その声が深い眠りに就いていたリアムを一瞬で叩き起こしたのは、掛布団にすっぽりと隠れてしまっている頭がある辺りを手触りだけで確かめ、お休みのキスと言葉を投げかけてからさほど時間が経過していない頃だった。
いつもとは違って布団越しに抱きしめていた痩躯の何処にそんな力があるのかと感心するような強さで腕を跳ね除けられた事に夢の出口に手を掛けた時に気付き、次いで耳を塞ぎたくなるような悲鳴が響き渡る。
その声で完全に覚醒し、ベッドから転げ落ちたような音が小さく感じる悲鳴を上げる慶一朗の名を呼び、ベッドの足元で縋る物を探るように床を這う背中を発見し、胸郭の内側を直接手で握りしめられたような苦痛を覚えるが、今最も苦痛を覚えているのは己ではないと言い聞かせ、悪夢の元凶から逃げ出そうとドアに手を伸ばす慶一朗の前に回り込んで気付いてくれと願いつつその手を取る。
「ケイさん」
「……っ!」
リアムが手を取った事は慶一朗にとっては悪夢の中で足を掴まれてしまった恐怖に繋がっているのか、短く息を飲んだ後、抵抗しないから痛い目に遭わせないでくれと震える声で懇願されてしまい、奥歯が砕けそうな程噛み締めてしまう。
蒼白な顔で小刻みに手を震わせてしまう程の恐怖に囚われている事が一目で分かるが、その根源を思い出すと同時に脳味噌の一部が何処か冷静に今までに何度も見た光景だと思い出し、それならば対処できるはずだと前向きな思いが芽生えると同時に痛みに竦み上がっていた身体に熱と力が戻って来る。
「ケイさん!」
己の脳味噌が見せる悪夢とリアムが手を掴んだことから悪夢が実体化したような錯覚を覚えているのか、起き上がって後じさりしようとする慶一朗の手を引き止めるように握り、恐怖から泳いでしまう視線を捉え声が届くように根気強く目を覗き込んで繰り返し名を呼ぶ。
「ケイさん」
何度目かの呼びかけの後、漸く目の前の現実が悪夢が実現したものではなく、昨日から続く現実のものだと気付いたように目が見開かれて恐怖が一滴の涙となって頬を滑り落ち、それに気付いたリアムが指先でそれを掬うと、震える声が名を呼んでくれた為、安堵に息を吐いて小さく頷く。
「リ……アム……?」
「うん。……夢を見たのか?」
当たり前のことしか問いかけられない己に忸怩たる思いを抱えつつもそう問いかける事しか出来ず、蒼白な顔が小さく上下したことに気付いて床で握りしめられている手も取ると、両手を重ね合わせてそっと己の両手で包み込む。
「もう大丈夫だ」
もう大丈夫と繰り返しながら見開かれたままの双眸を覗き込むと安堵に頬を緩ませている己の顔が小さく映っている事に気付き、いつまでも床に座っていないでベッドに戻ろうと立ち上がる事を促すと、何とかその言葉に従おうと立ち上がるが、足に力が入らないのか膝から崩れ落ちそうになり、慌てて体を支えてその勢いでベッドに座らせる。
「ケイさん、水を持ってくるから少し待っててくれ」
いつもなら水をもってここに来るが今日に限ってそれをしなかったことに舌打ちをしたリアムだったが、慶一朗の腕を撫でて俯いたままの髪にキスをし、その筋肉量を思えば信じられない程の速さで部屋を飛び出し階段を駆け下り、パルクールの選手かと思う身軽さでキッチンに駆け込んで冷蔵庫を開けてボトルを取り出して元来た道を駆け戻る。
お待たせと告げつつベッドルームに戻ると、リアムが部屋を飛び出した時と何ら変わらない姿勢のままの慶一朗がいて、無意識に安堵の息を吐いた後、水を飲もうとその前の床に座り込んで伏せられたままの顔を覗き込むと、膝立ちになって微かに震えだした体を抱きしめる。
「……久しぶりに夢を見たから驚いたな」
ここの所夢を見ることも魘されることも無く眠っていたから安心していたけれど、オーガストとの口論で思っていた以上に疲れたのかと、のろのろと上がった手が背中に回った事を確かめて胸を撫で下ろしたリアムが髪にキスをした後に問いかけると、掠れた声が違うとその疑問を否定してくる。
「ケイさん?」
