今回のドイツ帰省では一日おきに気恥ずかしい思いをしている気がすると、このホテルで唯一の不満であるポーションタイプのコーヒーを飲みながら呟いたのは、まるでこのまま夜明けが来ないのではないかと不安になりそうなまだ暗い朝を迎えて人々が動き出している様子を見降ろしている慶一朗だった。
高緯度のドイツで10歳まで暮らしていた為に冬の朝の暗さには慣れているが、今では母国よりもオーストラリアで暮らす時間の方が長くなったリアムが、早く慶一朗が淹れるコーヒーを飲みたいとぼやきつつ慶一朗の横に立つ。
「うん、確かにそうかもしれない」
祖母のクララと一緒にドライブに出かけたときは予想もしなかった遭遇の結果家で俺が大泣きをしてしまったし、そのあとはあなたも泣いてしまったもんなぁと、先日の光景を思い浮かべていることがわかる声音で告げられて笑みを浮かべる愛嬌のある顔を窓の反射を利用して睨むと、怒らないでくれと伝える代わりのキスが頬に落とされる。
ドイツに来た翌日にまさか日本を出て以来会っていなかった父親ーそう呼ぶことにまだまだ抵抗はあったーに遭遇するなど、神の思し召しか悪魔の仕業かは不明だが、その粋すぎる計らいに思わず取り乱してしまった事を思い出すだけで頬に熱を感じてしまうが、その様子に何かを察したらしい人のためにならば我が身を犠牲にできる愛すべき男がコーヒーのカップをそっと取り上げて背後のテーブルに置くのを窓の反射越しに見守っていると、背後からそっと抱きしめられる。
その温もりは存在しなかったことを思い出すことが不可能なほど今ではあって当然のものになっていて、取り乱している時も無意識に感じていたことを思い出しつつ背後の分厚い胸板に寄りかかると、受け止めながら髪に口づけられる。
「今日のディナーは去年みたいな失敗をしないようにちゃんと予約をしてある」
「ゲートルートでのディナーだな」
「うん。去年席を譲ってくれた二人に会えないかな」
ちょうど一年前の己のミスを思い出して微苦笑しているリアムの言葉に慶一朗も思い出したように笑みを浮かべ、続けられる言葉にそんなにタイミング良く会えるかと至極当たり前の言葉を返すと、そうだけどもしも会えたら楽しいと思わないかと返されて一瞬口を噤む。
一年前と同じ日の同じ夜に同じ店に出向くが、その時客として席を譲ってくれた親切な二人組が来ていて再会できる確率はそれこそ天文学的なものだろうし、それよりもその二人が自分たちのことを覚えているのかと苦笑を深めると、確かにそうだとそれにはすぐさま同意の言葉が返ってくる。
「お前は覚えているか?」
「……ブロンドと白髪しか覚えてない」
「ああ、そういえば白髪でステッキをついていたな」
「うん。俺たちとそう変わらない感じだったのに白髪だったのが不思議に思ったことを思い出した」
そんな言葉を交わしつつリアムが腕の中の慶一朗に合図を送り、窓の前からソファに戻って冷めてしまったコーヒーを飲もうとするが、無理だと謝った後にコーヒーカップをそっと押しのけてしまう。
「家に帰ればいくらでも飲ませてやれるけどな」
「うん。今日はもう無理だけど、明日か明後日には家に帰るからその時に飲ませてくれ」
シドニーの自宅では毎日絶品のコーヒーを飲ませてもらっているのが当たり前になっているためか、職場でのティーブレイクでもコーヒーを飲めなくなってしまったと、贅沢を知った者の贅沢な悩みを口に出したリアムの腿に腰を下ろした慶一朗が宥める様にハニーブロンドを撫でるが、その時、テーブルに置いたスマホが振動し、メッセージが届いたことを伝えてくる。
「……エリー?」
メッセージの送り主は先日久しぶりに再会をして楽しい時間を過ごした幼馴染のエリアスで、慶一朗と一緒にメッセージの内容を確かめたリアムだったが、読み終わったとどちらもすぐさま言葉を発することはできなかった。
二人でリアムのスマホを覗き込みながら呟いたのはメッセージに対するリアクションで、そこに書かれていたのはエリアスの父のサシャがリアムにあって昨年のことを詫びたいとの意思を示しているがどうだという問いかけだった。
