻っていくのだった。
今年のリアムの誕生日を例年とは少し違う気持ちで迎えた二人だったが、慶一朗が誕生日プレゼントのその1だと言って手渡されたメニューカードに書かれていた内容が第一弾だとすれば第二弾は何だと問いかけ、それはまだ秘密で、その前に1.5弾であるバースデーパーティーをアポフィスでするぞと教えられたその週末、アポフィスはいつもより少し早い時間に店を閉め、入ったばかりのスタッフも仕事終わりに何処かで飲みに行こうと笑いながら帰って行った。
だが、古参スタッフやラシードの店のスタッフで二人とも顔なじみだった面々が突如パーティーハットを被り、バースデーソングを歌いながらケイタリングの料理を載せたワゴンを、人がいなくなって閑散としているフロアに押してきたのだ。
それを見たリアムが目を瞬かせて事情を全て知っているであろう慶一朗を見つめると、お前の誕生日を皆で祝おうと笑顔で両手を広げ、その腕の間に飛び込んだリアムが嬉しそうに頷くと、店の外で閉店の札を掲げて入ってきたアンディが揃い、皆盛大にリアムの誕生日を祝ったのだ。
それがプレゼントの第二弾だと思っていたリアムだったが、慶一朗曰く1.5弾との事で、0.5の意味が分からないと微苦笑したリアムは、それでも皆に祝ってもらえた事が嬉しいと始終笑顔を浮かべていた。
そんな誕生日から数日後、仕事が終わったらいつもの場所に来てくれと言うメッセージをリアムが受け取り、平日のまだ午後に差し掛かった時間だった事から慶一朗の精神を疲労させる何かが起きたのかと危惧してしまう。
己の誕生日は随分と楽しそうにしていたし、事実帰宅後も一緒に踊るぞと言って寝ていたデュークを叩き起こしながらリビングで踊ったほどだった。
その日のことを思えば職場で何かがあったのかと思案し、返事がないことを理解しつつ大丈夫かとメッセージを返すと、感謝の言葉とお前を悲しませるような事じゃないから安心しろとの返事があり、返ってきたことよりも内容に軽く驚いてしまう。
二人が短期間とはいえ別居を選択した事件以来、慶一朗が今何を感じ何を思っているのかを、言葉少なだったりしながらも伝えようとしていることにリアムは気付いていたが、その一端を今も感じ取り、自然と顔を綻ばせてしまう。
悲しませるような事じゃ無いと書いている事からも心を疲労させるような出来事があった訳ではないと何となく察したリアムが、笑顔のまま分かったと返し、午後の仕事に向けて気合いを入れ直すのだった。
慶一朗の指定通りにいつもの場所と二人の間で呼んでいるハーバーブリッジを支える巨大なパイロンの傍にやって来たリアムは、海際はやはり夜になると冷え込むと身体を震わせ、トレーニングで汗を掻くため以外には滅多に着ることのないジップアップパーカを羽織り、まだ来ないかなと思いつつ鼻歌交じりに愛車のボンネットに尻を載せる。
この愛車も年季が入ってきていて、最近では彼方此方に不調が出始めているが、それでも友人の家でもある自動車工場に預ければ調子が良くなって戻ってきていた。
これから先もずっと俺やケイさんを乗せて走ってくれと思いつつボンネットを撫でていると、背後から声を掛けられたことに気付いて顔を振り向ける。
「Hiya, 王子様」
お待たせ致して申し訳ありませんと謝罪の割には楽しそうに笑いながらリアムの愛車の横を回り込んできた慶一朗に気付き、自然と笑みを浮かべて手を伸ばすとそっと手を重ねられてきゅっと握りしめられる。
今ではそれを疑うこともなくなったが、家以外でのスキンシップに浮かれそうになる気持ちを押し隠していた頃が懐かしいと思いつつ、隣に腰を下ろすかと少し横に移動すると、肩を並べてボンネットに軽く腰を下ろし、二人同時に柵の向こうに広がる暗い水面へと顔を向ける。
