思い出したくはないが自然と思い出してしまう過去の事件を脳裏で再生しつつ、老体に鞭打つように愛車を制限速度ギリギリで親友が経営するナイトクラブへと走らせたリアムは、店の裏側にある駐車場に慶一朗の愛車がひっそりと停まっている事を確かめ、その横にいつもよりは乱暴に車を停める。
駐車場から入る事の出来るドアを開けると、廊下の先で門番のように座っている親友がいるはずで、彼に聞けば慶一朗の居場所を教えてくれるだろうかと思案するが、このドアを今まで己が潜れていたのはオーナーの親友という立場からで、本来ここを通る人たちとは違うという、こんな時でも律義な考えから踵を返して今では友人と呼べるアンディがいるドアの前に向かう。
「Hiya, アンディ」
「……ああ」
セキュリティスタッフに親し気に話しかけるリアムに話しかけられたアンディが仕事とプライベートの中間の顔で一つ頷くが、今日はまだ見ていないとぼそりと答えられて目を細めたリアムが素っ気無くならないように気を付けつつ頷き、ポケットから1枚の50セント硬貨を取り出してアンディのポケットに入れる。
「ルカに会いに行ってくる」
「……」
その言葉にリアムは返事を求めていなかった為、無言である事を気にすることも無くドアを開けて音と光が充満している店内に入り、カウンターの内側で常連客らしき女性と談笑しているルカに気付いて片手を挙げる。
「……ハイ、リアム」
ルカの目が一瞬見開かれた事が哀しかったがそれを表に出さずに階段を下りていつものスツールに腰を下ろすと、飲み物を頼んでいないのにコースターがリアムの前に差し出される。
「……ケイさんが友人に会いに行くと言ってまだ帰って来ていない」
俺が真っ先に思い浮かべる友人とはお前のことだ、ケイさんは来ていないかと顎の下で手を組んでリアムが目の前の友人に問いかけると、パールオレンジのルージュに彩られた唇が一度小さく開閉し、それに合わせるように焦げ茶色の双眸が左右に揺れた後、僕は見ていないという小さな声が流れ出し、そうかと頷きつつその言葉の裏を読むように軽く目を伏せる。
自分が経営する店の駐車場に慶一朗の車が停まっていることも、裏口から入る店に滞在していることも当然ながらルカは知っているだろうが、それを口に出来ない理由は何だと、目まぐるしく頭を働かせたリアムの優秀な頭脳が辿り着いた答えは、家を出る前に思い浮かべたケネス・ジョンストン侯爵がここにいて、慶一朗は彼に会いに行ったのだという事実だった。
己に対する憎悪すら籠もっているような視線と慶一朗の交友関係の中でただ一人名前も顔も知らなかった友人がケネスだとルカの対応で気付いたリアムは、ああ、と本人すら意識しない嘆息をひとつ、組んだ手に力を込める。
ルカがこのような態度を取るからには己の与り知らない関係が彼との間にあり、その関係は決してルカ達にとって喪いたくないものなのだろう。
だが、己との関係も同じように喪いたくないものだとすればと思考が回路を巡って辿り着いた先、いつも楽しく笑顔で出迎えてくれるルカと、口数は少ないがそれでも歓迎してくれていることを表情で伝えてくれるラシードの顔があり、俯いていた視線を天井へと向けると、全ての感情を込めたような息を吐き出す。
それが顔に落ちてくる直前にルカへとリアムが顔を向けるが、その顔を見たルカが限界まで目を見張ってしまうような表情を浮かべていて、そんなに驚くなと頭に手を宛てる。
「お前の立場もあるのに無理強いしたな」
悪かったと笑顔で謝罪をするリアムにルカが何故とぽつりと零すと、問われた言葉の意味が分からないと言いたげに首を傾げると、ルカがカウンターから乗り出すようにリアムの胸元を両手で握りしめる。
「どうして……!?」
どうしてそんなにも他人を気遣えるんだと感情を押し殺した声で問われたリアムは、他人じゃないからなんだけどなぁと呟き、シャツを握る手に手を重ねると突き抜けるような青空を想像させるような笑みを浮かべる。
「友達を困らせたくないだろ?」
それをするぐらいなら他の手段を探す、だがさすがに今回の事については経験が無いためにどうすればいいか相談に乗ってほしいと笑いながら腕を撫でると、ルカが項垂れた後に自分達の下にあるコースターに震える手で何やら殴り書き、それをリアムのシャツのポケットに押し込む。
「……ラシードにこれを見せてくれ」
その言葉にリアムが胸ポケットを押さえた後、Taと告げてルカの頬をひとつ撫でるとそこにキスをする。
「……リアム……」
