視察団の前に立ち、ようこそと挨拶をする初老と言っても過言ではないが決して言わせない雰囲気を身に纏ったキリリとした女性が、ここの院長をしているディアナ・ホーキンスだと名乗り、その隣にいるまるでホーキンスの孫と言っても不思議はない年齢の大きな身体をしハニーブロンドの髪をさっぱりと短く刈っているが、顎のラインと鼻の下に髭を生やした男が、リアム・ユズ=フーバーと、初対面の人達にはリアムとしか覚えられない名を名乗って軽く目礼する。
その様子を団体の一番後ろで興味深げな顔を装って聞いていたケネスだったが、胸の奥でチリチリとした炎を抑えることが出来ていなかったようで、リアムと名乗った無駄に身体を鍛えている男と視線が合った瞬間、眉間に力を込めてしまう。
ケネスの強い視線の意味に気付いたのかそれとも気にしていないのか、リアムの視線がケネスの整った顔の上を右から左へと移動し、隣にいるほんの少しだけ距離を取っているような場所で夫婦揃って笑顔で頷いているマッカラム夫妻へと向けられるが、自分達に見せていたものとは少し違う笑みを浮かべた後にホーキンスに何やら耳打ちをし、視察団の全員に向けて一礼する。
「ドクター・ユズ=フーバーはこの後診察があるので失礼致します」
小さなクリニックですので案内は私が行いますとホーキンスが一同に断りを入れた後、事務長のホワイトから病院の概要について説明を致しますと伝えホワイトに目配せをすると、彼女の意を受けた少し緊張気味のホワイトが事務長のホワイトですと名乗りながら一歩前に出て病院の概要の説明を始め、それを背中で聞きながらリアムが診察室のドアを開けて中に入る。
マッカラム夫妻の傍に文字通りの貴族然とした長身の男がいたが、その彼に他の面々とは全く違う雰囲気を感じ取ったリアムは、診察台に腰を下ろし、太い腕を組んで天井を見上げる。
少し遅れてやって来た彼は確かジョンストンと紹介されていた気がするが、リアムの知己の中にそのラストネームを持つ人達はいなかった。
マッカラムの様子から知人だとは思うがと思案しつつ診察台から降りてドアを薄く開け、フロアで説明をしているらしいホワイトの背中とホーキンスの信頼している事が一目で分かる横顔が飛び込んでくるが、彼女たちの向こうから視線を感じて顔を上げると、二人の頭上に見えている青い冷酷にすら感じる目に見つめられている事に気付いて珍しく険しい表情を浮かべてしまう。
まさかと思いつつデスクに置いたままの視察団の資料を手に取りページをめくると、顔写真と肩書きが並べられたページを開き、思わず舌打ちをしてしまう。
今回の視察団の年齢は最年少で40代、最年長で70代と思しき人達で、その中でも一際目を引く男がジョンストン侯爵であることをその写真で確認したリアムは、先日ホーキンスとマッカラムとの話を思い出し、あの男が初めての支援をしたいので他の人達は遠慮して自分だけの手柄ーという言い方は好きではないーにしたいとマッカラムに迫った事を思い出すが、侯爵という肩書きも思い出して動きを止めてしまう。
ここへの支援を毎年行っているマッカラムもホーキンスから聞いたところによると、スコットランドの伯爵という肩書きを持っていたが、その彼に支援を止めさせる程の力をジョンストン侯爵が持っていることは理解出来るが、マッカラムと同等かそれ以上の支援を出来るものなのだろうか。
ヨーロッパの出身ながらも友人知人に今でも貴族と呼称される肩書きを持つ人達がいないために実感が湧かないと苦笑したリアムだったが、伯爵が出来るのだから侯爵ともなれば余裕のことなのだろうと己を納得させるように資料をデスクに戻し、再度診察台に尻を乗せて溜息を吐く。
