アメリカの文化圏ほどハロウィーンで盛り上がる訳ではないが、それでもショーウインドウにはカボチャのオーナメントやモンスターをモチーフにした飾り付けがなされ、彼方此方でハロウィーンを感じさせるようになっていた10月の半ば、そろそろ冬も終わりを迎える事から季節性の感染症の患者数もグッと減り、日を追って診察時の疲労感が軽くなっていくのを実感していたその日の午後、診察時間がそろそろ終わりに近づいた頃にやって来た一人の患者を診察室で迎えたリアムは、言葉に表せないものが腹の底に生まれたことに気付く。
その感覚が何に由来するのかを思い出せずにいたリアムだったが、強いて言えば己の知る誰かと雰囲気が似通っているという曖昧模糊としたもので、己の違和感を苦笑一つで封じ込めてスツールに座る患者へと向き直る。
「今日はどうしました?」
このクリニックに勤務するようになって何千回と問いかけてきた問いを口にし、胸の違和感を誤魔化すためにボールペンをくるくると回していると、ワクチンの接種をお願いしたいと患者が告げてリアムの目を真っ直ぐに見つめてくる。
「ワクチン接種?」
「はい。近いうちにドイツに行くことになると思うので、念の為に」
特定地域に行く際にはワクチンの接種を推奨しているがドイツで今流行している感染症があっただろうかと天井を見上げつつ考え込んだリアムだったが、患者本人が望んでいるのならばと顔を戻すと、以前インフルエンザで大変な目に遭ったから症状が軽く出来るのならと苦笑されて同意するように頷き、横に立っているスーザンにワクチン接種の準備を告げる。
「では、隣の部屋で接種を受けてください」
「ありがとうございます」
リアムが目の前のモニターを見ながら必要な情報を入力しつつワクチン接種について必要事項の説明を行うと、足の上で両手を握りしめていながらも口調は穏やかだった青年が礼儀正しく頭を下げ、随分と礼儀正しいと内心感心しながら立ち上がって診察室を出ていく背中を見送る。
「……どこかで会ったかな?」
出ていく背中にも向かい合っている時の様子からも己の記憶の中の誰かと合致する事はなかったが何かしら記憶のどこかに引っかかる雰囲気があり、それは何処だとカルテが表示されているモニターを前に頬杖をついて画面を睨む。
だが、どれほど画面を睨もうとも記憶の底からは何も浮かび上がってこない為、もしも過去に出会っている人ならばいつかどこかのタイミングで思い出すだろうと苦笑し、準備で出て行ったスーザンが戻って来るのを待っている間に細々とした面倒だが必ずやらなければならない書類への記入などを行うのだった。
今日の診察時間が終わり、何故か体のこわばりを感じていたリアムが肩を回しながら診察室から出てきた時、受付のカウンターの中でヘンリーと事務方の責任者であるホワイトが困惑気味の顔を寄せ合っている事に気付き、何かあったのかと声を掛けながらカウンターに両肘をついて身を乗り出す。
「どうした?」
「ああ、リアム……患者の忘れ物みたいなの」
注射や採血をする部屋が診察室の横にあるが、そこの荷物入れに残っていたらしいと言いながらホワイトが差し出したのは丁寧に折りたたまれた紙で、内容は確かめたのかと問いかけつつそれを受け取ったリアムは、折り目がついているそれを気を付けつつ開いて軽く目を見開いてしまう。
それは一目見て分かる私信ーつまりは個人から個人へと宛てた手紙だったが、書き出しの一文字目に特徴があり、それがリアムの記憶の奥底から一人の男の顔を浮かび上がらせてしまう。
便箋に書かれている文字は力が入らない手で書いた事を教えるように震えて弱々しかったが、冒頭の内容を読んだ限りでは書き手が誰かに対して贖罪の意志を伝えようとしている、そんな空気をリアムは行間から読み取っていたが、脳裏に浮かんだ男の顔とこの手紙の内容が合致せず、似たような癖を持つ人がいるものなんだなと内心で苦笑し男の顔を記憶の奥底へと押し戻してしまう。
「……誰かへの手紙みたいだな」
「そうなの」
「誰が忘れて行ったのかは分かっているのか?」
ランチ時やティーブレイク時にもこの手紙について話題に上らなかったからそれ以降の事だと思うがと告げつつホワイトにそれを返したリアムだったが、ヘンリーが多分この人だと思うとリストをペンの尻で突きながら思案しているときの癖で口を尖らせる。
