It's a Wonderful Life.-Family Plan.-

第7話 Die neue Familie.
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 日一日と春へと向けて季節は流れるがそれでもまだまだ寒い日が続くシドニー郊外の住宅地で、今日の休日の過ごし方をブランチを食べながら話し合っているひと組のカップルがいた。  カップルの一人はハニーブロンドを短く刈った清潔感のある髪と無精に見えるが手入れがなされている髭で鼻の下と顔の輪郭を覆っている壮年の男で、その手には大ぶりのマグカップが握られているが、その隣でのろのろとフォークをトマトに突き立てている男の白皙の頬を指の背で撫でて微苦笑する。 「プチトマトは好きじゃないか?」 「……プチだろうがグランデだろうがトマトはあまり好きじゃないしそもそも野菜は好きじゃない」 「食いやすいかなと思ってベーコンを巻いたけど、それでも食いにくいか?」  髭の下の口を楽しげな形に変化させながら指で撫でた頬にキスをすると、ベーコンは美味かったがトマトに巻き付いていたから剥がしたと返され、わざわざ巻いたものを剥がすなとさすがに呆れたように目を見張ってしまう。  フォークでトマトを突いている端正な顔をした己の伴侶に何とも言えない溜息を吐いたのはこの家の主の一人であるリアムで、リアムが溜息を吐きつつ様子を見守っているのは当然ながらもう一人の家主であり己の伴侶である慶一朗だった。 「……ひとつ、食う」 「うん、そうだな」  トマト一つ食べるだけでこれだけ時間が掛かるのなら一つだけでも食ってくれればそれでいいとリアムが折れたように肩を竦めると、意を決したようにプチトマトを一つ口に放り込んでもごもごと咀嚼した後、リアムの手からマグカップを強奪し、慶一朗が伴侶のために淹れたフラットホワイトを飲んで盛大な溜息を吐く。 「……前まではちゃんと食ってたのになぁ」  トマトも苦手になってきたのかとマグカップの中で半量にまで減ってしまったフラットホワイトを悲しそうに見つめながら呟くリアムの頬に小さな音を立ててキスをした慶一朗は、今日は何かトマトが食いにくかったと言い訳するように上目遣いで愛嬌のあると称する顔に笑いかけるが、まあそれでもちゃんと食ったことは褒めましょうと友人や家族がその言葉を耳にすると、甘やかすのもいい加減にしろと目を釣り上げそうなことをさらりと言い放ったリアムがフラットホワイトを飲み干し、この後の予定を問いかけてくる。  今日は日曜日で今はその昼を過ぎた頃だったため、これから何処かに出かけることを少し億劫に感じてしまった慶一朗が天井を見上げつつそれでもどうしようかと呟く。 「お前は?」 「うん、何もなければ買い物に行ってこようかな」 「買い物?」 「そう。来週も結構ワクチン接種の予約が入っていて忙しいから買い物を済ませようかな」  真冬を超えつつあるがそれでもやはり冬の時期に流行する病気の為にクリニックを訪れる患者は多く、毎日患者の診察に追われて忙しくしているためか、帰宅後に買い物に行く気力がさすがになくなってしまっている事を告白するリアムにそうかと返した慶一朗だったが、その頬に労いのキスをするとヘイゼルの双眸が細められる。 「今日のディナーが決まってなければシュニッツェルが食いたい」 「シュニッツェルか……じゃあアンジーの店に行ってくるか」  その店は最近見つけた個人が経営している肉屋で、売られている肉の新鮮さや種類の多さ、店で作られているハムなどの味が二人のーはっきり言って慶一朗のー好みで、店を発見してからは肉を買うとなれば近所のスーパーではなくそこに買いに行くことが増えていた。 