リアムがメモという物質的な重さよりもその内容が齎すものに圧し潰されそうになっている事を知る術のない慶一朗が昨日とは違って誰からの電話もメッセージも受け取らずに帰宅し、同じタイミングで違う悩みを打ち明けてきた大切な人たちは今日は心穏やかに過ごすことが出来たのだろうと安堵しつつガレージのシャッターが上がるのを待つが、見えてきた光景に違和感を覚えて運転席で首を傾げる。
職場の立地場所や専門医とホームドクターの違いから帰宅はリアムの方が早いのだが、いつもならば静かに休んでいるはずの鋼鉄の白馬の姿が見えず、まだ帰っていないのかと呟いて強烈な違和感を胸に覚えてしまう。
己と違い何かにつけてマメな男であるリアムが毎日の帰宅時間より遅れるときに何の連絡も入れない事があるだろうかと自問し、ありえないと即答してしまう心に苦笑し、シャッターが上がり切った事を確かめて愛車を定位置に停めてシャッターを閉じる。
シャッターが下がる音とウインチの音をBGMにならばどこに行ったと呟いた慶一朗は、ガレージのドアの向こうから甲高い鳴き声が小さく聞こえてくる事に気付き、シャッターが完全に閉まりウインチの音が聞こえなくなったのを確かめてからドアを開ける。
ただいまと声を掛けても返ってくるのは足元に纏わりついて鳴く子犬の声だけで、リアム、いないのかと呟きながら片手でデュークを抱き上げてリビングやキッチンを見回すが、静まり返った家の中に己とデューク以外の気配を感じ取る事は出来なかった。
リアム、何処にいると己の胸に沸き起こった違和感を確かめるために名を呼びつつ階段を上っていくが二階にも人の気配を感じることはなく、ため息一つを廊下に落として階段を下りていく。
一体どこに行った、リアムの勤務先のクリニックから自宅の道中で何処かに立ち寄れるスポットがあっただろうかと思案するが、自宅に帰りたくない気持ちに囚われているのだとすれば、車という足があるために何処にでも向かうことが出来る事に気付き、デュークが不安そうに顎を舐めた事に無意識にその頭を撫でて庭へと顔を向ける。
窓の外は真冬に比べれば長くなったがそれでも太陽は地平線の下に姿を隠していて、一体どこに行ったと先程よりは焦燥感の滲んだ声で呟いた時、ポケットに入れたままのスマホから着信音が流れ出したことに気付き、デュークをリビングのソファに下ろしてスマホを取り出す。
「ハロゥ」
迷子の迷子の王子様、お前は今どこにいると、幼い頃に何度となく聞いて頭に残っていた童謡の歌詞を変えて歌うように問いかけた慶一朗だったがすぐに返事はなく、胸中に溢れかえる焦燥感を拳を握って押し殺しながらそっと名を呼ぶ。
「リアム、何処にいる?」
『……ケイさんが良く行く所』
永遠に感じる間の後にぽつりと零される声に教えられたのは、最近は出向くことも少なくなってきたシドニーを象徴する巨大な橋が見える場所にいるとの言葉だった。
ひとまず最悪の事態ーもっとも心身ともに健全な男であるリアムが最悪の事を考えるとは思えなかった-を避けられている安堵に無意識に目を細め、ソファの背もたれに前足を掛けて精一杯体を伸ばして顔を出そうとする子犬の頭を撫でてそこに尻を乗せる。
「仕事の終わりに寄ったのか?」
『……うん』
過剰な反応を示さないように平静さを保ちつつ問いかけた言葉にいつものような明朗快活な声ではないがそれでも落ち着きのある返事があり、デュークの頭を撫でながら天井を見上げる。
「……迎えに行こうか?」
『……』
慶一朗のその問いに返事はなく、ただスマホを通してリアムが今いる場所の情報を音として伝えてくれる物音だけが響き、思わず短気を起こしてしまいそうになるのを今日一番の力で抑え込もうとするが、焦燥感から発せられる不安に心が馴染みのある感情へと滑り落ちていくような気持ちを覚えてしまう。
「……俺が迎えに行くのは嫌か?」
日頃リアムが己に行ってくれている事を思えばこれぐらい我慢しろと己を怒鳴りつけたくなるが、それよりも先に悪い癖が出てしまい、呟いた瞬間後悔するが発せられた言葉を無かった事には出来るはずもなく、声を聴くことでしか気持ちが分からない電話の向こうで息を飲む様な音が聞こえてきたかと思うと、今最も聞きたくない言葉が掠れた声で響いてくる。
『……ごめん……』
「謝るな!」
悪いのはお前ではないと拳を背もたれに叩きつけ、それに驚いたデュークがソファから飛び降りたことにも苛立ちを覚えてしまった慶一朗は、己の器の小ささに舌打ちをするが、もう一度ごめんという心臓を鷲掴みにされたかのような痛みを産む声が聞こえた後に通話が切れて無音になった事に気付く。
