「……!」
飛び起きた瞬間に忘れてしまっているが、体は感じた恐怖を忘れることが出来ないようで、己の意志とは関係なくガタガタと震わせてしまう。
体を震わせたところで、寝る前まで読んでいた物語の子供のように誰かが大きく温かな腕で抱きしめてくれる訳でもない事を物心ついて以来心身に叩き込まれてしまっている為、今も震える己の小さな手で同じ震えを伝えてくる体を抱きしめることしか出来なかった。
ベッドには物心ついて以来一緒にいる大きなぬいぐるみがあるが、その腕を掴んで引き寄せても同じように引き寄せてくれたり抱きしめてくれることもなく、己の震えをぬいぐるみに伝えてしまうだけだった。
もう大丈夫、同じ夢は見ないと歯の根が合わない為にカチカチとうるさく聞こえる音を立てながら呟き、やがて訪れるであろう眠りをただひたすらに願いながらきつく目を閉じ、朝が来た事を教えてくれる光が窓から差し込む時間までただ一人、本棚とベッドだけがある部屋で震え続けるのだった。
秋の風が雲を追いやるように吹いている空の下を、一台の赤いスポーツセダンが制限速度ギリギリのスピードで疾走していた。
運転席にいるのは一見するだけでどこの国にルーツを持つのかが分かりにくい風貌の男で、今彼の顔を彩っている不機嫌さを取り払えばもっと魅力的に見えるだろうとの感想を持たれそうだったが、右手薬指に嵌っているマリッジリングの存在が、不特定多数から愁波を送られても迷惑だと冷笑しそうなきらめきを発していた。
指輪が光る指で不機嫌そうにステアリングをノックしつつそれでもハンドル操作を誤ること無く勤務先の病院から自宅に向けて愛車を走らせ、幹線道路から住宅街を走る道へと徐々に交通量の少ない道へと進んでいくと、なだらかな下り坂の先にいつまで経っても終わる事のない工事をしていると錯覚させる線路工事を行っている駅舎の小さなシルエットと線路が見えてくる。
遠景に帰宅した実感を覚えて坂道をゆっくりと進んでいくと、シンプルな門扉があり、隣家との境にもなっている門柱にポストが設置されているが、そのポストにシルエットで表現されている愛犬の姿が貼りつけられていた。
テラコッタのアプローチの先の門扉を開いて玄関へと向かう前庭は植栽があるわけではないが手入れがされていて、それを横目にリモコンを操作して門扉横のガレージのシャッターを開けると徐々にガレージの中が見えてくる。
明らかに車一台分のスペースの奥や横には整理整頓されている工具やタイヤが並べられているラックや棚があり、大きな冷凍庫とラックが直角に交わる間には小さなドアがひとつあったが、そのドアのすぐ傍には今日の仕事を終わらせて休息を取っている鋼鉄の白い荒馬が静かに停まっていて、持ち主がかなり前に帰宅したことも教えてくれていた。
上がり切ったシャッターの下をくぐって愛車を定位置に停めると同時にリモコンを再度操作してシャッターを下ろすと、完全に閉まったと同時にガレージ内に明かりが生まれ、小さなその明かりを頼りに愛車を下りて冷凍庫横のドアを開けると、不機嫌に寄せられていた彼の眉が開くような声と嬉しそうに吠える声が耳に入る。
「お帰り、ケイさん」
「ワン!」
その声の主は彼が戻って来るまでの時間を利用して家事をしていたのか、取り込んだ洗濯物を押し込めたランドリーバスケットを小脇に抱えていて、その横では黒と茶色の艶やかな毛並みをしたジャーマン・シェパードが嬉しそうに舌を出して床掃除をするように尻尾を左右に振って出迎えてくれていた。
「……ただいま」
寄せられていた眉が開いたものの、いつもならば不思議な安堵から力抜けるはずの全身は強張りを覚えたままで、それでもわずかに安心した心がただいまと発し、ランドリーバスケットを天敵のような目で睨んでしまう。
その視線に気付いたのか、彼が愛情たっぷりに人畜無害のマッチョマンと揶揄う伴侶がランドリーバスケットを足元に置いた後、お疲れと頬と顎を髭で覆った愛嬌のある顔に笑みを浮かべつつ両手をそっと広げた為、疲れているんだと口の中でだけ言い訳を響かせながらその腕の中に倒れ込む。
「今日は忙しかったのか?」
「……明日のオペの方法でガスと口論になった」
分厚い胸板に己にだけ許されている甘えるように顔を寄せると、宥める様な労うような優しさに満ちたキスが頬や髪に落とされた後、眼鏡をそっと奪われて目尻にもキスをされて安堵の息が自然と零れ落ちる。
「オーガストと口論になった?」
「ああ……久しぶりにあいつと口論をしたから疲れた」
以前のような冷え切った皮肉の応酬ではないが、それでも口論することは疲れると呟くと、口の端にキスをされて労われる。
「……すぐに用意をするから着替えて来るか?」
「そうする」