「少しジムで汗を流してから買い物に行ってくる」  何やら思いを秘めているような顔で頷くリアムを横目で見つめた慶一朗だったが、日々の暮らしを送る中で欠かせない買い物などを嫌な顔をせずに行ってくれるリアムにいつだったか面倒だと思わないのかと問いかけたことがあり、その時の返事は自分でやらなければ誰もやってくれないと言う厳然たる事実で、それを聞いた慶一朗の胸に己は何もできない役立たずだと言われているようだという後ろめたい思いが芽生え、思わずお前はすごいなと皮肉を言ったことがあった。  その皮肉を聞いたリアムが驚きつつも口にしたのは適材適所という言葉で、優しいキスの後にあなたにはあなたの役目があるとも告げられ、友人一同に日常生活不能男と呆れられる己に何の役目があるんだと本心から問い返すと、うん、最近気づいたことだからと照れたような笑みを浮かべつつ予想だにしなかった言葉を慶一朗に伝えたのだ。 『ただいまって出迎えてくれるだろ?』  実はあれがかなり嬉しいと笑うリアムにそんなことで良いのかと呆気に取られながら返すと、うん、それが良いんだと肯定されたことを思い出す。 『惜しいな、リアム。出迎える時の言葉はおかえり、だ』 『……間違えた?』 『ああ』  くすくすとリアムの可愛い間違いを指摘しつつ顔を赤らめた誰にでも優しいが己には際限なく優しい伴侶に抱きつき、そう言うことならお前が帰ってくるこの家で俺は待っていると伝えたことも思い出し、今日は久しぶりに自室でジオラマを作成していると伝えるとリアムの顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。 「久しぶりじゃないか?」 「そうだな。ミシェルが新しい模型を入手したらしい」  その写真を見せられたから何か作りたくなったと笑う慶一朗が久しぶりに趣味の時間を持つことを我が事のように喜んでいるリアムに、だから今日もいつものようにお前が帰ってきたらお帰りと言って出迎えてやると告げると、うんと素直に嬉しさを顔中に広げながらリアムが頷き、出かける前に片付けをしてしまおうと食器類を手にカウンターのスツールから立ち上がるのだった。    じゃあジムに行ってから買い物をしてくると慶一朗の頬に行ってきますのキスと背中にハグを残して出て行くリアムを玄関前のソファの肘置きに腰掛けながら見送った後、鍛えている肉体に相応しい鋼鉄の白馬に乗った王子様が勇ましく出陣するのを音で確かめると、その余韻のようなシャッターが地面に接する音に合わせて溜息を吐く。  平静さを装ってリアムを送り出した慶一朗だったが、二人を巻き込んだ辛く悲しい事件の後にこうして別々の行動をするのは仕事以外では初めてに近いことだった。  仕事という如何ともし難い理由がある時は何が何でも堪える慶一朗だったが、休日の午後を一人で過ごすことに今更ながらに一抹の不安を覚えてしまう。  リアムが不在の時間を一人で乗り越えられるのだろうか。  その不安は一度覚えてしまうと消え去ってくれずに慶一朗の心の中に爪を立てて残ってしまい、舌打ちをしてキッチンへと向かう。  ジムに行って買い物に行くリアムをお帰りの言葉で出迎えてやると言ったのは己なのだ、その舌の根の乾かない内にそれを悔やむようなことを言ってどうすると己を笑い飛ばすと、冷蔵庫を開けて水とビールのボトルを取り出してビールのお供と書かれたラベルが貼られているキャニスターも取り出す。  趣味に没頭すると空腹感も忘れてしまう慶一朗の癖を付き合いだしてすぐに見抜いたリアムが約束させた、何かを食べながら作業をすることとの言葉とそれを告げたときの顔を思い出しつつ2本のボトルとキャニスターを手に階段を上り、最近では滅多に入らない自室のドアを開ける。  部屋は以前住んでいた家から運んだ作業台にもなるテーブルが出窓の前に置かれ、クローゼットの反対側には組み立て式のラックが壁一面に設置されていて、ジオラマ作成に必要な品々がケースに収められてラックに鎮座していた。  