侯爵ともなれば伯爵が支援する病院の支援を独り占めしたくなるのだろうか。
百歩譲ってその思考回路に理解を示せても、さっきもそうだったがあの強い視線の意味は理解出来なかった。
リアムにとって、ケネス・ジョンストンという名前を耳にしたのは今回の視察団の面々の情報を得たときが初めてで、しかもスコットランドの貴族に友人知人などいないため、あのようなまるでこちらを射貫くような強い視線で見つめられる理由が思い当たらなかった。
何だろうと首を傾げ、何か機嫌が悪かったのかと呟いた時、受付から全ての診察室へと繋がっている奥の廊下から看護師のニナが顔を出し、そろそろ患者を呼んでも良いかと問いかけられる。
「あ、ああ、呼んでくれ」
ホーキンスが視察団を案内している間、己はいつも以上に忙しくなるであろう診察を一人で捌かなければならないことを思い出し、ひとつ伸びをして背筋に力を込めると、気持ち的に襟を正してデスクの椅子を引きニナが呼んでくれた患者の入室を待つのだった。
気に食わなかった。
初めまして、ようこそと笑顔を浮かべながら差し出される手を握ると、その人の好さや体格に見合った大きさまでもが伝わってきそうな第一印象も、初めて会ったと思われるマッカラム夫妻とアイコンタクトを取ったと言うよりは、今抱えている問題がその男に委ねることで万事解決すると思っているような顔で頷いた夫妻も気に食わなかった。
ケネスが表面上は穏やかな顔で説明をしてくれる事務局長ー名前など覚えているはずがなかったーの言葉を聞いているが、一点もののスーツのジャケットとシャツに覆い隠されている胸の中では冷たい怒りが出口を求めるように渦を巻いていた。
ケネスの冷たい怒りの矛先はつい先程診察室に入ってしまったリアム・ユズ=フーバーと名乗った男に向けられているのだが、その怒りの根源が己がそれでも心底愛した男を取られたという嫉妬だった。
その嫉妬に気付きながらも認められず、またそんな己が情けないと思いつつも沸き起こる怒りにも似た嫉妬を抑えることも出来ず、ついつい自己紹介されたときに目に力を込めてしまったのだが、あの人の良さそうな男はそれに気付いたのだろうか。
今回視察団の一員に入ったのは、慶一朗が年下の医者と結婚し、その姓まで新しくしたという風の噂を確かめるためだったが、慶一朗が働く病院で会うことは出来ず、ルカに無理を言って部屋を押さえて貰った金曜日にでも確かめるしかないと落ち込んでいた為にろくすっぽ味も分からなかったランチの後にやって来た小さなクリニックの駐車場で見間違えることのない赤いスポーツセダンを発見したのだ。
その車を見た時、先程までの不機嫌さなど一瞬で吹き飛ばしたケネスは、少し風に当たってから中に入る、先に入っていて暮れないかと無敵の笑顔で一団から離れて慶一朗の愛車に寄り掛かることにしたのだ。
この車があると言うことは慶一朗がここに来ることは間違いないと思いつつ空を見上げたとき、白い年季が入ったジープが駐車場に滑り込んできた後、スタッフ専用のスペースに停まり、楽しげに言葉を交わしながら二人の男が車から降り立った。
その一人に見覚えはなかったが、ー腹立たしいことに今は忘れることなど出来なくなってしまったー助手席から降り立ったのは一瞬誰だか分からないと思うほど雰囲気が変化をしていた慶一朗だった。
眼鏡を掛けるようになったのか、上半分だけ少し幅のあるフレームの眼鏡を掛け、楽しそうに笑いかけるのは人の良さそうな大男で、こちらのことには全く気付かない様子で握った拳を分厚い胸板にトンとぶつけ、その手を大きな手が包んだかと思うと額に押し頂いたのだ。