頭上にはライトアップされたハーバーブリッジが見え、赤や青に煌めく鉄骨を見るとはなしに見ていたリアムだったが、慶一朗がお前に渡したいものがあったと告白した声に顔を横に向けると、繋いだ手とは逆の手で持っていたらしい袋を顔の高さに掲げ、受け取ってくれと笑顔で差し出してくる。
「何だ?」
その紙袋は一見するだけでアクセサリーやそれに準じた高価な物が入っていることを教えてくれる高級感があるもので、何だと思いつつそれを受け取って袋を覗き込んだリアムが顔を上げて慶一朗を見つめ、再度袋の中へと顔を向ける。
「開けろ」
恐る恐ると言いたげに取り出す箱は長方形で、長さがある何かが納められていることが一目で分かるものだった為、ネックレスか何かかと呟きながらシルバーのリボンが彩っている箱を開けると、夜目にもきらりと光る白銀のペンダントトップとそれに繋がっている同じく白銀のチェーンが見え、ゆっくりと隣を見ると、同じデザインで一ヶ所だけが違うネックレスを指に掛けて胸元の高さで揺らしている慶一朗がいて、己も同じように指にチェーンを引っかけて目の高さに持ち上げる。
「……お揃いのペンダントトップ?」
「ああ」
急に欲しくなったからダレンに頼んだと緊張気味に笑う慶一朗の言葉に頷きつつペンダントトップを掌で受け止めたリアムは、台形の下半分程の黄緑にも黄色にも見える宝石にこれは何という石なんだと呟くと、ダレンから聞いていた慶一朗がペリドットと返す。
「お前の目の色に似ているものを探して貰った」
今はその色だけど明るいときに見ればまた少し色味が違うそうだと続ける慶一朗に向き直ったリアムは、ケイさんが選んでくれたのかとある種の衝撃を隠しきれない顔で呟いてしまい、しまったとすぐさま後悔の色を浮かべてしまう。
羞恥の強い慶一朗が己の感情に対して素直な反応を見せれば気恥ずかしさから態度を硬化させてしまう癖があったが、今己が目にしている顔は永遠に覚えていたいと思える程のものだった為、己の迂闊さに内心舌打ちをしてしまう。
だが、リアムの予想に反して慶一朗は一度だけ視線を左右に泳がせた後、真っ直ぐにリアムを見つめて綺麗な形に口角を持ち上げる。
「気に入ってくれたか?」
「……っ!」
その笑顔と少し自信のなさそうな声にリアムが息を詰めてしまい、掌の中にそれをぎゅっと握りしめると隣の痩躯をそのまま抱きしめてしまう。
「苦しいぞ、王子様」
それと、まだ少し外でのハグは気恥ずかしさがあるからそれは家に帰ってからにしないかと、それでも以前のように羞恥から拒むのでは無く、背中をそっと撫でて思いを伝えてくれる慶一朗に何度も頷いたリアムだったが、離れる直前に額と額を触れ合わせてくることに気付いてそっと目を開ける。
間近に見えるハーフリムフレームと、レンズにハーバーブリッジの明かりが煌めいていたが、その奥の双眸が人工物の明かりに負けない煌めきを発していることに気付き、微かに震える吐息を零してしまう。
苦手だと思っていたためにこちらも控え目にしていた行為を克服したようにしてくれる感謝に言葉が出てこず、ごめんと謝った後に再度細い背中を抱きしめると、泣くかと思っていたけれど泣かなくなった、前のように泣いているお前も可愛くて好きだったんだけどなと笑われ、意地っ張りなハニィ、素直に感情を出せる俺たちの家に帰ろうと、寒さかそれ以外からか赤く染まる耳に慶一朗が囁きかける。
「うん……帰ろう、ケイさん」
「ああ」
そう囁き合って自然と笑みを浮かべる二人だったが、別々の車で帰らなければならない事が寂しいとリアムが肩を落とし、そんなリアムの頬に慶一朗がキスをしながら俺は誰かの車で帰らなければならないのかと片目を閉じると、じわじわと歓喜が愛嬌のある顔に広がっていく。
