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乾季のケアンズの空はシドニーと同じようでまったく違う顔を見せていたが、ホテルで行われるセミナーに参加している慶一朗にとってはどうでも良いことだった。
前日のセミナーでは未だに信じられない事だが、昨日こちらに着いてからホテルの部屋に戻るまでの間何故かずっと一緒にいた不良オヤジのヨンソンが、不良オヤジの顔のまま終了直後にスタンディングオベーションを受けるような講演を行い、それを受けたゴードンもそれには及ばないがそれでも今後の参考になるような講演を行い、こちらもまた拍手の嵐だったのだ。
それだけ感銘を与えられる講演が出来るのならそれに相応しい言動を日頃から取ればどうだと、講演後に何故かまた己の傍に戻ってくる二人の不良オヤジに呆れたように提案すると、気疲れするからそんな真面目な顔はお前に任せると言い放たれてしまったのだ。
前日の様子を思い出しながら最後列の席にゆったりと腰を下ろしながら、前で行われるテイラー曰くの殴り合いを見学していると、誰かが挙手をし発言の許可を求め、マイクがその人物の元に運ばれていくと、浅学ながら今聞いた件について教えていただきたいと、言葉では謙っているが気持ちでは今の考えにはエビデンスがあるのか、論文を掲載している雑誌の何号の何ページに載っているのだと言いたいのをオブラードに包んでいることが分かる言葉を告げ、発言した人物の周囲の空気がざわりと揺れる。
言葉による殴り合いは専門家であれば時として起こりうることだが、文字通りの殴り合いだけは止めろと後ろから様子を見守っていると、一触即発の空気を感じ取ったのか、今日は講演をしないから気楽だと笑っていた筈のヨンソンが手を挙げてマイクを受け取ると、今の意見について補足だと言葉を継いでひょいと肩を竦める。
「俺もまだ雑誌で見た訳ではないけれど、論文の準備中にその話を聞いた事がある。もうすぐ雑誌に掲載されるんじゃないか」
だから言いたいことがあるのならはっきり言えばいい、謙ったフリをしながら底意地の悪い質問方法はきっとあんたには似合わないと思うぞと笑ってマイクを司会者に返すと、質問を投げかけた人物もヨンソンに出てこられてしまえば何も言えなくなってしまったように無言で腕を組む。
こうして、文字通りの殴り合いを未然に防ぐことが出来る実力があるくせに、何故わざわざこちらを見たかと思うと、にやりと笑みを浮かべつつサムズアップを決めるのか、慶一朗には理解出来なかった。
何だろうか、己は不良オヤジ達とある意味酷評している、専門でも人生でも大先輩の二人に気に入られているのかと、周囲から見ればそうじゃないのかと逆に驚かれそうなことを思案しつつ前を向けと苦笑する。
昨日、リアムと電話で話しているときに本当は尊敬できるが不良オヤジと呼ぶ事に決めたヨンソンにお前を紹介したいと言ったのは間違っていないが、ふざけている姿はあまり紹介したいとは思わなかった。
まったくと溜息を吐いてセミナーが進んでいくのを最後列から眺めていたときにスマホが振動したことに気付いて取り出すと、リアムからのメッセージが届いていて、何だと思いつつ内容を確かめると今日の晩飯はどうするという疑問が目に入る。
セミナーは今日は午前中で終わる為に午後からは一人でゆっくりケアンズ市内を観光するか、ホテルで寝ていても良いと考えていたが、チラリと前の席に座るゴードンとヨンソンを見た慶一朗の脳裏に二人からの誘いがあるかも知れないという僅かな期待が芽生え、いや、誘いがあろうと無かろうとこちらから誘ってみたいという強い欲求が珍しく芽生えてくる。
一人でここに来る事への不安を当初は押し殺せずにいたが、来てみればゴードンがいてヨンソンを紹介されてからはセミナーでも二人の間に挟まれるように立つ己を皆が好奇心と驚愕の目でじろじろと見てきては自己紹介をしてくるほどだった。
