イースターも終わり日常が訪れ夏の終わりも少しずつ感じられるようになった4月半ばのとある午後、この周辺の中核病院であるビクトリア・ノースヒル・ホスピタルは周辺の基礎自治体や州内の同等の規模の病院を始め、他州どころか他国の病院や医療団体からの視察を受けることもあり、その日の午後もNSW州の北にあるクイーンズランド州からの視察が訪れていて、その中には州内外に名が知れ渡った著名なドクター達が何人もいた。
そんな彼らを案内するのは事務方の責任者であるカーターと院長のアーチボルドだったが、各科の部長達も駆り出されていて、そんな部長達の中にテイラーがいたが、テイラーに親しく話しかけている厳つい顔の男がその集団にいることにすれ違った病院関係者は皆一様に驚きを表してしまっていた。
「……皆驚いているぞ、GG」
「驚かせておけ」
どうしてクイーンズランド州の視察の集団にNSWでもトップクラスのドクターであるゴードンがいるんだと潜め切れていない疑問の声が流れ込み、思わずテイラーがぼそりと呟くと周囲の思惑など知ったことではないと言いたげにゴードンが笑い、その横では相変わらずだなぁと、ケヴィン・ヨンソンというクイーンズランドのドクターたちの間では知らない者はいないといわれるほど著名なドクターが視察中にもかかわらずに暢気な声を上げ、二人の言葉にテイラーがやれやれと息を吐く。
この三人、同じ高校を卒業した同学年だったが、テイラーとヨンソンに直接的な面識は無く、間にゴードンが挟まることで初めて話をしたという関係だった。
そんな三人が事務長や病院長が案内する集団とは半歩遅れて病院内を興味深げに見回っている頃、小児科病棟のナースステーションに笑顔で久し振りと、手入れがされている事が一目で分かる髭に鼻の下と顎のラインを覆った大男が顔を出していた。
「久し振り」
カウンターに肘をついてひらひらと手を振るのは、つい先程ここで行われた会議を無事に終えたばかりのリアムで、その声に旧知のスタッフらは顔を綻ばせたり来たのかという拒絶一歩手前の顔を向けてきたが、リアムを初めて見るスタッフは近くにいた同僚達に誰かの探りを入れていた。
その様子を気にすることも無く、久し振りねとこちらは一目で歓迎してくれていることが分かる笑みを浮かべたアナという名の看護師がカウンターの中から出てきたため、二人揃って邪魔にならない場所に寄って握手をする。
「今日はどうしたの?」
「会議だったんだ」
「そうだったのね」
久しぶりの再会に他愛もない話題で花を咲かせる二人だったが、不意にアナの目が好意的に細められ、少し潜められた声にリアムが何事だと顔を寄せると、ラストネームが変わったのだろうと笑われて照れたような笑みを浮かべて小さく頷く。
「そうなんだ」
婚姻届を提出したときには何も考えていなかったが、この間の帰省時に二人で決めたと笑うと、あなたのパートナーもまだ慣れないと言いながらも密かに喜んでいるわと教えてくれ、羞恥心の強い己の伴侶が自ら言い出したことを守り変化している様を見せていることにじわりと胸の奥が熱くなる。
今では公的に認められて同じラストネームを持つ家族だが、彼と初めて出会った時の事を思い出し、ここに毎日通っていたのは何年前になるのかと、さほど時間が経過していないはずなのにもう何年も経過したような感慨を覚えてしまうが、その時、病室の方から頑張って歩こうという大人の声と、子どもの嫌という拒否する声が聞こえてきて、二人同時にそちらに顔を向ける。
そこにいたのは10歳前後の松葉杖を突いた少年とその少年の両親と思わしき男女二人だったが、少年の顔は不安と苛立ちに染まり、そんな少年を見守る両親の顔にも同じく不安と疲労が強く浮かんでいた。
その様子が気になったのか、久闊を叙していたアナに手を挙げたリアムが寄り掛かっていたカウンターから背中を剥がすと、ハイと気軽な調子で手を挙げて三人の前に歩み寄る。
「こんにちは」
「こんにちは……あの……」
「ああ、彼は少し前までここで小児科の担当をしていたドクター・ユズーフーバーよ」