「今回の全ての原因はジョンストン侯爵のような気がするなぁ」
だから今からその元凶に突撃してこようかなと笑ってスツールから立ち上がったリアムは、ルカの手が握りしめられている事に目を細め、キックアウトはしないでくれと下手な冗談を残し、今から楽しもうとしている客達を交わしながらドアへと向かうのだった。
リアムが車を停めた駐車場から入ることの出来るドアの前で深呼吸をし、ドアベルをいつもの心境とは全く違う気持ちから長押しすると、程なくしてドアがゆっくりと開いてもう一人の親友の姿が見える。
「Hiya,ラシード」
ハイと気軽に声を掛けて手を挙げると、どのような思いを秘めているのかが分からない双眸が真っ直ぐに見つめてきたため、先程ルカがくれたどんな門番でも通してくれる魔法のアイテムを取り出し、目の横にそれを掲げて笑みを浮かべる。
「今までアポフィスには何度も来ているけど、こちらで遊んだことが無い」
ケイさんもここにいるようだから俺も一緒に遊びたいと思うがどうだろうと下手な冗談だとは分かっていながらも少し戯けたように告げると、ラシードがリアムの手からコースターを受け取り、表裏と二度見返した後に身体を引いてドアの間に隙間を作ってくれる。
入っても良いと教えてくれているのだと気付き、ルカに告げたようにTaと礼を言った後、幾つか並ぶドアへと目をやる。
「ケイさんが友人に会いに行くとだけ言って帰ってこなかった」
そのメッセージを見たとき、あの事件を自然と思い出していたと苦笑するリアムの横を同じ速さで歩きながらラシードが目を伏せるが、ピタリと足を止めてリアムに目的の部屋の前だと教える。
「……彼は、俺たちにとっては一番大事にしなければならない客だ」
「ああ。ルカの態度からそう思った」
金のモールで縁取られているだけだが、ここで最上のもてなしをする際に使われる部屋だと一目で教えてくれるそこの前、反対側の壁にラシードがもたれ掛かり、その対面でリアムも同じように背中を預けて腕を組む。
「ケイさんと彼の付き合いはどのくらいなんだ?」
「……アポフィスをオープンさせた頃からだな」
いつもは無口なラシードが饒舌に話す言葉のひとつひとつを脳裏に刻むように聞き入っていたリアムだったが、慶一朗がこの国に単身渡り、ルカとラシードと友人関係ーそれは勿論大人の関係も含むものだったーになってからルカが彼を紹介したと教えられ、天井を見上げて何度目かの溜息を吐く。
「ルカが紹介したのか」
「ああ」
ケネスは実業家としてスコットランドとシドニーを往復していたと、当時を思い浮かべている顔で呟くラシードに教えてくれてありがとうと律儀に礼を言うと、どうしてお前はそんなにも寛大なんだとルカが先程己のシャツを握りしめながら零した疑問を口にし、お前もそう言うのかと壁から背中を剥がしたリアムだったが、ひょいと肩を竦めて何でも無いことのように笑う。
「俺と出会う前のケイさんの行動に今更俺が腹を立てても仕方がない」
嫉妬する気持ちは十二分にあるが、それを出すなんてなけなしのプライドが許せないと、男の意地だと言うように笑うリアムの前にラシードが立ち、リアムの顔の横に手を付く。
「お前は……!」
「……ルカにも言われたけど、本当に友達を困らせたくないだけだ」
お前達に今回の事で余計な心配を掛けてしまうし迷惑も掛けてしまうことが心苦しい、だからこの苦しみをこの部屋にいる彼に八つ当たりすることをさっきルカにも見せた笑顔で告げると、ラシードが無言で抱きしめてきたため、宥めるように背中を撫でる。
「悪いな、ラシード」
お前達にとって彼は本当に大切にしなければならない客なのだろうが、一緒にいる慶一朗は俺にとって何にも代えがたい存在なんだと告げ、お前達に余計な苦労を負わせることになるかも知れないことをもう一度詫びてラシードの背中を撫でる。
「……良い」
「ああ」
少し距離を取って伏せられるラシードの顔をつるりと撫で、視線が重なると同時にその頬にルカにしたときと同じようにキスをすると、驚いたように目が見開かれて肩をぎゅっと握りしめられる。
「痛いから少し力を緩めてくれ」
そうリアムが告げた時だった。
リアムが背中を預けていた壁の向こうから微かに悲鳴のような声が聞こえてきたのだ。
「何だ?」
今の声は何だと言いつつ二人が顔を見合わせる前、今度はさっきよりも強く大きい声が漏れ聞こえ、ラシードがドアへと顔を向け、リアムがその肩に手を置いた後、何度目かの謝罪の言葉を告げてドアノブに手を掛ける。