「一緒に帰ろう、ケイさん」
少し年季が入っているがそれでも乗り心地には気を配っている俺の愛車に乗ってくれませんかと、ボンネットから降り立ったリアムが慶一朗に向けて慇懃に手を差し出すと、その手に手を重ねた慶一朗が古さはともかく乗り心地はお前の次に極上だとの言葉で家に帰ってからの希望を匂わせるが、家で待っているデュークも顔負けでは無いのかと思える鼻の良さを発揮したリアムが助手席に慶一朗を座らせ、二人の新しい歴史をこれから一緒に歩んでくれるであろうネックレスとペンダントトップをその手に預けると、家に帰るまでの間何をどう頑張ったとしても顔がにやけるのを止めることが出来ないのだった。
十年一日のようにライトアップを受けて光るハーバーブリッジに別れを告げて帰宅した二人だったが、車内ではどうしても必要なとき以外は手を繋いだままで、信号で止まったと同時にどちらにとってもただ一人の男にキスをしお返しのキスを貰っていた。
そんな、付き合いだした頃でもこんなにもキスをしなかったと後々呆れてしまうほどキスをし、それでも安全運転で自宅へと戻った二人は、帰宅したが週末のためにこれから出掛けるのかと首を傾げながら出迎えてくれるデュークをハグし、今日はもう寝るからお前も寝ろと慶一朗が笑い、リアムが用意をしたおやつをデュークの寝床に投げ入れると、もう寝るのかと残念そうに耳を萎れさせる。
「明日、起きてきたら遊ぶぞ」
己の言葉をデュークが理解している事を分かっている慶一朗がそう告げて頭にキスをすると、デュークも甘えるように慶一朗の肩に前足を載せてくる。
「お休み、デューク」
背中を撫でてリアムより先に二階へと向かった慶一朗だったが、ペンダントトップを入れた袋を持っていないことに気付き、寝る前のルーティーンをしているらしいリアムに向けてペンダントトップを持って来てくれと叫ぶと、他に必要なものはあるかと問われ、間髪入れずにお前と返すと沈黙が返ってきて、それが面白くて肩を揺らしながらバスルームに入る。
どうしてもしなければならない準備が煩わしかったが、この後の時間を思えば必要だからと己に言い聞かせて準備を終えた証にバスローブ姿になってベッドルームに向かうと、ベッドの上では慶一朗が忘れてきたペンダントトップの袋と平静さを装った顔のリアムがいて、その平静さも好きだが車内で見せた男の顔も好きだからそれを見せろと囁きながら足に跨がると、袋の中からペンダントトップとそれに繋がっているネックレスを取り出してリアムの首にそれを掛ける。
長さなども全てダレンに任せていた為に少しだけ不安があったが、リアムの鍛えている胸元でペリドットと白銀が照明に光り、うん、似合っていると頷くともう一本のネックレスをくれとリアムが掌を向けてくる。
そこに載せたのは慶一朗がリクエストした赤い宝石が填まるもので、己と同じようにネックレスが首に掛けられた後、素肌の胸に少しだけ冷たさを感じさせていることに気付き、己の薄い胸板を見下ろす。
「その石は何だ?」
「……ガーネットか何かだったかな」
ルビーでは無い筈と笑う慶一朗のバスローブの紐を解きつつリアムが綺麗だなと感想を口にし、バスローブの内側に手を差し入れて背中に落とすと、慶一朗が前屈みになり分厚い胸板にキスをする。
「……もう一度プロポーズするのかってダレンに言われたけど」
誓いのリングを無くしてしまい、お前に相応しくないと言って家を飛び出した俺だけど、これから先もずっと一緒にいてくれと告白すると、返事では無く大きな手が頬を包んだ事に気付いてそっと上目遣いでリアムを見つめる。
「うん。俺もずっと一緒にいたい」