ああ、くそ、どうして落ち込んでいる人を今以上に落ち込まさせてしまう、俺は馬鹿かと苛立ちながら己を罵倒した慶一朗だったが、今もう一度電話を掛けてもリアムが出てくれるか、また己が冷静に話せる自信も無かった為、舌打ちをした後にスマホを操作して親友を呼び出す。
『どうかした?』
平日のこんな時間に珍しいと明るい声で問われて前髪をギュッと握りしめた慶一朗だったが、深呼吸を繰り返した後にどうしたと声音を変えて問いかけられて目を伏せる。
「……助けてくれ、ルカ」
『何があった?』
親友の言葉に促されて事情を搔い摘んで説明した慶一朗だったが、リアムの居場所を確認するように問われてハーバーブリッジを支えている巨大なパイロンの展望台付近にいるはずだと返すと、どうやら隣で話を聞いていたらしいラシードにルカが一言二言何かを告げたようで、ドアが閉まる音が微かに聞こえてくる。
『今ラシードに行ってもらった』
俺が迎えに行くよりもきっとラシードの方がリアムも安心するはずだと苦笑交じりに教えられて溜息を吐いた慶一朗だったが、今から俺もそちらに向かうと告げると、ハーバーブリッジにいるのなら店に来た方が早いがリアムの様子を考えれば家の方が良いんじゃないかと問われ、毎週のように遊びに行っているアポフィスの二人の私室と自宅を比べれば確かに自宅の方が落ち着ける事に気付き、日頃の傍若無人ぶりを思えば信じられない程殊勝に構わないのかと問い返すと、にやりと笑った事が分かるような声が今ここでお前達に貸しを作っておけば大きな実を付けて戻って来るだろうなぁという、本心とは真逆の言葉が返ってくる。
「くそったれ」
『……ああ。さっきの言葉は嬉しいけど俺たちの間では不要だ、ケイ』
だから家に来い、俺も今から家に帰ると告げて帰宅の準備を始めたらしいルカの様子に心底安心感を覚えたのか、慶一朗がソファの背もたれから床にずるりと滑り落ちてしまう。
「……サンクス、ルカ」
本当にお前がいてくれて良かったと立てた膝の間に頭を突っ込んで呟くと慰める様なキスの音が耳に流れ込み、家に来る時には気を付けてと気遣われて小さく頷くと、心配そうに見上げてくるデュークに気付いて唇を噛み締める。
『じゃあ、ケイ。また後で』
「ああ」
その言葉を残して通話が切れ、デュークを抱き上げて鼻の頭に額をくっつけるように顔を寄せると、何があったの、どうしてリアムは帰ってこないのと問いかけているかのように小さく鳴かれてしまい、帰ってこない王子様を迎えに行くぞと顔をぐいと挙げて子犬に笑いかけた慶一朗は、己まで落ち込んでどうする、先程の失態は迎えに行って顔を見た時に挽回させてもらうと誰にともなく呟くと、仕事で疲弊しているはずなのに疲労を感じることも無く立ち上がり、通院するときやルカの家に遊びに行くときに入れているキャリーを取り出してデュークをそこに入れると、さっき停めたばかりの愛車に乗り込んで月が輝き始めた夜空の下へと車を走らせるのだった。
迎えに行こうかとの言葉にすぐに返事が出来なかったリアムだったが、それは何もすぐ後に慶一朗が言ったような、お前に迎えに来てほしくないなどという思いからではなく、迎えに来て欲しい気持ちと仕事で疲れているのに無理をさせたくないという気持ちからつい言葉を探してしまっただけだったのに、どうしてこうなってしまうんだと、パイロンを間近に見ることのできる路上駐車場に停めた車の中で拳を握ってダッシュボードを殴りつけてしまう。
あの人にあのような声を出させてしまった己が情けなくて、もう割り切ったと思っていた過去に引きずられている己もただただ情けなかった。
昨年、幼馴染のエリアスの結婚式に出席するためドイツに帰省し、その結婚式でエリアスの父と口論になって披露宴に参加出来なかったのだが、その時もいつまでも過去に囚われている己が嫌で仕方がなかった事を思い出し、本当にいつまで経っても成長しないとリアムを知る友人達からすれば信じられないような自嘲の笑みを口に浮かべてステアリングに突っ伏してしまう。
今日クリニックにやって来た青年が残したメモには携帯の電話番号とメールアドレスが書かれていて、連絡が無くても構わないとそのメモと一緒に言い残して青年、レスリーが帰っていったのだが、あのようなことを言われてしまえば連絡を取るしかないではないかという、滅多に考えることのない仄暗い思いから肩を揺らしてしまう。
連絡を取らなくても良いと言うのなら、今までのように音信不通のまま余命が尽きるのを待てば良かったのだ。
謝罪になっているのかすら怪しい手紙を残し、捨ててくれと言われたのだからレスリーもそれを後生大事にわざわざ己に見せなくても良かったのにと胸の内で呟き、情けないと目元を大きな手で覆い隠してヘッドレストに頭を押し付ける。
