朝から雨がしとしとと降り続くその日、枝葉を広げる一本の大木の下で雨宿りをしていたリアムは、分厚い雲の下にいるために日差しを感じる事も無いはずだったが、眩しさを感じて手で庇を作りながら涙雨かなと雨音に負けそうな声で呟くと、それを聞いていた同じ木で雨宿りをしているレスリーがそうかもしれないと小さく返す。
海岸線を見下ろす高台にある教会とその敷地内にある墓地でつい先程しめやかに執り行われたのは、ユーリ・シュライバーという名で育ち、ユーリ・ノーツという名で己を生き切った男の葬儀で、彼に所縁のある数人の参列者や最期を看取ったレスリー達が見守る中、用意されている永遠の寝床に棺が下ろされるのを少し前に見守ったところだった。
己のあまり思い出したくないために思い出すことのない過去で傷を与えた男が、前日に用意されていた深い穴に沈んでいく様を参列者から一歩距離を置いた場所で見守っていたリアムは、老若男女、穏やかだったり悲劇的だったりするが生きている人が必ず迎える最期をぼんやりと見守りながら、今まさに穴に埋められようとする男と一緒にいるときにはこんな気持ちで見送ることになるなど想像もつかなかったと胸の奥で自嘲する。
憎しみを抱く程の情も無くなっている今、隣近所の親しい人が亡くなった報せを受けたときよりも心が動かない事に気付き、もしかすると己には情というものがないのでは無いかと訝ってしまうほどだった。
『何をバカな事を言ってるんだ』
バカな事を言う権利は俺にだけある、お前には無いと胸を張り腰に両手を当ててどうだと尊大な顔で見下ろしてくる伴侶の声が脳裏に甦り、うん、そうだなと一部の意見だけは認めると苦笑したとき、これだけの数の人が見送りに来てくれるなんて彼もそれなりに愛されていたんだねとの呟きが耳に入りその声へと顔を向けると、泣き腫らした顔など見せないことが己の矜持だと教えるような顔でレスリーが少し離れた場所で談笑している数人の男女に気付いて指をさす。
そこにいたのは数少ないがそれでも皆無ではなかったユーリの友人達で、レスリーのことは皆知っていて慰めの言葉を次々に掛けていたがリアムの存在は誰も知らなかったようで、どのように声を掛けようか躊躇っている様子を感じ取っていたし、またリアムもそんな友人達と彼について語るほどの言葉を持っておらず、レスリーに彼らへの対応を任せていたのだ。
「……今日はありがとう、リアム」
「どういたしまして」
「書類の整理とかはこれからだけど、なるべく早く手続きをするよ」
木の幹にもたれ掛かりながらぽつりぽつりと呟く声は事務的なもので、きっと感情を堪えているのだろうと想像出来たが、それについての好悪の思いを持つ事も出来ずにリアムもいつもと比べれば遙かに事務的に返事をしていた。
「そろそろ終わりそうだね」
「そうだな……レスリー」
「ん?」
木の幹から背中を剥がしてひとつ伸びをして同じ木で雨宿りをしていたレスリーの名を呼んだリアムは、何だと首を傾げる彼にそっと手を差し出し、彼を看取ってくれてありがとうと漸く口に出来た一言を伝えると、レスリーの頬に雨以外の流れが出来る。
「俺がやらなければならないことがあったら連絡をくれ」
「……うん、ありがとう」
しっかりと握手を交わし、じゃあ俺は帰ると告げて木の下から離れたリアムは、じっと見送る視線に気付きつつもその視線に籠もる感情を聞き出すことが出来る余裕がないと自らを省みてポケットに手を突っ込んだとき、バカなことを言ったり実行するのは俺の専売特許だと言い放つ伴侶から何通ものメッセージが届いているスマホに触れ、それを取りだしていつもとは逆に己の返事よりも届いたメッセージの方が多い画面を見つめて自然と笑みを浮かべてしまう。
お前の伴侶は本当に不器用だ、そんな親友の声が脳裏に蘇るような文面を読みながら墓地の敷地を示す門を潜った時、坂道を駆け上がってくる人物の姿が視界の端に入るが、そちらに意識を向けることをしなかったリアムの耳に己の名を呼ぶ声が入る。
「リアム!」
唐突に名を呼ばれて周囲を見回したリアムの視界、坂道を走ったからか肩で息をする友人の姿があり、驚きに目を見張ってしまう。
「ラルフ!?」
