ルカが二人に手渡したビールのボトルを、その中身を飲むでもなくただ手の中でくるくると回していたリアムを、その隣でリアムの腰に腕を回して身を寄せていた慶一朗も、そんな二人の様子にルカやラシードも口を挟むこともなくただ黙って見守っていた為、高い天井には二匹の子犬がじゃれて遊ぶ声や走り回る足音だけが響いていた。
そんな無言状態を破ったのは沈黙を生んでいたリアム自身で、ビールの中身を飲んで大きく息を吐くと、ボトルをテーブルに置いて慶一朗の手を探るように手を伸ばし、己の希望通りに握られた安堵に目を細めて口を開く。
「ユーリは子どもの俺から見ても自由に生きている人だった」
「自由? 自分の責任からただ逃げてるだけじゃないのか?」
リアムの言葉に慶一朗の皮肉気な冷たい声が返し、うん、そうかも知れないと穏やかな気持ちでそれを受け止めたリアムだったが、両親が毎月送金してくれていた金の大半が彼に使い込まれていたこと、それを指摘しても悪びれることもなく、無事に成長しているしお前の小遣いは残していたのだから問題ないだろうと返されたことを伝えると、三人の口から同時にFワードが流れ出す。
「そんな彼がクリスマスプレゼントをくれると言った事があった」
「クリスマスプレゼント?」
「ああ……後にも先にもその一回きりだったけど、プレゼントは何が良いと酔っ払った顔で言われた」
その時の様子を思い浮かべている顔でリアムが苦笑し、何を買って貰ったんだとルカが問いかけると、言葉の前に何とも言えないが決してこの男が浮かべるには相応しくない笑みが髭の下の唇に浮かぶ。
「……ヘッドホンを買って貰った」
「ヘッドホン?」
「そう。……それがあれば、夜何も気にせずに眠れたから」
ルカの問いにリアムが小さく笑いながら返し、ヘッドホンを欲しいと思った理由を知った三人が顔を見合わせてそこに同じ表情を見いだす。
「ユーリはセフレを家によく連れてきていたから」
「Scheiße.」
「ガッデム」
「……」
リアムの言葉に慶一朗とルカが言葉でラシードが表情で彼を罵倒する気持ちを表しリアムが微苦笑しつつ頷くが、慶一朗の言葉からその先を予想出来ずに首を傾げてしまう。
「セックスを見せつけられたのか?」
「いや、直接見たのはあまり無かったな。どちらかと言えば殴られた方だ」
慶一朗の労る気持ちが感じられる言葉にリアムが感謝の思いを伝える代わりに握りしめられている手に力を込めて肩を竦めると、比べる言葉かという低い呟きがラシードの口から零れ落ちる。
「どちらかと言えばじゃないだろう?」
「……うん、まあ、そうなんだけどな」
殴られる時は我慢していればやり過ごせたけれど、耳を塞いでも一度聞いてしまえば安易にそれが脳内でリフレインされてしまうと肩を竦めるリアムにラシードが口の中で何やら不満の言葉を転がすが、隣の慶一朗からは明確な怒気となって同じ思いが発せられる。
「Scheiße. くそったれ。10歳の子どもに聞かせるのも殴るのも虐待だぞ」
どうしてその時に周りの大人に助けを求めなかったと、リアムの手を握りながらソファの上で向き直った慶一朗だったが、ヘイゼルの双眸が申し訳なさと自嘲に染まったことに気付き、腰を抱いていた手でリアムが過去に負っていた傷に届けとばかりに頬を包むとその手に手が重ねられる。
「……何をされてもそこ以外に行き場所がなかった」
ドイツで幼馴染みの命を危険に曝した結果己の命に危機が及びそれから逃れるようにシドニーにやって来た、ここから逃げても行く場所など何処にもなかったと答えるリアムの顔を直視するには奥歯が軋むほど歯を食いしばらなければならなかった慶一朗だったが、己の伴侶の俄には信じられないほどの心の広さや人の良さの根源を知った気がし、酔っ払っていたからか一度顔に痣を作った時に学校の教師が連絡を入れたらしく、それからは顔を殴らなくなったとも笑われ、己が聞き出したことだがもう辛い過去を思い出さなくても良いと口走りそうになる。
己は10歳になるまで双子の兄の存在を知らず、大阪の広さだけは十分にあった家の一室に存在を知られないように押し込められていたが、同じ年頃にリアムは唯一頼れる大人からの虐待を受け、ここ以外行き場所が無いとの思いから一人でそれを耐えていたのだと知ると己の過去とそれが重なり合い、腹の底に冷えた熱としか言いようのないものが生まれたことに気付く。
