It's a Wonderful Life.-Family Plan.-

第6話 Sugar.
 トレーニングのお供に聞いていた音楽が終わり、予定していた時間のトレーニングが終わった事に気付いたのは、ランニングマシンの上を自重を感じさせない軽やかさで走っていたリアムだった。  本当ならば晴天の休日などに近くの公園などを走る方が好きだったが、如何せん仕事を終えて買い忘れていたものをスーパーで大急ぎで購入し、帰宅と同時に今日のディナーの下拵えまで済ませてしまわなければならなかったために外を走る時間などなかった。  それらの全てを大急ぎで終えてようやく作ることが出来た隙間時間だった為、トレーニングのお供にお気に入りの音楽を聴きながらランニングマシンの上を走っていたのだ。  額や短く切った髪から流れ落ちる汗をハンドルに引っかけていたタオルで拭き、ランニングマシンから降りると、大理石の床が足の裏から熱を奪い去ってくれる。  真冬でもその冷たさが今は心地よいと笑ってキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてトレーニング後にいつも飲むドリンクを飲むとー伴侶などは一口飲んだ瞬間にシンクに吐き出してしまうほどだったー、出番を待っている耐熱ガラスの器に盛り付けられているディナーの食材と飲み物などと目が合い、スマホを確かめるようにポケットから取り出す。  今日も今日とて己の患者のために働き、病院という特殊ながらも紛れもなく人の世の中をのらりくらりと飄々とした様子で泳いだであろう伴侶からのメッセージは届いておらず、まだ職場にいるのかと思案したとき、ガレージのシャッターが動く音が微かに聞こえてくる。  己の愛車と伴侶の愛車を並べて停めるとさすがに手狭に感じるが、それでも十分な広さを誇るガレージのシャッターを開けられるのは当然ながら今ここにいるリアムとその伴侶の慶一朗だけで、今日は職場を出る前にメッセージを送ってこなかったことから、職場で感情の頂点と底辺を経験した訳では無いと気付き、冷蔵庫で出番を待ち侘びている食材達をオーブンに投入するために取り出す。  その準備をリアムが行っていると、車がガレージに入ってエンジンが止まったことを教えるように静かになり、次いでシャッターが下りる音とドアノブが回る音が聞こえてくる。 「……Wo bist du, リアム?」  つい先程まで己がいたトレーニングエリア付近からドイツ語で何処にいると問われ、キッチンと洗面所への廊下を隔てている壁から顔だけを出しここだとドイツ語で返すと、眼鏡を掛けた端正な顔に安堵の笑みが浮かぶ。 「お帰り、ケイさん」 「ああ、ただいま」  日本で生まれ育ったからかはたまた他に意味があるのかは不明だが、家を出るときや帰宅した時には日本語でお帰りとただいまの言葉を交わすようになって何年になるかは数えていないが習慣になっているリアムが顔だけでは無く全身を見せると、手にしていた仕事に持って行くバッグが玄関前のソファ目掛けて宙を飛ぶ。  その様子から今の機嫌を推し測ったリアムが軽く目を見張りながら両手を広げると、痩躯が面白いほどの勢いで吸い込まれてくる。 「お前の吸引力はきっと何があっても一生変わらないんだろうな」 「何処かの掃除機かな」  己の腕の中で満足そうに息を吐いてクスクスと笑う慶一朗の髪を撫でて背中を撫で、お帰りと言葉では無く頬にキスで伝えたリアムにそれを受け取った慶一朗が同じ場所に同じ行動でただいまと告げ、良い匂いがすると鼻を小さく鳴らす。 「うん。今日はラザニアにした」 「……ビール? 白ワイン?」 「一杯目はビールかな」  余裕があればこの間買ったハウスワインを開けようと笑うリアムに慶一朗が頷きながら腰に腕を回すが、帰宅後のルーティーンを終えていないことを思い出した顔で勢いよくリアムから離れてしまい、不意に温もりが失せたことにリアムの体が震えてしまう。 「ケイさん」 「何だ?」  その震えを掻き消したくて咄嗟に名を呼ぶと不思議そうに眼鏡の下から見つめ返されるが、リアムの顔に浮かぶ表情に気付いたようにすぐに戻ってきたかと思うと、不安に薄く開く唇に小さな音を立ててキスをする。 