ジャーマン・シェパードの子犬を迎え入れる事が決まった数日後、リアムと慶一朗の家に小さな異変が起こるようになっていた。
その異変に真っ先に気付いたのは当然ながら家主でありハウスキーパーの役割を進んで引き受けてくれているリアムで、今もまたその異変を片手に小首を傾げていた。
今リアムがいるのはベッドルームを出て階段を下ってすぐで、今手にしたものが何故ここに転がっているのかが理解出来ないと言いたげに眉を寄せる。
一人暮らしの頃から家の中の掃除は欠かさずに行い、今もベッドシーツを交換するためにベッドルームに来たのだが、階段を上って部屋に入ったものの、階段の途中に転がっていた異変が気になり引き返してきたのだ。
今、己の掌の上で居場所を間違えたように乗っているソレをまじまじと見下ろし、一体何だと眉を寄せたリアムが階段をゆっくりと下って行き、階段の正面で所謂トレーニングエリアとリビング部分を仕切っている本棚の写真を無意識に見つめ、コーヒーテーブル横のゴミ箱ーこのゴミ箱も気が付けば伴侶が愛するSFドラマのキャラクターグッズに取って代わられていたーに投げ入れるが、ふと気になりゴミ箱を覗き込んで軽く目を見張る。
ゴミ箱の中には同じような大きさのゴミがいくつも溜まっていたのだが、やはりこれは何かがおかしいと天井を見上げつつ溜息を吐く。
「ケイさんが帰ってきたら聞いてみるか」
今日も慶一朗より早く帰宅し、ディナーの用意をあらかた終えてトレーニング前にベッドシーツの交換をするために二階に上がったのだが、その異変に気を取られてシーツを交換することを忘れてしまっている事を思い出すが、シーツは明日にでも交換するかと苦笑し、今は慶一朗が帰宅するまでのある意味隙間時間を利用して身体を鍛えようと頷き、エアロバイクに向かうのだった。
リアムが自宅の異変について問いただそうとしている事など気付いていない顔で愛車を運転し、自宅前に着いたためにガレージのシャッターを上げる。
珍しく今日は強い空腹を覚えていて、今日のディナーは何だろうなと呟きつつリアムの愛車の横に車を停めてシャッターを閉めると、ガレージから入ることの出来るドアを開けて一声。
「ただいま」
日本で生まれ育ったものの家庭環境が一般家庭とは少し違っていたために日本人らしさを慶一朗から感じる事はほぼないが、家を出るときと帰ってきた時の挨拶だけは日本語で行う癖があり、今もまたただいまと帰宅を告げると、階段横の細い廊下の向こうからお帰りという日本語が帰ってくる。
「リアム?」
洗面所にいるのかと、目の前のソファに通勤時に使っているバッグを投げ出して廊下を進むと、ランドリーバスケットに山盛りになりつつある洗濯物を見下ろしながら腕を組んでいるリアムを発見する。
「どうした?」
「……ここにもあった」
ぽつりと零される言葉の意味が分からずにリアムの身体の横からランドリーバスケットを覗き込むと、何故こんな所にあると言いたくなるようなものがぽつんと転がっていて、それを見た慶一朗の目が軽く見開かれたかと思うとそろそろと後退りはじめる。
「ケーイさーん?」
リアムがそれを手にくるりと振り返ると同時に背中を向けて廊下を駆け出した慶一朗だったが、リビングのソファ前にまで駆け寄ったときに背後から抱きしめられてしまう。
「離せ!」
「今逃げた理由を話せば離してやる!」
ソファの背もたれだけが命綱だと言うようにしがみつく慶一朗を背後から羽交い締めするリアムの攻防はそう長くは続かず、リアムの太い腕をギブアップだと教えるように慶一朗が叩き、拘束が緩んだ腕の中で振り返る。
「……これは何だ?」
今はランドリーバスケットの洗濯物の山の中で、さっきは階段の途中でも見つけた、それ以前はケイさんの部屋の前の廊下でも見つけたぞと目を細めるリアムの言葉に慶一朗が視線を左右に二度彷徨わせた後、眼鏡の下から上目遣いに伴侶の顔を見つめる。
その視線に思わず全てを許しそうになったリアムだったがその気持ちを渾身の力で堪え、さあ理由を話せと先を促すと、ある意味予想通りである意味予想外の言葉が聞こえてくる。