「……でもそれも俺が身体を鍛え始めてからは収まるようになった」
「……腕力では勝てないと気付いたのか?」
「そうじゃないかな?」
彼はどちらかと言えば痩身で腕力も無かったと当時を思い出しているように苦笑するリアムは、テーブルに置いたボトルをとって飲み干すと、眼鏡の下できつく眉を寄せる慶一朗の頬を手の甲で撫でて愛おしそうに目を細める。
「身体を鍛えたら殴られなくなっただけじゃなくてケイさんを守れるようになった」
だからあの時の俺の選択を褒めたいと小さく笑うリアムに何も言えなかった慶一朗は、殴られることも少なくなってからあいつらに会ったと教えられて軽く目を見張るが、ルカが結婚パーティーに出席してくれたあの三人組かとリアムに問いかけ、慶一朗の手を再度握りしめたリアムがさっきまでのものとは違ういつも見ているものに近い笑みを浮かべて頷く。
「11学年の時に同じクラスになった」
「長い付き合いだな」
「うん……その頃にはもう彼がいてもいなくても一人で生活していたんだ」
でもそれを知ったラルフの両親がその異様さに気付いて毎日のように自宅に呼んでくれたと伝えると、お前の車のメンテナンスをしてくれている整備工場を経営しているんだったなと慶一朗が記憶の中からリアムの友人の家族構成を引っ張り出して問いかける。
「うん、そう。オーストラリアに移住してきたばかりの人達が住み込みで働いているから、その人達と一緒に毎日メシを食って寝るために家に帰っていた」
何しろ彼は殆ど家に帰ってこないようになっていたからと、酒を飲んで暴れたり男女に拘らずにセフレを連れ込んだ彼だったが、俺を追い出すのではなく己が出て行ってくれたことだけは感謝していると笑うと、お前にはそんな感謝は相応しくないと、慶一朗よりも誰よりも腹立たしさを堪えている顔でラシードが拳をソファの肘置きに叩き付ける。
ラシードのその様子に内心最も驚いているのはルカだったが、それを顔に出さずにそっと己の半身の腿に手を載せると、慶一朗がそんな二人の様子を視界の端に収めつつリアムの頬を撫でる。
「彼らがいて良かったな」
「うん……だから今でもおじさんおばさんには頭が上がらない」
滅多に顔を見せることもなくなったが、それでも彼らはこの国での俺の両親みたいなものだとはにかんだように笑みを浮かべるリアムに慶一朗が頷き、俺にとってのジャックとリズだなと笑うとリアムが己の気持ちが正確に伝わったことが嬉しいと言いたげに目を細める。
「ネイサンの家に週末になったら入り浸ってゲームをしたり、フレッドの妹も一緒に映画に行ったりしていた」
「青春だねぇ」
「そうだな」
ルカの言葉に漸くいつもの顔で笑ったリアムだったが、ここにいる四人が所謂一般的な家庭で育っていないことに気付き、三人に比べれば俺の過去など大したことは無いと肩を竦めた瞬間、異口同音に人と比べるなと怒鳴られてしまい思わず首を竦めてしまう。
その三人の怒声が意外な大きさで天井に響き、それまで兄弟犬同士楽しく走り回っていた子犬が驚いたような声を上げた後、不安なときには必ずするのかビクターがソファの下に潜り込み、デュークがソファを回り込んできてリアムの膝に飛び乗って身体を丸めてしまう。
「……ごめん」
「比べるな!」
「うん……ごめん」
三人の怒鳴り声に更にリアムが首を竦めると、いつもケイさんが感じているのはこの気持ちなのかと思わず上目遣いになり、慶一朗の怒気を躱すためにデュークを抱き上げて慶一朗に正対させる。
突如怒り狂っている慶一朗と正対させられた子犬が不満と不安を甲高い鳴き声で訴え、お前、それは卑怯だぞとラシードがリアムを呆れたように見つめると、だってケイさんが怖いと返されて絶句してしまう。
「お前が当たり前すぎることを言うからだ!」
今にも噛みつきそうな顔で怒鳴る慶一朗に何も言えずに更に上目遣いになったリアムは、慶一朗の手が子犬の横から己に向けて伸ばされた事に気付き、頬に生まれた痛みに悲鳴を上げてしまう。
「痛い痛い、ケイさん、痛い」
「うるさい!」
