付き合うときに二人で決めた、感情が突き動かされるような事態が起きたときに黙り込むのではなく思っている事を話し合おうとの約束をどちらも亡失したような時間が過ぎ、そんな中でもいつも通り仕事に行かなければならずにそれぞれ口にすることの出来ない言葉を飲み込み、行ってこいと行ってくるのキスを交わし見送る。
そんな見送りを受けた金曜日、一日の始まりがそれだったからか普段では考えられない小さなミスをいくつも犯してしまい、アシスタントドクターとして日々成長しているホアキンにどうしたのかと訝るような視線で見つめられてしまっていることにも気付けなかった慶一朗だったが、一日が終わり帰宅する者夜勤でこれから仕事だと溜息を吐く者に紛れて愛車に乗り込み、エンジンを掛けるものの車を駐車場から出す力が出てこないことに気付く。
いつもならば週末の仕事終わりは一度帰宅した後にリアムと一緒にルカ達と会う期待に羽が生えていれば良いのになどと考えてしまうが、今日はいっそのことこのまま何処かに消え去ってしまいたいという思いと、そんな思いの中に今すぐリアムにメッセージを送れ、それだけでもしておけと小さいが無視することの出来ない声が響いていた。
友人に会いに行く、ただその一言だけなのに何故かそれが伝えられず、またここ最近のリアムの様子も何かを胸に秘めているときのような態度だった為、己の感情を素直に出す事も言葉にすることも苦手な慶一朗は口を閉ざしてしまってきたのだ。
どうしようと思いつつどうすることもできなかった為にやって来た今日という日に溜息を吐いた慶一朗は、いつまでもここにいても仕方がないと腹を括ろうとするが、そんな出鼻を挫くようにメッセージが届き、気怠げにスマホを取りだして石化したように動きを止めてしまう。
待っているの一言だけのメッセージだったが、それだけで送り主が誰だか分かってしまい、少し呆然とした後に猛烈に沸き起こってきた殺意にも似た怒気にスマホを持つ手が震えてくる。
今朝、いつもとは全く違う気持ちで行ってこいとそれでもいつものように見送ってくれたリアムの顔が思い浮かび、あのような顔をさせた張本人への怒りがふつふつと沸き起こってくる。
久し振りに再会した元恋人が結婚していようが離婚していようが本来ならば何の関係もないはずだった。
それなのに、未練があるのか立腹したのかは分からないが、慶一朗が結婚していたという事実にショックを受け、ひとりきりで会いに来いと呼び出す神経が理解出来なかった。
こんな状況に追いやったケネスに一言文句を言わなければ気が済まないと一瞬で気持ちが切り替わった慶一朗は、メッセージを送ってきたケネスではなくどうしようかと躊躇っていたリアムに友人に会いに行ってくるとだけ勢いを借りてメッセージを送ると、スマホを助手席に投げ出してシートベルトをその勢いのまま引っ張ると、タイヤが白煙を上げるほどの急発進で駐車場から愛車を飛び出させるのだった。
来る時には大半が鼻歌交じりのご機嫌な様子を見せていた慶一朗が抑え込んだ怒気を全身から滲ませながらアポフィスのドアではなく駐車場から入る裏口のドアを開け放ったのは、勢いに任せて職場を飛び出してから小一時間ほど経過した頃だった。
裏口のドアから入るときは最近では愛犬のデュークを連れているときだった為、廊下の先の椅子で足を組んでタブレットを見ていたラシードが慶一朗に気付いて立ち上がったが、慶一朗の周囲を見回してもデュークの姿が無いことに気付き、そこにいる理由を一瞬で察して視線を一つのドアへと向ける。
そのドアはラシード達にとって決して疎かに出来ない客だけを招き入れるためのもので、今そこに誰がいるのかを思い出したように目を伏せた後、静かにやって来た慶一朗をじっと見つめる。
「中にいるのか?」
「ああ」
慶一朗の声に籠もる感情を読み取ったラシードが良いのかとそっと問いかけるが、その問いに返ってきたのは極低温の嘲笑で、話をしてくるだけだと続けられてそうかと返すことしか出来なかった。
ドアをノックし一足先にラシードが入室すると、何をしているのかと声を掛けたくなるようなじれったい間の後、姿を見せた友人に入室を促された慶一朗がドアを開けるラシードの腹に拳を一つ押し当てて中に入る。
