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二日ぶりの再会だというのに二人の間に流れる空気は険悪なもので、それを察したのか二人の女性が慌ただしく立ち上がり、飛行機の中では退屈していたから相手をしてくれて助かった、ありがとうと口早にドイツ語で捲し立てて二人を見向きもしないで立ち去っていく。
その背中を呆然とアイスのスプーンを咥えたまま見送ったリアムだったが、恐ろしく丁寧なドイツ語-まるで初心者向けのテキストに採用されそうな標準的なドイツ語でここに座っても良いかと問われてバネが壊れた人形のように頭を激しく上下させてしまう。
「どうもありがとう」
立っているのも疲れるし喉も乾いた、あなたが今食べているそれは何だと、頬杖をついて足を組みながらにこやかに問いかける慶一朗の目は決して笑っておらず、蛇に睨まれた蛙はこのような気持ちになるのかと内心呟いたリアムは、うん、あなたが気に入ってくれるかなと思って試しに買ってみたチョコチップ入りのアイスだと返すと、眼鏡の下の双眸が発する剣呑さが少しだけ薄らぐ。
「アーモンドスライスのトッピングがあったからそれを掛けてみた」
家ではラム酒を掛けて食べたりしているがさすがにここにそれはないようだったから、アーモンドスライスを試してみたと笑いながらリアムが手元のカップの中を慶一朗に良く見えるように傾ける。
「……ふぅん?」
「他に気になるのはバニラアイスにアーモンドスライスとチョコチップをトッピングしたものかな」
「……で?」
アイスのカップを一瞥するだけでリアムが差し出すスプーンを受け取ることも無ければ顔色一つ変えようとしない慶一朗の様子にリアムがサングラスを外したかと思うと、やっぱり止めておいた方が良かったよなぁと後悔の言葉を口にし慶一朗が無言で先を促す。
「サプライズは苦手だし成功したことが無いから止めておいた方が良かったんだけど……」
さっきケイさんが言ったように昨日泣いてから少しでも早く会いたかったと、短くカットされているハニーブロンドに手を当てて眉尻を下げるリアムを前に慶一朗が一度口を開いて次いで口を閉ざす。
あれは付き合いだして初めて誕生日を迎える前、今のように馬鹿正直にリアムが誕生日プレゼントに欲しいものは何だと問いかけてきたのだが、それを思い出した慶一朗が眼鏡の下で目を細め、その時と目の前の様子が容貌に多少の変化はあっても表情に変わりがないことを確かめると閉ざした口を開いて溜息を吐く。
「……さっきの二人は飛行機で一緒だったのか?」
「あ、ああ、うん。隣の席で楽しそうに盛り上がっていた二人だったし、ドイツ人だったからつい話しかけてしまった」
道中、機内オーディオサービスも楽しめなかったし、音楽を聴くためのイヤフォンを持ってくるのを忘れてしまったから退屈していたと素直に告白するリアムの様子から嘘を感じ取ることが出来なかった慶一朗がテーブルに人差し指でくるくると円を描きつつドイツ人かと問いかける。
「うん、そうみたいだ」
ケアンズには旅行で訪れたそうだと少しだけ顔色を明るくしたリアムの手に慶一朗がそっと手を重ね、何をするのかを見守る伴侶の前でその手の甲の皮膚を摘まんで引っ張る。
「痛い痛い、ケイさん、痛い」
己の伴侶の奇行に目を丸くするリアムが痛いと情けない声で呟くと、さっきまでは聞こえて来なかった感情のこもったうるさいという不満が返ってくる。
「うるさい。……GGもケヴィンも仕事でディナーが流れたからナイトクラブに行こうと思ったのに」
誰かさんがこんな所でナンパをしているから行く気力も無くなっただろう、どうしてくれるんだと眼鏡の下から恨みがましい目で睨まれてしまい、手の甲とそんな顔をさせてしまった心が同時に痛むのを覚えたリアムは、ごめんと素直に謝るついでに慶一朗の髪がまだ湿り気を帯びていることに気付き、シャワーを浴びたのかと問いかける。