部屋に入ってそのラックを見た瞬間、さっきまで胸に引っ掛かっていた一人への不安が掻き消え、職場での数少ない友人が見せてくれた写真を思い出し、ああ、鉄道模型では有名どころだが大草原を力強く疾走する列車を連想させるような大自然を作ろうと決め、作業台にもなるテーブルに必要なものをケースから取り出して作業に取り掛かるのだった。  久し振りのジオラマ作りに没頭していた慶一朗が何気なく時間の移ろいを出窓から入る光の柔らかさや角度から気付いた様に顔を上げると、体中が凝り固まっていることに気付き伸びをしてその凝りを解す。 「んー……」  腕を交互に突き上げて伸びをし椅子の背もたれを軋ませて天井を見上げたとき、階下で何か物音が響いた気がして首を傾げる。  この部屋には時計がなくてすぐに時間を確かめられるものはといえば大自然のジオラマを作る参考に写真を表示させていたタブレットぐらいで、それで時間を確かめるが己がこの部屋に入った時間を確かめておらず、一体どのくらいの時間が経過したのかという疑問が湧き起こる。  リアムが帰宅したのならば己の前言を守るようにお帰りと出迎えてやりたかった為にチェアから立ち上がってもう一度伸びをして部屋を出るためにドアを開けるが、リアムの愛車のエンジン音もガレージのシャッターが開閉する音も聞こえてこないことに気付き、さっきの物音は何だと小首を傾げつつ階段を下りていくが、その足を止めさせるような声が突如として脳裏に響く。 『迎えに来たわよ、センセイ。これからお楽しみの時間よ』  それは思い出すだけでも吐き気を催すような女の声だったが、その声に続いて複数人の男の声が響き渡り、階段の壁に手を付いて転落するのを必死に堪えることしかできなくなってしまう。 「……あ……っ……!」  あの時、ドラッグ入りの酒を飲まされて左右を男達に取り囲まれて用意されていた車に運び込まれた所まで意識はあったが、次に意識を取り戻したときには両手と視界の自由を奪われるだけでは無く、文字通り無理矢理犯される痛みが全身を襲ったのだ。  何がトリガーになったのかは不明だが唐突にそれが思い出されてしまい膝から力が抜けてその場に座り込みそうになるが、もう事件は終わった、己に消えない傷と痛みを与えたあいつらはもう誰一人としてここにはいないと己に言い聞かせ、みっともないほど震える膝を両手で押さえながら何とか立ち上がりたった今下っていた階段を一段ずつ上って行くが、一段上る度に膝が崩れ、二階に戻ったときには両手両膝を使わなければならない程だった。  震える手で己の部屋ではなくベッドルームに転がり込むように入った慶一朗は、周囲を見回して少し開いていたクローゼットのドアに気付き、力の入らない手足に舌打ちしつつ何とかドアを開けて吊されているシャツやパーカーを引っ張ると、すっかり馴染んでしまった洗剤の香りと己には決して発することのできないリアムとしか言い表しようのない匂いが染みついたパーカーがハンガーから落ちてくる。  その匂いが染みついたそれが唯一の救いの手を差し伸べてくれるものだと言うように体に巻き付けてもっと他にも何か無いかと視線を上げるが、己が手足を突いている床の下から何か得体の知れないものが迫ってくるような恐怖を覚え、ここも安心できない、安心できる場所は何処だと必死に思案し、クローゼットに吊してあったリアムのシャツやアウターを鷲掴みにしてそれを抱え込むと、ベッドルームを飛び出して先程まで作業に没頭していた自室ではなくその隣のリアムの部屋に駆け込みドアを勢いよく閉めて部屋を見回すが、同じように出窓の下に置いてあるリアムが勉強時に使っているデスクの下ならば隠れられることに気付く。  