「……子犬の、名前だ」
「名前?」
その言葉がリアムに齎したのは意外さだったが、ああ、そういえばもうすぐ子犬が家に来る時期だと思い出して軽く目を見張る。
「……考えてなかった」
ある意味必須のものを忘れているなど珍しいとリアムの腕の中で驚きに目を丸くした慶一朗だったが、うん、ケイさんに言われるまで忘れていたと己の失態を呪うように舌打ちをする珍しい様子から、己の悪行が許されるかも知れないと気付き、再度腕の中から逃れようとするが、逃がすかという低い声が聞こえた後、信じられない強さで抱き上げられて足が宙に浮き、荷物か何かのように肩に担がれてしまう。
「!!」
「子犬の名前を考えるのは良いことだが、家中に紙くずを捨てても良い訳じゃ無い」
あなたは自分の趣味のジオラマ作りをするときも部屋の床一面に不要になった木材や紙などを捨てる癖があるが、その癖を家中で披露するなと吠えたリアムがその勢いで肩に担いでいる慶一朗の尻を叩くと、面白いように慶一朗の痩躯が跳ね上がる。
「アウッ!」
「まったく……!」
肩に慶一朗を担いだままソファを回り込んで定位置にそれでもそっと下ろすと、叩かれた尻を押さえながら慶一朗がソファの上で飛び跳ねる。
「尻が割れたらどうしてくれるんだ!」
「安心しろ、尻は元々割れている」
ソファで飛び跳ねる慶一朗を腕組みをしながら睥睨するリアムだったが、ふうと息を吐いた後にじっと端正な顔を見つめると、何を言わんとするのかを察したらしい慶一朗の色素の薄い双眸が眼鏡の下で二度三度左右に揺れ、小さく両手が広げられる。
「……良し」
その手の中に身体を押し込んで背中を撫でると安堵したように同じく背中を抱かれ、本当に家全体をゴミ箱と思っているのかと苦言を呈してしまうと、後で捨てるつもりだったのにお前が先に見つけるからと往生際の悪い言葉が聞こえてくる。
「ケイさん」
「……もう、しない、ようにするから……」
だから怒るなと尻すぼみになる声で謝罪とも思えない謝罪をした慶一朗は、頬をいつもより強い力で挟まれて痛いと悲鳴を上げるが、その後に額と額が重なったことに気付いて上目遣いで至近距離のためにぼやけて見えるヘイゼルの双眸を見つめる。
「……ごめん」
「うん。……でも何かちょっと嬉しかったかな」
慶一朗の口からようやく出た謝罪の言葉にリアムが満足げにひとつ息を零した後、嬉しそうに小さな笑い声を零して慶一朗の頬にキスをする。
「何がだ?」
「うん。ケイさんが子犬の名前を必死に考えてくれてたってこと」
飼うことを決める直前まで不安で仕方がないという様子だったが、それを乗り越えて率先して名前を考えてくれているのは本当に嬉しい事だと笑うリアムの腰に腕を回して広い肩に顎を乗せると、いくつも候補を思い浮かべて紙に書いてみるがしっくりこないと呟き、違和感があるのかと問われてそっと頷く。
「何かが違う気がする」
「そっか」
落ちていた紙くずを見ても良いものかどうか分からなかったから拾ってはすぐにゴミ箱に捨てていた、だから何が書かれていたのかに気付かなかったと苦笑するリアムに頷いた慶一朗だったが、愛車の中で覚えていた感覚を思い出し、髭で覆われている顎にキスをする。
「……後でちゃんと話をするから、何か食いたい」
「あ! 悪い、ケイさん! すぐに用意をするから待っててくれ」
慶一朗の控え目な申し出にリアムがすぐさま我に返って謝罪をしてキッチンに大股に向かい、己とのその違いに内心落ち込みそうになった慶一朗だったが、今日のディナーは何を食わせてくれるんだと問いかけながらシャツの袖を捲る。
「何か手伝えることはあるか?」
「もちろん。今日はまだ少し寒いからグーラッシュにした」
「グーラッシュか……クネーデルは……」
「もちろん用意してある」
だからクネーデルをお好みの固さに茹でてくれないかとガスコンロを指し示すと、慶一朗がようやく覚えてきたらしいシンク下の開きを開けて片手鍋を取り出し、冷蔵庫からリアムが取り出したクネーデルを受け取り茹でる準備をする。