「ああ」
「そっか……ナイトクラブに行くなら髪をセットしようか?」
きっとシャワーを浴びた後にケイさんなりにセットしたのだろうが、いつものようにセットしようかと上目遣いで端正な顔を見つめると、手の甲を摘まんでいた指が離れて己の暴行の跡を労るように撫でる。
「……お前がいるのにナイトクラブに行っても仕方がない」
遊びたい気持ちもお前と一緒にアイスを食いたい気持ちもあの二人のせいで吹っ飛んでしまった、その責任を取れと睨まれて無言で頷いたリアムは、じゃあディナーはまだ食べていないのかと問いかけて素っ気なく頷かれる。
「……誰かさんのせいでメシを食う気分でも無くなった」
どうしてくれると横目で睨まれて言葉に詰まったリアムが再び上目遣いで見つめると、どうすればいいと打開策を求めるように問いかける。
「どう、とは?」
「うん。俺がやりたいことはきっと今のケイさんには受け入れて貰えないだろう。情けないことだけどこんな時にあなたが望むものが分からない。だから教えてくれ」
今何をして欲しい、どうして欲しいか教えてくれと率直に問われて二度左右に視線を泳がせた慶一朗は、先程は痛みを与えた愛する男の手をひっくり返して分厚い暖かな掌に指先を宛がったあと、その指を己の唇にそっと押し当てて口の端を持ち上げる。
「本当に分からないか?」
「うん。情けないけど、降参だ」
だから是非教えてくれと謙ると言うよりは素直に教えを請うような顔に慶一朗の全身から発せられていた棘に覆われた空気が不意に消え去り、リアムの力なく広げられている掌のくぼみに人差し指をトンと突き立てたあとに薬指をリアムの薬指に絡めて目を伏せる。
「……寝るときに枕やバスローブにお前の香水を掛けたけど、やっぱり実物は違うな」
「そうか」
「ああ」
だからホテルの部屋に帰るぞと伝えるとリアムの返事を聞く前に立ち上がり、早く来いと言いたげな顔で呆然と見上げてくる愛嬌のある顔を見下ろす。
「帰るぞ」
「……うん」
その一言で当面の危機は去ったと判断したリアムだが、ホテルのソファの前の床にクッションを置いて話をしなければならない可能性も考えつつ同じように立ち上がり、歩き出した細い背中を追いかけて横に並ぶと、そっと差し出された小指だけの繋がりを求める手に応えて小指を差し出し、ホテルまでの短い時間を最小限のスキンシップを図りながら歩いて行くのだった。
ホテルのフロントに預けていた荷物を受け取り、どちらも口を開く事無くエレベーターに乗り込んで部屋に向かった二人だったが、慶一朗がドアを押さえる姿にリアムが小さく唇を噛んだあと、バスルームのドアがある細い廊下の先にある荷物を置く台に置き、くるりと振り返る。
「ケイさん」
「何だ?」
「俺が今やりたいことをやっても良いか?」
さっきも言ったようにそれをあなたが望んでいるかどうかは不安だけどと、その不安を押し殺したような顔に見つめられて小さく首を傾げた慶一朗は、どうぞと伝えるようにリアムに向け掌を見せる。
「ダンケ」
その言葉の後、はにかんだような笑みを浮かべつつリアムが慶一朗に向けて両手を広げてそっと名を呼ぶ。
「ごめん、慶一朗」
「……」
他の恋人や家族ならばいざ知らず、素直に謝罪の言葉を口に出来ない慶一朗が考え出した謝罪方法、それは無言で両手を広げる事だったが、いつの間にかそれがリアムの中でも謝罪方法として根付いていたようで、さっきは外で人目もあったから出来なかったこと、すぐに謝罪が出来なくて悪かったと真摯な顔で謝られてしまえばそれ以上棘のある態度を取ることも出来なかった。
