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鏡の中の己の顔が不愉快と不安と不機嫌を見事にブレンドした決して人には見せられないような顔になっていることに気付き、これではダメだと内心溜息を吐いたのは、そんな表情になってしまうのも仕方がないと言い訳したくなる慶一朗だった。
すがすがしい冬の朝に彼がそんな不愉快な表情を浮かべる原因は、いつもより早い時間に起きて家を出なければならない事でも無ければ、言葉の殴り合いと上司に笑われたセミナーに出席することでもなく、ただひとえに、今いつものように己の髪を大きな手で整え、今日のシャツに合わせたゴムは何にしようかと鼻歌交じりに呟いている伴侶のリアムと二日と半日離れ離れになるという如何ともしがたい現実にあった。
二人が付き合いだして5年は経過するが、その間最大の事件を血の滲むような思いで乗り越えた今、互いの右手薬指にリングを嵌める関係になったのだが、その事件以降別々の場所で夜を過ごすのは初めてのことだった。
今までもどちらかと言えば一人が苦手で、平日はともかく休日などは常に誰かと一緒にいた慶一朗だったが、リアムと付き合いだしてからはそれこそ四六時中一緒にいることが多くなり、一人の時間の過ごし方を忘れてしまうほどだった。
そんな物理的に密接したリアムから離れて二晩も一人の夜をホテルで過ごさなければならないという現実がのし掛かり、慶一朗の顔を鏡の中のようなものにさせていたのだ。
「……良し」
今日も世界一イケメンなあなたになったと鏡の中で嬉しそうに笑う伴侶の顔を見つめ返した慶一朗は、どうしたと問われて重苦しい溜息を吐くが、ブラシを置いた大きな手が頬を撫でて鼻筋を撫でたため、ついくすぐったいと小さく笑みを浮かべてしまう。
「ケイさん」
今夜のことを思えば不安になるのも分かるがスーツケースにはそんな不安を少しでも解消するためのグッズを入れてある、だからそんな不機嫌な顔のままでいるなと笑われて後ろから頬にキスをされて不愉快さが吐息とともに抜けていくが、不安だけはどうしても居残ってしまい、くるりと振り返ると同時にリアムの腰に腕を回して肩に頬を押し当てる。
二人の中でまだまだ血を流している傷を残した事件は日常のそこかしこに身を潜めて顕在化するタイミングを狙っていたが、二人で一緒にいれば自然と抑え込めることが出来ていた。だが、慣れない場所での慣れないセミナーに参加し精神的に疲労困憊しているときの一人というある意味絶好のタイミングにそれが顔を覗かせればという不安をどうしても拭い去れずに腰に回した腕に力を込めてしまうと、その不安を本人以上に理解しているリアムの腕が同じように慶一朗の背中に回されて宥めるように撫でる。
「いつものバスローブも入れてあるしバスルームに置いあるケイさんお気に入りのフィギュアも入れてある。あ、スーツケースの中を見られたらGGに笑われてしまうかも」
「人の趣味を笑うなんて悪趣味だ」
慶一朗の気持ちを少しでも浮上させようとしていることが分かる言葉に乗っかって気持ちの浮上を図り間近にある顔を見れば、まだ行ったことはない国内でも観光地として有名なケアンズはどんな所だろうかと、週末現地で落ち合う約束を楽しみにしているような顔を見いだし、ふわふわしていた気持ちが落ち着きを取り戻し始める。
「お前の香水を入れておいてくれ」
「俺の香水を持って行くのか? 買い置きがないからそれじゃあ俺が使えなくなる、ケイさん」
「俺の香水を使え」
離れ離れになるのならせめて匂いだけでも傍にいろとリアムのあごひげを撫でながら真剣さを多分に込めた顔で笑うと、にやりと笑みを浮かべつつもあの香水はケイさんだからよく似合っているのにと少し困惑した顔でリアムが慶一朗の鼻の頭にキスをする。
「ホテルでの朝食はどんな感じか教えて欲しいな。ケイさんが気に入ったものがあれば家でも作ろう」
「……分かった」
「セミナーの会場と同じホテルを取ってあるから移動も困らないし、ホテルの傍に良い雰囲気のレストランがあったからそこでディナーにしても良いし、軽く飲んでホテルのレストランで食べても良いな」
「……何を食ってもお前の料理以上に美味いと思う事が無いから一緒だ」