日頃の慶一朗ならば主の不在の部屋に入ることへの申し訳なさを感じるが今はそれを覚えている余裕など無く、ただただ体の奥底から湧き上がってくる恐怖に突き動かされて勉強デスクの下にリアムのシャツやパーカーを抱え込んだまま潜り込み、誰にも発見されないように体を小さく丸め頭を抱え込むのだった。  リアムがジムで使ったタオルや着替えを詰めたバッグを片手に、スーパーで買ってきた食材などを詰め込んだ袋をもう一方の手に抱えて帰宅したのは午後の遅くだった。  久し振りにジムに向かったリアムだったが、そこでビクトリア・ノースヒル・ホスピタルで事務員をしているサミ・ヴィッタネンと会い、ついつい色々と話し込みながらトレーニングに打ち込んでしまった為、予想以上に長居してしまったのだ。  一通りのトレーニングを終えてこの後予定が無ければお茶にでも行かないかと誘ってくれるサミに家でケイさんが待っているから帰ると笑顔で断り、次は予定を合わせてお茶の時間も考えておくとも告げ、大急ぎでスーパーと肉屋を回って買い物を終えたのだ。 「ただいま、ケイさん!」  少し慌てつつガレージのドアから家に入ったリアムは、お帰りと笑顔で出迎えてくれる慶一朗の姿が無い事に気付いて首を傾げ、洗面所にジムで使用したものを投げ込み、スーパーで購入したものはキッチンの作業スペースに置いて冷蔵庫を開けるが、割と物音に敏感な慶一朗がガレージやドアが開閉する物音にも姿を見せないことに天井を見上げ、ジオラマ作りに没頭しているのだろうかと思案しつつ買ってきたものを冷蔵庫に仕分けしながら入れるが、ビールのお供と書いたラベルを貼ったキャニスターが無い事によしよしと頷いてしまう。  己との約束は果たされている、その安堵に頷いていたが帰宅すればお帰りと言って出迎えてやるという約束が果たされていないことに気付き、それは叶えて欲しいなぁと寂寥感から呟くと、趣味に没頭しているのを邪魔するのは悪いと思いながらもやはり帰宅後すぐに笑顔で抱きしめて欲しい思いから階段を上って行くが、二階の様子がいつもとは違うことに気付き無意識に眉間に皺を寄せてしまう。  二階は階段を上った真正面に二つ並ぶ部屋が慶一朗とリアムの部屋で、階段の横にメインのバスルームがあり、そのバスルームと階段を挟んだ左右にゲストルームとベッドルームがあったが、慶一朗とベッドルームのドアが全開になっていて、まるで誰かが大急ぎで部屋のドアを開け放っていったような気配を漂わせていた。 「ケイさん?」  どちらかと言えば几帳面なリアムが部屋のドアを開けっぱなしにすることなどなく、こうしてドアを開けたままにするのは慶一朗しかいなかった為に慶一朗の名を呼びつつまずはベッドルームに入ると鏡張りのクローゼットのスライドドアも全開になっていて、そこに吊していたはずの二人分のシャツやアウターがハンガーから外れて床に落ちていたり何枚かは無くなっていることに気付き、慶一朗が趣味に没頭している間に強盗にでも入られたのかという嫌な予想がリアムの脳裏を過る。 「ケイさん!」  ハンガーから半ばずり落ちているシャツを片手に慶一朗の名を叫んだリアムは、その声に何某かの返事を期待するが返ってくるのは家の前を偶然通った車のエンジン音だけだった。  クローゼットの中やシャワールームのドアを開けても姿は無く、自室にいるのでは無いかとの思いから廊下に飛び出して斜め前の慶一朗の部屋に飛び込むが、そこにあったのは慶一朗がジオラマ作りに没頭していたことを教えてくれる痕跡だけで、何処に行ったと珍しく舌打ちをしたリアムの耳が微かな物音を捉え、そちらに勢いよく顔を振り向ける。  その物音は慶一朗の部屋のクローゼットの向こう側、つまりは己の部屋から聞こえたような気がし、万が一を想像しながら足音を極力押し殺しつつそっとドアを開けると小さな悲鳴のような声がやはり耳に届き、出窓の下の勉強デスク前にきちんと納めていたはずのチェアがまるで誰かに引っ張られたように部屋の中央へと移動していることから、まさかと思いつつ勉強デスクの前に駆け寄って膝を着くと、見慣れたパーカーやシャツで隠しているように体を小さく丸めて蹲る慶一朗を発見する。 