「ティーブレイク以降に採血の部屋に入ったのは5人だったかな、そのうちの4人はいつも来てくれる人だから、残り一人」
ヘンリーが見せるリストを覗き込むと、指示された氏名は中国系アジア人を連想させる名前だった。
「レスリー・チュウ?」
「だと思う。今日が初診だったから連絡先を書いてもらったけれど……」
連絡をするべきかどうかを考えていたと肩を竦められてリアムも同じように肩を竦めるが、胸の奥が何故かざわめいてしまい、その手紙をもう一度貸してくれとホワイトの手から受け取り、今度は流し読みではなくしっかりと一言一句読み取るつもりで弱々しい筆跡の内容を読み進める。
「どうしたの?」
「……連絡を取ってくれないか」
「リアム?」
「いや、内容を見ていると彼に渡した方が良い気がした」
「分かったわ」
もう一度丁寧に折りたたんだそれをホワイトに預け、彼には申し訳ないが内容を読ませてもらった限りでは渡した方が良いんじゃないかと再度肩を竦めたリアムだったが、その顔はホワイトやヘンリーが見ても何かを考えこんでいるような表情で、それは今日は帰ると言い残してロッカールームに向かう背中を二人が見送り、一体どうしたのかしらと思わず呟いてしまう程日頃のリアムからは想像できないものだった。
冬も終わりの今になって冬に流行する感染症のワクチン接種を希望する青年の礼儀正しい姿や真っ直ぐに見つめてくる黒っぽい双眸と、彼が忘れたらしい手紙の内容が脳裏から消えずに困惑していたリアムだったが、趣味のキャンプでテントを張る際に使う金具のようにがっきりと脳味噌に打ち込まれているような気がし、あの青年とあの手紙の何処に自分の脳裏に疑問を打ち込む要素があったのだろうかと呟いてしまう。
愛車のステアリングを握りつらつらと考えこみながら帰宅したリアムだったが、ガレージに車を停めてシャッターが完全に下りたことを確かめた後、家に入るドアを開ける。
「ただいま」
誰もいない家に今ではすっかり癖になった帰宅を告げる言葉を響かせると足元で歓喜に満ちた子犬の声が上がり、その場に膝を着いて飛び上がって己の帰宅を喜んでくれる黒と茶色の子犬の頭を大きな手でワシワシと撫でる。
「ただいま、デューク」
ワンワンと吠える子犬にさっきまでの気分を切り替えて笑顔で帰宅を告げて洗面所に向かったリアムは、帰宅後のルーティーンである手洗いをしっかりと行い、とことこと後をついて来たデュークを片手で抱き上げてそのまま裏庭に出ると、テーブルの足元に置いた籠からデュークのお気に入りの両端を結んだロープを取り出して子犬がこちらを向いている時に合図を送りそれを放り投げる。
リアムの手から放物線を描いて庭の端に飛んでいくロープをデュークが飛び跳ねるように追いかけ、落ちたそれを咥えると褒めてくれと言わんばかりにリアムの元に戻って来る。
こうして庭で好きなボールやロープを投げては取りに行かせる遊びをリアムは帰宅後必ずデュークにさせていて、子犬なのに日中留守番をさせて寂しい思いを感じさせることへの精一杯の詫びだったが、デュークはどうやら日中の寂しさを紛らわせる為に最近は悪戯をする事に決めたようだった。
先日もリアムが玄関の傍に置いてあったサンダルを己の寝床にテイクアウェイしたかと思うと、帰宅したリアムがそれに気付いて救出した時にはサンダルは見るも無残な姿に変貌してしまった後だった。
匂いが染みついているものが良いのだろうかと思案し、キャンプで使っていてそろそろ買い替えようと思っていたブランケットとクッションをデュークの寝床であるゲージに置いてやると、その翌日からはサンダルや靴を寝床に持ち帰る事はなくなっていた。
そんな経験をした後だからか、帰宅してからはデュークのまだまだ子犬特有の丸い腹が激しく上下する程庭で走り回らせては飛び跳ねさせる事にしていたのだが、散歩に行けるようになればもう少し気分転換も出来るだろうなと、そろそろ散歩に連れて行く事も考えようと一人苦笑する。
今日もいつものように庭で走り回って跳びはねる公爵閣下の姿にリアムの顔に笑みが浮かび、一日の疲労感が溶けていくのを感じていたが、それらが溶けきった後に形となった疑問が姿を現す。
「……あの手紙……まさかなぁ」