実力も名声も有する二人の大先輩のお陰で、己の将来に何かの折りに交流を持つことになるかも知れない同じ専門のドクター達の知己を得たのは何にも代えがたいのではないかと気付いてからは尊敬の意思表示を行おうとした。
だがあの二人が素直に尊敬の意を表されても受け止めるとは想像も出来ず、それならば今まで通り不良オヤジと呼ぶ方が喜ぶことにも気付くと、慶一朗なりの敬意の表れである言葉で二人に呼びかけ、それに相手が気付こうが気付くまいが関係ないと腹を括ったのだ。
それを思えば明日の朝一番のフライトでこちらに来るリアムが到着するまではあの二人にくっ付いていた方が楽しめるのではないかと気付き、まだ未定だけどGGとケヴィンと一緒にディナーに行くつもりだと返すと、サムズアップのイラストが返ってくる。
ディナーの予定を後で聞き出そうと決め、もしも他に予定が入っているのならばホテルのレストランかバーで食べれば良いとも今日の夜の予定をある程度脳内で組み立てると、少しだけ気分を切り替えて今マイクを握って何やら力説しているドクターの意見に耳を傾ける努力をしてみるが、右から左に流れ去っていく言葉を深く追いかけることもしないのだった。
二日間のセミナーが終わり、久闊を叙したような人達がまたの再会を願って別れのハグをしたり握手をしたりするのを、ロビーのソファに腰を下ろしながら見ていた慶一朗は、隣にやって来たヨンソンがああ、疲れた疲れたと年寄りじみた言葉を口にしながら腰を下ろした事に苦笑し、お疲れ様でしたと労いの言葉を掛けると、どうだったと問われて目を丸くする。
「……セミナーは面白くなかったか?」
毎日前線で戦うのも楽しいものだが、時々こうして仲間内で集まるのも悪くないだろうとソファの背もたれに腕を回すヨンソンの言葉に仲間内と呟くと、気に食わないのも気が合うのもいるが、同じ専門の仲間だと笑われて眼鏡の下の目を更に見開いてしまう。
今まで、ビクトリア・ノースヒル・ホスピタル内での人間関係にも辟易する事があるほど人の波を泳ぐことに神経を使っているが、己よりももっと人間関係のしがらみなどがあるヨンソンがそう考えていることは到底想像の及ばない事で、人間関係に疲れたりしないのかと小さく問いかけると、問題児もいるがだからこそ面白いんだろうとにやりと笑われて目をパチパチとさせてしまう。
「好きな奴らばかり集まるといずれはイエスマンに取り囲まれる」
そうなってしまえば間違っていることも間違っていると教えて貰えなくなる、それは医者としても人間としても健全なことではないと高い天井を見上げながら嘆息混じりに呟かれ、そんな真面目なことも考えられるのかと思わず素直に呟いてしまうと、お前は俺を何だと思っていると苦笑される。
「真面目な顔はここぞと言うときにだけ見せればいい」
日頃からそんな顔を見せていると四角四面の面白みのない男で付き合う価値もないと思われかねないと、初対面時からのふざけているような言動が計算されていたものだと教えられるが俄には信じられなかった。
今、他の友人達と何やら話し込んでいるゴードンも仕事はセミナーでの講演を聴けば分かる様に優秀な男だが、仕事を離れれば今回のセミナーを企画したように公私混同が激しかったり、何処までが冗談で何処までが本気かを疑いたくなるような軽佻な言動が多かった。
それら全てが計算ずくだと知り何とも言えない溜息を吐いた慶一朗にヨンソンがにやりと笑みを浮かべ、そう言っておけば周囲は勝手に納得してくれると慶一朗の肩を叩き、一瞬でも感銘を受けた己がバカだったと拳を握ってしまう。
「俺たちはこれからランチを食いに行くがどうする?」
一緒に行かないかと誘ってくれることは嬉しかったが、素直に喜べないと口をへの字に曲げると楽しそうにヨンソンの肩が上下する。
「明日リアムが来るんだろう?」
「その予定だな」
「甲殻類にアレルギーはないな?」
「?」
悪かった機嫌を直せと笑いながら肩を叩かれ、本当にこの人はどうしてここまで己を気遣ってくれるのかと内心感謝と疑問の風船を膨らませてしまうが、明日の夜、そこに浮かんでいるボートでエビをたらふく食べることが出来るから行かないかと誘われる。
