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日増しに冬の寒さが厳しくなる6月のある日の午後、ひとりの厳つい顔をした男が少しもそうではないのに当たり前の顔でビクトリア・ノースヒル・ホスピタル内の廊下を鼻歌交じりに歩いていた。
彼とすれ違う患者たちは一向に彼を意識することはなかったが、正面玄関から入ってきたときに自然と目が向かう総合受付のスタッフの一人は、いかつい顔に太い笑みを浮かべる男に一瞬驚いてしまい、相手の立場を思い出して慌てて目礼する。
それを笑顔で受け流しながらエレベーターに乗り込んだ彼は目的地である友人のオフィスがあるフロアのボタンを押し、エレベーターの壁に背中を預けて腕を組む。
彼が今日ここに来たのはなかなか面白そうな話が持ち上がったからで、今までならばこの手の話はほかの同僚や部下に押し付けて己は我関せずにメディアの取材を受けたりオペをしていた。
だが日頃の己らしからぬ行動を取っている理由を思い出し、思わず肩を揺らしてしまった彼は、フロアに到着したことをエレベーターの音から教えられて廊下に出ると、最近ではすっかり通いなれた廊下を進んで角を曲がり、テイラーとネームプレートが掲げられているオフィスのドアをノックする。
「どうぞ」
「入るぞ、ジャック!」
入室を許可する声に朗らかに入るぞと言い放った彼は、呆然とした顔で己を見つめてくる旧友ににやりと口の端を持ち上げ、面白い話を持ってきたと笑いながらソファに腰を下ろす。
「前々から思っていたけれど、もしかして暇なのか、GG?」
僕たちなどと比べ物にならない地位と名声を持っているお前がこんな時間にここに顔を出すなどよほど暇なのかと、呆れを隠さない顔でテイラーが呟きつつデスクから立ち上がり、GGと呼んだ旧友、ゴードンの向かいに腰を下ろす。
「暇なものか。今朝から上院議員のオペを一件終えて部長や院長の顔をにやけさせてきたぞ」
やるべきことはきちんとこなしていると胸を張るゴードンに最早何も言えずにただ首を左右に振ったテイラーだったが、面白い話とは何だと気分を切り替えるように息を吐いて友の顔を見る。
「ああ。今度NSW州の脳神経科医を集めた自慢大会がある」
「……専門ドクター達の会合だな。そんな案内が届ていたなぁ」
ソファの背もたれに腕を回しながら笑うゴードンの言葉にもう一度溜息を吐いたテイラーがその言葉を訂正し、あんなものはマウント大会だと言い放たれて何も言い返す気力も無くなってしまう。
「それに誰か出るのか?」
「うちか?」
お前曰くのマウント大会に僕の可愛い部下を出すつもりはないと苦く笑うテイラーにゴードンが盛大に目を見張り、あんな言葉の殴り合いを見学しないなど勿体ないぞと心底そう思っている顔で驚くと、お前はその殴り合いを高みの見物が出来るからもったいないと言えるのだろうが、僕の部下たちは間違いなくその殴り合いに参加させられてしまい、下手をすれば疲弊しきって翌日からの仕事に差し障りが出ると、己の部下を思って参加などしないと首を振って否定をする。
「ヒルなど面白そうだと思うがな」
「まあなぁ。オーガストは皮肉には皮肉で返すだろうから収拾がつかなくなるぞ」
ちなみにもう一人の僕の部下のリベリオは皮肉には炎を吐き返すような熱血漢だから周囲が大炎上するとどこまでが本気で冗談なのかが理解できない顔で呟くテイラーにゴードンが目を細め、もう一人いるだろうと顎を上げて友人のしかめっ面を楽し気に見つめる。
「ケイは……あれは……」
あいつこそのらりくらりと皮肉の海を泳ぐことに長けているだろうと、実は密かに慶一朗のこの病院内での人間関係を見抜いていたゴードンが更に笑みを深めると、テイラーが溜息交じりに言い淀む。
「どうした?」
「……いや、僕が過保護になっているだけ、だな」
そのぽつりと呟かれる言葉に籠る慚愧の念に気付いたゴードンが半年以上も前の事件のあらましを思い出し、さすがに顔から笑みをかき消す。
「……可愛い子には旅をさせよと言うぞ」
「まあ、そうだな」
凄惨な事件に巻き込まれたがそれでも仕事に復帰し、以前とは違った人間関係の海を漂っている慶一朗を信じて送り出してみろとゴードンが背もたれに回していた手を胸の前で組んでにやりと笑い確かにそうだなとテイラーも同意をするが、ふと何かに引っかかったのか席を立ってデスクに戻り、開いたままのラップトップを操作する。