「……お前の大きさに比べて……自分の小ささに呆れただけだ」
リアムの胸板にぶつけられる小さな自嘲を聞いているのは辛かったが、そんなことは無いと遮ってしまえばきっといつまでも言い続けるだろうと判断し、抱きしめる腕に少しだけ力を込めながらそうかと返すと、シャツの背中を握る手にも力が入ったようだった。
「本当に、いつまで経っても……情けない」
お前の人としての大きさや心の広さを見るにつれ己の矮小さに気付かされて呆れてしまうと笑う肩を抱きしめ、仕事ではあなたは優秀と認められているのだ、だから矮小などと卑下するなとさすがに黙って聞いていられなくなったリアムが自嘲を止めさせようとするが、しがみつくように抱きしめられながら情けないと笑われてしまい、そんなことは無いと少しだけ語気を強めると腕の中の痩躯がびくりと揺れる。
その小さな揺れが悲しくて、髪にキスをする為に伸び上がった後、そのまま背中をベッドに沈ませて半ば強制的に顔を上げさせると、この人にこのような表情を浮かべさせてはいけないと改めて付き合いだした頃の気持ちを彷彿とさせる笑みを浮かべている事に気付き、ひとつ歯軋りをした後に額に額を重ねる為に顔を寄せる。
「……そんな顔で笑うな、慶一朗」
「……っ」
己の言葉がどのような結果をもたらすかをある程度予想しながら、今では双子の兄と日本にいる数少ない友人以外呼ぶことのない名を呼ぶと短く息を飲む音が聞こえ、再度背中に腕が回されるがさっきとは違う強い力で抱きしめられる。
付き合い始めた頃、どちらも今と違って互いの過去を知らなかった為に今のような笑みを浮かべながら向かい合ったことが幾度もあったが、その時の事を懐かしく思い出しながら、あなたは世界中の罪を背負っているわけではない、今背負っているのはあなた自身が口に出した言葉の帰結先の未来だけだと己の思いが伝わるようにと祈りつつ口を開くと、伝わった事を教えるように体が寄せられてくる。
その体を抱きしめながら寝返りを打って体勢が入れ替わった事で軽く目を見張るその目尻にキスをし、どんなあなたでも好きだからと有りっ丈の本心を軽口に乗せるように伝えると、それを疑うように色素の薄い双眸が二度三度左右に揺れた後におずおずと見下ろしてきた為に笑みを浮かべて再度目尻に口付ける。
「……リアム」
小さな声で名を呼ばれて起き上がるような仕草を見せた為に体を起こすと、もう一度視線が左右に揺れた後、そっと小さく両手が広げられる。
その意味をリアムは正確に読み取れるようになっていたが確認と自覚させる為に寝る前のあの言葉に対する謝罪かとにやりと口の端を持ち上げると、先程キスした目尻を赤く染めつつ端正な顔が小さく上下する。
慶一朗と己の間での暗黙の了解になっている謝罪を受けて許したことを教えるようにその腕を押し広げて体を押し込むと、安堵したような溜息が肩越しに背中を滑り落ちていく。
己の言葉の帰結した未来を自覚し、言葉では無理だからと態度で謝罪の意思を伝えてくれる伴侶の不器用さを体ごと受け止め、もう大丈夫だと伝えるように背中を撫でると今まで緊張していた体が弛緩したようにもたれかかってくる。
難なくそれを受け止めそのまま再度ベッドに横たえようとすると、水が欲しいと強請られて少し慌ててボトルを手に取り、震えも解消された手にそれを握らせる。
落ち着いて水分補給をする背中を支えていたリアムだったが、ドアの方から小さな音が断続的に聞こえてきた事に気付いて何事だと顔を見合わせてベッドから降り立ってドアを開けると、そこには不安そうに耳を倒しながら前足でドアを掻いていたデュークがいて驚きに目を丸くしてしまう。
デュークのベッドはリアムの階下のトレーニングエリアにあり、犬種の標準的な大きさに成長してきたデュークでもゆったりと眠れる大きなベッドをケージで囲った安全地帯に置いてあり、いつもならばそこで大人しく眠っているはずなのにと、驚きながらも膝を着いたリアムがどうしたと問いかけながら顔を撫でる。