この間の誕生日プレゼントで永遠に一緒にいると言ってくれた通りにこれから先ずっと一緒にいよう、楽しいことも悲しいことも一緒に乗り越えていこうと笑う顔に一度唇を噛みしめた慶一朗だったが、覆い被さるように上体を伏せると、胸元で二つのペンダントトップが触れ合う小さな音が生まれ、次いで濡れた音が響く。
「Geborgenheitって言葉の意味をやっと分かった気がする」
キスを何度かした後の満足げな息を吐いた慶一朗が小さく笑みを浮かべ、今まで何度も見聞きした言葉だったが実感したことが無かった言葉の意味がお前と付き合ってから理解出来たと目を細めると、あなたがそれを感じてくれたことが嬉しいと笑みを浮かべるリアムの手が頬を包んだ事に気付き、そっと目を閉じると瞼と鼻の頭に濡れた感触が生まれる。
守られる安心感という感覚を表す言葉の意味を実感したと告白する慶一朗を抱きしめ、幼い頃、友人達と遊んだ後に家に帰ったとき、忙しそうに働きながらも己を笑顔で出迎えてくれた両親と祖父母の温かな笑顔を思い出したリアムは、己と違う幼い頃の家庭環境からそんな経験を一度たりともしたことが無いと教えられた事も思い出すと、小さく掛け声を放って寝返りを打ち、見上げていた端正な顔を見下ろすように姿勢を入れ替える。
「ケイさんがこれから先もそう思ってくれるようにずっと一緒にいよう」
「……俺からプロポーズしようと思っていたのに何でお前が言うんだ」
人の言葉を取るなと口を尖らせる慶一朗だったが、宥めるようにキスをすると口の端が持ち上がり、リアムの頭を抱え込むように腕を回して頭を持ち上げる。
「Du machst mich glücklich, リアム」
お前は俺を幸せにしてくれる、だから俺もお前を幸せにしたい、どうすればいいと、ダレンの店で見せた様に知ったかぶりをするのでもなく羞恥から口を閉ざすのでも無く素直に思いを口にすると、リアムが唇を一度噛みしめた後に少し湿り気を帯びた息を吐き、こつんと額を重ねてくる。
「……今のままのあなたで良い、慶一朗」
無理をせず、だからと言って我慢もしない、思ったときに思ったことを教えてくれと笑み交じりに囁かれ、それで良いのかと問い返すと、それが良いと優しく断言される。
「なら、そうする」
お前がそう望むのならと同じ笑みを浮かべると嬉しそうな吐息が一つ落ちてくる。
それを受け止めた慶一朗がリアムの頭に再度腕を回して抱きしめると、安心感を与えてくれるような優しさというよりは力強さを感じさせるハグが返され、自然と満足の息を吐いてしまう。
言葉だけでは無く体感でもそれを得られた安堵に息が震え、付き合いだしてから幾度となく抱き合ってきた筈なのに、まるで初めての時のように鼓動が早くなり、息苦しさすら感じてしまう。
人は時を遡ることなど出来ないが、あの時経験できなかった事をこれから二人で体験しようと教えてくれるようなリアムの広い背中にそっと手を回し、何も知らない俺にお前が知っている事を教えてくれと囁くと、うんという優しくも力強い声が聞こえ、その後はロクに覚えてられないほどの熱に浮かされ声を上げ続けたが、リアムの胸元で揺れるペンダントトップが時折霞む視界に入ってくると、勢いに任せてそれを引きちぎらないように気を付けつつ広い背中をただただ抱きしめる事しか出来ないのだった。
シドニーでも最高位と評されるドクターというのはもしかすると自己評価であり、他者からは箸にも棒にもかからないと思われているために暇なのでは無いかと疑いたくなるゴードンが、ビクトリア・ノースヒル・ホスピタルにひょっこりと顔を出したのは、10月に入って寒さも和らぎ春の暖かさを実感できるようになった頃だった。
