It's a Wonderful Life.-Family Plan.-

第10話 Life is Beautiful.
3
 いざという時には信じられないくらいの洞察力を発揮してこちらの気持ちを少しでも上向きにしてくれる慶一朗の腕の中で眠りに落ち、目覚めた時には逆に抱きしめていたリアムは、前日の疑問や過去を強制的に思い出さされた苦悩を感じつつも、いつまでも引きずっていてはいけないと己の頬を叩いて極力いつも通りの元気さで朝食を作り、アイランドキッチンのカウンターに二人並び、その足元のデューク専用お食事処で高低差はあれども一緒に朝食を食べ、満腹になったデュークと一緒に一足早く出勤する慶一朗を見送り、己もクリニックへと出勤する。  クリニックは今日もやってくるであろう患者を迎える準備にスタッフらが忙しく動き出す直前の静謐さに満ちていて、その空気を肺の中に満たして気分を切り替えると、出勤してきたヘンリーがリアムの肩を叩いておはようと欠伸を堪えながら挨拶をしてくる。 「おはよう、ヘンリー」 「うん……あ、そうだ、昨日の手紙だけど」  朝一番のその言葉に内心鼓動を速めたリアムだったが表面上は眉一筋も動かさず、どうだったと声を少しだけ掠れさせながら問いかけると、連絡がついてどうやら昨日ワクチン接種をした患者で間違いないようだったと教えられ、そうかと頷いて天井を見上げる。 「リアム?」 「ん?」 「いや、どうした?」 「……ちょっと気になる事があるから、その手紙俺が渡しても良いか?」  リアムが少し表情を変化させながらヘンリーを見下ろして苦笑すると顔に驚きが浮かぶが、任せられるのなら任せたいと素直な気持ちを吐露されて無言で肩を竦めて後で手紙を持ってきてくれと告げて診察室のドアを開ける。  昨日仕事を終えて帰宅するときと何ら変わっていない部屋を見回し、あの手紙を彼が取りに来た時に話を聞いてみようと己の気持ちが固まった事に気付き、デスクの表面を撫でる。  思い出したくない過去だから封じていたというよりは遠ざけていた過去が一瞬で間近に迫ってきているような気がし、昨日彼をここで迎えた時に覚えた違和感をはじめとする感覚は無意識にそれを感じ取っていたからではないかと目を伏せた時、診察室の奥で繋がっている通路から挨拶をしながらホワイトが入ってくる。 「おはよう、リアム」 「おはよう、ソフィー」 「はい、これ。ヘンリーからあなたに渡して欲しいって」 「ああ、サンクス」  差し出される手紙を受け取りデスクに置いたリアムだったが、ホワイトがじっと見つめてきている事に気付いてどうしたと問いかける代わりにその顔を見つめると、何だか元気がない気がするが彼とケンカでもしたのかと問われて苦い笑みを口元に浮かべてその言葉を否定する。 「ケンカじゃないな。昨日ケイさんに叱られた」 「ま……! あなたが叱られることもあるのね」  あなたたちの様子を見ている限りではあなたが叱っている気がしたのにと驚かれ、確かにそう見えるかもしれないと苦笑に切り替えたリアムは、とにかく昨日叱られた事を反省しているとデスクの端に尻を乗せて足元の床を見つめる。 「あなたなら大丈夫だろうけど、誤診には注意ね」 「ああ。サンクス、ソフィー」  気を付けると礼を言って伸びをしたあと、本当に反省しないとなと呟き踵を返すホワイトの背中を見送ると、彼女の忠告を受け入れるように両頬を叩いて気持ちを仕事へと向けるのだった。  昨日の落ち込みぶりからは少しは復帰した様子のリアムとデュークに見送られて出勤した慶一朗だったが、もう一人落ち込んでいる人がいることを思い出し、己の生涯で最も電話を掛けている相手を呼び出す。 『どうした?』 「……今大丈夫か?」 『ああ』  慶一朗が呼び出してスピーカー越しに話しているのはハワイ島で暮らしている双子の兄、総一朗で、声に眠気を感じ取って起こしてしまったかと詫びるように問いかけると、お前が俺を気遣うようになってくれるなんてと苦笑される。 『……今日は雨かな』 「うるさい。……雨ならちょうど良いな」  雨が降っている間は観測が出来ないはずだから時間が出来るだろう、その時間を使ってカズと向き合えと声に真剣さを込めると沈黙の後に溜息が返ってくる。 「ソウ」 『……昨日様子がおかしいと思っていたけど、お前に電話をしたのか?』 「ああ」  泣きそうな声で掛かって来た電話を思い出しながら兄に淡々と伝えると、電話の向こうから歯軋りするような音が返ってくる。  その理由が分からずに一瞬苛立ちを感じた慶一朗が拳をギュッと握ると、こちらの様子が見えているようにお前に対してではないしましてやヒロに対して腹を立てている訳ではないと苦く笑うような気配と声が流れ出し、そうかとだけ返すと再度沈黙の後の溜息が返ってくる。 