くぅんと不安げに鳴く声はデュークが二人の友人になる為に家にやって来た頃は良く聞いたが成長するにつれ滅多に聞かなくなった声で、今日はお前も不安になっているのかと微苦笑しつつ頭を撫でて安心させようとするが、デュークの目が己の後ろに向けられている事に気付き、ああと嘆息する。
階下で眠っていたデュークを起こしてしまう程の悲鳴だったかと苦笑し、己の前と後ろから湧き上がる不安の合唱を鎮めるために一つ肩を竦めた後、デュークの頭にキスをして中に入れと促すと、慶一朗がデュークまで叩き起こしてしまったかと漸く上がった顔を再度伏せそうになるが、リアムの許可をもらった事でデュークがベッドに走って飛び乗り、慶一朗にその勢いのまま飛びつき慶一朗をベッドに押し倒してしまう。
「ケイさん!」
「……っ!」
手にしていたボトルを危うく取り落とすところをリアムが素早くキャッチをしたが、慶一朗自身は勢いを受け止められずに背中から倒れ込み、デュークが不安そうに鳴きながら慶一朗の顔を舐めまわす。
「こら、止めろ、デューク!」
くすぐったいと、舐めまわされて物理的にくすぐったさを感じて制止の声を上げる慶一朗の横に座り込んだリアムは、デュークも心配して駆けつけてきたと笑いながら二人の良き親友の頭を強めに撫でて布団の上で尻尾を左右に何度も振らせてしまう。
いつもは二階に上がる事を禁じているが今日は特別だと笑い、デュークに慶一朗が眠っている時に背中を守ってやってくれと告げると、茶色と色素の薄い双眸に同時に見つめられ、体重を掛けないように気を付けつつ慶一朗とその横にいるデュークの背中に覆い被さる。
「お前もか!」
大型犬と人の形をした超大型犬に圧し掛かられて思わず悲鳴を上げた慶一朗だったが、デュークが楽しそうに顔を舐めてきた事に気付き、俺じゃなくリアムの顔を舐めてやれと叫び、リアムがそれも良いがその前にと笑って肩で息をしている慶一朗を救出すると、いつもはダメだけどと前置きをして今夜はデュークも一緒に寝ようと頬にキスをする。
「……良いのか?」
「うん、今夜は特別だ」
何しろ禁じている二階に上がってきているのだ、ここで下に行けというのも可哀想だし、何よりもケイさんの背中を守ってもらいたいからと笑うリアムに慶一朗が良い子の姿勢で待っているデュークに顔を向け、先程のものとは違う思いから両手を広げると、それを意味することを理解している黒と茶色の物体が飛び込んでくる。
「デューク、今日はここで一緒に寝るぞ」
「ワン!」
ここに入って来た時とは別の犬かと思う程尻尾を左右に激しく振り慶一朗の顔を舐めまわすデュークの頭を後ろから撫でたリアムだったが、そろそろ横になろうと慶一朗に笑いかけ、デューク、ケイさんの背中の守りを頼んだと信頼している事を教えるように背中をポンと叩くと期待に応えるように顔が挙げられてベッドの足元に向かい、その場で丸まって欠伸をしてしまう。
「デューク、ケイさんの背中はそこじゃないぞ」
そこはケイさんの足元だと笑うリアムに釣られたように慶一朗の顔にも笑みが浮かび、枕に頭を載せてデュークの柔らかな腹に爪先を突っ込むと、もぞもぞとした後に両足の上に圧し掛かられる。
人と比べると早い鼓動と熱を足から感じ、温かいなとぽつりと零すと、慶一朗の横に潜り込みいつものように頭と枕の間に腕を突っ込んだリアムが慶一朗の額にキスをした後に頷く。
「うん、そうだな、生きているからな」
「……リアム」
己の頭の下に当たり前のように腕を突っ込んで腕枕をするリアムの名を呼んで視線を貰った慶一朗は、同意したと視線で問われて己に言い聞かせるように小さく頷いた後、俺は明日もやれるだろうかと小さな声で問いかけ、掛布団を肩に引っ張り上げたリアムにそんな心配をする必要はないと小さく笑われてしまう。
「……」
「ケイさんなら大丈夫だ。オーガストと口論になったけど、明日になればまた普通に話が出来る」
「そうか?」
「うん。プロフェッサーがいた頃を思えば仲が良くなっただろう?」