突然のリアムの呼びかけに困惑していた両親だったが、今まで世話になっていた看護師が安心させるように説明をした後、安堵とまだ少し距離のある笑みを浮かべてこんにちはと返す。
「今日退院するのか?」
「はい……」
リハビリルームでも病棟でも松葉杖が無くても歩いていたのに退院が決まってからは前のように杖が無いと歩けなくなったのだと両親が息子を見下ろしつつ溜息を吐くと、その息子はリアムの顔を見上げた後、そっぽを向くように窓の外へと顔を向ける。
「そうか」
「はい」
もう歩ける筈なのにとやるせない息を吐く母親に笑顔で頷いたリアムは、少年と視線を合わせるようにその場に胡座をかいて座り込み、周囲の大人とナースステーション内で事の成り行きを見守っているスタッフ達の視線を気にすること無く笑みを浮かべる。
「ハイ」
「……」
「俺はリアムだけど、きみは?」
「……ジェイミー」
リアムのニコニコ顔を無視することも反抗することも出来ないがそれでも最低限の抵抗だと言うように視線だけをリアムに向けた少年、ジェイミーがぽつりと己の名を口にすると、初めまして、ジェイミーとリアムが手を出し出す。
その手を無視することも出来ずに松葉杖から手を離してリアムの大きな手を握ったジェイミーだったが、杖から手が離れたにも関わらずに真っ直ぐに己の両足で立っていることに気付いていない様子で、それに気付いた両親が息子に声を掛けようとする動きに気付いたリアムが目で合図を送る。
「松葉杖が無くても歩けるのに、まだ使っているのか?」
「……」
「杖が無いと不安か?」
リアムのその言葉に不安じゃ無いと反論しようと口を開く少年に、そうか、不安じゃ無いかとリアムが先を読んで言葉を続ける。
「リハビリの時はちゃんと歩いていたんだろう?」
「……歩いていた」
「じゃあ今もそうしてみないか?」
杖をずっと使っていると片手しか十分に使うことが出来なくなる、そうなるとかなり不便だと思うがと髭の下の口の端を持ち上げると、少年が不安と反抗心を目に浮かべてリアムを睨むように見つめる。
「杖を手放すのが怖いか?」
「怖くなんか……っ!」
無いと続けたいはずの口は閉ざされ、視線は足下へと落とされたことから恐怖を認めたくないのだろうと気付いたリアムが、ファーストペンギンというのを知っているかと問いかけ、視線を上げさせることに成功する。
「群れの先頭で真っ先に海に飛び込む勇敢なペンギンの事だ」
海で待ち構える捕食者にも負けずに飛び込んでエサを取りに行くペンギンの勇敢さを称える言葉だが、それが出来るのはごく一握りの者ー例えの場合は一握りのペンギンーだけだと肩を竦めると、リアムの言葉から先が読み取れないとジェイミーが不安そうに眉を寄せ、そんな息子と通りすがりのリアムの会話を聞いていた両親も不安そうに顔を見合わせる。
「きみは今ケガが治ってやっと以前のような暮らしに戻れることになったが、それでもまだまだ傷を負っている」
だからそれを手放す勇気が出ないのも理解出来ると、今ではジェイミーがそっと手を添えているだけの松葉杖を指さしたリアムだったが、何もファーストペンギンにならなくても構わないと続け、だけどと今度は両親へと顔を向ける。
「……ジェイミー、パパとママは好きか?」
「……うん」
「そうか。杖を手放せばパパとママを同時にハグ出来る」
松葉杖を使っていると大好きなパパやママ、そしてきみが元気になるのを待ってくれている友人達とハグすることも難しいと続け、見るものを安心させるような笑みを浮かべてどうだろうかとジェイミーに提案する。
「今ここで杖を手放してみないか?」
両手に杖を持っていると他に何も持てなくなる、幸いきみはリハビリで杖が無くても歩けるのだから不要なものを手放す一歩を踏み出してみないかと誘うようにジェイミーに大きな掌を向けると、激しく逡巡するようにジェイミーの視線が左右に揺れるが、意を決したように手が杖から離れリアムが手で受け止める。
「ジェイミー!」