それに、昨日一人で泣いていたとリアムに告げたように、己もこの部屋でリアムの不在を密かに嘆いていたのだ。
そんな慶一朗の前に己の為だけに大きく広げられる腕があれば、そこに飛び込むことに否は無かった。
だが素直に飛び込むことも何だか癪に障った為、仕方がない甘えん坊の王子様だと赤面するひげ面に艶然と笑いかけ、広げられている腕の中に体を押し込むと、一日と半日ぶりの温もりが全身を包み、無意識に安堵の息を吐いてしまう。
「バカたれ」
「うん……ごめん、ケイさん」
あなたが好きそうなアイスを売っている店がある事をホテルのコンシェルジュに教えられて向かった先であの女性達がいて、アイスの味について問われたからつい楽しそうに話し込んでいたところを見られるなど本当に間の悪いとしか言いようのない俺を許してくれと、慶一朗のいつもに比べれば乱雑に束ねられている髪を解いてその中に手を差し入れて離れていた間の寂寥感を体全体で埋めるように抱きしめるリアムの謝罪の言葉に慶一朗がもう良いと小さく返し、やはり手が覚えている広くて大きな背中をそっと抱きしめる。
「……俺がして欲しいことを教えてやる」
広い肩に頬を宛てて甘えるように目を閉じながら自然と込み上げてくる笑いを抑えることも無く肩を揺らす慶一朗を見下ろし、うん、教えてくれとリアムが強請るように囁くと、そこのソファに座れと命じられてここに来るまでの間に想像していた、二人が大切な話をするときの態勢になれと言われたと気付き、話をする前に喉が渇いたと情けなさ全開で問いかけると、ホームバーの冷蔵庫からビールを出せと命じられ、素直にそれに従うとリアムの予想とは少し違ってソファに置かれたクッションが床の上では無く肘置きに凭れかけさせられるのを発見し、ビールのボトルを手に自然と笑みを浮かべてしまう。
慶一朗が今何を望んでいるのかを察し、テーブルにボトルを置いたリアムの前、その予想が間違っていないことを教えるようにソファの座面をポンポンと叩いた慶一朗に頷き、自宅のようにクッションを背もたれにソファに座ると、慶一朗がそんなリアムの体に背中を預けて寝る直前の収まりの良い場所に頭が収まった時と同じ息を吐き、リアムの手に手を重ねる。
「テレビは面白いものがない」
「そっか。残念だな」
「ああ……ケアンズも嫌いじゃない。でも、シドニーの方が何をするにも選択肢が多いな」
この街は観光都市と言われるだけあって観光客向けのレストラン夜でも遊べる店もあるが、シドニーのようにカフェも少なければ世界各国の料理を選択できるほど店が無いと苦笑し、でもヨンソンが連れて行ってくれたイタリアンは結構好きだと笑うと、その店に行きたいとリアムが慶一朗の髪にキスをしながら笑みを浮かべる。
己の体に乗り上げながらいつものように己の手をおもちゃ代わりにする慶一朗の様子から刺々しさは無くなっていたが、代わりにたかが一晩と笑われてしまうかも知れないが二人にとっては長い夜を越えた安堵のようなものが伝わってくる。
「……そういえばさっきサプライズがどうこう言っていたけど、どう言うことだ?」
慶一朗が思い出したように問いかけながら寝返りを打った為にリアムもソファに寝そべりその上に腹這いになると、胸板に顎を乗せて髭に覆われている顔を見下ろす。
「……ディアナが何か気になるから早く行ってこいと言ってくれて……」
実は本当は今日の最終のフライトのチケットを買っていたが、それでは遅いかも知れないと危惧をしたホーキンスが朝一番のフライトのチケットを用意してくれたこと、ただそのチケットは直行便ではなくブリスベン経由だったために少し時間が掛かってしまったと教えられて慶一朗が目を丸くする。
「ディアナが?」
「うん。……GGとドクター・ヨンソンが心配だってこんな顔をしていたなぁ」