「うん、それは嬉しいけど、でももしかするとケイさんが気に入る料理があるかも知れない」
だからそれを探す良い機会だと思って楽しんでこいと笑うリアムにもう一度溜息を吐いた慶一朗だったが、気分を切り替えたことを教えるように笑みの形になっている唇に小さな音を立ててキスをする。
「楽しんでくる」
「うん。GGもいるし彼の友人にももしかすると紹介して貰えるかも知れない、それってケイさんにとって絶対に悪いことじゃないから楽しんでこい」
降って湧いたようなセミナーへの参加の話だが、あなたのキャリアを思えば絶対に悪いことではないから人脈を発掘してこいと慶一朗の額にキスをしたリアムは、眼鏡の下から見上げてくる目に信頼と愛情をたっぷり込めた笑みを見せつけ、細い腰を抱いて一晩だけ我慢してくれと囁きかける。
その声に籠もる色に気を取られて一晩だけという言葉の意味を深く考えなかった慶一朗が、もしかするとリアムも離れ離れになるのを不安に感じていてそれを必死に押し殺しているのだとも気付くと、腰に回していた腕を首に回してそっとキスをする。
「……ん」
「ケアンズに着いたら教えてくれ。空港に迎えに行く」
「週末が楽しみだな」
ケアンズの観光を楽しもうと笑って額と額を重ねた二人だったが、いつまでもこうしていられないと思い出し、洗面所からリビングに出ると玄関前のソファに広げたままのスーツケースが置かれていて、もうすぐ慶一朗が空港に向かうことを教えてくれていた。
慶一朗の希望通りに己の香水を洗面所から持ち出してスーツケースに入れるとフィギュアが二体こちらを見上げていて、現地に着いたら少しでもケイさんの不安を解消してやってくれと今では異形の友人とすら感じてしまうそれに密かに願っているが、これも入れてくれと背後から慶一朗が差し出したものに気付いて無言で首を左右に振ってしまう。
それは、テレビボードの前で敵を威嚇しているフィギュアの一体で、まるで子どもが旅行に行くときにも大好きなぬいぐるみや玩具をスーツケースに詰めるのと同じだと思いながら見上げると無言で頷かれてしまい、そんな顔の慶一朗に逆らえるはずもないリアムが渋々それもスーツケースに詰める。
「一番連れて行きたいのはお前なんだ」
それを我慢しているのだからそれぐらい許せと言い方は尊大だが内容は子どもの我儘のようで、スーツケースから慶一朗に向き直ったリアムが両手を広げると、いつまでもグズグズ言って情けないと小さく笑いながらも吸い寄せられるように慶一朗がその腕の間に収まってくる。
「大丈夫だ、GGがいる。もしかすると彼が色々連れて行ってくれるかも知れないだろう?」
「……ナイトクラブに行っても良いか?」
「……却下したいけどGGも一緒かも知れないしなぁ……どうしようかな……」
「美味しい料理を食える店を教えて貰う。だからケアンズにお前が来たら一緒に食いに行こう」
「うん、そうだな、そうしよう」
そのために色々情報を仕入れておいてくれと笑うリアムに慶一朗もようやく同じ顔で頷き、どちらからともなく顔を見合わせると小さな音を立てたキスを二回繰り返す。
「行ってくる」
「うん」
仕事を終えたら文字通り飛んでいくから迎えに来てくれと、額に掛かる前髪を掻き上げてそこにキスをしたリアムに頷いた慶一朗は、気分を切り替えたのか今まで見せていた子供じみた表情を掻き消し、ビクトリア・ノースヒル・ホスピタルでも優秀なドクターと称されている男の顔になる。
その横顔に惚れ直したリアムが全力で寂寥感を抑えつつも人差し指を慶一朗の唇に押し当てると、己の太い指の下で薄く色付く唇が左右に綺麗な弧を描き、同じように慶一朗の指が己の唇に重ねられると自然と笑みが湧き上がってくる。
「土曜日まで我慢だ、王子様」
「……陛下も、堪えてください」
クスクスといつもの言葉を交わしたあと慶一朗が眼鏡の下で目を閉じて一つ頷き、人差し指のキスを受け止めたことをリアムに伝えると、スーツケースを閉じて家を出る支度が調ったことを確かめる。
「行ってくる」
「うん、気を付けて」