「GG、その自慢大会はいつどこで開催される?」
「ああ、それがな……」
ラップトップで何かを確かめつつ問いかけるテイラーにゴードンがさも愉快なことだと言いたげに肩を揺らし、とある地名を告げてラップトップからテイラーの視線を奪い取る事に成功し、意味が分からないと言いたげに目と口を丸くする旧友の表情が楽しいと言いたげに笑い声をあげるのだった。
今日も朝からみっしりと詰まっている予定をひとつひとつこなし、漸く遅いランチタイムを迎えたのは、ビクトリア・ノースヒル・ホスピタルの脳神経科に所属する杠慶一朗という、この国では高確率で聞き返される発音しにくい名前を持つドクターだった。
同じ医師で他のクリニックで働く同性の伴侶が作るものとは比べられない程不味い料理を不味そうな顔で仕方がないから食べている慶一朗だったが、ラップサンドを半分食べ終えた頃、院内でのみ使用している携帯が着信音を鳴らし、やれやれと溜息を吐きながら耳に当てる。
「ハロー」
『ケイ? 今どこにいる?』
電話の相手はテイラーで、今ランチを食っていると告白すると食べ終わったらオフィスに来いと命じられてしまい、携帯を耳から離して睨みつける。
『ケイ?』
「……別に部長に呼び出しを食らうような問題行動は取っていませんよ」
『問題行動をとっていれば電話などではなく院内放送で呼び出しているから安心しろ』
どちらにとっても安心できない事を笑い混じりに告げるテイラーに溜息を吐いた慶一朗は、すぐに行きますと返事を聞かずに通話を終えると、カウンターの内側から慶一朗の様子を見ていたらしいカフェテリアのスタッフに無言で肩を竦めるが、部長からの呼び出しは心臓に悪いと笑いながらトレイを返してカフェテリアを出ていく。
テイラーのオフィスに辿り着くまでにすれ違った何人ものスタッフらから挨拶を受けたり視線だけで見つめられて無言で肩を竦め返したりしながらも、冬は日が沈むのが早いと大きな窓の外を見ながら思案し、今日は寒いから心身ともに温めてくれる伴侶の手料理を楽しみにしようと少しだけ口角が持ち上がるような事を考え、目の前のテイラーのプレートが張り付くドアをノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
呼び出されたからやって来たが何だと、それが上司に対する態度かと真面目な人が見れば眉を顰めそうな態度でドアを開け放った慶一朗は、何やら言いたげな顔のテイラーに気付いて眉根を寄せ、どうしたと口調を変えて問いかける。
「うん、少し相談したいことがある」
だからそこに座ってくれとソファを示されて腰を下ろし、何だとシャツの裾で眼鏡のレンズを拭きながら先を促すと、翌月の第二週目の木金にNSWの脳神経科医が一堂に会するセミナーがある、それに参加しないかと問われて眼鏡を拭いていた手を止めてしまう。
「は?」
「セミナー。勉強会。……下手をすればマウント合戦だな」
「お前が行けばいいだろう?」
テイラーの肩を竦めつつの言葉に慶一朗が瞼を平らにしながら言い返し、眼鏡を掛けて良く見える視界でテイラーを睨む。
「僕は一線から離れているからな」
「俺は出来るだけ現場で働くつもりだから学会や教授や部長になど興味はない」
だからそんなセミナーには他の誰かに参加させろと溜息と共に本心を吐き出すと、生涯現役は理想だなとテイラーが慶一朗の意志を尊重するように頷くが、オーガストに参加させると他のドクター達と皮肉合戦を巻き起こしかねない、リベリオを参加させると炎上することが目に見えている、そんな二人を参加させられるかとさすがに上司の顔で言い放たれてしまい、それには慶一朗も言葉を飲まざるを得なくなってしまう。
「消去法でお前しかいないんだ、ケイ」
だから参加して来いと命じられて不満を最大限表情で表した慶一朗だったが、安心しろ、GGも参加すると教えられて一瞬だけ安堵してしまうが、どうしてあの人が参加することで俺が安心しなければならないんだと素直ではない事を言い返す。
「ああ、NSWの脳神経科医のマウント合戦はケアンズで行うからな」
「は!?」
慶一朗の不満たらたらな疑問に満面の笑みでテイラーが返したのは、彼らが日々生活をし仕事をしているニューサウスウェールズ州の北に位置するクイーンズランド州でも有数の都市名で、咄嗟に理解できずに素っ頓狂な声を上げてしまう。