どうしたんだと友人の前に駆け寄ったリアムに呼吸が落ち着いたらしいラルフが盛大な息を吐いて間に合ったと呟いた後、リアムの腕を叩いて合図を送る。
「葬儀はもう終わったんだろ?」
「ああ、さっき終わった」
「そっか……今日は仕事は休みか?」
ちなみに俺は仕事を抜け出してきていると、学生時代どちらかと言えば他の友人達の間で中立を保とうとするように話を聞いていたことの多いラルフが時折見せる悪戯っぽい顔で笑われ、親父さんに怒られないのかと苦笑交じりに問いかけると、親父が行ってこいと言ったんだとあっさりと仕事を抜け出している理由を口にする。
「親父さんが?」
「ああ。……詳しい話は車の中でするから来いよ」
ラルフに背中を叩かれて何だ何だと意味が分からないながらも友人についていくと、坂を少し下った路肩に一台の車が停車していることとその車に寄り掛かる二人の男の姿を発見し、さっきよりももっと驚いた顔になってしまう。
「お疲れさん、リアム」
「もう終わったんだろう? 早くラルフの家に行こうぜ」
その二人の男とは当然ながらのフレデリックとネイサンで、お前、シドニーに戻ってきていたのかと思わず問いかけたリアムにフレデリックがにやりと笑みを浮かべて太い腕を組む。
「近くまで戻ってきていたんだよ」
「早く車に乗れ」
最近人気が出てきたネイサンが周囲の視線に気付いて車に乗り込めと皆に合図を送り、それぞれが車に乗り込むと同時に四人が口を開き、そのおかしさに今度は四人同時に笑い出してしまう。
「一度に話せば聞こえないだろうが」
「お前から言え、ラルフ」
運転席のネイサンと助手席のフレデリックが二人を振り返りながら促し、ラルフが三人の視線を受けながら咳払いをする。
「母さんから伝言だ」
「おばさんから?」
「うん。……久し振りに四人揃ってランチを食べに来い、だそうだ」
非常に申し訳ないが母さんには俺も逆らえないから従って貰うと、ラルフの家族関係を知らないものからすれば躊躇してしまうような言葉を満面の笑みで伝えられ、リアムを除く三人が今日のランチは何だろうなと盛り上がり始める。
車はなだらかな坂道を下り交通量の多い市街地を通り抜け、住宅地とオフィスなどが混在している地区へと進むと、車窓から景色の移り変わりを眺めていたリアムが懐かしいなと呟き、学校を卒業してからは家に来なくなったから懐かしいだろうとラルフが笑う。
「そうだな……それよりも、俺が今日葬儀に出ることを誰から聞いたんだ?」
リアムが友人達に出迎えられて驚きと僅かの歓喜を覚えている中、最も大きく感情を揺さ振っていたのはまさかと思いつつもそんなと否定していた言葉で、それを確かめるように問いかけると三人が同時に沈黙してしまうが、助手席のフレデリックがひょいと肩を竦めてリアムの予想していた言葉を告げる。
「ケイさんだ」
「……だよな。ケイさん以外知ることはないしなぁ」
「ああ」
ユーリが亡くなったことをレスリーからの報せで知ったのは3日前の夜遅くだったが、まだその時にはリアムは葬儀に参列するかどうかを決めかねていた。
だからといっていつもとは違う煮え切らない態度にも慶一朗は何も言わずにリアムの選択を尊重するつもりだと教えてくれていたが、一体いつフレデリックらに連絡を取ったのだろうか、そもそもどうして己を介さずに直接フレデリックと慶一朗が連絡を取るようになったんだと首を傾げると、以前アポフィスでお前が踊っている時に連絡先を交換していたことを教えられ、怒ったかとも問われて驚きに目を瞬かせてしまう。
「いや、ただ驚いただけだ」
あの人はどちらかと言えば人間関係を広げる付き合いはしないから己の友人達と連絡先を交換していた事実にただ驚いたと素直に返すと、昨日連絡があり今日の葬儀にリアムが参列するかもしれないとだけ教えられたと続けられて目を瞬かせてしまう。
「それだけ?」
「ああ。……それを聞いて皆でラルフの家に集まろうって言ったのは俺だ」
あの人から聞いたのは葬儀に参列するかもしれないという予定だけだと笑うフレデリックにぽかんと口を開けてしまうが、ああ、本当に俺の意思を尊重し見守ってくれているんだなと呟くと、横にいたラルフが何だってと顔を覗き込んでくる。