『……お前が俺を気遣ってくれたから本当に雨が降って来た』 「うるさい」 『……ダンケ、ケイ』 「ソウ……」 『午前中は英会話教室に行くと言っていたから、帰ってきたら一緒に飯を食ってあいつの話を聞く事にする』  何しろ知り合いなど誰一人としていないこの島に連れてきたのは自分なのだからと、昨日慶一朗が電話で伝えた気持ちが正解だと教えるような言葉を総一朗が呟き、お前が自力でそれを思い出せたのなら良かった、絶品のタルトを作っている店を見つけたと言っていたからそこに行って来いと口の端を持ち上げると、大阪でも良く老舗ホテルのタルトやチョコレートを買って許してもらっていたと小さく笑う兄にそろそろ成長しろと言い放つ。 『……お前に言われたくないぞ、ケイ』 「俺はあいつと一緒にいて成長してるからな」  だから俺が言っても良いんだと車内で誰に見られている訳でもないのに胸を張った慶一朗の耳に楽しそうな笑い声が流れ込み、遠くに勤務先の病院が見えてきた事に気付くと咳払いをして溜息を吐く。 「ソウ、研究に没頭したいのも分かる。でもあいつにも意識を向けてやれ」 『お前にもそう言われていたのにな』  情けない男だと自嘲する兄など誰も見たことが無いだろうが、数少ないその目撃者である弟が思い出したのなら構わないと慰めるように告げ、近づいて来た病院の偉容に目を細める。 『朝から悪い、ケイ』 「俺に悪いと思うのならカズに向き合ってやれ」  謝ることなどないと苦笑した時、不意に昨夜のリアムの様子が思い浮かび、誰に宛てたのか不明の手紙も謝罪をしているとは思えない言葉遣いながらも謝罪に感じ取ったと教えられたことも思い出す。  リアムの過去については祖母のクララが家に滞在している時に色々聞き出していたが、シドニーでの暮らしについてはほぼ聞いたことが無かった。  だがそれを昨日聞きかじった今、もしかするとリアムを最低限ながらも世話をしていた男も謝罪が苦手な男なのではないかとふと考えてしまうが、その声が大きくなる前に保護者が必要な子供を一人きりにしたり、離れて暮らす息子がせめて金では苦労しないように気遣ったであろう両親の仕送りを本人のリアムが受け取れなかった事はどう考えても虐待だろうとの声が大きくなる。 「なあ、ソウ」 『どうした?』 「……昨日知ったけど……あいつも虐待されていた可能性がある」  慶一朗の言葉から口には出されない感情を読み取ったらしい総一朗がそれでも信じられないと言いたげにあの優しそうな両親がと呟くが、そうじゃないと兄の思い込みを打ち消すように少し慌てて返事をする。 「シドニーであいつの世話をしていた男だ」 『そんなことを言っていたな』 「ああ」  まだまだ詳しい話を聞き出せていないが、あの人畜無害でお人好しの根幹を知ったような気がすると眉間に力を込めてしまう。  己の伴侶の心の広さやお人好しさが幼い頃の経験からくるものなのだとすれば、もしかするとリアムの性格ももっと違ったものになっていたのではないだろうか。  そう考えると今のリアムの性格が悲しくなり、思わず握りしめた拳でドアを殴ってしまう。 『ケイ?』 「……くそっ。この国にあいつが来なければ、あいつの世話を大人が放棄しなければ……あいつは人に馬鹿にされるほどのお人好しにならなかった……!』  あの実直すぎる性格も別のものになっていたかも知れないのにと、ただただそれを獲得してしまったという過去が悲しくて、もう一度ドアを殴りつけた慶一朗の耳に兄の穏やかな声が流れ込む。 『でももしあいつが移住しなければ、お前とは出会わなかったんじゃないか?』 「……」 『あいつを思って腹を立てるのも良い。でも……お前のリアムはそんな過去もすべて乗り越えて笑っているんじゃないのか?』  お前があの日自らの足で立つことを決め、俺とは別の道の先で日々笑っているように、きっとリアムもそんな過去を内包した心のまま真っ直ぐに生きてきたその先でお前と出会ったんじゃないかと笑われると、慶一朗の脳裏を占めていたどす黒い何かが霧散していく。 「それもそうか」 『ああ』 「……ダンケ、ソウ」  お前の言葉で目が覚めた、そして職場の駐車場に入ったと少しだけ名残惜しそうに告げると、こちらもそろそろあいつが帰ってきそうだから出来るだけ準備をしておくと教えられて見えないのに何度も頷いてしまう。 『今日も仕事を頑張って来い』 「ああ」  車を所定の場所に停めてエンジンを停止すると同時に兄のじゃあという声がスピーカーからではなくスマホから流れ出し、その声音から昨日泣いた兄の恋人、一央がもしかすると今日は笑顔で電話を掛けてくるかもしれないと想像し、その電話ならいくらでも受け取ってやると呟きながら車から降り立つと同じように出勤してきたアシスタントドクターのアントショヴァーからの挨拶の声に顔を向け、彼女と肩を並べて病院のドアを潜るのだった。    慶一朗が己のお人好しな性格が先天的なものではなく後天的に得たものだと考えて腹を立てていることなど知る由もないリアムだったが、今日も一日の診察が終わりそうだと壁の時計を見た時、ホワイトから手紙を受け取りに彼が来たと教えてくれ、無意識に唾を飲み込んでしまう。  