7月に入り真冬の寒さが少し和らいだような、それでも日が昇らない時間は肌寒いを通り越した寒さを覚えるある日の午後、ティーブレイクを終えてもうひとがんばりしようとスタッフ達で気合を入れていたホーキンス・ファミリー・メディカルセンターの院長であるディアナ・ホーキンスのスマホに緊急性を感じさせるメッセージが届いた。
メッセージの送信者は、クリニックの運営を陰から支えてくれているスコットランド在住のクレイグ・マッカラムで、久しぶりにメッセージをくれた己の従弟の名前に懐かしさから目を細めた彼女だったが、メッセージを読み進めていくうちに顔から笑みが消え表情が消え、読み終えた時にはすべての感情を溜息に混ぜ込んで吐き出してしまう程だった。
ティーブレイクの時にはいつも通り楽し気に話を聞きながらスタッフが買って来たスコーンにクロテッドクリームとブルーベリージャムを載せていたのにと、彼女の様子に気付いて観察していたホワイトが小首を傾げてしまう程、そのメッセージを読んだ後の様子は変化していたが、ホーキンスはそれに気付いていないようだった。
そんな彼女の様子に不安を覚えたホワイトは、今日の診察を終え、お疲れさまと労いの言葉をかけて今日のディナーは寒いからスープを作って食べようと笑って他のスタッフ達と話していたリアム・ユズ=フーバーという名のもう一人のドクターに己が覚えた不安を共有しようと呼び止める。
「リアム、ちょっと待って」
彼女の声に滲んだ不安に気付いたのか、愛車のキーを掌に載せて音をさせていたリアムが足を止めて振り返り、どうしたと小首を傾げると、趣味の域の筋トレが今では愛する家族を支える為に必要不可欠になったために鍛えている体でホワイトが覚えた不安を受け止めようとしているように彼女に向き直り、一言一言を聞き逃さないと教えるように無言で頷きながら言語化された不安を受け止めようとする。
人に向き合う時に無条件で相手が安心するであろう態度でホワイトの話を聞き終えたリアムは、壁に背中を預けて腕を組み、診察後の事務処理も終わって帰宅したために無人になった受付へと顔を向け、今はまだ情報が少なすぎると小さく溜息を吐く。
「そう、そうよね」
確かに彼女がメッセージを見ただけで浮かない顔になったというだけではその原因を探るにも情報が少なすぎると、リアムの至極もっともな言葉に彼女自身先走ったことに気付いて溜息を吐くが、教えてくれてありがとうと白い歯を見せてリアムがホワイトに向き直る。
「リアム?」
「いや、もしディアナから相談を受けたとしたら、先に聞いていた事があれば何かと都合が良いだろう?」
「それもそうね」
リアムの言葉が己の先走りを諫めるというよりはフォローをしてくれたのだと気付き、この気遣いは本当にどこから生まれてくるのかと、リアムの伴侶である慶一朗が常々話している事を実感してしまい、本当にあなたはと言いだそうとした時、二人の様子に何かを感じたのか、診察室から出てきたホーキンスが微苦笑交じりに呼びかける。
「どうしました?」
「ああ、ディアナ」
長年公私に渡って付き合いのあるホーキンスが悩んでいるのなら相談に乗ると、クリニックを事務全般で支えるというよりは、友人の悩みを聞き出して解消したいと思っている様子のホワイトが彼女に何か問題が起きたのかと問いかけるが、それに対する返事はなく、いつもどのようなことでも明確にすぐさま返事をする彼女が沈黙したことに二人が同時に顔を見合わせてしまう。
「そう、ですね……少し頭の痛い問題が起きたので、ついそれについて考えこんでしまっていました」
診察を疎かにはしていないが、あなた達に心配をかけてしまったことは反省しなければと苦笑する彼女にリアムが頭に手を当てた後、見た者に安心感を与えるような笑みを浮かべ、ホーキンスの目を見開かせる。
「今ディアナがしなければならないのは反省ではなく相談じゃないか?」
「そうよ!」
「……」
