予報通りに日が沈んだ頃には雨が降り始め、客の出足も疎らだった為に久しぶりに店に出たクララだったが、二階から時折聞こえてくる悲鳴じみた声に気を取られ、何度も何度も天井を見上げては己の前言を自ら破ってどうすると言い聞かせるように手を握りしめる。
定位置だった一段高くなった席ではなく厨房に近いカウンターのスツールに腰を下ろし、不安げに何度も天井を見上げる彼女の様子にフリーダも接客しながら同じように不安を覚え、料理を作っていたマリウスも一緒に働いてくれている二人の女性ー名前をユリアとキャシーといったーも、いつもとは違うその様子に心なしか不安そうに出来上がった料理を運んだり酒を運んだりしていた。
階下は心配からくる不安を皆で共有し、大丈夫だろうか、きっと大丈夫と自らを落ち着かせるように何度も呟いていたが、その心配の対象であるリアムは、湖畔のカフェから大急ぎで自宅に戻る間も、後部シートで己のジャケットを頭から被ってただただ悲鳴を上げ続ける慶一朗を今も抱きしめることしか出来ない己に歯痒さを感じて険しい表情を浮かべていた。
叫び続けた喉が限界を訴えているように掠れた声を出すことしか出来ず、咳き込んでもなお叫び続ける慶一朗を目の当たりにするのは初めてで、決して短くはない付き合いの中で今と似たような状況になった事があったかと記憶を探るが、思い浮かんだのは虐待を受けた少年を救う事が出来ず、帰宅した家ーその頃はまだ隣同士のフラットで暮らしていたージオラマ部屋と呼んでいる部屋で大暴れをしていた時の事と、ライトマイヤーというドイツ人が病院に視察に来た時の出来事だった。
ジャケットを被ったまま掠れた声で悲鳴を上げ続ける慶一朗を抱きしめながらリアムの見た目以上に良く働く脳味噌が弾き出した言葉は、カフェで慶一朗に何やら話しかけていた男が過去に関係のある男ではないのかとの疑問だったが、激しく咳き込んだ為に丸められる背中に気付き、ジャケットを奪い取って顔を覗き込み、目の当たりにしたその顔に息を飲んでしまう。
「ケイさん……?」
職場では人間関係の海を飄々と泳いでいる慶一朗だったが、リアムの前や心から気を許せる友人達の前では感情の起伏が激しく、時には激情と称したくなるほどの感情の発露を見せることがあったが、今リアムの前で声が掠れても咳き込んでも叫ぶことを止めない慶一朗の顔にはある意味生き生きとした彼らしい表情が浮かんでいなかった。
色素の薄い双眸はただのガラス玉のように焦点が合っているのかすら分からない茫洋としていて、そこからリアムが読み取ったのはカフェで男と遭遇した事実が慶一朗の心を壊しかけているのではないのかという危惧だった。
半年前の事件で危うく再起不能になるほど傷付けられ、二人だけではなく友人や祖母たちの力を借りて以前のように働けるほど回復したが、その傷をこじ開けるだけではなく、傷の内側に引きずり込まれようとしているように思え、その恐怖に自然と背筋が震えてしまう。
「ケイさん……ケイ!」
無表情に叫び続ける慶一朗の肩をしっかりとつかんで茫洋とする双眸を覗き込んだリアムだったが、のろのろと顔が挙げられてホッと胸を撫で下ろそうとした瞬間、慶一朗が眼鏡を床に投げ捨て、リアムがホテルを出る前にセットした髪をぐしゃぐしゃに乱したあと、俺は誰だっけと子供っぽい口調で問いかけられて目を見張ってしまう。
「ケイさん、だろう?」
「ふぅん? いつもみたいにお前だのスペアだのとは呼ばないのか?」
どうしてそんな聞いたことの無い名前で呼ぶんだと、何がおかしいのかリアムには全く理解できないが慶一朗の中ではおかしすぎると思っている事を伝えるように目尻に涙すら浮かべて文字通り腹を抱えてしまう。
「トウキョウだったっけ、そこにいるヤツが病気になったりケガをした時に必要でここにいるだけで、名前なんて必要ないんじゃないのか?」
「……!」