昨日ワクチン接種で診察をしたときに感じた微かな思いが正しいのかそれともただの気のせいですむのかと内心呟くと当時に、もしも最悪の事態が発覚したとしても家に帰ればあの人がいると右手薬指のリングを見つめてデスクの隅に置いていた手紙を手に立ち上がる。 「……行くか」  こんなに緊張するのはどうしてだ、いつ以来だと考えながらドアを開けて待合室のソファに背筋を伸ばして座っている青年を発見し、ミスター・チュウと呼びかけながら彼の前に向かうと、その声にゆっくりと端正な顔が振り向けられる。  その顔を正面から見ると同時にやはり昨日の感覚を思い出し、この青年はきっと己の過去に関係する人だと腹を括ると、人一人分のスペースを空けてリアムもソファに腰を下ろす。 「この手紙を忘れて帰ってましたよ」 「ありがとうございます」 「失礼だけど、内容を少し読ませて貰った」  誰の忘れ物かを確かめる必要があったからと申し訳なさそうに謝罪すると、艶めいている黒髪が左右に揺れ、お気になさらずにと流暢な英語で気遣われてしまう。 「……その手紙を書いた人はもしかして……」 「……もう長くはありません」  余命宣告を受けて間もなくその宣告の期間が過ぎますと、リアムが差し出した手紙を大切に両手で挟んで目を伏せた彼の言葉に咄嗟に返事が出来なかったが、腹に力を込めてその人のことを少し聞いても良いかと切り出すと、切れ長の目が優しく細められて先を促されていることに気付く。 「俺が知っている人の筆跡と良く似ていると思った」 「……」 「もう何年も会っていないけれど、余命宣告を受けているとは思わなかったな」 「そう、ですね……一番驚いているのは本人でしょうけど……」  まさかこの手紙を書くとは思わなかったし、書き上がったものを捨ててくれと言われるとは思わなかったと苦笑する青年の横顔に滲んでいるのはどうしようもない人を好きになってしまったという諦めとそれを遙かに上回る理解の笑みだと気付いたリアムの目が見開かれる。 「手紙の内容もそれで謝っているつもりかと言いたくなりますよね」  でも、それでも彼なりの精一杯の謝罪のつもりなんだと肩を揺らす青年の言葉からやはりと呟いたリアムは、己に対するダメ押しのように掠れた声で問いかける。 「ミスター・チュウ、……ユーリ・シュライバーは今何処に?」  その問いは彼の中では当然来るものとされていたからか、身体ごとリアムに向き直った青年がにこりと笑みを浮かべ、レスリーで良いと告げながらそっと目を閉じる。 「ボンダイビーチから車で10分ぐらいの住宅街にあるホスピスに彼はいる」  ちなみに僕はその近くの病院で看護師として働いていると教えられて無言で頷いたリアムは、一度だけ連れて行ってもらったことのあるシドニーでも有名なビーチの名前を口の中で繰り返し、ホスピスの名前はと問いかけようとするが、レスリーがポケットからメモを取り出してリアムに差し出す。 「これ、彼の連絡先」  もし良かったら電話でもメッセージでも良いから連絡をして欲しいと差し出したメモをリアムの手に握らせると、祈るように手に手を重ねて頭を下げる。 「……俺も、まだ混乱してるので確約は出来ないけど……」  出来る限り考えてみると己の前で下げられている頭を見下ろし、期待に添えなかったら悪いと震える声でレスリーに伝えるが、何故己の声が震えているのかを理解出来ずにおかしいなと苦笑してしまう。 「彼がしてきたことの一部だけど、話してくれたことがあった」  それを思えば彼も僕もあなたからの連絡が無くても仕方がないと思っていると諦めた人特有の笑みを浮かべられ、リアムの胸がきしりと痛みを訴える。 「……悪い」 「あなたが謝る事じゃない」  何しろあなたは彼が自由に生きた事の被害者なのだからと、本当は一部ではなくあらかた事情を知っているのではと疑いたくなるような笑みで己の手をきゅっと握ったレスリーの言葉に何も返せずにただ無言で首を左右に振ることしか出来ずにいたリアムは、考えてみるともう一度告げてソファから立ち上がる。 「うん」  どんな返事でも構わないと言い残して正面の自動ドアから出て行く背中をその場で見送ったリアムは、己の手の中に残されたメモへと視線を向けると、自分ひとりでは扱いきれない途轍もない重量がある何かがそこにあるかのように感じ、捨てることも握ることも出来ずにただ呆然とレスリーが出て行ったドアと手の中のそれを交互に見つめることしか出来ないのだった。      
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  俯いていれば見えるものも見えなくなるぞ
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