いつもは恐ろしいぐらい物分かりも良く聞き分けが良いのに、どうして己のことになれば鈍いんだと怒鳴られて首を竦め、お前の過去の痛みはお前のものだ、それは誰とも比べるものでも無いし比べられないと捲し立てられ、己の発した一言に心の底から激怒する慶一朗に気付き、うんと俯きそうになるリアムの頬を更に引っ張る事で強引に顔を上げさせる。
「顔を上げろ、リアム」
お前の過去は恥じるものでも比べるものでもない、お前が今こうしてここにいる理由なのだからと、どちらかと言えば口数もあまり多くない慶一朗が真っ直ぐにリアムの目を見つめ思う一心から言葉に出して気持ちを伝えると、デュークを足の上に下ろしたリアムの手が慶一朗の身体に回される。
「ケイ、さん……っ」
「俺の過去も碌でもないと思っていたけど、お前も同じだったな」
碌でもない同士が出会ってこうして一緒にいられることは幸運だし、何も知らない人達よりかは人の痛みに敏感になれる、それだけは幸せなことかもしれないと苦く笑う慶一朗を強く抱きしめたリアムは、俺たちも色々あったがそれでも今こうしてお前達と出会って一緒にいられる、それは確かに間違いなく幸せなことだとルカがぽつりと零し、ラシードがそんなルカの肩を抱いて抱き寄せる。
「俺たちの周囲には碌な大人がいないな」
でもその代わり、赤の他人の俺たちを家族のように受け入れて可愛がるだけではなく、叱ることも出来る人達もいると笑う慶一朗にリアムが掠れた声でうんと返し、俺たちにも厳しい養父母がいたなぁと懐かしそうにルカが目を細めてラシードの肩に頬を宛てる。
「……そんな碌な大人じゃない代表の彼の恋人から……連絡先を渡された」
一頻り過去の周囲の大人達を同じ年頃になった当時虐待されていた子ども達だった四人が笑い飛ばし、その笑いが落ち着いた頃にリアムがシャツのポケットを探ってくしゃくしゃになったメモを慶一朗に差し出す。
「……連絡をしてもしなくても恨まないし任せるって……」
「連絡をしてもしなくても恨まないのなら最初からそんなメモを渡すな」
リアムの言葉に慶一朗が鋭く返しルカとラシードの頭も同時に上下すると、リアムも同じ事を思ったと苦笑する。
「……余命が僅かでホスピスに入っているらしい」
そうリアムが続けるとさすがに慶一朗が押し黙り、その気持ちがあったから真っ直ぐ家に帰ることが出来なかったとリアムが漸く今日のこの事態の理由を説明する。
「……そのまま黙って死ね」
口を閉ざした二人の様子にラシードが鋭く舌打ちをした後、リアムも実は密かに考えていた言葉を口に出し、三人が同時に無精髭に覆われている口元を不愉快そうに曲げるラシードを見つめると、そうだろうがと不満を訴えるように吐き捨て、己の半身の気持ちが手に取るように理解出来るルカがラシードのこめかみにキスをする。
「正直な話、俺もそう思った」
でもそれは考えてはいけないことじゃないかと思ったと、慶一朗が己の腰に再度手を回すのを感じながらラシードを見たリアムだったが、それで悩んでいたと肩を竦めて苦笑する。
「お前は真面目だから」
その一言で慶一朗が今まさに口に出そうとしていたことやリアムの胸の中で留められていた思いを代弁したのはルカで、ラシードの怒気を和らげるように頭を抱きしめ、何度も髪にキスをして驚く二人を真っ直ぐに見つめる。
「医者という立場上、死ねば良いなんて言えないだろう?」
「……」
「そこのもう一人の医者なら言い出しそうだけど」
ルカの言葉にラシードが小さく吹き出し、それが面白くなかったのか慶一朗がクソッタレと吐き捨てるが、確かに俺ならばその言葉を口にすると、付き合いだして間もない頃にリアムが巻き込まれた事件の際に今は刑務所に収監されている犯人に対しその言葉を投げかけようとして制止されたことを思い出して肩を揺らしてしまう。
「リアム」
「……うん」
「お前はどうしたい?」
そのメモを渡されて会いに行きたいと思うかそれともそのままにしておくかと問われて髭に覆われている口を二度三度と開閉させたリアムだったが、まだ分からないとの素直な気持ちが零れ落ち、悪いと謝った直後、再び頬に痛みが芽生えて悲鳴を上げる。
「痛い!」
「謝る必要が無いのに謝るからだ」