不安と恐怖からどうしても杖を手放せなかった息子が自らそれを手放すだけではなく、蹌踉けながらも自分達に向けて足を踏み出した様子に感激から声を詰まらせる両親に向けてジェイミーが一歩、また一歩と歩き、両親の間に飛び込んで両手を精一杯広げると、息子のまだまだ小さな身体を両親が抱きしめる。
「……良かったなぁ、ジェイミー」
パパとママを同時にハグ出来て良かったなと杖を軽く持ち上げるとジェイミーの顔にやり遂げた自慢が浮かび、両親がリアムに向けて深々と頭を下げる。
「ありがとうございました、ドクター」
「……もうこれでジェイミーは大丈夫だろう」
ジェイミーもこれで友人達と走り回ることが出来ると笑って少年に再度握手を求めたリアムは、それに応えてくれる小さな勇者の手をしっかりと握り返し、ああ、忘れ物だと笑って杖を差し出す。
「ファーストペンギンになった気分はどうだ?」
「……まあまあかな」
「そうかぁ」
照れたように笑うジェイミーだったがその顔に隠しきれない自慢が浮かんでいるのをしっかりと見抜いたリアムは、彼に不要となったがある意味記念のものだと杖を渡して立ち上がろうとするが、そんな満足そうな広い背中に呆れたような声が投げかけられ、そこにいた皆が声の主へと顔を向ける。
「……廊下の真ん中に座り込んで何をしているんだ、人畜無害のマッチョマン」
「ケイさん!」
その声にジェイミーとその両親がまた新しい見知らぬ誰かが現れたと、事情を全て理解していそうなアナの顔を見つめ、彼女が微苦笑しつつ脳神経外科のドクター・ユズーフーバーだと紹介されてその名前に気付いてリアムの顔を見下ろす。
「ジェイミーがファーストペンギンになったのを見届けていた」
「は?」
リアムが満面の笑みで答える言葉の意味が理解出来ずに眼鏡の下の目を丸くしたのは、小児科医の友人、バロウズの元を訪れていた慶一朗で、己の伴侶が廊下の真ん中に座り込んでいる背中を発見し、何をしているのかとバロウズと顔を見合わせていたのだ。
「もう杖が無くても歩けるけれど、ほんの少しの勇気が出なくて躊躇ってたジェイミーの背中を押してくれたのよ」
慶一朗の戸惑いが手に取るように理解出来たアナが慶一朗とバロウズに事情を説明すると、ジェイミーの入院中の様子を知っているバロウズの目が慶一朗とは違う理由から見開かれ、次いで感心したように細められる。
「で、そのファーストペンギンのジェイミーが海に飛び込んだのを見届けたんだろう?」
「うん」
「じゃあど真ん中に座ってないで立つか端に寄ればどうだ?」
お前は人一倍体格が良い、車椅子で通る他の患者の迷惑になるぞと少し厳しい声で慶一朗がリアムに注意をすると、その言葉に状況を思い出した顔でリアムが飛び上がり、確かにそうだと頭に手を当てる。
「まったく」
お前の優しさは理解出来るし褒めるべきだが周囲の状況を少しだけ見ろと苦笑しつつリアムの分厚い胸板に右の拳をトンとぶつける慶一朗にリアムが眉尻を下げるが、情けない顔をするな王子様と囁かれてじわじわと口の端を持ち上げる。
「ジェイミー、もうきみは杖が無くても大丈夫だな?」
二人のやり取りを微笑ましい気持ちながら顔にはそれを出さずに見守っていたバロウズが少年とその両親の前に向かうと、三人が見知ったドクターが現れたことに顔を綻ばせ、もう大丈夫とジェイミーの力強い返事を受けてバロウズの顔に笑みが浮かぶ。
「じゃあ気を付けて」
軽く頭を下げる三人を見送った三人のドクターと看護師だったが、患者の姿が見えなくなると同時に仲間内の気軽さからバロウズがリアムの腹に拳を押しつけ、久し振りだね空気清浄機と笑いかける。
人畜無害のマッチョマンだの空気清浄機だのと己を好き勝手に呼ぶ伴侶や友人に肩を竦めたリアムだったが、慶一朗の耳元に口を寄せて何かを囁いた後、分かっている事を教えるような目に見つめられて安堵の息を零す。
「ミシェル、さっきの患者の件について詳細を後で俺のメールに送っておいてくれ」
「分かった」
リアムの囁きに頷いた後にバロウズに向き直った慶一朗だったが、事情を話さなくても理解出来る為にその言葉を告げて友人の頷きを貰うとリアムを手招きして歩き出す。
「アナ、ミシェル、またな」
「ええ」