この部屋に慶一朗が足を踏み入れたのは随分と久し振りで、記憶の中とは部屋の様子が違っていることから模様替えがなされたのだと気付くが、初めてここに入った時にあった三人掛けの革張りのソファセットと、その奥にある王侯貴族気分を味わえる豪奢なベッドはそのままだった為、そちらを見た後、初めて出会った時と同じようにソファの中央に当然の顔で腰を下ろしてフルートグラスを傾けている端正な顔へと顔を向ける。
「遅かったな」
長い足を組んでグラスを傾ける涼しい顔を睨み付けながら彼の前に向かった慶一朗は、ラシードが沈黙したままドアを閉めて出て行ったのを背中で感じ、息を一つ吐いて前髪を掻き上げる。
「誰かのように時間を持て余している人種じゃないからな」
仕事というものがありそれが終わらない限り自由にならないと、皮肉をぶつけた相手には何ら痛痒も感じないと分かっていながらも抑えることの出来なかった言葉を投げつけると、私もそれぐらいは理解出来るつもりだと肩を竦め、細かな泡が立っていた黄金色の液体を飲み干し、グラスをテーブルに置く。
「それよりも、連絡をしない間にいつの間にか結婚をしているとはな」
私と付き合っている頃には結婚の雰囲気など感じさせる事は無かったのにと続けられ、咄嗟に背中に回した右手で拳を握る。
ケネスと付き合っていた頃は医者としても働きだし毎日が忙しい日々だったが、その忙しさをほんのひとときだけでも忘れさせてくれるケネスにのめり込むような関係だった。
だがそんな関係の中でも結婚という言葉は慶一朗からも勿論ケネスからも出てくる事は無く、それどころか何を好き好んで制約が多く不自由な関係に皆進むのかという、主成分が氷だと教えるような感情を瞳に浮かべ、結婚の話題で盛り上がっている同僚や不特定多数の人達に毒突いていた。
そんな慶一朗が、ケネスからしてみれば目を離した隙に結婚しているという事実は青天の霹靂以外の何物でも無かった。
だからそう少しの皮肉を込めたように問われ、今まで腿の横で軽く握っていた手を背中に回してしまうと、ケネスの眉がくっと寄せられて不快感を顕わにしてくる。
その表情は慶一朗の心を過去と現在を繋ぎ当時の痛みを引き連れて戻ってきてしまい、握りしめた手の中に嫌な汗を浮かべてしまうが、ゆっくりと立ち上がるケネスの動きをただ呆然と見つめることしか出来なかった。
「何人か付き合ったことがあるが、何故だろうな、お前の結婚ほどショックを受けたことはなかった」
だからだろうか、お前の夫の勤務先にほんの少しの意地悪をしてしまいたくなったのはと冷笑されても咄嗟に何の話なのかが理解出来なかった慶一朗は、己に向けて伸ばされる手を避けることが出来ずにいると、背中に回した右手を掴まれて顔の前に掲げられてしまう。
「……っ!」
離せという言葉は音にならず、このリングを外してこいと言った筈だと今日一番冷酷に響く声が不愉快そうに吐き捨てた後、最後の意地だと教える拳を信じられない程優しく開かせ、眼鏡の下で呆然と動きを見守る事しかできない慶一朗の目の前でそっとリングを抜いていく。
「不愉快なものがこれで一つ消えたな」
満足げな言葉の後に周囲を見回してテーブルに使っていないフルートグラスがある事に気付き、その中に無造作に投げ入れて澄んだ音を響かせ、その音に漸く我に返った慶一朗がそのグラスの中のリングを掌に取り出して握りしめる。
「……付き合っていた頃は結婚などバカのすることで、自ら進んで不自由になる事など理解出来ないと言っていたのに随分と心変わりをしたんだな」
慶一朗が蒼白な顔で必死にリングを守ろうとする様子に興醒めしたと言わんばかりにソファに腰を下ろしたケネスを睨み付けるが、脳味噌が沸騰するような怒りの中でも何処か冷静な己を認識していて、ついさっき聞いた言葉の真意を探るように掠れた声で問いかける。
「リアムの勤務先に意地悪をしたと言ったな、どういうことだ?」
その問いを発した慶一朗の脳裏にはリアムが何かに悩んでいるような表情で己を見つめてくる姿が浮かんでいたが、その悩みの根源にケネスがいるのだろうかとの思いから問いかけ、下らないことだと言うように笑われて怒りから目尻を赤らめる。
「ケネス!」