あの頃と比べれば今のあなたと彼との関係はたとえ一度の口論があったとしても以前のようなものにはならないはずと優しく断言され、慶一朗の中にそうだろうかという疑う気持ちが沸き起こるが、真横で欠伸をするリアムの顔を見るとそんな疑心が霧散していく事に気付く。
己でも理解していない己の事を誰よりも理解しているリアムの言葉なのだ、疑うのではなく信じてみよう、もし万が一信じた事で傷を負ったとしてもリアムの言葉を疑うより信じる方が気持ちが良いとも気付き、もう一度欠伸をするリアムの腰に腕を回して身を寄せる。
「……明日、頑張りたいから美味いメシを食わせて欲しい」
「ん? ああ、じゃあ明日のモーニングはアメリカンブレックファストにするか」
卵料理はスクランブルエッグにして肉はベーコンをカリカリに焼いて、お気に入りの肉屋で買って来たソーセージも焼いてマスタードを付けて食べよう、パンはバケットでもマフィンでも良いかなと明日の朝のメニューを思い浮かべているように呟くリアムにそれも捨てがたいがと微苦笑しつつ本心を伝えるため髭に覆われている頬に手を添えて驚いたように見つめ返される。
「ランチボックスを……作ってくれないか?」
「モーニングじゃ無くてランチボックスが良いのか?」
「あのカフェの料理が本当に口に合わなくなってきた」
あの店はあの店で美味いのだろうが、それ以上に毎日美味い料理を食っているから平均点が上がっていると笑うと、慶一朗の食育を密かに行っていた男の顔ににやりと笑みが浮かぶ。
「ケイさんがそう言ってくれるから毎日のメシを作るのも億劫じゃ無くなるな」
やはり人を動かすのは褒めることだと笑顔のお手本になるような笑みを満面に浮かべて片目を閉じるリアムの鼻を摘まんだ慶一朗は、漸く緩んだ口角を持ち上げてお前のランチボックスを持って明日のランチはカフェではなく庭で食うことにすると笑うと、二人の間で笑顔が増幅されていく。
「俺もケイさんのランチ時にそっちに行こうかな」
「午後の診察に間に合わなくなるから止めておけ」
「やっぱりケイさんと一緒に働きたいなぁ。そうすればケイさんと一緒にランチを食えるのに」
今の職場に不満はないが最大にして最高の不満はあなたと同じ場所で働けないことだと、この時ばかりは小さな子どものような顔で口を尖らせるリアムが珍しいと思いつつも、この顔を見ることが出来るのが己だけだと気付いている慶一朗が宥めるように頬を撫でて額と鼻の頭に口付ける。
「お前が抜ければディアナが困るだろう?」
「……ケイさんがこっちに来てくれれば良いのに」
その呟きは苦し紛れのものだったが二人の胸の奥に小さな小さな種となって植え付けられ、本当にそうなれば良いなと慶一朗が期待と痛みを浮かべた目を細め、そろそろ寝ることを教えるように欠伸をするが、その前にどうしても確かめたくなった気持ちを優先するように口を開く。
「……リアム」
「ん? どうした?」
幼い頃、震える手で震える身体を抱きしめながら夜が明けるのを待つことしか出来なかったが、今はそうでは無いと己の心身に教えてくれるような静かな声がどうしたと再度問いかけるだけでは無く、震えていないのに背中を抱きしめてくれて熱を覚え、両足の上にのし掛かっている熱も感じられたことに目を伏せる。
あの頃、悪夢は現実の続きであり現実へと続くものだったが、今はそうではないことを背中と足に触れる自分以外の熱から気付き、自然と口角を持ち上げてしまう。
今己が生きているのは、あの頃とは全く違う現実なのだ。
一人で蹲る必要の無い、大きく暖かな男が傍にいてくれる、あの頃の己からすれば信じられない夢のような現実だった。
悪夢の先の未来を生きている実感を胸に、大丈夫かと問いかける代わりに額の髪を掻き上げてくれる優しい手を掴んでキスをし、もう大丈夫だと伝えると安堵の吐息が顔の傍に落ちてくる。
「おやすみ」
「うん。……お休み、ケイさん」