「ちょっと待て……どうしてNSWのドクターが隣のQLDの観光で有名な都市に集まってセミナーを行うんだ?」
州を跨いだセミナーも珍しいのに、そのセミナーを州都であるブリスベンではなくどうして観光地で行うんだと眼鏡の下で理解不能と言いたげに眉を寄せる慶一朗にテイラーが素直にその不思議を認めつつもさらりとある種の爆弾のような言葉を落とす。
「GGの友人がケアンズでも有名なドクターなんだ」
彼に会いに行きたいが休暇を取ると何かと面倒だ、それならば仕事も兼ねて会いに行けばいいとの理由だとテイラーが決して公には出来ない事情だと言わんばかりに声を潜めた為、至近距離での爆撃を受けてしまった慶一朗がシャイセと吐き捨ててソファの背もたれに盛大に凭れかかる。
「何だその公私混同した理由は!」
「僕に怒鳴っても仕方がないだろう?」
そもそもの会合の発端は見なかったことにするが参加するドクター達の顔ぶれは錚々たるものがある、そこに参加することは決してお前の損にはならないと思うと、少しだけ表情に生真面目さを混ぜ込んだテイラーが慶一朗にどうだと打診をすると、慶一朗の口が聞き取りにくい何かをぶつぶつと呟くが、二日間かと勢い良く顔を戻してテイラーに確かめ、頷かれて再度天井を見上げる。
「くそったれ……」
三日、いや、二日もあいつと離れなければならないのかとの呟きをテイラーはぐっと腹に力を込めて聞き流し、これは部長としての命令だ、ケアンズに出張してこいとにやりと口の端を持ち上げると、慶一朗がそれだけで人を殺せそうな程の目つきで上司を睨む。
「明日まで返事を待ってくれ」
「ああ、構わない」
どうせお前は行く事になるのだからと内心で呟きつつ鷹揚な態度で頷いたテイラーは、用件はそれだけかと問われて同じ顔で頷き、ご苦労と慶一朗の衝撃を慮りつつもそこに愉快さを見出し、それを何とか堪えている事を気取らせないように威厳を保った顔で労う。
「……覚えてろよ、ジャック」
「何をだ?」
そんな人を呪い殺しそうな顔をしていないで早く職場に戻れと笑顔で慶一朗に退室を促したテイラーは、肩を落としながら出ていく背中を見送り、さて、明日の返事はともかく、出張に駆り出される慶一朗の為に飛行機のチケットだけは良い席を用意してやろうと決め、ケアンズという観光都市で行われるセミナーの時間と場所を再確認し、極力慶一朗の負担にならないホテルなども探そうとラップトップを開くが、ゴードンのお前はあいつに対して甘いという言葉を脳裏に響かせてしまい、俺が出しゃばらずともあいつの伴侶が何とかするかと気付いてラップトップをぱたんと閉じるのだった。
今日も季節性の感染症の患者が多数いて、本当に流行していると感じつつ帰路に就いたのは、ホーキンス・ファミリー・メディカルセンターというクリニックに勤務しているリアム・フーバーだった。
リアムが勤務するクリニックにはもう一人、ディアナ・ホーキンスという名のドクターがいて、二人でクリニックを切り盛りしているのだが、リアムは元々慶一朗が働くビクトリア・ノースヒル・ホスピタル所属のドクターだった。
諸般の事情でリアムがこのクリニックに出向して結構な年数が経過していて、今ではリアムは元々このクリニックに就職したドクターだと思われている節もあった。
勤務当初はその言葉に己はあの病院にもう必要とされていないのだと言う後ろ暗い思いが芽生えていたが、今ではその言葉を聞くたびにこのクリニックで受け入れられ必要とされている己を実感し、以前ほど寂寥感も覚えないようになっていた。
そんな充実した日々を過ごしているリアムが鋼鉄の荒馬に乗って自宅に帰りつくと、玄関ではなくガレージから直接家に入る事の出来るドアを開けて中に入り、帰路の途中にあるスーパーで急遽購入したディナーの材料をアイランドキッチンとは反対側にある作業スペースに置き、洗面所に駆け込んで帰宅後のルーティーンを行う。
手洗いうがいを入念に行い、今日は家から出るつもりが無いことを己に自覚させるように着ていたシャツやジーンズをランドリーボックスに投げ入れ、棚に畳んであるハーフパンツとTシャツに着替えてキッチンに戻ってくる。