「……どうする?」
「……どう、しようかな」
昨年のエリアスの結婚式の出来事が脳裏に蘇り、苦い顔で眉を寄せるリアムを見ていると会いに行く必要などないと思うと慶一朗がキス交じりに伝えるが、うん、でもと続けられてその言葉の先を読んだようにリアムの頭を抱き寄せる。
「会いたいと言っているなら……行ってくる」
どうしてお前はお前の心身をあれ程傷付けた男が会いたいと言っているからと会いに行くんだ、お前のことを何も知らない者からすれば馬鹿にされかねないほどの心の広さを見せるんだと囁くと、自分でも馬鹿だと思うと苦笑しつつ背中を抱かれて抱きしめているはずの頭に支えられているような気持になる。
「謝ってくれるというなら行ってきても良いと思わないか?」
正直な話、昨年どころか昔の話をぶり返してでも謝ってほしい気持ちはあるが、そんなことを今更言ったところで時間が戻るわけでもないしあの人がやったことが消えるわけではないと、つい先月にも似たような言葉を聞かされたことを思い出しながら、どこか達観しているような言葉だがあの時も今も納得など出来なかった慶一朗が顔を上げて伴侶の顔を見下ろすと、そこには愛嬌のあるといつも揶揄うものからは掛け離れた、すべての事象を受け止め受け入れ、その上ですべてを許しているような穏やかな笑みが浮かんでいて、その顔に言葉を無くした慶一朗が再度頭を抱きしめて微かに震える息を吐く。
今己が目の当たりにした穏やかな水面を想像させるような表情。そんな顔が出来るようになるまでの間、どれだけ一人で悩み苦しみながらもそれにだけ囚われることなく生きてきたのだろうかと想像するだけで心臓を直接握られたかのような痛みが胸郭を軋ませ、息苦しさに何度も息を吐くと、大きな手が背中を撫でてくれる。
「どうして、お前は……!」
そこまでお人よしになれるんだと、己ならば絶対に到達できない心境に足を踏み入れざるを得なかったリアムの過去を思えば複雑な感情が込み上げてしまい、どうしてとまるで詰るような言葉としてしか吐き出せなくなってしまう。
だが、そんな慶一朗の纏まりきらない感情もすべて理解した上でリアムはきっとその顔にいつもと変わらない、誰が見ても安心できる笑みを浮かべるのだろう。
そう予想しつつ抱えていた頭を手放して少し距離を取るように見下ろすと、己の予想が何一つ間違っていない事を教えるような笑みを浮かべる顔が見えて。
「……バカ」
「うん。本当にバカだと思う」
でも、うん、今までこれでやってきたから仕方ないかなと、諦めでも達観でもない、これが己だと言うように苦笑されてしまえば何も言えなくなった慶一朗は、三度その頭を抱きしめてバカと繰り返す。
「……バカだよな、本当に」
でも幸いなことにこんなバカな俺でもあなたをはじめとした友人達は理解して受け入れてくれている、それだけは本当に幸せだと笑う声に湿り気を帯びた息を吐き切った慶一朗だったが、己の中に不意に芽生えた思いを実行しようと胸に秘め、額と額を重ねて唇の端を持ち上げる。
「世界一のバカな王子様」
そんなお前を誰よりも何よりも愛している。
とっておきの告白の後半はリアムがそっと重ねてきた唇の中に吸い取られてしまうが、それでも思いは伝わっている確信を持った慶一朗が唇が離れた後に行って来いとそっと背中を押す。
「お前が過去に一区切りつけてくるのなら俺も付けてくる」
「ケイさん?」
どんな苦境にあっても笑顔を浮かべて前を向き進んでいくお前の横に立つ人間に少しでもふさわしい男になりたいと思うと小さく笑うと、意味が分からないと言いたげに小首を傾げられ、その額にキスをした慶一朗がリアムの足から降り立つと妙にすっきりとした顔で伸びをする。
「今夜はゲートルートで待ち合わせで良いか?」
「あ、ああ、俺は大丈夫」
「じゃあ今日は別行動にしよう」
「え……?」