オペを終えて診察室へと移動している途中に受付でサミと親しげに話している背中を見つけた慶一朗は、もしかすると本当は暇人なのかと背中に投げかけると、誰が暇人だと言いながらゴードンが振り返りにやりと笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ」
暇人かどうかは別にして、会えたら礼を言いたかったと苦笑した慶一朗にゴードンがどうしたと問いかけると、ポケットからさらりと音を立てながら白銀のネックレスとその先にきらりと光るペンダントトップを取り出して顔の横に掲げる。
「ダレンに相談をして作って貰った」
あの時あんたに会えたのは幸運だったと笑みを浮かべる慶一朗にゴードンが軽く驚いたように目を見張るが、役に立ったのなら良かったと安堵に表情を切り替えてペアで買ったのかと問われて無言で頷いた慶一朗は、この後オペの予定もないからとゴードンの前でそれを付けると、シャツの中に隠すようにしまい込む。
「見せればどうだ?」
「見せびらかすものじゃ無いからな」
ただGGには見ておいて欲しかったと笑う顔にゴードンも自然と笑みを浮かべ、良い物を買ったなと素直に褒めると慶一朗の顔に羞恥と自慢が入り交じった笑みが浮かぶ。
「ああ、ダレンにも礼を言っておいて欲しい」
「分かった」
近いうちに弟と会う約束をしているからその時に話しておいてやる、そうだ、どうせなら一緒に飲みに行かないかとゴードンに誘われ、楽しみだなと笑みを浮かべた慶一朗の名が遠くから呼ばれた事に気付き、二人同時に自然とドクターの顔へと表情を変える。
「帰りに先生のクリニックに寄るからリアムに話しておく」
「そうしてくれると助かる」
じゃあと手を挙げて立ち去る慶一朗を見送ったゴードンは、先日来た時にテイラーと話していた話題を自然と思い出すが、なるようになるだろうと微苦笑し、今日は帰ると受付カウンターの奥にいるサミに手を挙げてスタッフ専用の出入口から出て行くのだった。
今日も一日働いた、疲れたからお前のメシで回復したいと素直な思いをメッセージで伝えた慶一朗は、笑顔のスタンプが返ってきた後、今日はチキンソテーにした、ソースはこれから作るから好きなものがあればリクエストをしてくれと続けられ、お前が俺に食べさせたいものというお決まりの言葉を返す。
それに対する返事も既に予測済みの慶一朗が愛車を走らせて帰路に就き、自宅のシャッターを開けて定位置に車を停めると、ドアの向こうからデュークの声が聞こえてくる。
ドアを開けて中に入るとすぐ近くにソファがあり、そこでは外出したり帰宅した時に荷物を置いたり靴を脱いだりしていたが、その肘置きに腰を下ろし、尻尾を激しく振るデュークの頭を撫でながら笑みを浮かべるリアムがいて。
「……ただいま」
ドイツやオーストラリアではそんな習慣はないが、ここだけは自然と根付いた日本の習慣である帰宅時の挨拶を慶一朗がすると、リアムの顔の笑みが深く大きくなる。
その顔こそが先日伝えたGeborgenheitを表しているのだと改めて気付き、己に向けて広げられる腕の中に倒れ込むとしっかりと抱き留められ、お帰りと疲れを霧散させてくれるような優しい声に迎えられる。
「今日も頑張って働いてきた」
「うん。良く頑張ったな」
そんなあなたへご褒美だと笑いながら慶一朗の顔にキスの雨を降らせたリアムにくすぐったいと笑い、着替えてくるから早くメシを食おうとリアムの太い腕を叩くと、デュークが僕も混ぜろと言いたげに前足で二人の身体を掻いてくる。
「ワガママボーイ、メシを食ったらイケメンになるか?」
「ワン!」
慶一朗の言葉に嬉しげに吠えたデュークだったが、リアムがメシにしようと掛けた声にも嬉しげに吠えて尻尾を振り、早く食べよう早くと軽快な足取りで己の食事処に向かい、本当にあいつはと二人がそんなデュークを見ながら笑うが、自然と互いの腰に手を回し、今日もいるべき場所に戻って来れた安堵を胸に互いの頬にキスをするのだった。