「……汗を掻いたのか?」 「え? あ、ああ、うん、トレーニングをしてたから」 「そうか」  リアムの唇から塩味を感じ取ったらしい慶一朗がふぅんと興味のなさそうな顔で呟くが、己の唇に人差し指を当てて何かを確かめるように左右に指を動かした後、満足そうに吐息を一つ。 「どうした?」 「お前のキスは塩味がしても甘いな」  お前の体から出ているのは塩分ではなく砂糖を溶かした砂糖水じゃないかと笑う慶一朗の言葉に思わず呆気に取られたリアムだったが、ここで必要以上に驚愕を表してしまうと慶一朗の全身を覆っている甘い空気が消え失せてしまうことに気付き、うん、そうなのかなとだけ小さく返す。 「ああ」  お前のキスも嬉しいがディナーのラザニアと白ワインも楽しみだからそちらを今から楽しもうと笑って今度こそ洗面所に向かう細い背中を見送ったリアムは、己の唇に先程の慶一朗の様に人差し指を当てると、腹の底から込み上げてくる歓喜を人差し指一本で抑え込む不可能さに気付いて肩を揺らしてしまうのだった。  リアムが腕によりを掛けて短時間で仕上げたとは思えないラザニアと、掘り出し物だと二人が飲んで感心したワインのディナーを終え、これだけは何があっても誰にも譲らないリラックスタイムのお供のコーヒーをリアムのためにミルクフォームをいつも以上にきめ細かなものにしたフラットホワイトを淹れ、自分のためにはそれよりは遙かに手抜きをしたロングブラックを満たしたマグカップを両手にリビングのソファに向かうとソファに横臥してテレビを見ていたリアムが起き上がり、慶一朗がその足の上に腰を下ろしてカップをリアムに手渡す。 「横に座らないのか?」 「……お前の足を鍛えてやってるんだ」  コーヒーを飲むのに何もわざわざ不安定な己の足に座らなくてもと思わなくもないリアムだったが、慶一朗の横顔に疲労が滲んでいる気がし、ああ、なんだ簡単なことだと気付いてその頬にキスをし片足を立てて片足を床に下ろすと、広げた空間に座れと慶一朗に合図を送る。  コーヒーを飲んでいる間も触れていたいのだと気付き、言葉には出せない羞恥の強さを思い出したリアムの作戦に慶一朗が素知らぬフリで乗り、リアムの腿を背もたれにして足をソファに投げ出すと逞しい腿と腕で背中を支えられる。  それに無意識の安堵が零れ落ち、己の作戦が成功したことに気付いたリアムが受け取ったカップのきめの細かいミルクフォームを楽しむように口を付けると、美味いかという不安が声に出され、うんと素直に頷くと嬉しそうな笑みが唇に小さく浮かぶ。  それを見る事が出来るだけでも満足だったリアムがそれを飲みながらリモコンを操作してテレビを見ようとするが、ニュースチャンネルになると同時にリモコンを奪われてネット配信の画面へと切り替えられてしまったことから好きにさせようと決めると、慶一朗の髪を束ねているゴムを引っ張って髪を下ろさせてその手触りを楽しむ。 「リアム」 「ん?」 「次の休み、近くで良いからキャンプに行かないか?」 「うん、良いな。久し振りに行こうか」  大自然の中で己のちっぽけさを感じるのも良いと笑うリアムに慶一朗も頷き、久し振りにミルクトーストが食いたいとリクエストをすると承りましたと大仰な言葉が返ってきて自然と肩を揺らしてしまう。 「そのお礼ではないけれど、アイリッシュコーヒーをキャンプで淹れてやろう」 「どんなコーヒーなんだ?」 「コーヒーと言うよりはホットカクテルだな」  初めて耳にするそれにリアムが興味深そうに問いかけると慶一朗がようやく満足したのかリアムの足が作る囲いから抜け出して隣に座り直すが、今度は広い肩に寄り掛かってくる。  それを難なく受け止めながらホットカクテルと呟くリアムにカップを両手で持ちながらアイリッシュウイスキーを使うからで他のウイスキーを使えば名称が変わると続けるが、カフェ・ロワイヤルという飲み物の名前を聞いたことはあるかと問いかけて無いと返事を貰う。 