「ケイさん……?」 「……っ!」  嫌だ、止めろ、離せと震える声で叫ばれて慶一朗の時計が過去に戻ってしまったことに気付いたリアムは、ごめんと一言謝った後、蹲る慶一朗を強引にデスクの下から引きずり出し、己の手から逃れようと上体を起こした瞬間、しっかり届くようにとゆっくりと名を呼ぶ。 「慶一朗」 「……っ! リ、アム……っ……!?」 「うん。遅くなってごめん」  何故遅くなったかは後できちんと話をする、だから落ち着いてくれと血の気の失せた頬を両手で包むと、慶一朗の口が開閉して震える呼気が零れ落ちる。 「どうした?」  何があったか話せるかと問いかけつつ反応を待っていると、あいつらの声が聞こえると返されて慶一朗の頭に引っかかっていた己のパーカーの意味を知ると同時に目の裏が真っ赤に染まりそうになる。  事件からゆっくり時間を掛けて日常へと戻ってきた二人だったが、仕事というどうしようもない理由以外の時は決してひとりきりにはさせなかったしまた慶一朗も不安だったようで、必ずどちらかの目が届く範囲にいることが多かった。  だが最近はその不安も感じることが少なくなっていたと感じていた為か、今日は特に何も言わずにトレーニングと買い物に出掛けたのだが、その間にやはり思い出してしまい、その恐怖から己のパーカーを頭から被ってデスクの下で蹲っていたのだろうか。  それを思うと己の浅はかさとまだまだ傷は癒えていないという現実に己を殴りつけたくなったリアムだったが、震える手が己のシャツの胸元を掴んだことに気付き、そっと見守っていると物音が聞こえたと教えられて目を見張ってしまう。 「物音?」 「……下、から聞こえた、から……」  お前が帰ってきたと思って一階に下りたが、その途中にあいつらの声が聞こえたのだと続けられ、思わず慶一朗を抱きしめてしまう。 「うん……怖かったな」 「……お前が、帰ってくるま、で……っ!」  我慢しているつもりだったが怖かったと、付き合いだした頃から比べれば遙かに素直に己が覚えた感情を教えてくれる慶一朗の背中を強く抱きしめ、うん、本当に怖かったなと繰り返したリアムは震える手が背中へと回されたことに気付き、もっと早く帰ってくれば良かったと後悔の言葉を口にする。 「ごめん、ケイさん」  ああ、本当に悪かった、一人にしないと決めたのに一人にしてしまったと悔やむ言葉を続けると、慶一朗がリアムにしっかりとしがみつきながら小さく首を左右に振る。 「いつまでも……怖がってるのも、ダメだ……」  そう思っていたが怖いものはやはり怖かったと自嘲する慶一朗にあなたは何も悪くないと叫んだリアムは、慶一朗の顔を覗き込むように視線を重ねると、俺が悪かったと目を見つめながら謝罪をする。 「ごめん、ケイさん」  額と額を重ねて謝罪を繰り返すリアムに慶一朗が震えながらも深呼吸を繰り返し、罰だと小さく笑ったような顔で呟いた後、リアムの頬を呼気と同じく震える手できゅっと抓る。 「……リアム」 「うん」  己が与えた恐怖に比べれば遙かにチープな痛みを罰だと笑って与える慶一朗を力任せに抱きしめたリアムは、己の腕の中で安堵の息を零す慶一朗の髪にキスをし、その身体から恐怖による震えが消え去るまでただ抱きしめ続けるのだった。    どのくらいの時間そのままだったか分からないが、慶一朗がいつもと変わらない落ち着いた声でリアムを呼び、その声に目で答えたリアムが立ち上がると同時に慶一朗をしっかりと抱き寄せてそのまま膝の裏に腕を通して抱き上げる。 「……ベッドに行くか?」  