帰宅後のルーティーンである手洗いと洗顔を済ませてくると今度は彼から髭に覆われている顎にキスを返し、足元で心配そうに見上げてくる愛犬の頭に手を乗せた後、階段横の細い廊下を通って洗面所に向かう。
「ケイさん、今日のメインは魚だけど酒は何を飲む?」
「ビール」
廊下の壁を通り抜けて届いた声に小さく返事をし、職業病でもあるが赤くなるまで入念に手洗いをした後、気分を切り替えるように水で顔を洗って満足そうに息を吐く。
背後の壁に吊るしてあるバスローブに着替える為にシャツを脱いでスラックスを洗濯機前のバスケットに突っ込んだ後、バスローブを羽織って腰ひもを結びつつ洗面所からソファがあるリビングへと向かうと、やっと出てきたと言いたげに愛犬が駆け寄って来る。
「ただいま、デューク」
そういえばちゃんと挨拶をしていなかったと思い出し、愛犬の前に膝を着いて頬を撫でて鼻先の湿り気を感じた彼は、アイランドキッチンの向こうでエプロンを着けて食事の用意をしている伴侶の大きく広い背中へと目を向け、何となく小さく名を呼んでみる。
この国に一人で移住する前、振り返った今眩い光と目を背けたくなる闇が同居する学生時代のさらに前、どれだけ大きな声を上げようが己の声に返事をする者など誰もいなかった頃が自然と思い出され、どうせ返事などあるはずがないと自嘲しつつ呼んだ名は口から零れ落ちたという表現がふさわしい小さなものだった。
「……リアム」
その声は真横にいた愛犬デュークの耳には届いているだろうが、少し離れているキッチンで作業中の伴侶には届かないと頭から決めていた為に返事が無くても何とも思わなかったが、フライ返し片手に振り返り呼んだかと首を傾げられてしまい、驚愕から目を瞬かせてしまう。
「ケイさん?」
どうしたと不思議そうに返されて一度ゆっくりと瞬きをした後、ゆらりと立ち上がって広い背中目がけて歩いていくと、料理中のためにコンロ前にいることも失念したように広い背中に腕を回して頬を押し当てる。
名前を呼んで返事をされる、生きていくうえではそんな当たり前が、己の人生のある期間までは当たり前ではなかった事を思い出すと同時に胸郭がぎしりと音を立てる。
「どうした?」
「……何でもない」
「ん、じゃあそのままハグしててくれないか?」
「え?」
てっきり作業の邪魔になるのではないかとの危惧を覚えていたが、己の予想とは違う言葉が笑顔と一緒に返ってきた事に驚き顔を上げると、そこにはいつまででも見続けられる笑みを浮かべる愛嬌のある顔があり、邪魔じゃないのかと小さく呟くと、魚を焼いているから横や前に来られると危ないから今のように後ろからハグしてくれていると安心できると笑う顔にはそれ以上でもそれ以下でもない思いがあり、それに気付いた彼の顔にも小さな笑みが浮かぶ。
「……そういうものか?」
「うん、そういうものだな」
バックハグされていても動きの邪魔にはならないと笑うリアムの言葉を疑わない方が良いと己の中で小さな声が響き、了解の合図にきゅっと手を握りしめる。
「ケイさん、さっきオーガストと口論になったって言ってたけど、明日のオペは難しいのか?」
己の呼びかけに返事をしてくれる人も芽生えた為に口にした疑問に答えてくれる人もいなかった幼いあの頃が自然と甦るリアムの言葉に唇を噛み締めた後に小さく返したのは、お前も俺には無理だと思うのかという、さっき己の胸に響いた疑うなの言葉など無かったかのような冷えた声で、口に出した後にしまったと後悔しても遅かった。
機嫌を損ねてしまったのではないか、そんな思いから背中に冷たい汗が流れ落ちた頃、あなたの腕の良さは知っているが明日のオペの種類は知らないから知りたいと思っただけで、あなたには出来ないなんてこれっぽっちも思っていないと腹の前で重ねている手をポンと叩かれてしまい、顔を上げると後ろから見ても愛嬌のある顔に微苦笑が浮かんでいて、悪いと謝る代わりに両手に力を込めた途端に苦しいと軽い声で笑われてしまう。
「ケーイさん」
今日はその口論が余程堪えたのかと苦笑されて顔が見えないのを良い事に素直に頷くと、じゃあディナーを食ってビールを飲んで解消しようと笑われて気分転換の機会を与えてくれているのだと気付くと、その通りだと呟いた後、後ろから見える頬に音を立ててキスをする。
「デュークのメシの用意をする」
「うん、そうだな、用意してやってくれ」
今ではすっかり大きくなったジャーマン・シェパードを飼う時の約束に毎日ブラッシングをするというものがあったが、自分達と同じ時間にデュークも餌を食べる為にその準備をすると告げて漸くリアムから離れると、くるりと振り返った愛嬌のある顔が信頼の証に彩られている事に気付き、今度は髭の下にある唇に音を立ててキスをする。
「魚、焦がさないようにしてくれ」