そう言いながらリアムが眉間に皺を寄せてホーキンスがよく浮かべる表情を作り出すと、良く似ていると慶一朗がくすくすと笑い出す。
「ただ、どうもそれはパフォーマンス的な気がする」
「どういうことだ?」
「うん。ドクター・ヨンソンとGGが調子に乗ったから止めろと言われても、朝一番のフライトでこっちに着く頃にはセミナーは終わってる。だからそれにかこつけたディアナからのご褒美かなって」
「……もしかして彼女も不器用な人か?」
「そうかもしれないなぁ」
ただ、彼女のその不器用や優しさを素直に受け取って飛んできたと笑うリアムの鼻先に慶一朗が伸び上がってキスをし、お前は本当に皆から好かれていると伴侶が周囲からどれほど愛されているのかを目の当たりにした嬉しさに目を細めると、リアムの顔に少し赤色が増して視線が左右に二度泳ぐ。
「これだけは言っておくぞ」
「……うん」
「お前がどれだけ周りから愛されていたとしても、一番は俺だからな」
それだけは何があっても忘れるなと厳命するには甘く優しい囁きにリアムが唇を一度きゅっと噛みしめると、日頃の恥ずかしがり屋なあなたは何処に行ったと胸の内でのみ問いかけ、うんと素直に頷くと眼鏡の下の双眸に照れと安堵が絶妙に入り交じった色が浮かぶ。
「ケイさん」
「なんだ?」
「うん。……いつも思ってるけど、またケイさんが好きになった。どうしようか」
「……死ぬまでずっと思ってろ」
己の体に腹這いになりながらくすくすと笑う慶一朗の命令に咳払いを一つしたリアムは、間近で見ている慶一朗が思わず絶句してしまうような心の底からの笑みを浮かべながらうんと頷き、赤く染まる頬を手の甲で撫でる。
その心地良さにうっとりと目を閉じた慶一朗だったが、さっきの衝撃的な光景を忘れ去ることが出来る安堵とリアムがいるという途轍もなく大きな安心感から不意に空腹感を覚え、頬を撫でる手に手を重ねる。
「お前が良ければだけど、何か食いに行かないか?」
「ケイさんが良いって言ってくれるのなら、ホテルのレストランはどうだ?」
「ああ、それも良いな」
明日のディナーはケヴィンがエビをたらふく食べさせてくれると言っていたからシーフード以外のものを食べたいと、ホテルに帰ってくるまでとは正反対の言葉を告げて緩く上下する胸板に頬を軽く押し当てる。
少しだけ調べたけれど、ホテルの下にあるレストランは肉料理も有名らしいしケイさんの好きそうなワインもビールもあるみたいだと笑うリアムに頷き、安堵の目で見つめてくるヘイゼルの双眸に夜の色香を匂わせた笑みを見せつけ、体の下の鼓動を早めさせる。
「サプライズは嬉しかったけど、驚かせた詫びはしてもらうからな」
「……お手柔らかにお願いします」
そう眉尻を下げる情けない顔の王子様の鼻先に小さな音を立ててもう一度キスをした慶一朗は、ホテル内のレストランとはいえ時間によっては混んでいるかも知れない、そろそろ出掛けようと笑って立ち上がって伸びをするが、背後から勢いよく抱きしめられて太い腕に手を重ねながらくすぐったいと体を折る。
「リアム、髭がくすぐったい!」
「うるさい!」
さっきのお返しだと、首筋にぐりぐりと顔を押しつけられて我慢出来ずに笑い声を立てる慶一朗に釣られたようにリアムも声を立てて笑い、二人して部屋中に響くほどの笑い声を上げてしまうが、どちらからともなく笑い声を収めると互いの腰に手を回して笑みの形になったままの唇をそっと重ねるのだった。
その笑い声をバルコニーに出る窓が反射し、窓の外には闇に沈む海とマリーナに並ぶヨットの遙か上空に昇った月が呆れたように二人を見下ろしているのだった。
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