「エビ?」
「ああ。シドニーは牡蠣が名物だがここはエビも美味い。ホテルからも歩いてすぐだ、どうだ?」
「……俺は行ってみたいけど、あいつに確認してからでも良いか?」
セミナーの最中にメッセージが入っていた事を思い出し、それから今日のディナーをどうするという疑問も思い出した慶一朗は、明日はそれでいいだろうが今夜はどうするんだと問いかけると、インドネシア料理の美味いレストランがあるが行かないかと逆に問われて一瞬考え込んでしまう。
「日本料理はダメだったな?」
「……ああ」
「インドネシア料理は大丈夫か?」
「食ったことがない」
「そうか! なら今日のディナーはそこに行くぞ」
初めての経験も悪くはないだろうと頷くヨンソンに眼鏡の下で目を左右に一度泳がせるが、何かを決したように息を一つ吐くとそこに行ってみると頷き、ヨンソンからは良く決断したと言いたげな目で見つめられてしまう。
それが、初めて出会った時にも感じたが、いるかいないか慶一朗自身知る由もない親戚の存在とはこのような暖かさを持っている人達のことだろうかと考えてしまい、それも悪くないと微苦笑する。
「……何だ、何を楽しそうな顔をしているんだ?」
友人達との話が終わったのか少し疲労感を滲ませた顔でゴードンが二人の前に戻ってくると、今夜のディナーはインドネシア料理だとヨンソンが笑い慶一朗も無言で頷く。
「ああ、良いぞ。……問題が発生した。ケヴィン、ランチはパスだ」
「おぉ? 仕方ないな。なら俺も少し病院に戻るか」
お前には悪いが少しだけ働いてこようと立ち上がって伸びをしたヨンソンを見上げた慶一朗は、ディナーの時間が来たら何処に行けば良いと問いかけ、後で電話をするから待っていてくれと片手を挙げられる。
「ああ、そうする」
「悪いな、ケイ。リアムが来るまで退屈だろうが我慢しろ」
「……それくらい我慢出来る」
「そうだな」
ゴードンの言葉に目尻を赤く染めた慶一朗だったが、ホテルの部屋でテレビでも見るかそれとも散歩にでも行くかと思案し、また後でと約束を残して立ち去る二人を見送り、己は同じホテルの部屋を取っているためにエレベーターに乗り込んで部屋に向かうのだった。
慶一朗が短い眠りを貪っていたベッドの枕元の壁はバスルームの壁にもなっていて、ベッドの足下に置かれているカウチソファとその向こうのベランダからは夕闇に染まる水面とそこに静かに佇むヨットやボートの姿が良く見えるマリーナの光景が広がっていた。
部屋に戻ってきた後に空腹を覚えてホテルのレストランで何か食べようと思っていたが、空腹以上に眠気を覚えてしまい、そのままベッドに倒れ込んだのだ。
そして目を覚ました今、スマホを確かめてメッセージが届いていることを確認した慶一朗は、ゴードンとヨンソンからそれぞれ今夜の予定を変更して欲しいと詫びのメッセージが届いていることに気付く。
問題発生とゴードンが言っていたが、その問題の解決がなされていないのだろうかとゴードンの苦労を少しばかり気の毒に思いつつも、ヨンソンも似たり寄ったりの状況に陥ってしまったらしく、インドネシア料理は明日のランチにでもどうだと追記がされていて、本当に気遣いの出来る人だと肩を揺らしてしまう。
ゴードンならばともかく己のことなど気にも掛ける必要が無いほどヨンソンの地位も名声も慶一朗とは比べられない程高かった。
それなのに同じように気さくに接してくれることは本当にありがたいことだったため、気にしないでくれ、こちらは一人でぶらぶらと街を歩いてみると二人に返し、日頃の行いが悪いから遊びに来た先でも仕事をしなければならないんだと、少しだけ猛獣の尻尾を踏みつけたような気持ちを覚えながら悪ノリしたメッセージを送ると、ほぼ同時に二人から中指を突き立てたものと親指を下に向けて突き立てたイラストが送られてくる。