二人に手を挙げて歩き出した慶一朗を追いかけて行くリアムだったが、あっという間にその隣に並び何やら話し掛けては頷く背中をバロウズとアナが見送る。
「……人にやる気を出させるのがまた一段と上手くなったんじゃないか?」
「……そんな気がしますね」
リアムと短期間とはいえ同僚だったバロウズとアナが顔を見合わせ、リアムが自分達と一緒に働いていた頃に比べまた一回り大きくなった気がすると図らずも同じ思いを口にしてしまい、早く出向先から戻ってこないかなと、今自分達の同僚である他の小児科医に対する思いを滲ませた言葉を呟くバロウズにアナが無言で同意をし、それぞれの持ち場に戻るためにナースステーションや自身の診察室に向かって歩き出すのだった。
リアムを引き連れた慶一朗が向かったのは、二人にとっては懐かしい場所だった。
ドアを開けてそこに出た慶一朗にリアムが懐かしいと素直な感想を零し、目の前に見えてきたベンチテーブルのテーブルに腰を下ろした慶一朗がリアムの言葉に同意するようにテーブルを撫でる。
今慶一朗が尻を乗せているのは、付き合い始めた歓喜からどちらも舞い上がっていた結果だと今ならはっきりと理解出来るが、ここで二人タイミングを何とか合わせてランチを食べていた庭のベンチテーブルだった。
「ここでランチをよく食ってたな」
「そうだな」
過去形で語らなければならないのが腹立たしいがと、伏し目がちだった顔を漸く上げた慶一朗の口元に浮かんでいるのは、先程厳しい言葉を投げかけたドクターの顔から、今朝も行ってこいとキスとハグで互いの背中を押し合って送り出した伴侶のものになっていることを教えてくれる笑みで、リアムの顔にも知らず知らずのうちに笑みが浮かび、手招きされて同じように隣に尻を乗せると、腿の上で手が重ねられる。
「今日はどうしたんだ?」
「ん? うん、ディアナの代わりに会議に出席してきた」
「そうか」
「うん。ケイさんはどうして小児科病棟に?」
お互い意外な場所で遭遇したと笑いながら事情を話すと、慶一朗が空を見上げた後、実はと切り出す。
「……クイーンズランド州の医者達の視察?」
「ああ。ジャックが今対応してる」
何か妙な気がしたからなるべく避けていると肩を竦められ、周囲を素早くリアムが見回した後、同じ素早さで慶一朗の頬にキスをする。
「……」
以前ならば真っ赤になるか無表情に止めろと拒絶されただろうが、今は少しの沈黙の後に嬉しいけれどまだ恥ずかしいから止めろと消え入りそうな声に懇願されてしまい、重ねていた手に思い切り力を込めてしまう。
「痛いぞ」
「あ、ごめん」
無意識に握りしめていたと笑うリアムに溜息を吐いた慶一朗だったが、そっとその手を持ち上げた後、右手薬指でキラリと光る指輪にキスをする。
「今日のディナーはもう決まっているのか?」
「いや、まだだな」
今ならある程度のリクエストを受け付けられると慶一朗の横顔に笑いかけたリアムは、オイスターが食べたいと返されてまるでそこにレシピが浮かんでいるかのような顔で空を見上げる。
「オイスターか」
「ああ……白ワインとオイスター。良いと思わないか?」
「うん、良いな、それ」
じゃあ今日はシーフードにしようと頷き、オイスターはレモンを掛けるかスイートチリソースを掛けても良いなとリアムが頷いた後伸びをすると、慶一朗がそんなリアムの髭に覆われている顎のラインにキスをする。
「……そろそろ戻る」
「あ、う、うん……」
慶一朗からのキスが珍しいと言うよりは職場でスキンシップを図ってくれたことに驚きと感激を覚えてしまい、伸びをしたまま石化したように動けなくなったリアムは、じゃあ帰るときに連絡をすると口早に言い残して戻って行ってしまう細い背中を呆然と見送ることしか出来ずに暫くの間そのまま動けないのだった。
そして、そんな様子を偶然通りかかったらしいゴードンとヨンソンが顔をにやけさせ、そんな二人に最早何も言うことは無いと諦めの境地に達している顔のテイラーが見ていることに気付けないのだった。
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