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「ディアナ、教えてくれないか」
そうリアムが口にしながら奥で繋がっている隣の診察室にひょっこりと顔を出したのは、午前の診察が終わりランチタイムに入ったすぐの頃で、今日はホワイトと一緒にケイタリングのタイ料理を食べるために会議室に向かおうとしていたホーキンスが軽く驚きつつ振り返る。
「どうしたのですか?」
「うん、今ケイさんがケアンズでセミナーに参加しているんだけどな……」
どうやらケアンズにゴードンの友人がいるそうだと苦笑しつつ伝えると、ケアンズにいるGGの友人とホーキンスが何かを思い出す顔で呟き、ああと笑みを浮かべる。
「ケヴィンですね。ケヴィン・ヨンソン。二人とも同じ専門です」
「そうそう。脳神経科のセミナーだって言ってた。そのドクター・ヨンソンって、この人か?」
慶一朗から送られてきた、リゾート地にあるおしゃれさよりも、海辺の町の気さくなレストランという雰囲気の店内でパスタやピッツァをテーブルに並べて記念撮影をする三人一緒の写真をホーキンスに見せながらリアムが問いかけると、ええ、その人ですと笑顔で頷かれる。
「彼がどうかかしましたか?」
「いや、さっき少し調べていたんだけど……」
どうも最近クイーンズランドの医療に貢献しているか何かで勲章をもらっていた気がすると、慶一朗が参加するセミナーの情報を集めていたリアムが辿り着いたケヴィン・ヨンソンというドクターの記事をホーキンスに見せると、彼女の目が少し大きく見開かれ、次いで教え子を褒めるように細められる。
「彼も頑張っているのですね」
「セミナーの記事を見ていたけど、講演者の名前、呆れるぐらい有名人ばかりだった」
確かにこれはテイラーが言葉の殴り合いというようなものになると肩を竦めたリアムの前、ホーキンスがその言葉に一瞬眉を寄せるが、何かを安堵させるように首を左右に振って溜息を吐く。
「ディアナ?」
「リアム、ケイに伝えていただけますか?」
「?」
ホーキンスの念のためと前置きを置いた言葉にリアムが首を傾げるが、二人が調子に乗れば私の名前を出しなさいと頭痛を堪える顔で伝えられてヘイゼルの双眸を丸くしてしまう。
「……そんなに危険な人なのか?」
「危険ではないのですが、仲間がいると調子に乗る気持ちは男子学生だったあなたにも理解できるでしょう?」
「……良く分かる」
「そういう事です。手に負えないと思えば私に電話をすると言えば少しは収まるでしょう」
まったく、世の中の男の人というのは学生時代の友人に会えば一瞬で当時に戻ってしまうのだからと、今まで数多の医学生を育ててきたホーキンスの溜息交じりの言葉に思わず吹き出したリアムだったが、己に置き換えた時にフレデリックやネイサン、ラルフ達と会えば瞬時に学生時代の気持ちになる事を思い出して度し難いなと肩を竦め、とにかくその忠告を慶一朗に送っておく、ランチの邪魔をして悪かったと詫びると、全く意に介していないように頷かれ、取り出したスマホでさっそくホーキンスのありがたい忠告を慶一朗に送るのだった。
慶一朗の不在の家に仕事を終えて帰宅したリアムは、いつもと変わらないはずなのに何故か静まり返っている家に神経を逆撫でされるような不愉快さを覚えてしまう。
いつもと同じはずなのに何が違うと感じているんだろうなと己に微苦笑しつつ問いかけ、洗面所に入って入念な手洗いを済ませると、壁に吊るしてあるバスローブが一着しかない事に気付き、その事実も神経にやすり掛けをしてくれたような気持になる。
一人になるのを不安に感じる慶一朗を今朝まで何とか宥め賺し、大丈夫だから楽しんで来いとその背中を押して見送ったリアムだったが、不安を感じているのは本当は己ではないのかと自問してしまい、鏡の中の俺に無言で肩を竦める。
この国で人生の大半を暮らすようになってから、ひとりは平気だと思っていたしまた一人が当たり前の暮らしをしていた為、慶一朗の不在も少しは寂しいが大丈夫だろうと高を括っていた。