さて、もうすぐ専門は違っても同じドクターである伴侶の慶一朗が帰ってくる時間だと気付き手早くディナーの用意を始めるが、スマホが着信音を上げた事に気付き、買い物袋からジャガイモを取り出しつつスマホを肩と頬で挟み込む。
「ハロ」
『……リアム』
ロクに画面も見ずに出出た為に相手が分からず、聞こえてきた地を這うような低い声に一瞬誰だか理解できなかったが、それがもうすぐ帰ってくると予測した伴侶のものだと気付き、思わず目を瞬かせる。
「ケイさん、どうした?」
そんな低い声を出して何かあったのかと思わず口早にドイツ語で問いかけると、思わずスマホを耳から離してしまう程の大声が流れ出す。
『くそったれ!!』
いつもならばその言葉には厳しい態度で臨むリアムだったが、電話の向こうではどうやら慶一朗が珍しい程の激怒ぶりを見せている事に気付き、本当にどうしたと厳しさよりも優しい顔を見せながらそっと問いかける。
「ケイさん。そんなに怒鳴ってばかりじゃ分からない」
『ああ、くそ……! 腹が立つ……!』
「うん。どうした? 何があった?」
今何に一番腹を立てているのかを言葉に出して教えてくれと、まるで癇癪を起した子供を宥める様に二人にとってはごく自然と出てくるドイツ語で問いかけると、深呼吸をしているような音が伝わった後、翌月の第二週目の木金に出張に行って来いと言われたと教えられて出張と珍しい言葉を聞かされたリアムがオウム返しに呟く。
『ああ……帰ったら、聞いてくれ』
「うん、全部聞く。だから落ち着いて帰って来い」
そんなに腹を立てたままだと車の運転も乱暴になってしまう、そうなってしまえばあなたの愛車にも傷がつくし下手をすればあなた自身も怪我をしてしまうのだからと、とにかく慶一朗の身の安全を一心に思いながらそっと囁くリアムの心が伝わったのか、盛大な溜息の後に素直にその言葉を聞き入れる事にしたらしい慶一朗のうんという声が返ってくる。
『今日のディナーは?』
「ああ、今から作るから気を付けて帰って来い」
今日は新鮮なサーモンが売っていたから蒸し焼きにしよう、ソースはあなたの好きなものを用意すると伝えてスマホにキスも届けると、少しの間をおいて同じ音が耳に届く。
『あと20分ほどで着くと思う』
「分かった。気を付けて」
付き合いだして5年以上が経過し、右手薬指にリングを嵌める様な関係になってまだひと月足らずだが、こうして電話で話をすると通話を終えるタイミングをどちらも見出すのが難しいほど名残惜しくなってしまい、ついついどうでもいい話題で話を続けてしまいそうになるが、今慶一朗は運転中だと己に言い聞かせて帰ってきたらすべて聞かせてくれと再度告げて通話を終えると、慶一朗に手伝ってもらおうと決めたジャガイモを鍋に無造作に投入し水を張ってコンロに置き、サーモンと野菜の蒸し焼きの準備に取り掛かるのだった。
リアムがキッチンでディナーの準備をしている時、ガレージから家に入る鉄の扉が開閉する音が聞こえ、キッチンの壁からひょっこりと顔を出すと、不機嫌さを隠しもしないがそれでも端正な顔がこちらへと向けられる。
「お帰り、ケイさん」
「……ただいま」
リアムの笑顔の言葉に己の不機嫌さに気付いた様に慶一朗が視線を逸らすがそそくさと洗面所に向かったかと思うと、程なくしてシャツやスラックスを脱いでお気に入りの冬用のバスローブ姿でリアムの前に現れる。
「ただいま」
「うん、お帰り」
同じ言葉を再度繰り返しながらリアムの腰に両手を回して甘えるように顔を寄せた慶一朗の背中をミトンを着けたままのリアムの手がポンと叩き、頬にキスをした後に何があったと問いかける。
「ジャックが、出張に行けと言ってきた」
「ケイさんが出張なんて珍しいな」
あなたはどちらかと言えばいつも現場にいる人なのにと当初も覚えた違和感をリアムが口にしつつコンロの前に向かうと、慶一朗もそんなリアムの横に立ち、何をしているのか不思議そうに鍋を見下ろす。
「イモをゆでてるのか?」
「そう。ああ、ケイさん、それをマッシュしてくれないか?」
「……そんなこと、」
「うん、ケイさんでも出来るから大丈夫だ」
あなたが生活不能者だと揶揄われることは良く知っているし身をもって経験しているが、マッシュポテトを作る事は出来ると笑顔でボウルを慶一朗の手に持たせたリアムは、視線を彷徨わせる端正な顔にやる気を起こさせるキスを何度かすると、くすぐったいと言いたげに首が竦められる。
