真冬の寒さが和らぎつつあるがそれでもまだまだ日が差さない場所では寒さを感じる晩冬の週末の朝、今週も己の力をフルに発揮したり時々力を抜いたりしてそれでも責任感を重荷に感じずに働いていたクリニックのドクターであるリアムがソファでカレンダーを見ながら何やら確かめていた。
その横では黒と茶色のコロコロした物体がクッションの上で飛び跳ねてはリアムの太腿にぶつかってひっくり返ったり、この家に来るときに持参したクマのぬいぐるみ相手に戦いを挑んだりしていて、視界の隅で動くそれに微苦笑したリアムの手で頭を撫でられてはぬいぐるみの代わりに戦いを挑み、軽くあしらわれては転がっていた。
その元気さから体調に問題はなさそうだし調べていた必要なものも用意できたことから、今日がちょうど良いタイミングだと頷き、一人遊びに飽きたのか荒い息を吐いて己を見上げてくる子犬を抱き上げて視線を重ねる。
「デューク、ケイさんが起きてきたら出掛けるぞ」
「?」
散歩の意味が分かっていない顔で首を傾げるデュークをソファに下ろし、しっかりと子犬用のフードを食べた証に膨らんでいる腹を大きな手で撫でながら笑ったリアムは、さて、初めての動物病院では大人しくしているだろうかと一抹の不安を抱く。
デュークが家にやって来てから半月が経過したが、すくすくと育つと同時に子犬特有のいたずらも日を追うごとに増えてきていた。
ソファに置いたクッションは以前からは考えられない事にほつれが見え、二人ともどちらかと言えば自宅では素足の為に、玄関横に脱いで揃えて置いた靴ー何故かリアムのスニーカーばかりーが子犬の襲撃に遭ってしまい、今ではいたずら好きの公爵閣下の魔の手が届かない高さのラックに収納されるようになっていた。
万が一のことがあればどちらにとっても不幸になる為、子犬とは思えない力を発揮するデュークが噛んでしまってはいけないものには忌避剤を吹き付けたり、ケーブルには噛まれないようにモールを設置したりと、以前の家とは明らかに違いが分かるものも増えてきて、犬を飼いだしたことをリアムと今はまだベッドで幸せに眠っている慶一朗に実感させていた。
「やっと散歩に行けるようになるなぁ、デューク」
リアムの言葉の意味は分からないが嬉しそうな表情は読み取れるのか、楽しそうに息を吐くデュークに自然と笑みが深まってしまうが、その子犬が何かに気付いた様に顔を巡らせた為、リアムもそちらへと顔を向けると、ペタペタと足音をさせながら慶一朗が欠伸をしつつ階段を下りてくる。
バスローブの袖を伸ばしたままその袖で目元を拭き、階段を下りてきた勢いのままソファに座っているリアムに後ろから抱きつき、甘えるように顔を寄せて頬にキスをする。
「おはよう、ケイさん」
「……ん」
デュークをソファに下ろして片手で跳ね放題の柔らかな髪を撫でてキスを返すリアムに慶一朗が小さな声で頷くが、その手をデュークに向けて伸ばすと、小さな舌がその指先を舐める。
家に来た翌朝に顔を舐めて起こされて以来、小さな公爵閣下の舌の感触に慣れたのか、くすぐったいとリアムの肩に顔を乗せながら笑い、そんな慶一朗の様子にリアムの顔が穏やかなものになる。
今はまだ小さなデュークだが、彼を迎え入れる間の慶一朗の様子は不安に代表されるネガティブ寄りの感情を表に出すことが多く、その不安を解消するためにひとつひとつの疑問に丁寧に答え、分からないことは二人で一緒に調べたり周囲で犬を飼っている人達の話を聞いて解消してきたのだが、その結果がこうしてくすぐったいと穏やかな笑みを見せてくれる事なのだとすれば、苦労にも感じない苦労であっても乗り越えて良かったと内心で呟いた時、慶一朗が腹が減ったと呟く声が聞こえ、我に返ったように背後を振り返る。
「今日のモーニングは何だ?」
「今日は久し振りにマフィンを焼いたけど……ケイさん、まだ少し我慢出来るか?」
慶一朗の腹具合によってはこの後の予定を考えなければならないと告げつつ身体全体で振り返ると、慶一朗がソファの背もたれを馬に跨がるように跨ぎながら小首を傾げる。
「どうした?」
「うん。もし大丈夫ならデュークのワクチンを打ちに行こうと思う」