自分達のキャリアから考えれば慶一朗などまだまだひよっこだが、そんな尻の青い慶一朗の悪ノリのメッセージにも同じようなノリで返してくれる二人の男の大きな心に言葉にも態度にも出さないが見習った方が良いだろうなと苦笑し、もう一人、これは決して誰にも真似の出来ない広く大きな心の持ち主から何の連絡も無いことに気付き、二人のメッセージへの返信が受け入れられたことなど些末なことだと思える程落ち込んでしまう。
今日のディナーはどうすると問いかけてきて以来、スマホにはリアムからの着信もメッセージも届いていなかった。
時間を確かめてもまだ診察時間内だと気付き、今電話を掛けても無理だと溜息を吐いて枕に頭をぼすんと落下させた慶一朗は、大の字になりながら天井を見上げ、晩飯と呟いてしまう。
ホテルの部屋でグズグズ考え込んでいるぐらいなら、夜のケアンズを一人で楽しんでも良いのでは無いか。
ナイトクラブに行っても良いかと問いかけたときに良い色の返事はなかったが、一人にするお前が悪いと責任転換をし、がばりとベッドに起き上がった慶一朗は、背後のガラス窓の向こうのシャワーブースを確かめた後、遊びに出掛ける前にはシャワーを浴びて行こうとそそくさとベッドから降り、ベッドの大きさの目隠し用の壁を回り込んでバスルームのドアを開けると、洗面台に立っている目隠しをした天使のフィギュアと自宅ではテレビボードの前で敵を威嚇しているフィギュアを手に取った後、シャワーを浴びるために身に着けていた衣類を全て脱ぎ捨て、ガラス張りのシャワーブースのドアを開けて中に入るのだった。
ホテルを出て何となく人の通りが多い方へと足を向けると海岸線と並行して緑豊かな公園のような場所があり、その横を同じく平行する道路を歩いていると店が並ぶ通りへと出る。
反対側の通りにはナイトマーケットもあり、そこに出入りする人や通り過ぎる人達を横目に歩いていると、アイスクリーム屋の案内文字が見え、何も食べていないがアイスクリームを食べれば乳製品だから少しは腹が膨らむのではないかという、食に関する行動が最近は改善されてきたもののそれでもまだまだ常識にはほど遠い慶一朗がその店に入ろうと足を向けたその時、店の前のテーブルに浮かれたように見えるブロンドとオレンジの髪の二人の女性と、その女性と何やら談笑しているハニーブロンドと少しだけ見える顎を覆う髭と広い背中を発見して足を止めてしまう。
その背中に慶一朗は見覚えがあった。いや、見なくても手で触れるだけで判断できるほど体が覚えていた。
もしもその予想に間違いがなければ、その男は今はまだ己の患者と向かい合っていて明日の朝一番のフライトでケアンズに来る事になっていて、こんな場所で見ず知らずの女とアイスを食っている筈などなかった。
そう考えた瞬間、慶一朗の目の裏が赤く染まり、冷静な己がおい何をすると慌てて声を上げるが、理性などクソ食らえと一言吠えた本能が足を動かし、楽しそうに軽薄な笑い声を立てる二人の女性とその広い背中の持ち主の間を邪魔するようにそのテーブルに近付いたかと思うと、軽く握りしめた拳でテーブルの真ん中をどんと殴る。
「!?」
「キャ……!」
「ヘイ、泣き虫王子様。昨日は一人は嫌だとピーピー泣いていたのに今日は笑顔でナンパか」
真っ先に己がいるホテルに来るでもなくこんな所で見ず知らずの女とアイスを食っているのかと眼鏡の下で剣呑に目を光らせた慶一朗の前、呆然としたようにヘイゼルの双眸を見開いてアイスのスプーンを咥えている、こんなときでもサングラスを掛けているとイケメン度が増すと思わず顔を赤らめたくなるような愛嬌のある顔で見てくるリアムがいるのだった。
怒りに目元を赤らめる慶一朗とそんな慶一朗にどんな言葉を掛ければ現状を説明できるだろうかと思案している様子のリアムと、そんな二人を交互に見つめながらひそひそと何やら話し合う二人の女性の上を、乾季とはいえ海が近いために微かに塩気を帯びた風が吹き抜けていくのだった。
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