たどたどしい、幼さすら感じさせるドイツ語で笑いながら投げかけられた言葉がリアムに与えた衝撃はその巨体を揺らしてしまう程のもので、どうしてそんなに驚くんだ、毎日同じ白い液体と味も何も無い何かを食えと押し付け、嫌だと言っても無理矢理食わせている時に名前なんて呼んだことはないだろうと不思議そうに首を傾げられ、衝撃を受けている場合ではないと己に言い聞かせて微かに震える手をそっと持ち上げて慶一朗の頬に添えると、未経験の出来事に感じているのかガラス玉の様な双眸が困惑に揺れ、何だと掠れた声が疑問を投げかける。
「……慶一朗」
まるで慶一朗の精神だけが過去に飛んでいるような今、慶一朗の名前を正確に呼ぶことでどのような事態が引き起こされるのかリアムには想像も出来ない事だったが、自分は誰だと問いかけてきた事に一縷の望みをかけてもう一度ゆっくりとその目を覗き込みながら名を呼ぶとガラス玉の中心に光が灯ったように感じ、両頬をそっと挟んで間近でその光を覗き込む。
「慶一朗」
「……っ……ひ……っ……!」
「ケイさん」
慶一朗の喉が引き攣ったような音を立て口から零れ落ちた後、お互いが信頼しこれから何があっても一緒にいようとする気持ちを確かめるために神が用意したような試練を乗り越えていくうちに呼ぶようになった名を呼ぶと、慶一朗のこんな時ですらも宝石のように美しい双眸が限界まで見開かれる。
「ケイさん」
あなたが今いるのは独りきりだった過去ではなく俺やあなたの親友たちと一緒に生きている世界で、しかもここはあなたが大好きなばあちゃんや両親がいる俺の実家であることを思い出してくれと強く願いつつもいつもと変わらない穏やかな声で繰り返し名を呼ぶと、慶一朗の視線が左右に激しく揺れて内心の葛藤を表すが、それが落ち着いた事を教えるようにリアムと視線が重なり、震える唇が開閉する。
「うん。無理に話さなくて良い。ずっと叫んでたから喉が痛いだろう?」
水か何か飲み物を持ってくると、湖から戻って来るまでの間の狂乱の時が過ぎ去った安堵にリアムが溜息を吐いて慶一朗の頬を親指の腹でぐいと撫でると、その力に負けた様に己の名前が掠れた声で呼ばれる。
「リ、アム……」
「うん。何か飲み物を持ってくる」
水で良いかとあからさまに顔を安堵に緩めたリアムだったが、慶一朗の顔が感情に歪んだことに気付くと体全体で受け止めることを教えるようにその体を抱きしめ、柔らかな髪に頬を宛ててそっと息を吐く。
「ど、……うして、あいつがここに……っ!」
己の肩に顎を乗せ、雑多な感情を綯交ぜにしたような声がカフェで遭遇した男がどうしてここにいると詰り、うん、どうしてだろうかとリアムが小さく返すと、背中に回されていた手に力がこもりシャツの上から爪を立てられてしまう。
その痛みに思わず顔を顰めたリアムだったが、どうしてだ、どうしてあいつがここにいると怒りに任せて繰り返す慶一朗の様子から、手を伸ばしても届かない場所に行ってしまうような心胆を寒からしめる恐怖を与えるのではなく、リアムが何度も目にしたことのある激情に囚われているのだと気付くと、このまま気持ちを吐き出させた方が良いとも気付き、どうしてだろうかともう一度繰り返す。
その言葉以外知らないと言うようにどうしてと繰り返す慶一朗を抱きしめたリアムだったが、激情に囚われている慶一朗とは対照的にどこまでも冷静だった。
繰り返される言葉の中に別の単語が混ざり始めたことに気付き、そっと様子を窺うように問いかけると、背中に立てられていた爪から力が抜け、顎を載せていた肩に今度は額がぶつけられる。
「……ニースに、いたはずだ……」
すべての力を使い切った後の疲労感だけが残るような声が呟いた言葉にリアムの目が見開かれ、薄々と勘づいていた事が間違いではないと確信へと変化をする。
湖畔のカフェで話しかけてきたのは、慶一朗の父親だったのだ。
付き合いだした当初は隣同士のフラットでもあったことから、どちらかの家で夜を越えて朝を迎えるのが当然になった頃、リアムは慶一朗宛てに定期的にエアメールが届くことに気付いていた。