「ワクチン?」
「ああ。三回打たないといけないからその三回目だな」
ちなみにワクチン接種をしてくれる動物病院には予約を入れてあり、マーサのベーカリーの裏手になると笑うと慶一朗が少し考え込むが、ワクチンの後に近くのカフェでケイさんはブランチ、俺はランチなんてどうだろうとリアムが提案し、それに乗ったことを教えるように指を一つ鳴らす。
「分かった」
じゃあ出掛ける用意をしてくると残してソファから降り立った慶一朗が階段へと向かうと、その後ろをちょこちょことした足取りでデュークがついていく。
「リアム、デュークは階段を上れるのか?」
「どうだろうなぁ。上らせてみればどうだ?」
まだまだ子どもだから上れるかどうかは分からないと肩を竦めるリアムの前、デュークがワンと一声吠えたあと、まだ短い前足を伸ばして階段を一段、また一段と上って行く。
「上れるのか!?」
「みたいだな」
尻尾を振りながら一歩ずつ着実に階段を上って行く小さな姿を二人が驚きの顔で見守っていると、階段が曲がっているところで足を止め、どうして付いてこないんだと言いたげに見下ろしてくる。
「……留守中に上がらないようにゲートを設置しないといけないな」
「そうだな……ランチを食ったら買いに行こう」
最近ではいたずらの被害が増えてきた為、二人が仕事で留守にしている間にベッドルームに万が一入ったりしてしまえば大惨事を引き起こしかねない事が簡単に想像出来た為、侵入と転落防止のゲートを買いに行こうと二人が顔を見合わせて頷き、そんな二人に早く上がって来いと言いたげにデュークが小さく吠えるのだった。
生まれ育ったブリーダーの家からリアムと慶一朗の家にやって来た以外に外の世界へと出たことの無かったデュークの初めての外出先はリアムが彼のためを思って探して評判も良かった近所にある動物病院だった。
二人の家にやって来た時に入っていたキャリーに素直に入ったものの、慶一朗の愛車の後部シートに乗せられた途端、今まで二人が聞いたことが無いような悲しげな声を上げ続け、顔を見合わせた二人があの手この手で宥めた結果、助手席に座る慶一朗の膝の上にキャリーを乗せる事で落ち着いてしまう。
先程までのこの世の終わりのような鳴き声は何だったんだとステアリングを握ったリアムが納得いかないような声で呟き、まだ子どもなんだ仕方がないと慶一朗が微苦笑しつつキャリーの隙間からワガママが通った満足感に満ちた顔で見つめてくる公爵閣下を見下ろす。
「何となく、ケイさんにばかり甘えそうだなぁ」
「そうか?」
俺に甘えたとしてもきっと従うべき相手は誰だかちゃんと判断できると思うと笑う慶一朗だったが、チラリと運転席の愛嬌のある顔を見つめると、そこには滅多に見ないが今まで何度か見たことのある表情が浮かんでいるように思え、どうしたと声を掛けると何でも無いと返ってくる。
車をゆっくりと走らせ二人が愛して止まないベーカリーの手前の道を曲がり、一本裏手になる道を進むと犬と猫のシルエットが描かれた看板が見えてくる。
「この町で結構住んでいるけど、こんな所に動物病院があるなんて知らなかった」
「ああ、そうか、ケイさんは俺よりも前からここに住んでたんだよな」
「ああ」
テイラーが信頼出来る不動産業者を紹介してくれ、お前と初めて出会ったあのタウンハウスを紹介されたと、二人の出会いを思い出しているような顔で肩を揺らす慶一朗にリアムも釣られて笑みを浮かべ、そういえばマーサの店でぶつかりそうになったが、まさかその男と結婚するとは想像も出来なかったとも笑うと慶一朗の顔の笑みが引いていき、リアムが思わず運転操作を誤りそうな程の穏やかな笑みが口元に浮かぶ。
その笑顔に一目惚れした事を思い出し、駐車場に車を止めたリアムが助手席に身を乗り出すと、どうしたと言いたげな口に掠めるだけのキスをする。
「初めてあなたを見た時の気持ちを思い出せた」
ダンケ、ケイさんと笑うリアムの顔を呆然と見つめた慶一朗だったが、咳払いを一つした後、デューク、お前の主は人畜無害を装っているが本当はとんでもない悪党だぞと膝の上のキャリーに悔しそうに語りかける。
「おい」