だがそれがただの強がりであったことを実感し、情けないと溜息を吐いた時、ジーンズの尻ポケットに突っ込んであったスマホが着信音を鳴らし、のろのろと耳に宛がう。
「ハロー」
『……リアム? もう家に着いたか?』
その声が耳に流れ込んだ瞬間、ささくれだった神経が穏やかな水面に変化したような気がし、下がっていた唇の両端も自然と上向きになっていたが、それを自覚せずにうん、今帰って来たと返すとお疲れさまと労いの言葉とキスが届けられる。
「ケイさんは?」
『俺か? 今からGGとケヴィンと一緒にホテルの傍のレストランに行ってくる』
その声に滲んでいるのが少しの疲労感とそれを遥かに上回る好奇心だと気付き、己の言葉通りに楽しんでいるのだと気付くとさらに口の端が上を向く。
「楽しいか、ケイさん」
『……ここにお前がいればもっと楽しいと思えるだろうな』
苦笑交じりの言葉に同じく苦笑を返すが、それでも楽しめているのなら良かったと安堵の吐息混じりに返し、洗面所からキッチンへと向かうが己の言葉の嘘くささに自嘲してしまい、冷蔵庫を開けながら嘘だと小さく呟くと訝るような声で名を呼ばれて冷蔵庫のドアを手荒に閉める。
『リアム?』
「……ケイさん」
今朝はあなたに大丈夫だから安心して楽しんで来いと言ったが、本当は俺が一番不安に感じていたと素直に告白し冷蔵庫に背中をぶつけてしまうと、こんな情けない俺は嫌だよなとマイナスの思考回路に迷い込んだ事を教えるような日頃は滅多に出ない言葉が出てきてしまう。
『……良かった』
「ケイさん……?」
『お前は誰かの為にヒーローになれる強い男だ。でも、そんなお前が弱い顔を見せるのは俺にだけだ。そうだろう?』
いつかジャックとそんな話をしたことがあると思い出し笑いをしているような楽しそうな声が聞こえてきて目を見張ると、労わるようなキスの音が聞こえてくる。
電話越しのキスなどではなく直接温もりを感じ満足するまで何度でもしたいが、後二日我慢しろ王子様とキス混じりに囁かれて目尻に滲んでいた涙を掌で拭ったリアムは、家に帰ってきたらあなたがいなかった、それが急に不安になったと泣き笑いの顔で告白し、泣き虫王子様降臨だなと笑われる。
「仕方がないだろう?」
泣かせるあなたが悪いんだと雲の切れ目から太陽の光が差し込んだような笑みを浮かべたリアムが本音を返すと、リアムが人のせいにするとばあちゃんやダッド達に電話するぞと返されて湿り気を帯びた吐息と共に胸の中の不安も一緒に吐き出す。
「ケイさん、何か美味いものは食えたか?」
『ああ……こちらに来たらランチを食ったイタリアンに行こう。マルゲリータが美味かったからお前に作って欲しい』
「ピッツァ? 俺に出来るかな」
『お前なら出来る。……ああ、GGとケヴィンが呼んでるからディナーを食いに行ってくる』
慶一朗の声に呼びかける声が重なり、滲んでいた涙を完全に止めたリアムが笑顔でその言葉に頷きつつ楽しんできてくれと心からの言葉を伝えると、そのにやけきった顔はなんだ、電話の相手はお前の王子様かと揶揄う声が聞こえて目を丸くしてしまう。
『……うるさい、不良オヤジ』
「ケ、ケイさん!?」
最近は親しくしていると言ってもゴードンは著名なドクターで、その友人も表彰されるほどの人物だった。そんな人に不良オヤジなどと言っても良いのかと電話のこちら側で慌ててしまうが、向こうから聞こえてきたのは朗らかな笑い声だった。
『ケイの王子様とやら、早くこっちに来い。このワガママ大王が八つ当たりをしてくる』
「!!」
『……そういう事だ、リアム。明日の午後から休診してこっちに飛んで来い』
『うるさい、不良オヤジ。今の言葉をディアナに言うぞ』
『お前、それは反則だ!』
『リアム、早く来い!』
電話の向こうの阿鼻叫喚にただただ言葉を無くしたリアムだったが、慶一朗の声がそれでも楽しそうな光景を伝えてくれていて、うん、明日ディアナに伝えておくと告げると、止めろリアムという悲鳴じみた声が更に返ってくる。