シドニーではあの事件以来仕事以外で別行動を取ることは数えるほどしかなく、またここドイツでは初めてだが、今日のディナーまでの時間はそれぞれ別行動にしようと提案する慶一朗の顔からは不安を感じ取ることはなく、己の言葉が何某かの刺激を与えた結果、自ら行動しようとしているのだと察したリアムは、ケイさんがそういうのならと頷いて立ち上がり、さっき己の背中を優しい言葉と笑顔で押してくれたのと同じ気持ちで指輪が光る手にキスをし、リアムは幼馴染の家であり職場でもある薬局へ、慶一朗はまだ秘密だと笑う行先に出向くための準備に取り掛かるのだった。
リアムがエリアスの両親と一緒に働く店に出向いたのは、慶一朗に対して行くと言ったものの少しだけ躊躇いを覚えた為にランチタイムに差し掛かった頃だった。
幼い頃は良く遊んだ店の前に立ったときはどのような心境になるのかをホテルを出てからつらつらと考えていたが、幼い頃のような気持ちが蘇る事も無ければ、去年覚えた嫌悪感が沸き起こることも無く、至ってフラットな心境でいられる己に苦笑し、ドアを潜って商品の陳列作業をしているエリアスに呼びかける。
「エリー」
「リアム? 来てくれたのか?」
「ああ」
ランチタイムに悪いとリアムが肩を竦めるとエリアスの顔に笑みが浮かび、気にしないでくれとリアムの肩を叩くと、レジで接客をしている父にリアムが来た事を伝える。
「父さん」
「……元気そうだな」
「まあ、何とか」
接客が終わった為にぎこちない笑みを浮かべるサシャにリアムもどのような表情をすればいいかが分からないと言いたげな顔になるが、そんな二人の間にエリアスが笑顔でこの間は楽しかったと話題をもって割り込んできてくれた為、どちらの口からも安堵にも似た溜息が零れ落ちる。
「そういえば結婚したんだったな」
「え? あ、ああ、うん。エリーとアグネスがパーティーに参加してくれた」
「ああ。土産話を聞いた」
お前と同じ医者だと聞いたが何かと忙しいだろうと、何処までの話を聞いているのかが分からない為にエリアスへと視線を向けると目で合図を送られ、そっとそれを受け取って笑みを浮かべる。
「俺よりも優秀な医者なんだ」
でも休日は一緒に過ごしている事を伝えると、そうかとだけ返されて言葉が続けられなくなってしまう。
三人の上を天使が通り過ぎた事に気付いたリアムが口を開こうとした時、サシャが咳払いをして掠れる声でこの間はせっかく息子の祝いに駆け付けてくれたのに嫌な思いをさせてしまったこと、それ以前にあの出来事でも頭に血が上ってしまって悪かったと謝られてヘイゼルの双眸を見開いてしまう。
「……悪かったな。俺はこんな男だが、お前さえよければエリーやアグネスたちと仲良くやってくれ」
そう続けるだけで限界を迎えた様にサシャの顔が真っ赤になり、倉庫で在庫のチェックをしてくると口早に言い残して店の奥へと姿を消してしまう。
サシャの謝罪にどんな言葉を返すことも出来ずに呆気に取られていたリアムだったが、エリアスがカウンターの内側に入って丸椅子に腰を下ろし、リアムも傍にある椅子を引き寄せて腰を下ろすと、自然と溜息が零れ落ちる。
「……あんな謝り方しか出来ない人で悪いね、リアム」
「……いや、人っていくつになっても変わろうと思えば変われるんだな」
「ん?」
サシャが姿を消したドアを見つめながらリアムが呟いたのは、先月己の身に起きた嵐のような出来事で、リアムが医者として独り立ちするまでの間世話をしてくれている人がいるとは聞かされていたが、その人について具体的に聞いたことが無かったエリアスが軽く驚いてしまう。
「ユーリと言う名で、先月、ホスピスで息を引き取った」
「そうだったのか?」
「ああ」
家を出て以来の再会だからこちらも精神的に色々不安定になってしまい、優秀なホームドクターの力を借りて何とか立ち直ったと小さく笑うとそれが誰の事かを知っているエリアスも笑顔で頷く。
「彼が家を出る前、僕を自由にしてくれとメモを残していたけど、そのメモを見て好き勝手に生きているくせに今更自由にしてくれってなんだと思ってた」