二人が付き合い出すまではキッチンにロクに立ったことのないどころか、オーブンで使える食器の区別も付かないで何度も大惨事を引き起こすような日常生活不能男と呼ばれる慶一朗がこうして料理の手伝いを行えるようになったのはひとえにリアムと彼の祖母や両親の教育の賜物で、それをしみじみと感じつつグーラッシュを温め始めたリアムは、慣れない手つきながらも進んで手伝いをする様になった慶一朗に目を細め、今日のアルコールはビールだなと鼻歌交じりに呟く声に浮かれたように返事をするのだった。
いつものようにアイランドキッチンのカウンターに二人肩を並べて腰を下ろし、グーラッシュとクネーデルとビールのディナーを満喫した後、慶一朗が今日はこれが飲みたい気分だと言いながらホットカクテルの一種であるアイリッシュコーヒーを、日頃の不器用さを考えれば信じられない程手際よく器用に作り、柔らかく泡立てた生クリームを仕上に載せるまで手を抜かずに作ると、庭に出ようとリアムを誘う。
慶一朗の誘いに乗って庭に出たリアムは、テーブルにホットカクテル用の少し背の高いグラスを慶一朗が置くのを見守り、テーブルを挟んで隣に腰を下ろすと同時にガラスの取っ手の付いたグラスを手に取る。
「アイリッシュウイスキー?」
「そう。アイリッシュコーヒーだな」
いつもはフラットホワイトだが今日はホットカクテルも悪くないと思ったと笑う慶一朗に頷きつつ一口飲むと生クリームの柔らかさと温かいコーヒーとウイスキーの香りが口の中に広がり、こういう飲み方も悪くないなと思わず素直な感想を口にする。
「色々酒を変えれば名前が変わるからまた作ってやる」
「うん。楽しみにしてる」
互いに一口目を楽しんだ証拠の吐息を零して同時に夜空へと顔を向けるが、慶一朗が何かごそごそとしたかと思うと、リアムに向けて握った両手を突き出す。
「ケイさん?」
「……どっちか選べ」
己に向けて突き出される両手は軽く握られていてその中に何かがあることを教えてくれているが、一体何だと訝りつつ両の拳と端正な顔を交互に見つめると、それに焦れたのか早く選べと口が尖り出す。
「……じゃあ、こっち」
リアムが選んだのは己から見て右、つまりは慶一朗の左手で、その手を開くと中にはぐしゃぐしゃに丸められて皺になっているメモ用紙があった。
それはリアムが小さな異変として気付き慶一朗を叱った原因となるもので、何を言わんとするのかを察して無言で掌を向けると、慶一朗の手がぐしゃぐしゃの紙を広げて二人の視線が落ち合うテーブルにそれを置く。
殴り書き文字で書かれているのは子犬の名前らしきスペルで、書いた本人にしか読めないほど乱雑な文字だったため、早々に解読を諦めたリアムが何と書いているんだと問いかけるとヘルツォークと返ってくる。
「ヘルツォーク……公爵?」
「ああ」
お貴族様かとリアムが複雑な表情で呟くと、ここには王子様も陛下もいる、公爵がいてもおかしくないだろうと慶一朗が頬杖を突きながら楽しげに笑い、その言葉に確かにそうだなぁとリアムも釣られて笑みを浮かべる。
「ヘルツォークも良いけど……デュークはどうだ?」
「英語か?」
「うん、そう。ヘルツォークだとヘルと省略することになる」
そうすると自分達の親友になってくれる子犬をミスターと敬称で呼ぶことになると笑うリアムに慶一朗がひとつ頷き、英語で公爵を表すデュークにしようと納得したように何度も頷く。
「そろそろ迎え入れる準備をしないといけないから週末にデュークの家やおもちゃを買いに行かないか?」
「首輪に付けるネームプレートも作ろう」
「うん、そうだな」
もうすぐルカを通じて紹介して貰ったブリーダーから連絡が入るはずだ、それが入れば慌ただしくなるだろうから彼から貰ったリストを参考に必要になりそうなものを買い揃えておこうと二人で顔を寄せて子どものような笑みを浮かべてしまう。
慶一朗のその顔を見ながら少し前の不安そうな顔を思い出したリアムは、その不安を一緒に乗り越えてこうして前向きになってくれたことが本当に嬉しいと内心で呟きながら目の前にある端正な顔を手の甲で撫でると、突然のそれに驚きつつも受け入れてくれるように小さく首を傾げられて薄く開く唇にそっとキスをする。