「……何もすることが出来ない場所でキスしてくるんだからな」
「……それは失礼」
「Herr Entschuldigung, 機嫌を直せ」
「うん。久し振りに聞いたな」
「そうだな」
二人が初めて出会ったベーカリーで危うくぶつかりそうになった時、その後見学に訪れた家の玄関先で道を塞ぐように電話で話していたリアムに慶一朗が申し訳なさそうに呼びかけた時、リアムにとっては母国語であり慶一朗にとってもある意味母国語になるドイツ語で失礼と語りかけられた事を同時に思い出して顔を見合わせると、どちらからともなく小さく吹き出してしまう。
キャリーの中で二人の空気にデュークも嬉しそうにひと鳴きし、それを合図に車から降りると、自動ドアを潜って動物病院に入るのだった。
リアムはランチを慶一朗はブランチを食べて帰るつもりだったが、ワクチンを接種後のデュークの様子が気になると慶一朗が言いだし、何処かでランチを食べて帰るような雰囲気ではない事にリアムも気付き、キャリーを膝の上に載せて心配そうにデュークの名を呼ぶ慶一朗を助手席に、リアムが運転席に乗って自宅へと帰ると、漸く安心できる場所に戻ってきた事に気付いたらしいデュークがキャリーの床を前足で引っ掻く。
急いで家に入りキャリーから出してやると、自宅でも最も安心できる場所であるふかふかのベッドに一目散で飛び乗り、鼻を小さく鳴らしながら丸くなる。
「リアム、大丈夫なのか?」
「……うん、まあ大丈夫だろう」
さっきの動物病院のドクターー名前をローズと言うーが今日一日は風呂に入れずに家の中での運動会もさせないでくれと言っていたが、こんなにも調子が悪くなるのかと、ケージの前に胡座をかいて隙間に指を差し入れてデュークの頭を撫で続ける慶一朗が不安そうにリアムを見上げるが、見られた方はと言えばどう説明をすれば良いのかと言いたげな顔になっていて、どうしたと思わず眉を寄せてしまう。
「……うん。今何か言ってるだろう?」
「苦しそうに見える」
俺は今まで犬を飼ったことがないから分からないがこんなにも苦しそうなのかと、小さな身体で苦痛を堪えているのでは無いかと慶一朗が心配そうにケージの中を見つめれば、ベッドから起き上がったデュークが開けたままのドアからよろよろと出てきたかと思うと、慶一朗の胡座の上によじ登って今度はそこで丸まってしまう。
「……まったく」
この公爵閣下は演技がお上手だと腕を組んで鼻息荒くリアムが言い放った言葉を慶一朗が一瞬理解出来ずにきつく眉を寄せ、何だってとドイツ語で問い返すと、キャリーの中でもずっとうにゃうにゃと言っていたが、アレは単なる注射に対する不満だと溜息交じりに返されて思わず絶句してしまう。
「ふ、まん……?」
「ああ。ケイさんとお出かけするぞと言ったけど、動物病院で注射をするなんて聞いていないって俺に文句を言っているだけだ」
この甘えん坊の公爵閣下めと、慶一朗の足の上で丸くなるデュークの頭を少し強めに撫でると不満の声と顔が上げられるが、リアムの大きな手をそっと短い舌が舐める。
「だから少しだけ甘えさせてやってくれ」
騙したつもりはないが結果的に騙したようになった事は反省しなければならない、今からランチの用意をするからその間だけでもそうしていてやってくれと肩を竦めたリアムがキッチンへと向かい、今日は外出の予定を入れないから昼から飲んでも問題ないなと冷蔵庫を覗き込みながら笑う。
その背中を見た後、己の足の上で丸まっている黒と茶色の物体を見下ろした慶一朗は、お前、リアムに騙されたと思っているのかと問いかけると、その通りと言いたげに一声吠えられ、何とも言えない顔で天井を見上げてしまう。
こんな小さな犬が注射に対する不満をうにゃうにゃと言い続ける事も、こうして拗ねたように甘えることをしてくるとは想像も出来なかった慶一朗だったが、そっと頭を撫でると嬉しそうに尻尾が揺れ、両手で抱き上げると嬉しそうに鼻を鳴らす。
「……リアムがすることは全てお前のためになることばかりだ。だから文句ばかり言うな、デューク」