そのエアメールの大半はニースから送られたことを教えてくれる消印や切手が貼ってあり、気になっていたものの慶一朗がそれをダイレクトメールと同じ感覚でそれを捨てていることに気付き、きっと己が迂闊に踏み込んではいけない何かだろうと想像をしていた。
二人でひとつ屋根の下で暮らそうと決めてからは、そのエアメールが届くとリアムが慶一朗の目に触れる前にアイランドキッチンの引き出しにそっと保管するようになったのだが、今慶一朗が歯軋りとともに呟いた言葉から先程カフェで慶一朗に混乱を与えた男が慶一朗の父親だと確信を持つ。
「……あれは、やっぱりイチローの父親なのか?」
確信を持ったものの決定的なものが欲しい思いからそっとリアムが問いかけると、リアムの肩に額をぶつけた慶一朗の肩が激しく上下した後、思わず耳を疑ってしまうようなドイツ語がシャツの上を滑って二人の身体の間に零れ落ちる。
「……あれ、は……ソウの……俺たちの、父親だ」
掠れ途切れて聞き取りにくいものだった為に思わず聞き返したくなるのを渾身の力で堪えたリアムは、そうか、やはりあれはケイさんの父親かとそっと問いかけると、今度は言葉では無く肩に額がぶつけられることで返事をされる。
決して短くはない付き合いの中で慶一朗が己の両親を言葉で表現するときは双子の兄の両親という婉曲した言葉でしか表すことは無く、今のように己の父だと断言したことは無かった。
だからその言葉が今流れ出した事の意味を掴めずに混乱しそうになったリアムだったが、どうしてあいつがここにいる、湖の東側の町には行かなかったのにどうしてあのカフェにいたんだと繰り返されて慶一朗の背中を抱きしめながら天井を見上げてやるせない溜息を吐く。
「どうして、だろうな……」
「あの女も……!」
当たり前の顔であいつの横にいたあの女もだと歯軋りの奥から叫ばれてあれはとリアムが呟くが、それに対する返事は外気の冷たさが部屋の中に一瞬で入り込んできたかと思うような寒さを感じさせる声だった。
「……俺の家族がソウだけになったのは、あいつがあの女と一緒にいることを選んだからだ」
慶一朗が悔しそうに語る言葉の意味の全てを今のリアムは理解出来ないが、いつか必ず教えてくれと心の中でひっそりと呟きながら今はそうかとだけ返すと、再度シャツの背中をぎゅっと握りしめられる。
「リアム……っ! あいつが……、どうして、あいつが……!」
「うん……どうしてだろうな」
もしかすると先月にも届いていたエアメールにその答えが書かれているのかも知れないが、慶一朗の目に触れないように引き出しに入れたことから慶一朗の疑問にリアムが答えを導き出すことはできなかった。
だが何も出来ないからと手を拱くことなど出来るはずも無く、細い背中を抱きしめ何度も撫でながらどうしてだろうなと繰り返していると、慶一朗の激情も落ち着き始めたのか身体から力が抜けて寄り掛かってくる。
それをしっかりと受け止め、大丈夫かと問いかける代わりに頬やこめかみにキスをすると、慶一朗の手がのろのろと持ち上がり、さっきまでとは全く違う弱々しい力でシャツの背中を握りしめる。
「……お前の……ダッドやマムは……何があってもお前を守ったのに……」
どうして俺の親は俺を守ってくれなかったんだろうなと、今まで聞いたことが無いような弱々しい声が己の過去を嘲笑った瞬間、リアムがきつく目を閉じその力を腕に込めて痩躯を抱きしめる。
「……ケイさん……っ!」
その言葉がリアムの脳裏に、決して見る事が出来ないが慶一朗が広い部屋にひとり、何があっても慰めの言葉もハグもくれることのないぬいぐるみと一緒にいる光景が思い浮かび、それが胸郭の内側を軋ませてしまい、その痛みが涙となって閉ざされた瞼の下から滲み出す。
「俺よりも……ソウを守りたかったんだろうな」
だから俺は名前を呼ばれることもなく、ただ部屋で閉じ込められていたんだろうと続けられてしまえば堪えることが出来ず、慶一朗が苦しいと苦笑するまで腕に力を込めてしまう。