本当なら空港まで送りたいが時間が厳しいことを詫びるリアムに問題ないと素っ気なく頷いた慶一朗は、いつまでも名残惜しんではいられないと己に言い聞かせ、いつもとは違って今日は玄関から外に出ると、振り返れば最後、家を出ることが出来ないと理解出来ているために決して振り返らずに駅に向けて歩き出す。
その背中をゲートの柱に寄り掛かりながら見えなくなるまでリアムが見送り続けるのだった。
真冬のシドニーから乾期のケアンズに移動した慶一朗を待っていたのは、シドニーとは比べられない暖かさと湿度だった。
空港までは電車とバスで向かったために道中が寒くてトレンチコートを持っていたが、空港に着いて到着ゲートを潜った途端、トレンチコートがただの重荷のように感じてしまい、やれやれと息を吐きつつぐるりを見回すと、シドニーとは比べられない程小さな空港のロビーに何となく同業者だと感じられる人間を何人も見いだし、ああ、今日の殴り合いに参加する人達かと内心苦笑した時、空港の入口の向こうの道路に停めた黒い最新型と思われるジープに寄り掛かっている、オシャレに気を遣っていることが一目で分かる男がこちらに向けて手を挙げている姿を発見する。
だがこの街に知り合いなどいない慶一朗がそれを無視していると、無視をするなんて酷いぞと笑い声とともに誰かの腕が己の肩に回されてしまい、一瞬で体が竦んでしまう。
見知らぬ誰かの温もりが過去の扉を開いてそこから伸びてくる四人の体温を思い出させるだけではなく、それが齎した暴力も引きずり出してきそうで、思わず前屈みになってシャツの前をぎゅっと握りしめる。
「……っ……!」
今はもうあの事件も解決をし平穏な日常に戻っている、もう大丈夫だと己の思いとリアムの言葉を脳裏で重ね合わせた慶一朗が荒い息を吐くと、それに気付いた腕の主が顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か、ケイ?」
「……っ……GG……?」
「おう。同じ飛行機だったけれど気付かなかったか?」
「……気付かなかった」
シドニー空港でケアンズ行きの飛行機に乗り込み、一人になる不安から持参したイヤフォンを耳に突っ込んで外の世界の音を遮っていた為に呼びかけられても気付かなかったと少しだけ荒くなった息の下で頷くと、驚かせて悪かったとゴードンが申し訳なさそうな顔で謝罪をし慶一朗の腕をそっと撫でる。
仕事では文句も無しに尊敬できるゴードンだが、プライベートでは何が気に入ったのか、リアムが事件に巻き込まれた時のオペ以来ずっとこうして親しく声を掛けてくれたりするようになっていた。
何が一体気に入ったのかいつか聞かせてくれと思いつつ微苦笑すると、己に向けて手を挙げた男が驚きと心配を僅かに顔に浮かべ、慶一朗というよりはその横にいるゴードンに向けて手を差し出す。
「久し振りだな、GG! 元気そうで安心した」
「おー! ケヴィンも元気そうだな!」
はっはっは、どうだ、最近も下手くそなオペで患者をあの世に送り届けているのかと他の誰かが耳にすればぎょっとしてしまうようなことを笑いながら問いかけたゴードは、それはお前だろうと同じく笑い返されながら腰を叩かれて痛くもないのに痛がるそぶりを見せる。
「これが、お前が言っていたケイか?」
「ああ、そうだ」
ジャックの所の問題児だと笑って慶一朗を見やったゴードンに己の知らないところで紹介されているのはあまりいい気がしないと苦笑してしまうと、ケヴィンと呼ばれたこじゃれた男が目を丸くし、確かにそうだと周囲に響き渡るような朗らかな声で笑い出す。
「それは悪かった。うん、そうだな、確かにそうだ」
俺も俺の知らない場所で俺の噂話をされていると思えばそこに突入したくなると笑った後、咳払いを一つして気分を切り替えたのか、キリリと表情を引き締めて慶一朗に向けて手を差し出す。
「ケアンズの病院でドクターをしているケヴィン・ヨンソンだ。ケヴィンで良いぞ」
「初めまして、ビクトリア・ノースヒル・ホスピタルのドクター、杠慶一朗です」
俺の事はもうケイと呼んでいるのでそのままで結構ですと苦笑しつつ差し出される大きな手をそっと握ると、ゴードンやテイラーに共通する温かさを感じ取り、安心しても良い人かも知れないと無意識に感じるが、セミナーは午後の2時からでまだ時間がある、ランチを食いに行くぞとゴードンとヨンソンが笑顔で頷き、当たり前の顔で慶一朗に何を食いたいと問いかけてくる。