「うん」
「その彼が死ぬ前に彼の恋人を通して連絡をくれてケイさんと一緒に会いに行って、十何年ぶりかに話をしたけど、何も変わってなかった」
自由を求めて飛び出していった前夜と何も変わっていなかったと、見た目ではなくユーリ・シュライバーという男を表す何もかもがあの頃と同じだったと感慨深い顔で呟くリアムにエリアスは聞き役に徹するように頷く。
「その彼に、お前はお前の人生を生きているのかと言われた」
そして、今回の帰省でお前の両親の離婚の手続きが進みだしたと聞かされた時、ケイさんに言われたと、数日前の事を思い出しながらリアムがカウンターに頬杖をつく。
「何を言われたんだ?」
「彼女はこれから彼女の人生を生きていく、俺たちにできるのはそれを静かに見守る事だけだと言われた」
今まで生きてきた中で自分の人生を生きているのかなど考えたことが無かったが、ユーリが最後に教えてくれたと小さく笑うリアムの顔には満足そうな笑みが浮かんでいて、だからおじさんが謝罪をしたいと思っていると知って会いに来たこと、さっきの謝罪で本当に充分だと頷くとエリアスが一瞬唇を噛み締めて俯くが、お前も何かと思う事もあるだろうが両親のこれからを見守ってやろうとも笑うと、腕で目元をぐいと拭ったエリアスが口の端を持ち上げた顔を上げる。
「そうだな」
「ああ」
思ったような人生を歩んでいるのかなど、それこそ最期の瞬間を迎えるときまで分からないが、きっと人生は素晴らしいと言える、そんな人生になれば良いなと笑うリアムにエリアスもそうなると良いなと返して頷く。
「ケイさんも頑張ってることだしな」
「え?」
「……あの事件の後から独りで過ごすことが難しかったけど、今日初めてケイさんから別行動をしたいと言われた」
リアムとその伴侶の慶一朗が事件に巻き込まれた話は聞きかじっていたが、その彼が事件を乗り越えようとしている姿が嬉しかったと照れたように笑うリアムにエリアスの顔にも笑みが浮かぶが、ああ、そうか、彼はドイツ語が話せるから別行動でも問題はないかと納得したように頷く。
「ケイさんの父親がドイツ南部の出身だからこちらの方言も良く分かるし、二人きりだと家ではドイツ語で話している事が多いからなぁ」
「南部の出身なのか?」
「ああ、そうみたいだ」
幼馴染同士、顔を合わせればいつでも子供の頃のように戻れる為にいくらでも話し込んでしまい、接客の邪魔になってしまう事を恐れたリアムが、今日は慶一朗の誕生日でゲートルートでディナーの予約を入れてある事を伝えつつ立ち上がり倉庫から出てきたサシャに気付いて会釈をすると、サシャがカウンターの内側から手を伸ばし、あの頃と変わらない温もりが頭にポンと載せられる。
「シドニーに帰っても元気でな」
「……ダンケ、おじさん」
おじさんももし良かったら父さんと時々飲みに行ってやってくれと、幼い頃からの何もかもをも昇華しきった顔でリアムが笑って己の父との交流を復活させてくれと伝えると、サシャの目尻が少し赤くなるが無言で頷かれる。
「エリー、またな」
「うん。あ、リアム、待って!」
店から出て行こうとするリアムを呼び止めたエリアスだったが、店の奥の棚から商品をいくつか持って戻って来た後、店の袋にそれを詰めてにやりと笑みを浮かべて差し出す。
「今日はケイさんの誕生日だろ?」
きっと役立つと思うと笑うエリアスの言葉に袋の中を覗き込んだリアムが一瞬沈黙してしまうが、ふ、と息を吐いた後にサムズアップを決めて袋を顔の高さに掲げる。
「ダンケ」
「どういたしまして」
お役に立ててくれと同じくサムズアップを返すエリアスにサシャが何を渡したんだと首を傾げるが、今日の終わりに在庫チェックをした際に息子が幼馴染に渡したものが何であるのかに気付き、何とも言えない溜息を吐きつつも頑張れ若造と思わず呟いてしまうのだった。
高緯度のドイツの冬は日が昇るのが遅い癖に沈むのは早く、ゲートルートで待ち合わせをしている時間には当然ながら周囲は真っ暗になっていた。