恐怖を覚えた体はきっと休息を必要としているだろうが、そうなるとベッドルームで一人になる恐怖をどうしても拭えなかった為に慶一朗が緩く首を左右に振りお前がいるところが良いと小さく呟いたため、うん、じゃあ下に行こうと頬にキスをしたリアムがゆっくりと階段を下りていく。  ジムでトレーニングをしたばかりの身体は疲労が蓄積しているはずだったがそれを感じる余裕もなく、慶一朗が最も落ち着ける場所を探してリビングのソファに辿り着いたリアムは、キッチンで作業をしなければならないが、ここからだと俺の姿も見えるだろうと問いかけて頷かれ、その間本当は少し嫉妬してしまうけれどと笑いながら青い電話ボックス型のぬいぐるみを、ソファに座って安堵の息を零す慶一朗の両腕に抱かせる。  何かに抱きついていると安心できるのかみるみるうちに慶一朗の顔に血色が戻り、それを見たリアムの顔にも安堵の色が浮かび、本当に良かったと手触りの良い髪を撫でてキスをすると、ぬいぐるみを抱いていた手が伸ばされてリアムの髭を伝うように指先が顎のラインをなぞる。 「いつまでも怖がってばかりじゃ情けないな」 「……無理をしなくてもいい」 「ダンケ」  お前のその言葉が本当に嬉しいと安堵の息を零し、気分転換を図りたいのかテレビのリモコンを手に取った慶一朗の横に腰を下ろしたリアムは、ジムでヴィッタネンと会ったことやトレーナーと一緒になってトレーニング談義に花を咲かせてしまったことを詫びるように伝えるが、ぬいぐるみを抱いていた手が己へと伸ばされた事に気付いて甘えるように身体を傾ける。  周囲からはリアムが慶一朗を甘やかしたり支えているように思われているが、逆の時にはちゃんと慶一朗が支えてくれる事をリアムは知っており、本当に親しい友人なども最近ではそれに気付いていて安堵しているようだった。  どちらか一方だけが支えている訳ではない関係が二人の間にはあり、髪を撫でてくれる綺麗な手の優しさにリアムが一度きつく目を閉じた後、慶一朗が見ているテレビを同じように見る。  何処かの企業のCMだろうか草原を走る犬と飼い主の姿が映し出されていて、珍しく慶一朗があの犬の犬種は何だと呟きながらリアムを見たため、己の記憶の中にある犬種を答えると楽しそうに走っているなと慶一朗の顔に笑みが浮かぶ。 「ケイさんは犬を飼ったことは?」 「ない。……犬というか生き物全般が苦手だ」 「そうなのか?」 「ああ……ああ、でも、もしできるのならやってみたいことがある」  それは日本で存在を消されたように部屋に閉じ込められていた頃に見ていたアニメか何かで見た光景だと前置きをした慶一朗がぬいぐるみを床に投げ捨てたかと思うとリアムの肩に寄り掛かるように身体を傾げ、リアムもいつものようにそれをしっかりと受け止める。 「大きな犬に顔を埋めてみたいな」  ふさふさの毛を持つ犬の腹に顔を埋めてみたいと笑う顔がリアムの脳味噌にしっかりと焼き付けられ、気持ちいいのかなと問われても咄嗟に返事ができなかったが、犬種にもよるが毛が硬い犬もいるなぁとしか返せなかった。 「毎朝散歩で家の前を通る柴犬は結構チクチクしているかな?」 「ふぅん?」  今まで犬と触れ合ったことのない慶一朗が示した興味をリアムが見逃すはずも無く、ケイさんさえよければだがと断りを入れながら慶一朗の顔を覗き込む。 「犬を飼わないか?」  たった今思い浮かんだ案を口にしたリアムの前、慶一朗が不思議そうな顔でそんな伴侶を見つめることしかできなかったが、テレビの中では大型犬がフリスビーを咥えて駆けてくるシーンが映し出されていて、二人の視界の隅にそれが入っているのだった。     
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  犬を飼わないか?
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