「え……」
「何だ、腹は減ってないのか?」
「シドニーほどではないがここでも世界各国の料理が食えるぞ」
日本食はダメだとゴードンから聞いているから好きな国の料理があれば教えろと居丈高にも聞こえるが何処か温かみもある声に問われて二人の顔を見ると、己には理解出来ないがもしも親戚がいるとして久しぶりに会えばこんな感じなのかなと空想するが、食いたいものを言えと急かされてしまい、思わず素直にビールとチップスと答えてしまう。
「これから楽しい楽しい殴り合いがあるのにもう飲むのか?」
「素面で殴り合うのが楽しいんだろうが」
だから残念ながらビールはまだお預けだ、それにビールとチップスだけ等というのは食事に認めないとヨンソンに笑われてしまい、その朗らかさに逆らう気力を無くした慶一朗が何を食っても一緒だからお任せすると二人に伝えるが、日本食がダメだという配慮をしてくれてありがとうと小さく笑みを浮かべて礼を言うと、ヨンソンがゴードンの耳元に顔を寄せて一言二言囁き、その通りだと大仰にゴードンが頷く。
「?」
「俺が贔屓にしているイタリアンレストランがある。パスタも美味いが手作りのマルゲリータが最高に美味いからそれを食いに行こう」
空港の玄関前の道路に停めてある黒のジープのトランクを開けたヨンソンが慶一朗の荷物をトランクに積み込み、何か嬉しい事があったのかと問いかけてきたため、思わず軽くなった口であいつの車と同じ匂いがすると答えてしまう。
「……後でメシを食いながら聞かせて貰おうか」
「……っ!」
己の呟きに顔をにやつかせるヨンソンに気付いた慶一朗が目を見張るが、先に助手席に乗り込んでいたゴードンが不思議そうに二人の顔を交互に見つめ、どうした、リアムの車と同じ車で嬉しいかと問われて瞬間的に顔を赤らめてしまう。
「……あいつの車はもっと旧式ですよ」
でも、だからこそ車に乗っている感じがして好きだと口の中で転がすと、分かった分かったと軽くあしらわれてしまう。
この、仕事では尊敬できるがプライベートではそれも怪しくなってきたゴードンから、何故ここまで己を気遣い世話をしてくれるのかいつか聞き出すと赤面しつつ腹に決めた慶一朗は、空港に着いたらメッセージをくれと言われていたことを思いだし、運転席や助手席で好き勝手に盛り上がっている二人の不良オヤジー言葉は悪いがこう呼ばせて貰う事に決めたー達を尻目に、今はまだ診察中と思われるリアムに無事に到着した事、ゴードンと再会できたがその友人にも紹介して貰い、今からイタリアンレストランに行ってくるとメッセージで伝えると、空港からジープが市街に向けて走り始めた頃、サムズアップのイラストだけが返ってくる。
「リアムは何と言っているんだ?」
後部シートで慶一朗がスマホを触っていることからメッセージを送っていると予測していたゴードンが揶揄うでもない当たり前のように問いかけ、楽しんでこいと言ってますとだけ返した慶一朗は、長年この国で暮らしているが初めて訪れた観光地としても有名なケアンズの空気を少しだけ開けた窓から取り込み、シドニーの乾燥している空気とまた違う肌に纏わり付くような空気に息苦しさを覚えてしまうが、青い空と白い雲が悠然と流れるのはシドニーでも同じだと気付き、一人という不安を常に抱えていた為に凝り固まっている体から余計な力が抜けていくのを感じるのだった。
眼鏡の下の表情が不意に柔らかなものになったのをルームミラー越しに確かめたゴードンが安堵にも似た溜息を吐き、それに気付いたヨンソンがチラリと視線を投げかけてくるが、友人の視線にゴードンが無言で頷き、イタリアンレストランが楽しみだと歌うように呟く。
この車内の光景はこの後同じセミナーに参加するドクター達からすれば嫉妬に狂った目で睨まれてしまうものだったが、幸か不幸か慶一朗にそれが分かるはずもなく、行き付けのイタリアンレストランのピッツァが楽しみだ、美味ければ土曜日に合流するリアムと一緒に来たいから店の名前を覚えておこうと珍しく食に関して記憶力を発揮させようとするのだった。
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