「ああ、じゃあ次のキャンプでカフェ・ロワイヤルを作ってやる」 「うん」  アイリッシュコーヒーでもそっちでもどちらも楽しみにしていると笑うリアムに釣られたように笑みを浮かべ、お前がキャンプに良く行く理由が何となく理解出来たとぽつりと呟くと、優しいキスが髪と頬に降ってくる。  その優しさを受け止めつつ己の髪で手遊びをするリアムに更に寄り掛かりながら安堵の息を吐くと、お疲れ様という己も疲れているだろうに優しい労いの言葉が降ってくる。  それが己には勿体なくて相応しくないと思い込んでいた出会った当初を思い出し、あの時少しだけ勇気を出してこの手を取って良かったと内心呟いた慶一朗は、不意に帰宅直後の塩味が感じられたのに何故か甘さも感じたキスを思い出し、今はきっとミルクとコーヒーの味がするだろうと予測を立てながら掠めるようなキスをすると、ヘイゼルの双眸が驚きに丸くなる。  その顔が楽しくてもう一度キスをした慶一朗は、突然のキスに歓喜と驚愕を綯い交ぜにした顔で見つめてくるリアムににやりと笑いかけ、やはりコーヒーやミルクの味がしてもお前のキスは甘いと告げると、マグカップを奪い取られてしまい、抗議のために口を開けるとその甘さしか感じない唇に口を封じられてしまう。 「……っ!」 「……うん、ケイさんも甘いな」 「!」  二度の告白にいつまでも好き勝手なことを言わせておけないとばかりにリアムが反撃し、顔を真っ赤にした慶一朗がこの野郎といつもの言葉を口にすると、途端に甘さを感じていたリアムの腕が己を縛り付ける鎖の冷たさに変化した気がし、ストップと制止の声を上げるが己を囲う腕の強さは変わらず、ヘイ、王子様ストップとお決まりの声を上げる。 「……ん」  その言葉の後に小さく手を広げて上目遣いにリアムを見ると、仕方がないと言いたげに溜息を吐いた後に腕の中に体が押し込まれてくる。  広く分厚い背中を両手で抱きながら小さな声でごめんと告げるとそれをしっかり受け止めたことを教えるように背中を撫でられ、己よりも高い体温を持つリアムのそれに無意識に欠伸が零れるとまだ早いがベッドに行くかと問われて少し考え込んだ後に頷くとソファから立ち上がり、同じように立ち上がったリアムがカップを片付ける間に戸締まりの確認をする。 「お待たせ」  その声にリアムへと体ごと向き直ると軽々と抱き上げられてしまう。  子どもじゃあるまいし歩いてベッドルームに行けるといつも不満を訴えるが一度たりともその不満を聞き入れて貰えた事が無い為に今では諦めていた慶一朗は、ボトルを手渡されてリアムの代わりに受け取り、間近にあるハニーブロンドに手を添える。 「キャンプに行くためにあと少しがんばりますか」 「ああ、そうだな」  週末の楽しみのために平日を頑張って乗り切るのもアリだと笑い、ベッドに下ろされて伸びをした慶一朗が着ていたバスローブを脱ぎ捨てて掛布団の下に潜り込み、そんな慶一朗にリアムが苦笑しつつその隣に潜り込むが、ピタリと吸い付くように寄ってくる痩躯が意外な冷たさだったために己の体温を移すように抱きしめると、暑苦しいという不満を装った感謝の言葉が聞こえてくる。 「明日は何を食いたい?」 「この間買ったハムと目玉焼き」 「分かった」  じゃあ明日のモーニングはご要望にお応えしてアメリカンブレックファストにしますかと笑うと、なら美味いコーヒーを淹れると笑われ、期待していますと返しつつ慶一朗の額にキスをする。 「おやすみ、ケイさん」 「ああ」  いつものように腕を頭の下に差し入れて慶一朗の口から落ち着いた時に零れ落ちる吐息を確かめたリアムは、少し遅れるように届いた寝息にもう一度慶一朗の額にキスをし、同じように目を閉じて帰宅後からずっと甘い空気を身に纏っていた慶一朗を抱きしめながら眠りに落ちるのだった。  窓の外、冬の夜空を下界の喜怒哀楽など我関せずの顔で雲がゆったりと月明かりを受けながら流れているのだった。      
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  お前を鍛えてやっているんだ。
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