『……ホテルに戻ったらまた電話する』
後ろの不良オヤジがうるさすぎる、ゆっくり話をしたいからホテルに帰ってきたら電話をすると苦笑されて背後の不満の声に微苦笑したリアムは、うん、待っていると返すがそっとスマホにキスを届けると、しっかりとそれを受け取った事を教えてくれるうんという短い呟きが返ってくる。
「楽しんで来い、ケイさん」
『ああ』
NSWとQLDでも指折りのドクターが二人いるのだ、超が付くほどの高級な酒でも料理でも何をオーダーしても大丈夫だと笑う慶一朗の顔はきっと悪魔のようなものになっているだろうとリアムが肩を揺らしていると、お前は悪魔かという予想通りの声が聞こえた後ぶつりと通話が切れてしまう。
急激な沈黙に一瞬背筋が震えそうになるがたった今まで聞こえていた伴侶の声が己と一緒の時のような明るさだった事に気付き、ああ、大丈夫だと呟くとついさっきまで己の胸に巣くっていた名付けられない感情が完全に体外に排出された気持ちになる。
「……明日、ケアンズに飛ぶからその準備もしないとな」
すっきりした気持ちで顔を上げたリアムが一人呟いた言葉は先程ゴードンが笑いながら伝えた言葉を実行することを教えていたが、それを最も知りたがっている本人は今頃不良オヤジ達を引き連れて飲みに行っているだろう。
明日、仕事が終わり次第ケアンズに飛ぶことを密かに決めていたリアムは、ひとりきりのディナーの前に明日の準備をしてしまおうと帰宅直後とは全く違う軽い足取りで階段を上がり、ケアンズ行きの荷物-と言っても己の荷物などは慶一朗のものと比べれば遥かに少ないものだった-を小さなスーツケースに詰めると、空腹を訴える腹を見下ろしながらベッドルームを出てキッチンに向かうのだった。
一人きりのディナーなど今までならば何とも思わなかったものに寂寥感を覚えるようになった為、いつにもまして手早く食事を終えて絶品のフラットホワイトが飲めない事からも慶一朗の不在を実感してしまうリアムだったが、トレーニングを済ませてからシャワーを浴びる事に決め、玄関とリビングの間のトレーニングエリアに向かう。
その時、テレビボードの上で敵を威嚇しているフィギュアと目が合い、そのうちの一体だけをそっと逆向きに置き直すと、脳裏に慶一朗の楽しそうな笑い声が響く。
『数えなくても明日には会える』
その言葉に微苦笑しつつ癖だなと一人呟きベンチに腰を下ろしてダンベルと手に取るとその後は無心にトレーニングをこなし、気付いた時には全身に玉のような汗を浮かべてしまっていた。
満足の息を吐いてシャワーをする為に階段を上ろうとした時にスマホが着信を伝え、それだけで疲労を覚えた身体なのに軽さを感じてしまう。
「ハロ」
『……不良オヤジ達の相手をしてきたぞ!』
そんな俺を褒めて褒めて褒めまくれと叫ばれてスマホを耳から離しつつもついつい笑みを浮かべてしまったリアムは、お疲れさまと労いの言葉をかけたあとそっとキスをする。
『……どうしてあのオヤジ達はあんなにも元気なんだ』
どうやら約束通りホテルの部屋に戻って来た為に電話を掛けてくれたようで、画面が突然切り替わり、開け放っている窓の向こうに闇の沈む海とマリーナが浮かび上がる。
「ケイさん、ホテルの部屋はどうだ?」
『ん? マリーナが見えていい感じだな』
リアムの問いかけに慶一朗の楽しそうな声が返ってくるが姿は見えず、今どこにいると問いかけると同時に画面が再度切り替わり、ガラス越しの夜景を背負った少し酔いが回った端正な顔が映し出される。
『バスタブがあるから湯を張った』
「そうなのか?」
『ああ』
だから当然ながら家のバスルームにいたフィギュアも並べていると笑う顔が本当に楽しそうで、それを見るだけでもリアムの顔にも笑みが浮かぶ。