デュークの為にロープを投げるのでは無く今度は片方を噛ませて引っ張り合いを始めたリアムだったが、心の中で浮かび上がった疑問が帰宅中の愛車の中で考えていたものとひとつになり、思い出せと囁きかけてきたような気がし、思わず身体を揺らしてしまう。
あの手紙はおそらく差出人が誰かに対して宛てた贖罪だったが、その内容の何処にも謝罪の言葉は書かれていなかった。
余程不器用な人が書いたものだろうと書き手を想像するが、あの内容で謝罪をしていることを相手が読み取ってくれるのだろうかという、己には直接関係の無い事ながらついつい気になったリアムだったが、俺には関係が無いことだと我に返り、デュークと綱引きをしながら一日ごとに日没の時間が延びていく空を見上げる。
謝罪が苦手な人は一定数いることをリアムは知っていて、最も身近な存在といえば、今はまだ職場で奮闘しているであろう己の伴侶だったが、彼と出会うよりももっと昔、謝罪が苦手どころか感情表現が苦手だった男の言葉を唐突に思い出してしまう。
『……僕は僕の人生を生きていたいだけなのになぁ』
どうしてこうも次から次へと問題が起きるのだろう。
その言葉をうっすらと双眸に涙を浮かべ肩を揺らしながら告げた時のことを思い出し、好き勝手に生きている癖に何を悩むことがあるのだろうと、今のリアムからは想像も出来ない冷めた目で見つめていたことも思い出す。
「……!」
今まで極力思い出さないようにしてきた過去が一瞬で甦り、その圧倒的な記憶量に思わず吐き気を覚えて口元を手で覆ったリアムは、デュークがロープを咥えて己の腿に前足を掛けて遊びの催促をしてくることにも気付かず、脳裏で再生される彼と幼い己の姿をただ呆然と見つめる事しか出来ないのだった。
結婚後は習慣になっている今から帰るとのメッセージを伴侶に送って満足げに息を吐いたのは、その伴侶が予想していたように今日も患者や職場の人間関係の中で奮闘していた慶一朗で、シートにもたれ掛かって返事が届くのを待っているが、いつもならばお前は学生か何かのようにスマホを常に持ち歩いているのかと言いたくなるほど早く返事があるのに今日はそれが無いことに気付いて画面を見つめる。
メッセージを読んだことを教える文字も表示されておらず、トレーニングでもしているのかそれともデュークの相手をしているのかと苦笑しつつエンジンを掛けて愛車を職場の駐車場から帰路へと走らせる。
冬の一時期を思えば日が長くなった幹線道路を制限速度ギリギリで走りながら返事がまだかと心待ちにしていた慶一朗だったが、スマホから着信を告げる音が流れ出し、スマホではなくカーナビのボタンを押す。
「ハロゥ」
『……ケイさん? 今話しても大丈夫?』
「カズ!?」
愛車のスピーカーを通して流れてきた声が予想外のものだった事に思わず素っ頓狂な声を上げた慶一朗は、大丈夫だけどどうしたとリアムが聞けば自分には聞かせてくれないのにと拗ねてしまいそうな優しい声でどうしたと兄の恋人に問いかける。
『……ソーイチローとケンカした』
「……Scheiße.」
スピーカーから流れてくる地の底に沈み込んだような声に思わず慶一朗が罵る言葉を口にすると、忙しいのにこんな下らないことで電話をしてごめんと蚊が鳴くような声で謝罪されてしまい、違うと慌てて本意を伝える。
「そうじゃない、お前に言ったんじゃないから安心しろ、カズ」
『……そうなん?』
「ああ。……ハワイにはお前の友人も知人も誰もいないからお前のフォローをしろとあいつには言っておいた」
なのにそれを忘れてしまった総一朗への不満だと伝えると、遠く離れて暮らす慶一朗が己のことを案じてくれていた事実に電話の向こうから鼻を啜るような音が聞こえてくる。
「カフェで働きながら英語の勉強を頑張っていると聞いていたから安心していたんだけどな」
『……英語の教室に通ってるのに少しも上達せぇへんし……ソーイチローに英会話の相手してもらおう思っても時間があわへんからいつも一人やし……』
こんなことなら日本に残っていれば良かったと思ってしまうと、ついに涙声になった一央に慰めの言葉をどう掛ければ良いのか一瞬考え込んだ慶一朗だったが、異国の地で感じる孤独は己も経験してきたものだと気付き、己の場合はルカとラシードの二人と知己になり、今では親友付き合いをしている事を思い出す。