曲がりなりにも恋人同士と言える関係だった頃や、その関係を解消し友人という関係になってからも慶一朗が敬意をそのような形で表されることもなければ表すこともなく、またそれを受けて今のようにこの世の幸せを全て享受しているような表情になる事もなかった。
それを見た瞬間、嫉妬で目の裏が赤く染まるという経験を人生で初めて体験したケネスは、理由は分からないが震える手を握りしめ、極力見えないように車の後ろに回り込んで慶一朗がやって来るのを待ったのだ。
そして再会した慶一朗に金曜日アポフィスで会おうと伝え、その際見た右手薬指に光る指輪の存在に神経を逆なでされるというよりは、焼けただれた串で背筋を貫かれたような痛みを覚えてしまったのだ。
アクセサリーは身に着けない主義だと笑った顔を歪ませたくて、止めてくれと掠れた声と涙目で見つめられても止めることもせずに抱き、失神したように眠る慶一朗の右耳に用意させていたピアスを無理矢理開けた夜の事が思い出されてしまう。
身体を傷付けられたことを目覚めて知った慶一朗は、ケネスが大丈夫かと声を掛けたくなるほどの狂乱ぶりを見せ、落ち着いたかと思えばソウの身体に傷を付けてしまった、あいつの身体なのにと焦点の合わない目で呟かれたのだ。
その後のことは思い出したくもないが、あの時のピアスに対して精神が崩壊してしまうほどの拒絶を見せたくせに、今は右手薬指にマリッジリングを填め、その手を大きな手に包まれて安心しきったような笑みを浮かべていたのだ。
何もかもが、気に食わなかった。
だが、今ここでその不愉快さを表に出すほどの狂乱から平静さへと己の心を移行させたケネスだったが、午前中に訪れたビクトリア・ノースヒル・ホスピタルのような大規模な病院ではない為にあっという間に院内の視察が終わり、さて、次の予定はと団長が確認している時、診察室のドアが開いて酷く癇癪を起こしているような男の子と、そんな子どもに手を焼きどうすればいいのか分からないと泣きそうな顔の母親が出てくる。
子どもの癇癪の声は穏やかな気持ちの時でも耳に触ることがあるが、背筋を焼き串で貫かれたような痛みを感じている今、その声は非常に不愉快だった。
その怒りが口から出てしまいそうなるのを拳を握って必死に押し殺していたケネスだったが、再度ドアが開いたかと思うと、フロアに寝そべって両手両足を使って不満を訴えている子どもの傍に大きな身体が近付いたことに気付き、その動向を見守ってしまう。
今では目尻に涙を溜めた母親の腕をひとつ撫で、絶対に悪いようにならないと教えるような笑みを浮かべた顔で何度も頷き、子どものことは任せて先に会計を済ませてきてくれと告げたらしく、母親が涙を手の甲で拭って受付へと向かう。
その横顔にはさっきまでの絶望が薄れているような気がし、泣き叫ぶ子どもにどのように対応するのかを見て見たくなったケネスは、一団が話をしていることをろくに聞くこともせず、子どもの傍に胡座をかいて座り込んだリアムの声が聞こえる位置へと静かに移動する。
「……なあ、ジュリアン、何をそんなに怒ってるんだ?」
お前がどれ程腹を立てているのかは分かったから泣き叫ぶのではなく言葉で教えてくれないかと、あのように泣き叫ぶ子どもを手懐けることなど出来るのかと興味を引かれたケネスの前、子どもの声が徐々に小さくなり、グズグズと鼻を啜るような音が響いた後、むくりと起き上がる。
「お、頑張ったな。……今日ここに来るのがイヤだったのか?」
「……No.……ちがう」
「そうか。じゃあ何がイヤだった?」
「……ママが、ここに来るって言ってくれなかった、から」
自分ももう妹が出来てお兄ちゃんになったのだ、だから病院に行くのも怖いけれど頑張れる、なのにそれを言わずに買い物に行くと言ってここに連れてきたことがイヤだったと、小さな手を握りしめて涙をぐいと拭くジュリアンの言葉にリアムが感心したようにそうかと頷き大きな手を柔らかそうな栗色の髪に載せると、小さな子どもでも矜持があると教えるようにグッと唇を噛みしめる。