答えろと叫ぶ慶一朗に落ち着けと視線で告げて横に座れとソファを叩かれるが、潤滑油が切れてしまったロボットのようにぎこちない動きで、それでも最後の抵抗をするように隣ではなく一人掛けのソファの肘置きに腰を下ろす。
「お前が結婚したと聞いて随分ショックを受けたと言っただろう?」
「そう言っていたな」
「だから、リアムと言うのか、彼が働くクリニックに少し意地悪をした」
重い物など何一つ持ったことが無いような手入れされている指を重ねて顔の下半分を覆い隠したケネスの言葉に慶一朗の顔が蒼白から蝋人形のような白さへと変化をし、リングを握りしめた右手が小刻みに震え始める。
「何をした……?」
極力ケネスの顔を見ないようにしているのか、己の足下へと疑問を落とした慶一朗にやれやれと溜息を吐いたらしく、クリニックに毎年支援をしているスコットランドの伯爵がいたため、彼にその支援を止めさせたと教えられ、勢いよく顔を上げる。
「ディアナのクリニックへの支援を止めさせた……?」
「ああ。私が支援をするからと言って止めさせた」
もっとも、私もただの嘘つきな男にはなりたくないので、今回の視察に参加してどのようなクリニックなのかを視察したがと続け、ふ、と己以外の全てを見下すような笑みを浮かべて頬杖を付くケネスに絶句してしまう。
「私が支援するほどのクリニックとは思えなかったな」
その言葉を聞いた瞬間、慶一朗の中で鬩ぎ合っていたいくつもの感情の中で最も瞬発力を持つ怒りが発露し、リングを投げ入れられてしまったグラスを掴んだかと思うとケネスの頭の横数センチの距離で投げつけてしまい、背後の床に落ちて繊細なグラスが割れる悲しい音が響く。
たった今ケネスが見下すように笑ったクリニックは、慶一朗にとっては自宅とアポフィスに次ぐ心が安らげる、何処よりも安心出来る場所であり、そこにいる人達は関係の濃淡差はあれどもそれでも互いに敬意を持っていられる相手ばかりだった。
この国に単身移住し、与えられた立派な部屋は慶一朗の心を休める場所ではなく、学業の息抜きで訪れたナイトクラブで知り合ったルカやラシードという今でも付き合いがある親友に会って初めて心から休める場所を見つけられたのだ。
そんな慶一朗が、ある日隣の家に引っ越してきたドイツ出身のリアム・フーバーー当時はまだフーバーだったーという、お人好しで誰にでも優しい大男に一目惚れをされ、最初はお隣さんから始まり、同僚から友人、親友へと関係を変化させてきた先で恋人同士となり、そして今同じ日付を刻んだリングを互いの右手薬指に填めるようになったのだが、その間幾度も自分達の関係をともすれば壊しかねない事件が起こり、その度に互いの存在でそれを乗り越え、振り返ればそんな時もあったと笑えるようになったり、今でも夢で魘されながらも一緒に生きてきたのだ。
そのリアムがいるクリニックを貶されたという事実は慶一朗から僅かに残っていた冷静さを失わせ、侯爵という地位を持つ男のシャツの胸倉を両手で掴み、お前に何が分かると声を荒げてしまう。
身体を鍛えている為に脳味噌まで筋肉で出来ていると揶揄されてしまいながらも、そんな声など聞こえないと己に出来ることをするだけだと患者に誠実に向き合い、体調が良くなれば己の事のように喜べる、人の幸せを心の底から喜ぶことの出来る心身共に大きな男と毎日働き、そんな彼を頼りにするスタッフやそもそも彼をクリニックに引き抜いたー形になっている院長のホーキンスらの笑顔、その身を案じるあまりの厳しい顔などが脳裏を過り、過呼吸に陥ったように背中を上下させる慶一朗を恐ろしいほどの冷静さでケネスが見つめながら口を開く。
「相変わらず激情家だな」
その短絡的にも思える性格はいつか身を滅ぼすぞと教えたはずだと笑われ、その言葉に瞬間的に冷静になった慶一朗が掴んでいたシャツを手放して距離を取ろうとするが、リアムのように鍛えていないにも拘わらず抵抗出来ない強さで腕を掴まれ逆の手で顎を掴まれてしまい、その痛みに慶一朗の顔が歪む。
「……っ!」
「悪戯も度を過ぎると笑えなくなるぞ」
至近距離で睨み合いながら告げるケネスの顔は笑顔だったが、その綺麗な顔の下に隠されている冷酷さや残虐性を今まで身をもって経験してきた慶一朗の身体が無意識に震え、離せと蚊の鳴くような声で告げるが、己でも認識できていない声だったためにケネスに伝わるはずがなかった。