バスルームにスマホを持ち込んで画面越しに言葉を交わす慶一朗の様子は自宅で寛いでいる時と全く変わらない穏やかさで、一晩の別離の不安を互いに抱えていたがそれも杞憂だったかと内心呟くと、慶一朗がお気に入りのフィギュアを片手に持ち、バスタブの縁に行儀悪く両足を引っ掛けた姿で画面に写り、思わずケイさんと溜息交じりに呟いてしまう。
『ああ、そうだ、ケヴィンがボートを持っているからお前と合流したら一緒に観光するって張り切ってたぞ』
アーティステックスイミングの選手のようにバスタブから真っ直ぐ伸ばした足首を左右に振りながら楽しそうに笑う慶一朗の言葉にリアムが何度目かの溜息を吐くが、それも楽しさゆえだと気付くと自然と笑みが浮かび上がる。
「ケイさん、アーティステックスイミングの選手みたいだ」
『俺はあんな水棲生物じゃない』
リアムの笑い混じりの言葉に慶一朗も笑いながら返していると物理的に離れているがすぐ傍にいる様な気持ちになり、明日何も知らせずにホテルに向かえばこの端正な顔は驚いてくれるだろうかそれとも歓喜に歪むだろうかと想像するだけで楽しくて、ああ、明日が楽しみだと思わず呟いてしまう。
『明日何かあるのか?』
「うん、少し楽しみなことがある」
リアムの呟きを拾った慶一朗が首を傾げるがまだ教えられないとだけ返し、そっちの明日はどうだと話題を変えさせるように問いかけると、強力な弾除けを手に入れたと笑われて意味が分からないと思わず返してしまう。
『GGとケヴィンだ』
「ジーザス」
二州でも著名なドクターを弾除けに使うのかと驚きの声を上げると、完全防備での殴り合いを見学するのは楽しいなとテイラーにもメッセージを送った事を教えられ、思わず天井を振り仰いでしまう。
『ただ……確かに錚々たるメンバーが揃っていたから人脈作りにはうってつけだろうな』
「そうか」
『ああ。……早くこっちに来い、リアム』
弾除けや不良オヤジなどと言っているがゴードンとヨンソンはドクターとしても人生の先輩としても本当は尊敬できる偉大な男だ、そんな人たちにお前を紹介したいとひっそりと慶一朗が囁き、己の伴侶が同業者ならばともかく人を手放しで褒める事が少ないと気付いているリアムがその言葉の重みをしっかりと受け止め、うん、あと少しだけ我慢してくれとキスと共に返す。
『ケヴィンのボートが楽しみだな』
「そうだな……明日のセミナーも頑張って来い」
『ああ、そうする……リアム、寝る前にもう一度電話をしても良いか?』
不意にひっそりとした声に問われてもちろんと返すとくすぐったさを覚える様な声で枕にお前の香水を振りかければお前と寝ている感じになるかなと寂しそうに笑われて爪が食い込むほど手を握りしめたリアムだったが、声に出したのはいつもと変わらないもので、うん、お気に入りのバスローブに俺の香水を振りかけてそのままベッドに入れば良いと伝えると安堵したような吐息が返ってくる。
「ケイさん、寝る前に電話をして来い」
『……ダンケ』
「うん。俺も先にシャワーをするから」
だからまた後で話そうと伝えて分かったと返事をもらうと通話を無理矢理終えて大急ぎで二階のバスルームではなくベッドルーム内のシャワーブースに飛び込み、慶一朗からの電話に間に合うようにシャワーで汗を流して寝る前の身支度を整えるのだった。
その後、慶一朗からの二度目の電話をベッドに入って雑誌を読みながら受けたリアムは、眠そうな声にいつものように返事をしながら今は画面越しのそれで許してくれと思いつつ何度もキスをし、他愛もない話を終えて慶一朗がいつものように穏やかな寝息を立てるまで画面越しに見守り続け、完全に寝入ったのを見届けると己も雑誌をいつも以上に空白があるベッドに投げ出して掛布団を肩まで引き上げて眠りに就くのだった。
こうして、二人が結婚して以来初めて離れ離れの夜を越える事になるが、直線距離で1900キロも離れているものの上空では二人の様子を見守る様に同じ白い月が見下ろしているのだった。
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