余命幾許もないと教えられてしまえば、たとえ過去に何があったとしても医者という立場からも気になってしまい、その結果忘れ去ろうとしていた過去が墓場から蘇ってくるのだ。
子供が暮らすには褒められたものではない環境下での暮らしを思い出してしまい、そんな暮らしを送らなければならないのも、あの時幼馴染を停めることが出来なかった情けない己のせいだと己を責めた日々が蘇ってくるのだ。
今でも付き合いのあるフレデリックやネイサン、ラルフといった友人達とは11学年時に知り合い、それ以降それぞれの進路が別れても定期的に顔を合わせては学生気分でバカ騒ぎをしていたが、彼らの存在があの当時の己をどれほど救ってくれていたのかを思い出し、唇を噛み締める。
実家が自動車整備工場を営んでいるラルフの家は住み込みで働いている従業員もいた為にドラマなどで良く見る大家族の趣があり、独りきりの食事がどうしても辛かったときは良くラルフの家で食べさせてもらったり、長距離のトラックドライバーになる為の技術を会得するために汗水を流しているフレデリックのたまの休日にネイサンの家に転がり込んで四人でゲームに打ち込んで大騒ぎをして隣のフラットの住人に嫌な顔をされたりしていたのだ。
その友人達との時間があったからこそ、今己は妙な方へと心が捻じ曲がる事もなく真っ直ぐに育ったと周囲が評価してくれる性格になれたのだが、その笑顔を一枚捲ればこんなにもどす黒い感情が渦を巻いているのだと気付き、そこに伴侶の言葉にすぐに返事も出来なかった情けなさも加わってしまう。
「……本当に、情けない」
人畜無害のマッチョマンと揶揄うように評する伴侶の端正な顔が脳裏に浮かび、あんな声を出させるつもりはなかったのにときつく目を閉じた時、窓ガラスをノックされたような音が響いたことに気付いてのろのろとそちらへと顔を向けて目の前の光景が信じられずに目を瞬かせてしまう。
「……ラシード……?」
そこにいたのは心配と安堵を目に浮かべた友人ラシードで、窓をノックした手でドアを示されて何を望んでいるのかに気付いたリアムが慌ててドアロックを解除すると、助手席側に回り込んで素早く乗り込んでくる。
「……何か用があって来ていたのか?」
情けない顔を見せることが気恥ずかしくて手の甲で目元をぐいと拭いどうしたと努めて明るい声で問いかけると、助手席から何をどう伝えようか悩んでいるような気配が伝わって来た後、無理に話さなくて良いと言う落ち着いた低音が聞こえてくる。
「……この車はお前しか運転しないと聞いた」
でも今は例外を認めてくれとも問われて意味が分からずに目を丸くしたリアムは、たった今助手席に乗ったばかりのラシードがドアを開けて降り立ち、運転席側のドアを開けたことに気付いて意味が分からないと素直な気持ちを言葉に出してしまう。
「そっちに移動してくれ」
助手席に移動してくれと言葉と視線で促されてその言葉通りに移動して開けたままだったドアを閉めたリアムは、乗り心地のいい車だなと己の愛車を褒められてそうかなと自信なさげに返してしまう。
「……リアム」
「何だ?」
「……何かあったのか?」
ルカと慶一朗が電話をしているのを横で聞いていただけだからはっきりと分からないがと、車をパーキングから出す準備を始めながらのラシードの問いにリアムが驚くが、沈黙してしまう事が出来ずに慶一朗とのやり取りをなるべく冷静な気持ちで伝えると、シフトレバーに乗せたラシードの手がギュッと握りしめられ、まったくあいつはと重苦しいが親友だから仕方がないと言いたげな溜息が零れ落ちる。
「あいつの不器用さは死ななきゃ治らないな」
「……そうだな」
確かにあの人は本当に不器用だと、つい先ほどまでは慶一朗が不器用かどうかではなく、己が素早く対処できなかったことに自嘲していたリアムの目をほんの少しだけ見開かせて逸らせるような言葉にリアムがシートベルトを引っ張りながら苦笑し、確かに不器用だと繰り返すとそんな不器用なあいつがお前を頼むと言っていた、これは嘘でも何でもないと続けられてシートに深くもたれかかる。
「……そうか」
「ああ……家に帰るぞ」
ここからお前の家に戻っても良いのだろうが、ルカに助けを求めた慶一朗が自宅でじっとしているとは思えず、店よりも落ち着いて話が出来る家に来るはずだと判断をしたラシードの言葉にリアムは何も返せず、ただ目元を腕で覆い隠して頷く事しか出来ないのだった。
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