「……何でも無い」
慶一朗が己を案じてくれる気持ちを読み取り、本当にあの人は不器用な人だ、本当にともう一度繰り返したリアムは、堪えている感情を友人達に見せないようにと窓を開けて顔をそちらに向けて本当にと三度呟いたあと、懐かしい光景を進んでいく車の中で友人達の会話に耳だけを傾けているのだった。
友人の言葉通りに懐かしさを思い出させる街の中を車が進み、見えてきた工場の前に停まったかと思うと、工場のドアに凭れて煙草を吸っていた男が車に気付いて身体を起こし、姿を見せた四人に無言で頷いた後、大股に近寄ってきて己よりも背が高くなったリアムの頭に大きな分厚い掌を載せる。
「久し振りに帰ってきたと思ったらこんなに大きくなりやがって」
親を見下ろすんじゃねぇと咥え煙草で笑う男に一瞬どう返そうか悩んだリアムだったが、今更だと三人の視線から思い出してにやりと笑う。
「親父さん、小さくなったな」
「この野郎」
前は突然連絡があったと思ったら結婚するという報告をしかもメールでだけ送りやがってと、リアムの鍛えている腹に拳を押し当てたのは、ラルフの父であり息子達の多感な学生時代を見守り続けてきたジェイムズで、工場の奥から帰ってきたのなら早く入っておいでという女性の声が響き、皆がその声に自然と笑みを浮かべてしまう。
「母さん、リアムを連れてきた!」
ジェイムズの大きな手で髪をぐしゃぐしゃにされ、止めてくれと笑うリアムをフレデリックやネイサンが今までご無沙汰してきた罰だから大人しく罰を受けろと笑い、ジェイムズもそうだそうだと頷きながら久し振りの再会を喜ぶが、リアムを呼ぶ女性の一際大きな声が響き、リアムの肩を抱きながらその声の主の前に連れて行く。
「本当にあんたは、学校を卒業したら急に顔を出さなくなるんだからね!」
まったくと、腰に両手を当ててふくよかな身体を怒りで震わせる己よりも遙かに下にある顔を見下ろしたリアムは、うん、ごめんと素直に謝罪をすると、まったくともう一度繰り返した女性、エイミーが息を吐いて口の端を持ち上げる。
「立派な男になったねぇ!」
学生の頃からしっかりと身体を鍛えて勉強もしていたけれど立派な医者になったようだねとまるで息子を褒めるような顔で何度も頷き、ジェイムズと同じようにリアムの頭に手を載せたエイミーは、さあ、お腹が空いているだろうと往時と変わらない顔で息子達に問いかけ、腹が減ったと一気に時が遡ったような声で息子達が唱和する。
その中に入って良いのかどうかを躊躇してしまったリアムに気付いたのか、エイミーが目を細めてリアムの髭に覆われている頬を撫で、生きている人間は死ぬまで生き続けなければならないんだと小さく笑い、ハニーブロンドに腕を回してその頭を抱きしめる。
「生きている間は食べなきゃダメなんだよ」
「……うん」
「ちゃんと三食食べてちゃんと寝て。朝になったら起きて仕事に行く」
それが生きている人間がしなければならない事だと笑う働き者のエイミーの言葉にリアムが唇をぎゅっと噛みしめ、久し振りに感じるこの国の母のような女性の柔らかな身体に顔を押しつけるように抱きしめる。
「さあ、久し振りにみんなでランチを食べようじゃないか」
リアムの背中をポンポンと叩いて合図を送り、さあ、腹一杯になるまで食べようとその背中をそっと押す。
「サンクス、おばさん」
「腹がいっぱいになるまでしっかり食べな」
その言葉に背中を押されたリアムが入口の前で待っている友人三人の前に駆け寄り、ラルフの両親からすれば時が止まったかのような錯覚を覚えさせる顔で笑いながら久し振りの家に入るのだった。
午前中は雨を降らせていた雲も風に乗って流されていったのか午後からは雨も上がり、日が沈む頃には夏の星が瞬くようになっていた。
その夜空の下、今日の仕事を終えた工場の前の地面に学生時代を彷彿とさせる顔で胡座をかいて座り込んだラルフとリアムが談笑していたが、赤いスポーツタイプのセダンがタイヤの音を軋ませながら工場の敷地内にやって来たかと思うと談笑していたリアムが勢いよく立ち上がり、ドアが開いてヘッドライトの中に出てくる痩身の元に駆け寄ると、ヘッドライトの明かりの中でその身体を抱きしめる。