顎と腕を掴まれる痛みとそれを遙かに凌駕する恐怖が慶一朗の身体や心を侵食し、抵抗することもグラスを投げつけ胸倉を掴んでしまった非礼を詫びる事も出来ずにただただ呆然と、こんなときでも宝石のようにキラリと光る双眸を見つめることしか出来ないのだった。
いつものように仕事を終えいつもとは違う心持ちで帰宅したリアムは、帰宅を喜ぶデュークを撫でつつ洗面所に入り習慣になっている手洗いを念入りに済ませて洗面所から出てくるが、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだままのスマホが一つ震えた気がして取り出し、画面に映るメッセージを読んで天井を振り仰ぐ。
メッセージがありますと教えてくれるそれを読むためにスマホを操作しつつキッチンに向かうとリアムの後を追いかけてデュークもやってくるが、アイランドキッチンのカウンターから先へは進んで入る事が無いため、今もカウンターの横に引かれている目に見えない境界線の前でピタリと足を止める。
デュークの不思議そうな声を上の空で聞きながら冷蔵庫を開けたとき、いつかどこかで今のような感覚を味わったとリアムの心がざわめきだし、あのような事件は二度と無いと己に言い聞かせながらスマホに表示されるメッセージを開く。
そこには友人に会ってくるというただ一文だけが書かれていて、送り主が慶一朗だと必要も無いのに再確認した後に了解と返事を送るが、冷蔵庫から水のボトルを取り出した時、脳味噌に爪を立てた言葉を口に出す。
「友達……誰だ?」
慶一朗と付き合っている中で友人という言葉は余り耳にすることの無い言葉だったが、それは何も己の夫の人間関係が希薄という訳ではなく、友人を紹介するときにはその人の名前をまず紹介し、そして関係を教えてくれていたことを思い出すと、この友人という一言が引っかかり、誰だともう一度呟くとデュークがリアムの緊張を読み取ったように首を伸ばして小さく鳴き声を上げる。
その声に気付いてキッチンから出たリアムに嬉しそうについて回るデュークの横に座り込みその肩に腕を回したリアムだったが、脳味噌は友人に当て嵌まる人物像を思い浮かべていて、床の一点をじっと見つめてしまう。
ルカを筆頭に職場でも数は少ないが確実に存在する友人を思い出していく中、一人だけ名前を聞いたことが無い友人がいたことを思い出し、限界まで目を見張ってしまう。
それは、慶一朗がリアムと付き合うまで存在していたセフレのひとりで元カレだと教えられた、先日職場で話題になった為に聞きたいが聞き出せないでいた、ケネス・ジョンストン侯爵の名前と、己を射殺すつもりかと言いたくなるような強い視線を突き刺してきた端正な顔だった。
ホーキンスやマッカラム夫妻には確かめてみると言ったが中々それが出来ずに今日を迎えてしまったのだが、その時に呟いた言葉を口にすると、己の腕の中で大人しくしていたデュークが首を巡らせて不思議そうに見上げてくる。
「くぅん?」
「……ああ、お前じゃない、デューク」
お前の名前は確かに爵位の公爵から取ったものだが、今のは別の男だと苦笑し、デュークの耳の付け根を強く撫でる。
「公爵、いや侯爵か」
慶一朗が何故侯爵であるケネスを公爵ーデュークーと呼んだのかは理解出来ないが、あだ名のようなものだと笑っていたような気がし、その彼に会いに行ったのかと天井を見上げてやるせない息を吐く。
慶一朗の行動範囲なら今のリアムにはおよそ理解出来るが、その交友関係ともなるとお手上げだった。
だからリアムにとっては当然の行動で、スマホでメッセージを送ったのは今日も店に行くつもりだったアポフィスのオーナーであり友人のルカだった。
いつもならばすぐさま返事があるがメッセージは既読になるが返信が無く、珍しいと思いつつ立ち上がったリアムは、デュークに今日は悪いが留守番をしていてくれ、明日行けそうなら思い切り走らせてやると告げて階段を駆け上がり出掛ける準備を終えて降りてくると、デュークの水と食事の用意を手早く終えて少し出掛けてくると告げ、美味しいがいつもと違う空気を感じ取って大人しく尻尾を垂らしているデュークの頭を撫でて家を出て行くのだった。
← Prev | 第14話 Mein lieber Freund. |
Next →