「カズ、ソウ以外に他愛もない話をする友人を作れ」
『ケイさん?』
「お前の趣味で繋がれる人でも良い、教室で出会った人でもいいから誰かと仲良くなれ。お前なら出来る」
『出来るかな?』
「ああ。お前なら大丈夫だ。……あいつには俺から話をしておく」
だからもう泣くなと、日本に行ったときには必ず美味しいコーヒーや新しく見つけた店に連れて行ってくれる兄の恋人を励ます言葉を伝えると、少しの間鼻を啜るような音だけが流れてくるが、小さな前向きの声がうんと返してくれて安堵の息を吐く。
「だからもう泣き止め。あいつが帰ってきたら不満に思っていることをお前の言葉でちゃんと伝えろ。あいつはお前の言葉ならちゃんと聞き入れるはずだ」
『うん……ありがと、ケイさん』
「ああ。もう泣き止め」
何度も言っているが俺もあいつもお前に泣かれるとどうしていいのか分からなくなると本音を苦笑交じりに伝えると、泣き笑いの声がスピーカーから流れ出す。
「良いな、一人で抱え込むな。お前にはあいつがいる」
『……うん』
「それでもまだブツブツ言っていたら、お前が連れてきたのだから責任を取れと言ってやれ」
それぐらい言わなければあいつには通じない時があるとにやりと笑うと、めちゃくちゃ美味しいタルトを食べさせてくれるカフェを発見したからそこのタルトを買わせるとの言葉が返ってきて、ああ、そうしろと兄の困惑する顔を思い浮かべつつ笑みを深めてしまう。
それが二人の仲直りの儀式である事を知っている慶一朗だったが、そろそろ自宅近くの道へと差し掛かったのに伴侶から何の連絡も入ってこないことに気付き、落ち着いたかと遠く離れたハワイで暮らす一央に苦笑する。
『うん。ありがと、ケイさん』
「ああ。ソウには俺から言っておくから、コメディアンが出る番組でも見て大笑いをして気分転換をしろ」
『うん。そうする』
忙しいのにごめん、ありがとうと繰り返す一央に大丈夫だと返して通話を終えた慶一朗は、信号待ちのタイミングでスマホの画面を見つめ、着信もメッセージの到着も何も無い事に一体どうしたんだと首を傾げてしまうのだった。
一央との通話を終えて帰宅した慶一朗はいつものようにガレージのドアを開けてただいまの声を上げるが、キッチンからも洗面所のある細い廊下からもリアムの声は聞こえてこない代わりに、デュークがいつもと少しだけ雰囲気の違う吠え方をしながら駆け寄ってくることに気付き、リアムと同じように膝を着いてデュークを撫でながらただいまと告げると、やっと慶一朗の帰宅に気付いた様な顔でリアムがソファから立ち上がって微苦笑を浮かべる。
「お帰り、ケイさん」
「ああ」
どうした、何か考え事かと問いかけたいのをグッと堪えた慶一朗がデュークの頭を撫でた後、洗面所で帰宅後のルーティーンを終えて出てくると、いつもならばお帰りのキスとハグをしてくれるリアムがぼうっとしたままソファの肘置きに座っていることに気付く。
何か様子がおかしい事など一目瞭然だったが、以前とは違って今のリアムならば己の口から話をしてくれることを確信している慶一朗は、敢えてそのことには何も言わずに今日も一日頑張ったと戯けたように報告しつつその隣にそっと立つ。
「うん。お疲れ、良く頑張ったな」
労ってくれる声にも当然ながら力など入っておらず、本当にどうしたと問いかけようとした矢先、リアムが気分を切り替えようとするように己の頬を両手で叩き、慶一朗の腰をぎゅっと抱きしめて本当にお帰りと、いつもとは比べられないがさっきよりは自然な笑みを浮かべて立ち上がる。
「ああ」
「今日のディナーはサーモンを焼くから、ビールを飲んで待っててくれ」
「ああ」
日常生活不能男と揶揄われる己がいくら落ち込んでいるとはいえ家事全般に対して万能のリアムに叶うはずも無く、大人しく待っていると頷いてカウンターのスツールを引いて腰を下ろすと、アイランドキッチンの向こう側へと移動するリアムの背中をじっと見つめ、この不調についていつどのタイミングで切り出そうかと思案するのだった。
そんないつもと何かが違う二人の様子をデュークが心配そうに低い位置から見上げているのだった。
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