「あ、ああ、うん、気を付ける」
己が後ろから抱き着いた結果が焼きすぎた為の焦げ目というのは好きじゃないと笑い、デュークの食べ物が入っている棚を開けてステンレス製のボウルに無造作に見えながらもしっかり決まった量を投入し、早く食わせろを言うように慶一朗の足に伸び上がって前足を押し付ける愛犬に笑いながらもう少し待てと告げるのだった。
そんな慶一朗の様子をほんの少しの不安と安堵を目に浮かべたリアムが見つめるが、慶一朗のつい先ほどの言葉を思い出し、フライパンの上で焦げ目がしっかりとつく寸前の魚に気づき慌ててフライパンをコンロから降ろして何とか救出に成功するのだった。
いつもならば慶一朗が愛情と持てる技術をフル動員させて食後のコーヒーー最近はコーヒーを使ったカクテルも増えてきていたーを準備するのだが、今日はそんな気力が沸き起こらず、リアムが用意をしてくれたしっかりと焼き目の付いた魚と少しの野菜とビールのディナーを終え、今日はコーヒーを淹れる気力が無い事を情けない顔で伝えると、気にすることは無いと頬へキスが届けられる。
「ディナーをしっかり食ってくれたからそれだけで十分だ」
帰宅後あなたが教えてくれたように今日は疲れているのだ、用意した食事を食べてくれるだけでも嬉しいと、付き合い始めた頃を思い出している顔で笑われ、確かにあの頃を思えば食うようになったと己を振り返った慶一朗だったが、トレーニングをするのかと問いかけて少し考え込んだ後に、少しだけと返されて頷く。
「……今日はもう寝る」
ベッドルーム内のシャワーを使った後、ベッドに入っていると答え、リアムのハニーブロンドにキスをした後、お休みと告げてスツールから立ち上がるが、リアムの目が一瞬不安に細められた後、小さな吐息と一緒にその不安が口から吐き出される。
「うん……大丈夫だよな、ケイさん」
いつも己を気遣うリアムのそれが嬉しかったが、目には見えない疲労が蓄積している心では素直にそれを受け止めることが出来ず、俺は確かにお前のように何でもひとりで出来る男じゃ無いからなと吐き捨ててしまう。
それが床に落ちる寸前、しまったと後悔をしても吐き出した言葉を取り消すことも出来ず、申し訳なさそうに見上げられてその視線に見つめられる居たたまれなさからもう一度お休みと口早に告げ、返事を聞く前に階段を駆け上がってしまう。
職場での口論が帰宅後、己を誰よりも理解し受け入れてくれる伴侶との口論ーどちらかと言えば八つ当たりーにまで発展してしまったことに苛立ち舌打ちをし、ベッドルームのドアを乱雑に開けて音高く閉めた後、室内にあるシャワー室のドアを開けて中に飛び込むのだった。
シャワーを浴びて濡れた髪をおざなりに拭いただけの姿でベッドに潜り込み、このまま眠りが訪れることを強く願うが、こんな時に限って睡魔は訪れることが無く苛立ちを舌打ちで吐き出してしまう。
職場での苛立ちを自宅まで持ち帰るだけではなく、己を案じてくれる心優しい伴侶の言葉を素直に受け止めることも出来ずに八つ当たり気味に返事をしてしまう己の小ささに呆れてしまい、自嘲しか出てこなくなってしまう。
いつも隣にいる、その安心感からついつい甘えて八つ当たりをしてしまうが、身近にいるからこそ傷付けてはいけないという当たり前の事を失念し、さっきのような態度を取った事がただただ情けなくて、掛布団を頭からすっぽりと被って握りしめていると、微かにドアが開く音が聞こえ、ベッド周囲に人の気配と抑えられた足音が聞こえた後、背中を向けているベッドが軋んで人の重さを傾きから伝えてくる。
トレーニングをすると言っていたがもう終わったのか、それとも己が気になり駆けつけてくれたのかと、傷付けた相手が己を気遣ってくれているという、逆の立場になればあり得ないことを夢想し心底呆れ返ったとき、布団越しにお休みの声と頭の辺りを大きな手で撫でられたような感覚が伝わってくる。
職場での同僚との口論の話題を口にしたときに何度も気分転換になるような話題を出してくれ、実際気分転換出来ていた筈なのにそれが出来ずに苛立ちに引きずられて八つ当たりをしなければ今までの夜のように布団越しではなく直接声を聞き、髭に覆われた頬や顎にお休みのキスをして安心感に包まれて眠ることが出来る筈なのにと、己の言動に対する後悔だけが布団の中に溢れかえる。
程なくして肩の辺りに腕が乗せられた重みを感じ、こんな時までも何処までも大きく優しいリアムと彼と比べられない程矮小な己にきつく目を閉じ、早くこんな気持ちを忘れられる眠りがやって来ないかと何よりも強く願い、なかなかやって来ない眠りにきつく目を閉じるのだった。
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