慶一朗の両親やその祖父母が何を思っていたのかなど、きっとその場にいた大人達にしか分からないことだろう。
当然ながら当事者である慶一朗と双子の兄の総一朗にも理解出来ないことだっただろう。
生後間もない頃の事情など、ただ時が来たためにこの世に生まれ出た二人にとっては与り知らないことだった。
だが、その己にはどうすることも出来ない事情で本来ならば一緒に暮らせたはずの親兄弟と離れ離れになり、ただひとりで死なないようにと世話だけをされなければならなかった慶一朗を思えば、リアムの目から次から次へと怒りややるせなさが涙となって溢れ出し、それに気付いたのか慶一朗がそっとリアムの名を呼ぶが返事など出来る筈もなかった。
「……また泣いてる」
本当に俺の王子様は泣き虫だと小さく笑う慶一朗の言葉に顔を上げたリアムだったが、情けないと思うし恥ずかしいとも思うが、あなたの事を思えば我慢など出来ないと素直に気持ちを吐露すると慶一朗の手がそっと上がって涙が流れを作る頬を挟み、本当に泣き虫だと再度笑みを浮かべる。
「ケイさんが泣かないから……!」
あなたが泣かないから俺が泣いてしまうんだと、立場を逆転させればいつも聞かされているワガママだと言えるが、リアムがそれを言うだけで天地がひっくり返ったような衝撃があったのか、慶一朗が目を激しく瞬かせてしまう。
「俺が泣かないから、悪いのか?」
「悪くない! あなたは何も、何一つ悪くない!」
なのに泣かないから俺が泣くんだと己を抱きしめながら叫ぶリアムにどんな言葉も返せなかった慶一朗だったが、静かにドアが開いたことに気付き、リアムの腕の中でほんの少しだけ身体を強張らせてしまうが、入ってきたのがクララだと気付くと力を抜いてリアムに凭れ掛かる。
「ばあちゃん、聞いてくれ」
「なんだい?」
クララの登場に気付いたようにリアムが鼻をグズグズ言わせながら顔を慶一朗のシャツに押しつけ、俺の服で鼻をかむなよと笑った後、床に落ちていた眼鏡を片手にベッドに腰を下ろしたクララに肩を竦める。
「リアムがまた泣いてるんだ」
「あれまぁ」
その言葉は半年以上も前にシドニーでクララが二人の孫のために家事全般を引き受けてくれていたときに何度か耳にした事のある言葉で、ケイさんが悪いんだというリアムが叫ぶ声で締めくくられるのだが、今もまた同じ言葉が流れ出し、二人が目を合わせて苦笑してしまう。
「俺は悪くないんだろう?」
「悪くない! でもケイさんのせいだ!」
「……ばあちゃん、リアムがワガママになった」
子どもみたいなワガママを言うと、いつも己の言動が周囲からはそう思われていることなど素知らぬ顔で肩を再度竦めた慶一朗にクララが目を細め、あんたと同じであんたにならワガママになっても大丈夫と思ってるんだろうねぇと、孫をただひたすら可愛がる祖母の顔で何度も頷かれて言葉を一瞬失った慶一朗だったが、そうなのかと自信なさげに呟くと、慶一朗を抱きしめていたリアムが勢いよく顔を上げ、本当に辛いのはあなたなのに泣かないからと繰り返されて宥めるように分かった分かったと繰り返す。
「絶対分かってない!」
頑是無い子どもでは無いのだから言うことを聞いてくれと何とかリアムを宥めようとする慶一朗だが、そんな二人を心から案じている顔でじっと見つめたクララがあんたさえ良ければリアムが満足するまで泣かせてやってくれとそっと囁き、慶一朗の色素の薄い双眸が二度三度左右に揺れたのを確かめた後、二人の孫を悲しみから守ろうとするように二人を抱きしめてそっと目を閉じる。
「ばあちゃん?」
「ケイの為に涙を流せるなんて、本当に何て優しい子なんだい」
あんたは本当にじいちゃんやばあちゃんの自慢の孫だとクララがリアムの髪にキスをした後、そんなリアムを見て笑うでも揶揄うでもなく受け止められるあんたも優しい子だよとリアムから慶一朗に視線を向けたクララだったが、俺なんてと小さな声がその口から流れ出した瞬間、そんな事を言うんじゃ無いと諭そうと口を開くが、祖母の言葉は孫の口から強い口調で流れ出して二人で驚いてしまう。