だがリアムがドアを押し開くよりも先に内側から開け放たれ、端正な顔に汗を浮かべたケネスが姿を見せると、そこにいるラシードとリアムに気付いて安堵と真逆の表情を顔に浮かべて言葉を無くしてしまう。
先日職場で初めましてと挨拶をしたときの尊大な態度はなりを潜め、目の前の事態にどう対処するべきかをラシードに相談したいと合図を送ったため、その隙を突いて開け放たれたままのドアを潜って室内に入る。
そこは外観からは想像出来ないような豪奢な部屋で、その部屋の最奥の天蓋付きのベッドの上では目を見張ってカタカタと歯の根が合っていないような音を立てた慶一朗が身体を強張らせて横たわっていた。
「ケイさん!」
さっき聞こえてきた悲鳴はやはり慶一朗のものだったのだと気付いたリアムが駆け寄り、慶一朗の横に膝を着いて恐怖に見開かれている目を覗き込んだ瞬間、咄嗟に耳を塞ぎたくなるような絶叫が部屋中に響き渡る。
「あぁあああああ!」
その声をリアムは今まで何度も何度も耳にし、その度に己の無力さを味わいながらも慶一朗の為にと心を挫けさせることなく一人で耐えてきていたが、今ではそれを耳にする回数もあの頃を思えば少なくなり、未だに心の中で流れ続ける血が止まりつつある事を実感していたのに、何故今その傷がぱっくりと口を開けたように悲鳴を上げているのか。
恐怖から叫ぶ慶一朗の肩を掴むと強張った身体が更に強張るだけではなく、ギシギシと音を立てそうな不自然さで手が持ち上がり、全く力が入らない手でリアムの身体を押し返そうとしてくる。
その手に目をやり、シャツのボタンが全て外され、スラックスのボタンも外れていることから何が行われようとしていたのかが一目瞭然で、ラシードと一緒に入室してきたケネスに気付いてそちらへと顔を向ける。
「……何をした?」
己を拒むように必死に手を伸ばし、恐怖に囚われているために何を写し出しているのかを理解していない目を見開き、ガチガチと音を立てながらも悲鳴を上げる慶一朗に何をしたと、ラシードが初めて見るような怒気を全身に溢れさせたリアムがケネスに問いかけ、前髪を掻き上げながらケネスがひとつ息を吐く。
「久し振りに会ったから話をしただけだ」
「普通話すだけでここまで取り乱すことがあるか?」
それにこの反応は異常だとケネスの言葉にリアムが重ねるように問いかけると、もう一度息を吐いたケネスが青い目を細め、突き刺すようにリアムを睨みながら慶一朗の顔の傍に転がっている小さなボトルを指さす。
「昔からそれが好きなやり方だったからな」
知らない間に結婚し、当時の友人達との関係もほぼほぼ絶っているらしいから思い出させただけだと気怠げに告げると、リアムが封が切られている小さなボトルを片手にそれと呟く。
「ああ、それだ」
ケネスが顎で示したのが己の傍で悲鳴を上げ続ける慶一朗だと気付いたリアムの顔から表情が一瞬で掻き消え、室内の管理されている温度が急激に下がったような寒さを覚えたラシードが腕を撫でる。
「俺の夫をそれなどと呼ばないでほしいな」
それに、昔ケイさんとどのような付き合いがあり別れ方をしたのかなど興味もないが、それでも付き合ったのは特別な感情を持ったからだろう、そんな人の事をよくそれなどと呼べるものだなと冷静な声でケネスを非難したリアムは、整った唇が次の言葉を発しようとするのを尻目に、慶一朗の顔の傍に手を付き、恐怖に囚われている視界に強引に己の顔を割り込ませる。
「ケイさん、ケイさん」
頼むから気付いてくれ、いつまでも悲鳴を上げ続けていればあなたの身体が壊れてしまう、だから落ち着いてくれと慶一朗の名前を繰り返し繰り返し、どうか声が届いてくれ、恐怖に囚われた世界に届けと祈りながら何度も名を呼び続ける様子をドアの前で立ち尽くしている二人はただ見守る事しかできなかった。
二人の様子にまで気を回す余裕がさすがに今のリアムにはなく、ドアがそっと開いてルカが入ってきた事にも気付かずにただひたすら慶一朗の名を呼び続けていると、何処を見ているのかも分からないような目が一点を見つめ始め、次第に瞳孔が通常の大きさへと戻っていく様子に胸を撫で下ろし、今ならば大丈夫との確信を持って口を開く。
「慶一朗」
今ではその呼び方をする者はリアムと双子の兄の総一朗しかおらず、気持ちを切り替えたり真剣な思いを伝えたいときに呼んでいたリアムがそっと繰り返すと、慶一朗の目尻に浮かんだ滴が徐々に大きくなった後、限界を迎えたように眦から振り乱されている髪へと吸い込まれていく。