クリニックの運営という、医者という立場よりも経営者としての立場ですべてを見渡さなければならない時もあるホーキンスを支えているリアムとホワイトの言葉に彼女が一度息を吐いた後、そうですねと穏やかな笑みを浮かべるが、皆にはまだ知られたくない話があり、まだ自分自身纏め切れていないので纏まった時に話をすると伝え、心配をかけてしまったことは反省しなければと微苦笑する。
それを受け入れた二人が同時に頷いた後、じゃあ今日は帰るから纏まったら話してくれとホーキンスとホワイトに告げたリアムが手を挙げてクリニックを出ていき、ホワイトも安堵に息を吐いてロッカールームに向かおうとするが、そんな彼女の背中をホーキンスが呼び止める。
「ソフィー」
「何かしら?」
呼び止められ肩越しではなく体全体で振り返ったホワイトだったが、何かを躊躇うような珍しい表情を浮かべたホーキンスに気付き、目を激しく瞬かせてしまう。
「ディアナ?」
「……クリニックへの援助について問題が起きたようです」
駆け戻って来たホワイトが聞いたホーキンスの自信の欠片もない声にただただ驚き声を喪った彼女は、続いて呟かれた言葉にどう返事をすればいいのかが分からず、まるでホーキンスがメッセージを受け取った時のように次第に顔色を無くしてしまうのだった。
ホーキンスが運営するクリニックに問題が発生したと彼女が認識したのと同じ頃、クリニックから西に数キロ離れた小高い丘の上、周囲を威圧するようにヴィクトリア・ノースヒル・ホスピタルが威容を誇って建っていた。
その偉容の中には種々雑多な人々がいて、診察を受ける不安を隠しきれない患者やその家族、そんな患者に向き合うドクターやナースらが己の職分を全うしようと働いていたが、そんな人達の中を少しの不安を顔に浮かべながらもにこやかな顔で院長室と書かれたプレートが掲げられているドアをノックし、入れとの言葉を聞いて溜息を吐いた後にドアを開ける。
「呼び出して済まないね、ジャック」
「いや、大丈夫だ」
丘の上に聳える白亜ーとは冗談だがーの建物で働く人々の上に立つ男が招き入れた彼を見て安堵の息を零し、ソファを進めつつ己もデスクから立ち上がってそちらに向かう。
「それよりもどうしたんだ?」
ソファで向かい合うのは、この病院長であるハロルド・アーチボルドで、口ひげを神経質に触っていることから、向かい合っているジャック・テイラーが何かしらの問題が発生したことに気付き、ソファの背もたれに片腕を回して足を組む。
「何か問題でも発生したのか?」
自分がこの病院で働き始めて結構な年数が経過するが、大なり小なり問題の無かった日など一日たりとも無いだろうと笑みに皮肉を混ぜ込むと、アーチボルドが盛大な溜息を吐いて両手を組んで顎を載せる。
「さっき理事長にスコットランドから視察が来るから粗相の無いようにと言われた」
「スコットランド?」
「ああ」
しかも今回の視察はどうやら理事長としてもいい顔を見せたい相手がいるらしいと、コーヒーテーブルに顔を突き出すように前のめりになり、それを受けたテイラーも組んでいた足を解いてアーチボルドに付き合うように同じ姿勢になる。
「視察の日程は?」
「来月の10日から2日間。1日はうちであと1日は周辺の病院の視察だそうだ」
2日間の視察にスコットランドから遠路遙々やって来る、それはおかしな事でも無かったが、何かがテイラーの心の中でシグナルを発している気がし、視察団のメンバーが分かればすぐに教えて欲しいが、病院全体の視察ならハリーと事務長のカーターの出番だろうとテイラーが肩を竦め、何故その情報を真っ先に僕に教えたんだと言外に問いかけるとアーチボルドの視線が迷いを表すように左右に泳ぎ、二人の間のテーブル表面へと最後は着地をする。
「……小児科と脳神経外科の視察をしたいと希望があった」
「小児科とうち?」
「ああ」
それだから先に教えておこうと思ったと告げられ、それはありがとうとテイラーが礼を言うが、その時、記憶の中に貴族然とした端正なー一見するだけではノンブル特有の穏やかな顔立ちだが己の敵に対しては瞬時に冷淡なものになる顔が思い浮かび、溜息を吐いているアーチボルドに気取られないように気を付けつつテーブル上に乗り出していた上体をソファへと引き戻す。