「俺なんてと言うな!」
今日のリアムはいつものお人好しで何をしても怒ることが無いと思われている人畜無害のマッチョマンと揶揄う彼ではなく、実は密かに抑えているだけかもしれない本心をむき出しにすることに決めたようで、あなたは何一つ悪くないと繰り返されて慶一朗が助けを求めるようにクララを見上げる。
「ばあちゃん……」
「リアムが落ち着くまでそのままでいてやっておくれ、ケイ」
あんたは家に戻ってくるまでの間のことを思えば落ち着いたようだから今度はリアムが落ち着くのを待っていてやってくれと孫のためを思ってそっと告げた後に二人の頭をそっと撫でたクララは、今日は客足も鈍いようだし店をもう閉めると二人が話していた、だから落ち着いたら下りておいでと言い残し、いつまでも鼻をグズグズいわせる孫とそんな孫の抱擁ーどちらかと言えば拘束に近かったーを受けた端正な顔立ちの孫に眼鏡をそっと掛けてやると、眼鏡越しの視線にひとつ頷いて入ってきた時と同じように静かに部屋を出て行くのだった。
クララが安堵の表情で階段を下りて店に戻ってきた時、急な閉店で悪いと常連客に詫びつつその背中を送り出したマリウスと、ユリアとキャシーに今日はごめんなさい、また明日お願いと二人を送り出すフリーダの姿が店のドアの前にあり、三人だけになった途端店に静寂が訪れる。
マリウスがドアの外扉に今日は閉店したことを示すプレートを出し、外から見ても閉まっていることが分かる様に窓にもカーテンを引くと、スツールに腰を下ろしたクララの横に二人が駆け寄る。
「母さん、二人の様子はどうだったの?」
「ああ、ケイは多分大丈夫だね」
「そう……良かった」
クララの言葉にフリーダが心底安心したように胸に手を当て、マリウスも安堵に口の端を持ち上げるが、今はリアムがワガママになっていると教えられて二人が顔を見合わせる。
「どういうこと?」
「ケイの過去を聞いて辛くなったんだろうね、泣いて言うことを聞かないってケイが困っていたよ」
リアムが絶叫を放つ慶一朗を抱き上げて戻ってきた時はシドニーの家で何度か耳にした悲鳴と同じだと気付いてただ心配だったが、その慶一朗よりもリアムが泣いて言うことを聞かないというのはどう言うことだと、そのワガママ息子の両親が顔を見合わせるが、落ち着いたら下りてくるからもう少し待っていてやりなと苦笑されて目を瞬かせる。
「それよりも、あれだけ泣いて叫んだらお腹も空くだろうし、何か食べるものを用意してやろうかね」
「そうね……少し落ち着いたら下りてくるかしら」
「そうだね」
フリーダの言葉にマリウスが心配そうに天井を見上げるが、そんな二人にあんた達も何か食べるかいとクララが問いかけつつスツールから降り立ち、久し振りに何か作ってやるよと厨房に入る姿にフリーダとマリウスの顔に明るい笑みが浮かぶのだった。
その後、気恥ずかしそうに慶一朗の肩に顔を押しつけるように巨体を縮めたリアムが、呆れ顔ながらも決してその手を振り払うこと無く互いの腰に腕を回した慶一朗に支えられるように階下に姿を見せたのは小一時間ほど経った頃で、そんな二人を笑顔で出迎えた三人は空腹を覚えているらしい様子に気付き、すぐに食べられるものを今から作ってやるから顔を洗ってこいとリアムに告げ、そそくさと厨房のシンクに頭を突っ込んで水を浴び始める息子の様子に呆れたように顔を見合わせるのだった。
予報通りに降り始めた雨だったが、雨脚は次第に弱まりだしたようで、屋根に降り注ぐ雨音は徐々に小さなものへとなり、クララが久し振りに手早く作った賄い料理を店のテーブルに並べ、家族勢揃いで食べ始めた頃にはその雨音はほぼ聞こえないほどになっているのだった。
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