リアムのそんな姿を今まであまり目にしたことが無いと気付いたラルフが静かに立ち上がり二人に向けて一歩を踏み出そうとするが、背後から肩を叩かれて振り返ると父と母がそっとしておいてやれと言いたげな顔で首を左右に振っていた。
「リアムのあんな姿、初めて見るね」
「そうだな」
あんなにも大きな図体をしておきながら子どものように抱きついていると笑う父の本心を読み取れなかった息子は本当に珍しいと感心したように呟くが、あいつもただ強いだけの男ではなく弱い顔を見せても良い存在がいるんだなと感慨深い声で父が呟き、母がそんな夫の腰に腕を回しヘッドライトの中で抱き合う二人を見守っているが、リアムの手をしっかりと握った慶一朗が俯く大きな身体を引っ張りながら三人の前にやってくる。
「こんばんは。リアムが世話になりました」
ありがとうございますと軽く一礼した後に己に手を差し出す慶一朗に呆気に取られた二人だったが、汚れていないのに慌てて掌を服で拭いた二人がそれでもしっかりと慶一朗の手を握り、こちらこそ久し振りにリアムと一緒に食事が出来て嬉しかったとエイミーが笑い、滅多に顔を出さなくなって心配していたけれどあんたと結婚したのなら安心だと目尻を微かに光らせながら笑みを浮かべ、確かにそうだと頷く夫に釣られたように何度も頭を上下させる。
「サンクス、ラルフ」
「これぐらい何でも無いです、ケイさん」
俯いたままのリアムに顔を上げろとはさすがに言えずに慶一朗に微苦笑したラルフだったが、リアムを頼みますと表情を切り替え無言で頷かれて安堵に胸を撫で下ろす。
「親父さん、おばさん」
「おう、どうした?」
「なんだい?」
俯いたままのリアムがぼそりと二人を呼び、なんだいと学生の頃から全く変わらない口調で返され、口角を持ち上げると同時に顔も上げたリアムは、慶一朗の手を一時的に手放したかと思うと、二人の前に飛び出して記憶よりも低い場所にある二人の肩に腕を回して抱きしめる。
「サンクス」
「あんたが元気になるのならお安いご用だ!」
「おう。また家に来い」
そしてそろそろ結婚を考えているラルフに一足先に既婚者になったお前からアドバイスをしてくれと笑い、リアムの広い背中をそれぞれ抱きしめた二人は、あんたが一緒にいようと決めた人が良い人そうで安心したと笑ってリアムの顔を真正面から見つめる。
「……うん」
そのはにかんだような笑みに二人が満足げに頷き、また四人で家に来いと告げて中に入ることを伝えると二人揃って工場の中に戻っていく。
「ラルフ、サンクス」
「ああ。また飲みに行こう」
あ、その時は是非ケイさんも一緒に来てくれと笑うラルフに慶一朗が意外そうに眼鏡の下の目を瞬かせるが、それよりも先に俺の車の車検をお願いしても良いかなと笑顔で伝えるとラルフがエンジニアの顔で大きく頷く。
「もちろん! その時はリアムと一緒に来て下さい」
「ああ、そうさせてもらう……帰ろうか、リアム」
「……うん」
慶一朗に再度手を繋がれて帰宅を促されたリアムはもう一度ラルフに礼を言った後、二人にもまた礼を言っておくことを伝えて慶一朗の愛車に乗り込み、入ってきた時と同じように出て行く赤いスポーツタイプのセダンの姿が見えなくなるまでその場でラルフが見送るのだった。
「……ケイさん」
「何だ?」
食後のフラットホワイトではなく今夜はアイリッシュコーヒーを作ってくれた慶一朗を、いつものようにソファに寝転がりながら背中から抱きしめてテレビを見ていたリアムだったが、思い出したように慶一朗の名を呼んで視線だけで振り返る端正な顔にキスをする。
「うん……今回のこと、本当にありがとう」
「……もう良い」
そもそもの発端の手紙を読んだ後、己でも信じられない程周章狼狽してしまいメンタル面でも情けない姿ばかりを見せた気がするが励ましてくれてありがとうと礼を言うと、眼鏡の下の目が左右に二度三度と揺れた後、やれやれと言いたげに溜息を吐いた慶一朗が寝返りを打ってリアムの上に腹這いになる。
「もう満足するまで泣いたか?」
「……ぅ」
「泣き虫王子様、もう彼の事で泣くな」
お前の泣き顔も嫌いではないが笑っている方がもっと好きだと、リアムの祖母が良くやっていたと教えてくれたように鼻をぎゅっと摘まむとリアムのヘイゼルの双眸が左右に揺れる。