ワクチン接種もお前が俺たちと一緒にキャンプに行ったりお前の兄弟犬に会いに行くために必要不可欠なものなのだ、だからそれを騙されたと不満を訴えるのではなくありがとうと言えとまるで人間の子どもに言い聞かせるのと同じように苦笑しつつ告げた慶一朗は、デュークを抱いたまま立ち上がり、ソファの肘置きに腰を下ろしてキッチンで自分達の空腹を満たしてくれる料理に取りかかっている誰よりも頼りになる大きく広い背中を愛おしそうに見つめ、そんな慶一朗の頬をデュークがさっきの言葉を理解したと言うように舐めるのだった。
リアムが手早く作ったランチー今日はイタリアンの気分だったらしく、ボロネーゼのパスタとグリッシーニと白ワインのランチを終え、慶一朗はソファに、リアムはトレーニングエリアに向かうが、二人が食事を終えてソファにやって来た事に気付いたデュークがケージから出てきたかと思うと、エアロバイクに跨がったリアムの足下に向かい、頭をぐりぐりと押しつけた後、今度はソファ前で慶一朗に向けて一声吠える。
その声に気付いてデュークの身体を抱き上げると慶一朗の顔を舐めまくり、思わずくすぐったいと慶一朗が笑い声を上げる。
その声をトレーニングをしながら聞いていたリアムだったが、止めろデューク、くすぐったいと笑う声を聞いているとトレーニングを続ける気持ちになれず、今日は中止と宣言し、ソファの上でくすぐったさにのたうち回る慶一朗を見下ろす位置にまでやって来る。
「楽しそうだなぁ」
「見てないで助けろ、リアム!」
本当にくすぐったいんだと笑う慶一朗の顔には己が浮かべさせることが出来ない笑みが浮かんでいて、リアムが思わずデュークにならそんな顔を見せるのかと呟いてしまい、しまったと言わんばかりに舌打ちをする。
「……ヘイ、嫉妬深い俺の王子様」
子犬に嫉妬してどうすると笑われてしまい、確かにそうだよなぁと己の言動を顧みたリアムの頬が赤く染まるが、デュークをソファ下に下ろした慶一朗が今度はリアムに向けて両手を広げる。
「来い、リアム」
俺たちの事を思って嫌なことでも引き受けてくれる嫉妬深い王子様、お前専用の場所に来いと太い笑みを浮かべた慶一朗の声と顔にリアムが逆らえるはずもなく、大型犬のような顔で己の為だけに広げられている腕の間に飛び込むと、本当にこの王子様はという呆れと感心が入り交じった声が耳元に零れ落ちる。
「……ごめん、ケイさん」
「今日のディナーで上手いマッシュポテトを食わせてくれたら許してやろうかな」
「恐悦至極に存じます、陛下」
「うむ。期待している」
互いの顔を見ず時代がかった言葉で互いの言動を許し合った二人だったが、ソファの下から不満の声が上がったことに気付き、リアムが片手で不満の主を抱き上げる。
「そもそもは公爵閣下が下手な演技をするからだ」
「それもそうだ」
小首を傾げる子犬を抱き上げたままソファに座り直し慶一朗もそんなリアムの横に座り込むが、やはりここにこうして揃っている時はいつもの態勢が良いと珍しく素直に告白し、リアムがクッションを肘置きに立てかけて背中を預け、慶一朗がそんなリアムの胸に背中を預けるが、リアムの手からデュークを受け取ると、腹の上にそっと下ろして顔を両手で撫でる。
「昼寝するぞ、デューク」
お前も大人しく昼寝をしろと笑って鼻先にキスをした慶一朗は、背後の嫉妬深い王子様のために顔を振り向けると人差し指を唇に宛がい、リアムに向けてそっと指を弾く。
「うん。お休み、ケイさん」
指先のキスを受け取ったリアムが慶一朗の腹の上に丸まる子犬を撫で、空いた手で慶一朗の髪を撫でると大きな欠伸の声の後に小さな寝息が流れてくる。
その欠伸に釣られるようにリアムも欠伸をした後でお休みデュークと子犬にも挨拶をし、二人と一匹の平和な休日の午後、昼寝というある意味最高の時間の過ごし方をするのだった。
その後、慶一朗より早く起き出したリアムがリクエストに応えるためにマッシュポテトの下準備をする間、慶一朗を一人にさせるつもりがないために寝入っているデュークを慶一朗の腹の前に移動させ、己はなるべく静かにディナーの用意に取りかかり、食後のフラットホワイトで今日一日を労って貰うのだった。
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