「オペの見学をするのか病棟の視察になるのかはまだ分からないが、よろしく頼むよ、ジャック」
「そうだなぁ……うちのドクター達に聞いておこうか」
もっとも、色よい返事を期待するのは無理があると思うぞと、足を組んで滅多に見せない尊大な態度で病院長という肩書きの同級生を真っ直ぐに見つめると、アーチボルドの手が髭に伸びて溜息を指先で弾く。
「小児科のドクター・マーティンは快く引き受けてくれたんだ、お前も協力してくれ」
アーチボルドの言葉が院長と言うよりは気安く話せる同級生のものになっている事に気付いたテイラーが今度は溜息をひとつ落とすが、マーティンは長いものに巻かれていなければ不安になる体質だから快く引き受けるだろうと胸中でのみ呟くと、咳払いをひとつ。
「仕方がない、きみのたっての願いというのなら聞いてやろう」
「……助かるよ」
海外からの視察は珍しいものでは無いが、スコットランドの有力貴族がぞろぞろとやって来ると聞かされれば今からそわそわしてしまうと、テイラーの言葉に感謝しつつも気が重いと本音を零すアーチボルドの言葉に一瞬テイラーが拳を見えない場所で握りしめるが、穏やかさと同級生を揶揄う色を混ぜ込んだ表情は先程と何も変わることが無く、きみのそれが気苦労で済むことを願っているよと笑うと、話がそれだけならば詳細が判明次第すぐに教えてくれと伝え、気怠げにソファから立ち上がる。
「うちの周辺の病院の視察だが、ホーキンス先生のクリニックを紹介しようと思う、どう思う」
「先生のクリニックか……まああそこには今うちから出向している小児科医もいるから良いんじゃないかな」
立ち上がり背中を見せるテイラーにアーチボルドがもう一つ頭の痛い問題だと嘆息混じりに零したのは、周辺の病院の視察先についての打診で、知己もあるホーキンスのクリニックで引き受けてくれないだろうかと問いかけ、それを受けたテイラーがくるりと振り返って仕方がないと言いたげに笑みを浮かべる。
「後で先生のところの事務長に確かめてみればどうだ?」
「そうだな、カーターに頼んでおこう」
「ああ、それが良い」
事務関係はカーターに任せれば安心だろうと笑って手を振り病院長室を後にしたテイラーだったが、一階下にある己のオフィスに軽い足取りで戻った後、デスクに腰を下ろして背後の大きな窓に向き合うように椅子を回転させる。
「スコットランドの有力貴族、か」
独りごちるそれに滲むのはこの時のテイラーには自覚できない危機感にも似たもので、スコットランドの貴族と言っても数多といる、彼がここに来るとは限らないと己を安心させるように呟くが、一言忠告しておいた方が良いのだろうかと、己の年下の友人であり最も目を掛けている部下でもある男にこの話を伝えるべきかと思案するが、次の情報が入ってきてからでも問題はないと苦笑し、アーチボルドの先取りした不安が己にも感染したのだと気付くと、肘置きで頬杖を付いて暮れてゆく冬の空をぼうっと見つめてしまうのだった。
とっぷりと日も沈んだ6月の夜、今日も働いてきたと満足と疲労を混ぜ込んだ顔で帰宅したのは、己の上司であり良き理解者でもあるテイラーに密かに心配をされていることなど知る由のないケイ・ユズリハ=フーバーと先日役所に通名と姓の変更手続きを行い、認められたばかりの慶一朗だった。
周囲の友人や職場の関係者も誰ひとりとして慶一朗のことをパスポートに記載されている杠慶一朗と呼ばないが、最大にして最高の理解者で同じ姓を所有するハニーブロンドとヘイゼルの双眸を持つ人畜無害のマッチョマンである己の伴侶だけが真摯な思いを伝えたいときに限り、慶一朗と思いを載せてその名を呼ぶが、それも限られた場所でだけのため、職場でのネームプレートにはあまりに長いからと省略したユズ=フーバーという名前が記され、仕事を離れれば皆ケイと呼んでいた。