「……ダンケ、ケイさん」
「ああ」
リアムの胸板で頬杖をついて愛嬌のある髭面を見下ろした慶一朗は、あまり知らされることの無かったリアムの過去に大きく関わっていた男の死ぬ寸前の彼なりの詫びを見届けたことを思い出し、自由に己を生ききったと断言できる人生というのは確かに周囲からすれば迷惑なことも多いだろうが本人は幸せだったのでは無いかと唐突に思い、己も滅多に思い出さなくなっていた家族の事を思い出して舌打ちをしてしまう。
「ケイさん?」
「……お前はお前の人生を生きているのか……か」
あの時、病床でリアムに問いを投げかけた痩せさらばえた男の顔が思い浮かび、お前に言われなくてもリアムはリアムの生を生きているともう一度舌打ちをするが、次いで思い浮かんだ言葉は慶一朗の顔を歪ませてしまう。
「……どちらかと言えば、人の生を生きているのは俺だな」
己の上で苦く笑う慶一朗が何を思い浮かべているのかまでは理解出来なかったが、きっと過去に関する良くない事象であることだけは見抜いたリアムが両手を小さく広げてそっと名を呼ぶ。
「慶一朗」
その名が慶一朗の心を今に連れ戻したのか、己に向けて広げられている腕に気付いて一つ瞬きをした後、眼鏡をソファの下に投げ捨ててその腕に飛び込むように更に身を寄せる。
「ケイさん」
慶一朗と呼ばれると羞恥から何も考えられなくなってしまうが、今ではすっかり馴染んでしまいリアムの友人達も呼ぶようになった呼ばれ方に自然と安堵の息を零し、背中を抱きしめてくれる手の温もりに心の中に突如沸き起こった感情が霧散していく。
「……リアム」
「うん」
「ラルフのご両親は好い人そうだな」
お前を迎えに行ったときに言葉を交わしただけだが、それだけでも伝わってくる人の良さに安心したと気分を切り替えたように笑う慶一朗にリアムが目を見張るが、うん、本当に好い人達だと笑って慶一朗の頭を己の肩に押し当てるようにそっと抱き寄せる。
「ダッドとマムも好い人だし……」
最低で最悪なのは俺の親だけだとぽつりと零した言葉に慶一朗がしまったと顔を顰め、それを聞いたリアムが一瞬驚いたような顔になるが、言葉に出しては何も言わずにただ何度も頬やこめかみにキスをされる。
「今の言葉は……忘れろ」
「うん。ケイさんがそう言うのなら忘れる」
だから忘れる代わりにあなたももうそんな顔をしないでくれと慰めと懇願を同時にされてしまい、ああ、悪かったと素直に謝罪をすると、素直に謝ったことが信じられないと言いたげに目と口を丸くされたようで、霞む視界でもそれを認識できた慶一朗がお決まりの言葉を口にする。
「Scheiße.」
「ケーイさーん?」
今己が何処にいてどんな態勢なのかを忘れているのかとリアムに笑われ、あ、と目を丸くしたときには既に遅く、太く鍛えられている腕にがっちりと体を拘束されてしまい、離せ止めろバカリアムと更に己を窮地に追い込んでしまう。
「誰がバカだ!」
「う、うるさいっ!」
何でも良いから離せ、誰が離すかとソファの上で突如始まった喧噪だったが、今まで大人しく二人と程良い距離を取っていたデュークが何事だと言いたげにソファ前に近寄ってくると、二人の様子がただじゃれ合っている事を理解したように小さく一声吠えたあと、興味を無くしたような顔でソファ横に常に設置されている己専用のクッションに乗って丸くなる。
いつまでも騒ぐなと小さな公爵閣下に呆れられたことに気付いた二人が我に返って互いに顔を見合わせ、そのおかしさから次第に肩を揺らして仲直りのキスを互いの頬にすると、クッションの上で丸まっているデュークを強引に慶一朗が抱き上げて不満と歓喜の声を上げさせるのだった。
十月の街が紫やオレンジに染まる頃にやって来た一通の手紙が齎した過去と向き合う時間は、畢竟今の自分に向き合うことにもなったようで、前よりも一層絆を深くすることになった二人の上を、少しだけ季節が進んだ事を教えるように夏の風が爽やかに吹き抜けていくのだった。
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