数えるほどしか見たことのない慶一朗の涙の意味を探る中で震える唇が己の名を呼んだ事に気付き、肺の中の空気と芽生え掛けていた絶望を一緒に吐き出すと、汗が滲んでいる額に額を重ねて背中をひとつ震わせる。
「ケイさん……!」
慶一朗の震えが収まらない身体を抱きしめながら間に合ったと呟く言葉の意味をルカとラシードは痛いほど理解出来た為に二人の姿を直視できずに顔を逸らし、唯一その真意を理解出来ないケネスが不愉快そうに眉を寄せて口を開こうとするが、リアムの腕の中で今まで見たことがないような安堵の表情を浮かべる慶一朗を目の当たりにし、口の中でだけ何事かを呟いて口を閉ざす。
「ラシード、水が欲しい」
慶一朗の喉が渇きと痛みを訴えていることに気付き、水と言いながら三人へと顔を向けたリアムは、そこにルカがいる事に気付いて小さく頷くと、ケネスを特に避ける様子もなくラシードに水が欲しいと伝え、冷蔵庫からボトルを取り出す背中を見守り、腕の中で身体を小さく丸めようとする慶一朗に気付いてそっと抱きしめる。
「ケイさん、もう大丈夫だ」
何があったのかは後で教えて貰うから今は水を飲もうと告げると、この数日見慣れた言い出したい言葉を飲み込んだ時の顔で見上げられ、それについても俺たちなりの方法で解消しようと、漸く二人の間に流れていた空気が不自然だった事を認めたリアムが苦笑し、額の汗を手の甲でそっと拭くと慶一朗が無言で頷き目を閉じる。
ラシードが用意してくれた水を何とか飲ませて人心地つけさせたリアムだったが、身体の震えは収まらないようで、どうしようかと呟いた時、不愉快だなと言う言葉が似付かわしい声で吐き捨てられ、声の主へと視線を流す。
「……不愉快だ」
「……そうだろうな。でも良かった」
ケネスが先程までの周章狼狽な姿など見せていないと言いたげな、視察の時に見せていた尊大な態度でこちらを見つめ発した言葉を受け取った後、信じられないような穏やかな表情で良かったと繰り返す。
「良かった?」
何が良かったと、今日は何度も同じようなことを聞かれるとさすがにリアムも呆れたように呟いた後、震えている慶一朗の額にキスをし、さあ、家に帰ろう、ケイさんと、アポフィスで遊び疲れた深夜、家に帰ろうと告げた時と同じ声で告げ、不安そうに見上げてくる目に頷き、今度は目尻に口付ける。
「何が良かった?」
その問いに答えてから帰れとケネスが言い放ち、ひとつ息を吐いたリアムがベッドの掛布団よりも軽いものを抱き上げるように慶一朗を横抱きにして三人の前に向かう。
成人男性を抱き上げているとは思えない身軽さで歩いてくる己の動きに気圧されたようにケネスが拳を握り、辛うじて逃げ出さないように踏ん張っている事を見抜いたリアムは、不愉快だと思ってくれたことが良かったと苦笑し、ルカが慶一朗の身体にブランケットを掛けてくれたことに礼を言う。
「俺もあんたの存在が不愉快だった。……好意を持ってくれる人を不愉快だと思うのも気が引けるからな」
嫌いな者同士互いを嫌っているのなら何の問題も無いと笑うリアムの顔をルカもラシードも直視できず、ただケネスだけが真っ直ぐに見つめていて、その視線をさらりと受け流したリアムが騒がせてしまって悪かった、この詫びはいつか必ずと、顔を背けている二人に告げてドアの前に向かおうとするが、ああ、そうだと何事かを思い出して振り返る。
「……無理矢理ここに入るようなことをして悪かった」
いつもならばもう少し考えることも出来るが、何しろ慶一朗が危険な目に遭っているのではと思うと冷静でいられなくなるんだと苦笑したリアムは、見上げてくる視線に気付いて太い笑みを口ひげの下に湛え、家でデュークがあなたの帰りを待ち侘びていると額にもう一度キスをする。
「……」
リアムの言葉に慶一朗が首を巡らせて三人へと顔を向けようとするが、身体が思うように動かないのか、力の入らない声で何事かを呟くと、リアムがひとつ頷いて心配しなくて良いと安心させるように目を細める。
「タラー、ルカ、ラシード」
そしてもう二度とお目に掛かることのない公爵閣下、さようならと、日頃のリアムを知る者からすれば心底驚いてしまうほど皮肉たっぷりの声で微動だにしないケネスにさよならの挨拶をしたリアムは、腕の中の慶一朗の心身のみを案じる顔を皆に見せながら静かに出て行く。
パタンと閉まるドアの音を指先一本動かす事が出来ないまま三人は聞くことしかできず、リアムの愛車が駐車場から出て行く音も聞くこともできずにただ呆然と立ち尽くしているのだった。
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