何が変わったのかと具体的に問われ、書類にサインをするときにそれを実感するだけだとお互い笑っていた二人だったが、今日もあなたより一足先に家に帰ってきてクレバーボーイと一緒に待っているとメッセージで教えられ、キスマークを送り返したのだが、ガレージに愛車を止めてシャッターが完全に下りたのを確かめ、家に入るドアを開ける。
「……お帰り、ケイさん」
ドアの前、玄関に向けて置かれた荷物置きにも靴を履くときに腰掛けることも出来るソファの肘置きに腰を下ろし、ドアが開くのを今か今かと待ち構えていたような笑みを浮かべた伴侶が笑みを浮かべて小さく両手を広げて出迎えてくれる。
「ただいま、リアム」
その腕の中に飛び込もうとするが、足下で僕を忘れるなと言いたげに吠える声が響き、二人同時にそちらへと顔を向けると、茶色と黒の艶々とした毛並みのジャーマン・シェパードのデュークが前足を慶一朗の太腿に押しつけて伸び上がっていて、リアムとハグする前にただいまと声を掛けるが、やはりハグが先だと笑ってリアムの広げられている腕の間に身体を押し込み、広い肩に頬を宛てて一日の疲労感を吸い取ってくれと笑うと、俺はスポンジかと楽しげな声が頬にキスとともに落とされる。
「吸収力がいつまでも変わらないスポンジだな」
何やら何処かで見聞きしたことがあるキャッチコピーのような言葉を呟く慶一朗の顔にも笑みが浮かんでいて、次いで二人が再度愛犬に顔を向けると、慶一朗がその場にしゃがみ込んでデュークの顔を両手で挟んでわしゃわしゃと少し乱雑な手つきで撫で回す。
「ハロゥ、クレバーボーイ、今日もご機嫌で留守番をしていたか?」
「ワン!」
慶一朗の言葉を理解しているようにデュークが自慢げに吠え、そんな慶一朗とデュークに笑みを浮かべたリアムがディナーの仕上げに掛かるから着替えてこいと言い残してキッチンに向かう。
「今日のディナーは?」
「チキンステーキ」
「すぐに着替えてくる」
リアムの返答を受けて立ち上がり、公爵を従えた皇帝が威風堂々と洗面所に向かい、出てきた時にはその威厳を洗面所に脱ぎ去ってきたのかと笑いたくなるようなバスローブ姿で、慶一朗の体格を思えば長すぎる袖を折りながらカウンターの前にやって来る。
「美味そう」
「うん、少し自信があるから食べてくれ」
そしてお付きの公爵閣下にはこちらを召し上がっていただこうと、カウンターの真横の床に特設の食事処を設置し、チキンボーンといつものエサをボウルに入れ、水はこちらにありますとヘイゼルの瞳を茶目っ気に細めたリアムがデュークのためにも用意をし、種族を越えた二人と一匹の雄が横一列にカウンターに並ぶ。
「Hau rein.」
ドイツ出身のリアムとルーツを日本とドイツに持つ慶一朗にとっては当然のドイツ語で、日本での習慣が何故か抜けきらない食事前の挨拶であるいただきますに当たる言葉をドイツ語で二人同時に告げ、目の前のチキンステーキを切り分けると、まずはリアムが慶一朗に一切れを食べさせ、次いで慶一朗がお返しとばかりに同じチキンステーキをリアムに食べさせる。
二人にとっては儀式の、周囲の友人達にとっては仲の良さを見せびらかす行為を自然と行い、うん、今日のソースが本当に美味いと慶一朗が口の端に付いたソースを舐めた後に笑みを浮かべ、リアムの顔に同じ笑みを浮かべさせる。
二人の穏やかな様子に安心したのか、チキンボーンに齧りついていたデュークが嬉しそうに水を飲んで身体に相応しい量の食事をする。
その穏やかなディナータイムは昨日と何も変わらないもので、間もなくスコットランドからやって来た貴族が巻き起こす騒動に二人が巻き込まれることなど想像も出来ないため、昨日や一昨日から続く穏やかな仕事終わりの夜を二人と一匹で過ごすのだった。
そんな少し先の未来を予見したのか、冬の夜風が一際強く二人が暮らす家の遙か上空を吹き抜け、そこに留まることを許されなかった雲が風に乗って流されていくのだった。
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