慶一朗が眼鏡の下で瞼を平らにしつつ吐き捨てると、もう一度ごめんという言葉が流れ出し、まだ分からないのかと指に力を込めると、痛い痛いと面白いようにリアムが悲鳴を上げる。
「ごめん」
もう不要なときにごめんとは言わないと叫ぶリアムに漸く納得出来たように頷き、さて、どうすると少しだけ戯けた顔で問いかけると、もう少し考えたいとリアムが真摯な顔で呟き、慶一朗が両手を叩いて小気味よい音を立てる。
「ケイさん?」
「今はこれ以上悩んでも仕方がない」
人間腹が減っていてはろくに考えることも出来ないだろうと、いつもならばリアムが口に出しそうなことを伝えると、ルカとラシードが信じられない言葉を聞いたと言いたげに目を見張り、リアムも驚きに目と口を丸くする。
「……何だ」
「……うん、ケイさんの口からそんな言葉が出てくるなんて」
嬉しくてどう言えば良いか分からないと呟くリアムの頬を三度引っ張った慶一朗だったが、俺も腹が減ったとラシードがリアムに助け船を出し、すかさずそれに乗り込んだリアムが、今からで良ければ何か作るがと提案をすると、慶一朗が鼻息で了承の合図を送る。
「ルカ、メシの用意をしている間にシャワーを使いたい。貸してくれ」
「……お前ね」
今最も落ち込んでいるのはリアムであり、そのリアムに四人分の料理の準備をさせている間にお前は風呂に入るのかとルカがさすがに呆れた顔で慶一朗を見ると、俺は料理に関しては何も出来ない、出来るのはリアムが作ってくれたそれを残さずに食うことだけだと胸を張られてしまい、慶一朗とリアムの関係を知らないものからすれば暴論としか受け止められないそれに友人らしさを見いだして思わず吹き出してしまう。
「自慢できることじゃないだろう」
「今日は苦手なキュウリも残さずに食う」
それでどうだと、交換条件にもなっていないことを腰に手を当てて自慢げに告げる慶一朗を呆気に取られたように見つめていたリアムだったが、眼鏡の下の目が誰よりも何よりも優しく愛おしげに細められていることに気付くと、本当に不器用な人だと小さく呟いて大きく頷く。
慶一朗の暴論が己を励ますというよりはいつものお前に戻れと背中を押してくれているように感じ、何が食いたいといつもの気持ちにまた少し戻れたリアムが問いかけると、冷蔵庫の中にある食材は好きに使ってくれて良いとルカがソファに座り直してビクターを抱き上げる。
「ラシード、良かったら手伝ってくれないか」
「ああ」
ビクターがルカの膝の上で伸び上がってその顔を舐めているのを見たのか、デュークも同じように慶一朗の足に飛び乗り胸に前足を突いて顎を舐め始め、こら、くすぐったいと笑い声が同時に上がる。
その声にリアムの目が安堵に細められ、キッチンを借りるとソファから立ち上がると、ラシードも同じように立ち上がりその肩に腕を回して軽く腕を叩く。
言葉ではないその慰めが今のリアムには本当に心に染みるもので、思わず顔を背けて小さく鼻を啜るとデュークを顔の高さに抱き上げながら俺のリアムを泣かせるなよと、ソファの背もたれを使って頭を仰け反らせた慶一朗がラシードに釘を刺す。
「リアムを泣かせた罰だ、ハンターバレーで美味いロゼのスパークリングワインを買ってこい」
ああそうだ、一番リアムを泣かせて傷付けた男にはもっと重い罰を受けてもらおうと笑う慶一朗にルカもそうしようと同意をしラシードが少し考え込むように天井を見上げ、その横ではリアムが唖然とした顔で三人の顔を見つめるものの、今何を話したとしてもきっと皆がこうして己を慰めてくれる言葉を発すると気付き、それに応えるためにはいつものように得意な料理の腕を振るうしかないとラシードの頬にキスをし、軽く驚かせることに成功するのだった。
その日、四人で食べたディナーはいつもに比べれば塩味が感じられないと三人が後に不満を零し、あの時は仕方がなかったとリアムが言い訳する程味付けは薄味になっていたが、四人で囲んだテーブルにはリアムの悩みも慶一朗の冷えた腹立たしさもルカやラシードの親友を思う気持ちも表されず、薄味になっていたとはいえそれでも美味い料理と楽しい話題だけが上るのだった。
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