「……デュークか……ケイさんの親友になってくれると良いな」
「お前の親友でもあるだろ?」
二人の親友候補である子犬の話題で盛り上がりつつ少しだけ冷めてしまったアイリッシュコーヒーを飲んだリアムは、一口目よりももっと美味しく感じるそれに自然と笑みを深め、そんなリアムの顔を見た慶一朗にも同じような笑みが浮かぶのだった。
そして、その翌週末、ルカから子犬をいつ引き取りに来ても良いと連絡を受けてアポフィスからブリーダーの家に直接向かった二人は、慶一朗が一目で気に入り二人でデュークと名付けた子犬をブリーダーから受け取ると、初めて見たときよりも少し成長している子犬が安心できるようにと手渡された毛布とクマのぬいぐるみも一緒に受け取る。
「パピーを可愛がってやってくれ」
ルカから話を聞いた限りでは無責任とはかけ離れたところにいるだろうが、それでもうちの愛犬の子どもをよろしく頼むと、寂寥感を隠しきれない顔で慶一朗が両手で抱えたキャリーの中で大人しく丸まっている子犬を見つめたブリーダーの男の言葉に二人が神妙な面持ちで頷き、最後まで責任を持って世話をすることをリアムが伝えると男が安心したように頷く。
「名前はもう決めたのか?」
「ああ。デュークだ」
「……公爵?」
「そう。きっと名前に負けない立派な成犬に成長してくれると思う」
そして成長した証に自分達の良き親友になって貰うと笑うリアムの言葉に慶一朗も頷き、二人の様子からブリーダーの男ももう一度頷いた後、実はと切り出す。
「?」
「ルカもシェパードを飼うと言っていたぞ」
「は!?」
「ルカの家に行くパピーはあの子だ」
男の背後のサークルの中で元気いっぱいに飛び回っている子犬がいるが、耳が折れていて小首を傾げているように見える子犬を男が指し示してそのパピーの兄弟だと笑うと、兄弟が近くにいれば安心だなと慶一朗がキャリーの細い隙間から中の子犬に笑いかける。
慶一朗のその声にデュークと名付けられた子犬が顔を上げて鼻先をキャリーの隙間に押しつけるが、さあ、家に帰ろうとリアムが声を掛けて今度はリアムの顔を見つめるように首を巡らせる。
「お前の兄弟との再会は登録をしてワクチンをもう一度打った後だな」
「ああ。渡した書類にも書いておいた」
「サンクス」
自分達の親友候補を譲ってくれてありがとうと礼を言いさあ帰ろうかと慶一朗に呼びかけたリアムは、自分達のどちらの車に乗っても良いようにキャリーを車にひとつ積んで置いても良いなと笑い、慶一朗もそうだなと同意をし、手を振ってくれる男に頷きつつ庭先に止めてある白い鋼鉄の白馬に乗り込むのだった。
デュークにとっては初めての車でのドライブは、二人が密かに案じていた様に車酔いをすることも、家族と離された不安を訴えるように吠えることもなく、慶一朗が膝の上にキャリーを乗せて見下ろしていることを理解しているように時々顔を上げてはキャリーの隙間から短い舌を出して慶一朗の手を舐めようとしていた。
その大人しさから本当に良い友人になってくれると確信を抱いたリアムは、キャリー越しにお前の名前はデュークで、これからは男同士仲良くしようと笑いかけ、慶一朗も確かにそうだと膝の上に抱いた子犬に笑いかけ、家に帰るまでずっと膝の上からキャリーを下ろさずに中の子犬の様子を飽きること無く見つめ続け、そんな慶一朗の様子に運転しつつリアムも安堵に笑みを浮かべているのだった。
こうして、デュークと名付けられたジャーマン・シェパードの子犬が二人の家にやってきたが、成長していくにつれリアムが確信したように良き親友として常に二人の傍にいて、二人と周囲を巻き込む喜怒哀楽の様々な感情を剥き出しにしなければ乗り越えられないような出来事を二人手を繋いで乗り越えていくのを最も間近で見守り、時にはもう一人の親友として二人に寄り添い続けるのだった。
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