「前に妹が出来たら僕が守ってやるって言ってたよな」
「……うん」
「それは今もそう思ってるか?」
「思ってる」
頑是無い子どもの機嫌を取るのか、それとも対等な関係だと言うような言葉を掛けるのかを密かに楽しみにしてしまっているケネスの視線にも気付かないのか、涙を必死に止めようとするジュリアンの目を真っ直ぐに見つめたリアムが、じゃあ今みたいに寝転がっていて妹もママも守れるのかと苦笑すると、何やら悔しそうに唇を尖らせて俯いてしまう。
「ママと妹を守るのはお兄ちゃんにしか出来ないことだろ? だったらさっきみたいな態度はもう止めないか、ジュリアン」
お前がそれを止めればきっとママは大喜びだろうし、まだ泣くことでしか感情を伝えられない妹も喜ぶぞと、子どもに言い聞かせると言うよりは同じ男を相手にしているように言葉を選ぶと、ジュリアンがもう一度握りしめた小さな拳で目元を拭い、大きく頷く。
「そうだよなぁ……ジュリアンはお兄ちゃんだ。だから頑張れる」
でも、たまにはママに甘えたくなるだろうから、その時はママにハグしてって言えば良い、泣いて叫んでも思いは半分も伝わらないぞと笑うと、この時になって初めてジュリアンの顔に子ども特有の柔らかな笑みが浮かぶ。
「うん……っ!」
「よし。いい男だぞ、ジュリアン」
そのまま真っ直ぐ大きくなってパパと一緒にママと妹を守ってやれと再度頭に手を載せたリアムが笑顔で立ち上がり、こちらに戻ってくるジュリアンの母に片目を閉じる。
「ジュリアンはもう話が分かる男です。病院も我慢出来るようになってるから正直に話してあげて下さい」
戻ってきた母が己の息子が何やら一回り大きくなったような気がし、リアムと息子の顔を交互に見つめるが、ありがとうございますと頭を下げると、リアムの大きな手がジュリアンに向けて広げられ、幼いが一人前の男になる一歩を踏み出した子どもの小さな手がその手をパンと叩く。
「ありがとう、ドクター」
「どういたしまして」
さあ、次の患者が待っているので診察に戻るかと、この時になって漸くフロアにいた面々の視線が己に集まっている事に気付いたのか、羞恥を押し隠すように呟きながら足早に診察室に戻っていく。
その時に己の傍を通り過ぎたリアムを視線で追いかけたケネスだったが、彼がここにいてくれるおかげで私も安心出来ますと、全幅の信頼を置くとこのような表情を浮かべられるのかと感心するような穏やかな顔でリアムが入った診察室を見つめるホーキンスの言葉が聞こえ、確かに今のような対応が泣きわめく子どもにも出来るのならば老若男女どんな難しい患者が来ても対応出来るだろうと簡単に想像出来てしまい、無意識に握りしめていた手に力を込めてしまう。
見た目だけではなくその心の広さも、己とは正反対の大きさを持つリアムに慶一朗が惚れて結婚した理由をまざまざと見せつけられたような気がし、ギリ、と奥歯を鳴らしてしまう。
それもこれも、何もかもが気に食わなかった。
己が別れた恋人が結婚し、己と一緒にいるときに比べて遙かに幸せそうにしている姿に嫉妬し、彼にあのような表情を浮かべさせられるリアムという男に嫉妬している己を自覚したが認められないと苛立たしそうに舌打ちをするケネスと、そんな嫉妬を向けられていることなど思いもよらないリアムが昨日と同じように診察をしているクリニックの上を地上のいざこざなど素知らぬ顔で雲が悠然と流れていくのだった。
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