食後のコーヒーを前に、撮り溜めておいた好きなドラマを流しながら、背後のリアムがタブレットでキャンプ先の情報を調べている事に気付き、何処か良い場所があったかと問いかけると、タブレットが顔の前に差し出される。
「……分厚いベーコンにハチミツを掛けたものを食べてみたい」
キャンプ地情報では無くその横の小さな広告に目を奪われた慶一朗が呟くと、タブレットがテーブルに投げ出され、それを合図に寝返りを打ってリアムに向き直ると、それも美味しそうだなと笑みを浮かべる顔があり、髭を指先で撫でながらざりざりとした感触を楽しんでしまう。
「そういえばケネスからメッセージが届いていたなぁ」
「何だって言ってた?」
「うん、少し遅くなってクリスマスプレゼントになるかも知れないが、準備が出来ればまた連絡をするとだけ」
何の準備なのか全く分からないんだがと笑うリアムに同じ顔で頷いた慶一朗だったが、スコットランドに帰国したケネスから時折ルカを経由して届くメッセージからある程度の事情を察していた為、言葉には出さずにもう一度頷くと、今度キャンプに行きたいと言っていたからその道具だろうと続けると己を納得させようとする顔でリアムが頷く。
「楽しみだな」
「ああ」
今年のお前の誕生日プレゼントは写真撮影とアポフィスでのパーティーとそしてこれだと笑った慶一朗の言葉にリアムが目を丸くし、これは誕生日プレゼントでもあったのかと問いかけ、勿論と大きく頷かれてしまう。
「実はあとひとつあるが、それは本当に届いてからのお楽しみだ」
そう告げた慶一朗の顔は直視するのが恐ろしく思えるような顔で、何故か背筋を震わせてしまったリアムは極力その言葉の先を考えないようにしようと決め、うん、まあ楽しみにしておくと返すことしか出来なかった。
そんなリアムの気持ちを知ってか知らずか、分厚い胸板に頬を宛ててベーコンも食べたいけど久し振りにミルクトーストも食べたいと慶一朗が呟き、その頬にリアムが掌を当てるとそっと目が閉じられる。
こんな穏やかな時間をまた過ごせる様になった幸福を噛みしめていると慶一朗の口から穏やかな寝息が流れ出した事に気付き、このまま寝てしまうと明日の仕事に支障が出ることを思い出したリアムが悪いと思いつつ慶一朗を起こすと、のそのそと起き上がった慶一朗をソファに座らせて寝る前のルーティーンを行い、デュークが寝床に戻るのを見届ける。
「お待たせ、ケイさん」
そう言って両手を広げるとコアラのように慶一朗が抱きつき、しっかりと身体を支えたリアムがゆっくりと階段を上って行く。
ベッドルームに入りそっとベッドに下ろすと慶一朗が寝惚け眼のままリアムの首の後ろに手を回してまだ付けたままだったネックレスを外すと、リアムも慶一朗のものを外してサイドテーブルのトレイの上にそれぞれのものを並べる。
そしていつものように慶一朗の頭の下に腕を差し入れると、やっと定位置に頭を下ろせたと言いたげに慶一朗が息を吐き腰に腕が回される。
「お休み、ケイさん」
「……ん」
睡魔に負けているために明瞭な声は返ってこなかったが、それでも何を言わんとするのかを理解しているリアムが笑み交じりに慶一朗の額にキスをし、明日も今日と同じように働かなければならないのだからこの先の夢の時間が穏やかでありますようにと慶一朗の為に願い、小さく欠伸をして同じように目を閉じるのだった。
そんな二人の傍で二人の新たな誓いが込められているペンダントトップが一瞬だけきらりと光るのだった。
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