何時間か前には出来なかった一日を締めくくるキスを漸くすることが出来た安堵に顔を綻ばせたリアムのキスを頬に受けて慶一朗も同じキスを返した後、リアムの腕の中でも最も寝心地の良い場所を探すように身動ぎし、その動きに合わせたように足を覆っていたデュークも僅かに動くが、足下から気持ちよさそうな寝息が掛布団を通して聞こえてくる。
その寝息に釣られるように慶一朗が目を閉じ、暗くなった世界で額に濡れた感触を覚えた事が現実なのか夢なのかを判断できないが何処よりも安心出来る場所にいる安堵を寝息に混ぜてさっきとは全く違う気持ちで眠りに就くのだった。
翌朝、慶一朗専属のスタイリストにもなるリアムが鏡の前で愛する男の今日の見た目が誰からもケチのつけようのないものになるようにと入念にセットをし、それを受けながら慶一朗が出勤後確実に起こるであろう出来事についての不安を夢の残滓を吐き出すように口にする。
「大丈夫だ。ケイさんなら出来る」
お前なら出来るという、その言葉を口にした人との関係で気休めにも励ましにも聞こえる言葉にそうだろうかと疑問を口に出しかけるが、鏡の中で嬉しそうに己の髪をセットするリアムの顔を見ていると、心の底からそう思ってくれているのだと理解出来た為、溜息にネガティブな気持ちを混ぜ込んで体内から一掃する。
「……お前のランチボックスもあるから頑張ってくるか」
「頑張ってこい、ケイさん」
人間関係の海を泳ぎ着って疲れたときにはあの庭でランチを食べてコーヒーを飲み、家に帰ってきたら今日はケイさんが食いたいものを食べよう、だからリクエストがあればなるべく早めに送ってくれと、髪のセットが終わった事を教えるキスをするリアムに鏡越しに笑いかけ、くるりと振り返って感謝の気持ちを伝えるように頬にキスをする。
「行ってくる」
「うん。行ってこい」
本当のことだから何度でも言う、あなたなら出来ると慶一朗の右手を取って手の甲と薬指のリングにキスをしたリアムは、同じキスを同じ場所に返されてにこりと笑みを浮かべる。
「オーガストと仲直りしたら近いうちに飲みに行こうって言っててくれないか?」
「そうだな……アポフィスの近くにイタリアンが出来たからそこに行ってみないか?」
「うん、良いな」
さあ、今日朝一番の不安を乗り越えれば楽しみが待っていることが理解出来たはずだ、だから行ってこいとそっと言葉と大きな掌で慶一朗の背中を押したリアムは、洗面所から玄関前に向かうと、二人が出てくるのを待っていたようにデュークが寝そべっていた床から立ち上がり、玄関前のソファ横にちょこんと尻を着ける。
「行ってくる、デューク」
「ワン!」
いつもの場所で慶一朗を見送るデュークとリアムに向けて眼鏡の下の目を細め、人差し指にキスをしてリアムに向けて指を弾き、デュークの頭をポンと叩いてガレージに出るドアを開ける。
見送ってくれる一人と一匹の視線を受け、それを力に変えて慶一朗は昨日帰宅したときとは全く違う心持ちで愛車のドアを開けてシャッターが上がるのを車内で待っているのだった。
慶一朗の愛車が出て行きシャッターが閉まった音を微かに聞いたリアムは、デュークの頭を撫でつつ己も出勤する準備をしようと伸びをし、慶一朗の為に用意をしたランチボックスが力になってくれれば良いと願い、己の為に用意してくれたコーヒーを満たしたボトルをランチボックス用のバッグに詰め、家を出るまで機嫌が良いことを教えるような鼻歌を歌いながら準備に取りかかるのだった。
慶一朗に遅れること半時間程度で留守番を任せろと自慢げに顔を上げて見送ってくれるデュークの頭を撫でて頼むと告げ、古くても愛情はたっぷり掛けている愛車に乗り込みゆっくりとガレージを出る。
フロントガラス越しの秋の空は薄い雲が風に流されていて、今日のランチタイムは今まで以上に心地よい記憶に残るものになるだろうと笑みを浮かべ、シャッターを閉じたのを確かめた後、幹線道路に向けて愛車を走らせるのだった。
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