ただ店のある通りは街の中心部に近い為に雑多な店が並んでいて、その店のショーウィンドウの明かりや街灯が通りを行きかう人を照らしていた為、リアムも待ち合わせに遅れないようにと少し早めに店に向かっていたが、すれ違う人たちー特に女性ーがリアムの手元を見ては顔を綻ばせる光景にショーウィンドウに写る己の姿から気付いて苦笑してしまう。
誕生日プレゼントに何が欲しいと言ったところで、旅行に連れてきてもらっているからもう十分だとしか言わない事は分かっていた。
だが、愛する人に何かを贈りたいと思う気持ちを抑えられず、エリアスと別れ時間を持て余しながら通りを歩いている時に見つけた小さな花屋の前を過ぎた時、不意にバラの花をプレゼントしようと思い立ったのだ。
恥ずかしがり屋な為に素直に受け取ってくれる自信はなかったが、それでもその気持ちを無下にするような人ではない事をリアムは良く知っていて、いらっしゃいと声を掛けてくれるスタッフに遠慮がちに希望を伝え、その結果を今リアムは手にして店に向かっていた。
昨年は予約を忘れる失態を犯してしまったが、今年は同じ轍を踏まないという反省からドイツに来ることを決めた翌日には予約を入れて何とか席の確保が出来たのだが、今朝慶一朗と話していたように昨年席を譲ってくれた親切な人に会えないかとまだ希望を捨てきれずにいたリアムは、店の前までやって来た時、ドアの横の壁に背中を預けて人待ち顔でスマホを見ている人を発見し、それが良く見なくても己の伴侶であると気付くと、浮かれる心のままその名を呼ぶ。
「ケイさん!」
突如響いた己の名に呼ばれた方の肩がびくりと揺れ、声がする方へと向き直った後に眼鏡の下に安堵と微かな不安が浮かぶが、それを見たリアムが強い違和感を覚えて慶一朗の前で足を止める。
「ケイ、さん、だよな……?」
恐る恐る何かを確かめるように名を呼ぶリアムの前、お前は何を言っているんだと言いたげに肩を竦める慶一朗がいたが、別行動をしようと別れたときとは大きく何かが変わっている気がしたが、変化が大きすぎたのか咄嗟にそれを理解出来なかった。
「まさかイチローじゃないよな……?」
「ヘイ、Herr Entschuldigung, 何を寝惚けたことを言ってるんだ」
そうリアムに向けてにやりと眼鏡の下で笑みを浮かべるのは紛れもなく慶一朗で、自分で口にしつつ懐かしいと笑う顔にリアムの目が限界まで見開かれてしまう。
本当にどうしたと笑う慶一朗が着ている服は己がスーツケースに詰めたもので見慣れていたが、今朝ホテルを出て別方向へと歩き出す前まで存在していた肩の下にまで伸びていた髪が、まるで出会った頃のように短くなっている事に気付いたリアムの脳味噌がどんな命令を与えたのか、目尻が赤く染まり咄嗟に大きな手で口元を覆い隠してしまう。
「ケイさん……髪……っ!」
「鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってるぞ、リアム」
そう笑いながら空いている手を伸ばして己の頬を指の背で撫でる顔を穴が開きそうなほど見つめたリアムは、その手の強さに負けたように身体が傾ぐのを止められず、咄嗟に伸ばされた手に腕をつかまれて辛うじて店の壁にぶつかるのを避けられる体たらくを見せてしまい、更に赤面してしまう。
「ケイさん……っ!」
「店の前で大きな声を出すな、王子様」
ただでなくてもお前の図体は人目を引くのだからと苦笑する慶一朗の言葉に何度も頷いたリアムだったが、詳しい話は中に入ってからだと眼鏡の下で片目を閉じられてしまい、その言葉に逆らえずに慶一朗が開けてくれたドアを潜って予約と書かれたプレートが置かれている窓際のテーブルに案内される間もただただ茫然と前を歩く細い背中についていく事しかできないのだった。
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