「ポテトの皮は熱いから俺が剥く」
だからそれをマッシュしてくれと親友がこの光景を見ればお前は甘いと絶叫しそうな事をさらりと言い放ち、それに気付きつつも甘えている慶一朗が素直に頷くと、程よく茹で上がったポテトの皮を手早く剥き慶一朗が手にして待ち構えているボウルに投入していく。
マッシュポテトを慶一朗に任せ、リアムはサーモンや野菜を蒸している鍋の蓋を取って完成具合を確かめていると、その横の作業スペースでボウルにマッシャーを押し付けながら慶一朗がぶちぶちと今日の出来事を不満げに漏らし始める。
付き合いだした頃やこの家で一緒に暮らすようになった頃にはあまり仕事の不満などは聞かされなかったが、結婚して伴侶となって以来、慶一朗は職場での出来事を以前と比べれは遥かに饒舌に語る様になっていて、その小さな変化も嬉しいリアムが相槌を打ったり疑問を返したりしているが、今日の話の中で思わず作業の手を止めてしまう一言を聞いてまじまじと端正な横顔を見つめてしまう。
「ケイさん、それ、本当か?」
「ああ……GGが自分の友人に会いたいがためにわざわざケアンズで専門医を集めたセミナーを開くそうだ」
「ジーザス」
思い出したら腹が立ってきたと自然とマッシュする手に力を込めた慶一朗にリアムが天を仰いで嘆息しまったくと呆れた溜息を吐くが、ボウルにバターを投入し、少量の生クリームと牛乳も投入する。
「NSWの医者をQLDに集める意味が分からない」
「うん、そうだな……ケアンズか」
慶一朗が怒りながらポテトをマッシュする横ではリアムがミトンの先を顎に当てて何事かを思案し、ぶちぶちと文句を垂れていた慶一朗がそれに気づいて思案気な伴侶の顔を覗き込む。
「リアム?」
「……なあ、ケイさん、そのセミナーは二日間か?」
「ああ、そう聞いた」
それがどうしたと問いたいのをぐっと堪えた顔でリアムの横顔を見つめていた慶一朗だったが、マッシュポテトの味見をしたリアムが大きく頷き、慶一朗が全力でマッシュしてくれたから出来上がりは完璧だと満面の笑みを浮かべる。
「リアム?」
「ん?」
付け合わせのポテトの準備は出来た、サーモンも野菜も程よく蒸し上がっている、後は盛り付けるだけと鼻歌を歌いだしそうな浮かれた横顔に意味が分からないと慶一朗が眉を顰めると、そのセミナーの後にケアンズを観光しないかと問われて眼鏡の下で目を丸くする。
「観光?」
「ああ。ケイさんはケアンズには行ったことがあるか?」
「いや……シドニーからは出たことが無いな」
「俺も無い。だから旅行しないか?」
二人分の料理を盛り付ける皿を出してくれと今では理解している為に頼むことが出来る慶一朗に頼んで出された皿に盛りつけつつ、ケアンズでのセミナーは確かに気怠いだろうがその後一緒に観光しないかと誘われている事に気付き、慶一朗が目を瞬かせる。
「旅行?」
「うん、そう。ケイさんの誕生日には今年も旅行に行くけれど、それまでにも一泊で行っても良いだろ?」
付き合いだして間もない頃に二人で決めた誕生日には旅行に行く約束だが、誕生日以外にも旅行に行っても良いだろうと当然のことをリアムが提案し、そんなこと考えもしなかったと慶一朗が心底驚いた顔になるが、仕事で離れ離れになる二日間を過ぎればリアムが現地に来てくれる、そう考えるだけでついさっきまで溶けることなく腹の底に蓄積されていた怒りがふわりと軽快に浮き上がった気がし、何処まで即物的なんだと己のその軽薄さを自嘲してしまう。
「良いのか?」
「ん? ああ、土曜日の朝一番の飛行機でケアンズに飛ぶから観光する時間は少し減るかも知れないけど、あっちで行きたいところがあったら情報を仕入れていてくれ」
ケアンズからだとグレートバリアリーフに向かうツアーなどもあったと思うが、もし行きたいと思えばそれに行こうと、何をどうすればそんなことになるのかリアムには理解できないが、慶一朗の鼻の頭に小さく乗っているマッシュポテトに気付いてキスをするついでに舐めとると、端正な顔に赤みがさす。
「……じゃあ出張に行く事を明日ジャックに伝える」
「うん。ケアンズか。何をしたいか色々調べないとな」
ただあなたは前半は仕事で行くのだけれどと苦笑しつつ料理が盛り付けられた皿をカウンターに並べてくれと慶一朗に合図をし冷蔵庫からビールを取り出したリアムは、食事の準備もある程度は出来るようになってきた伴侶に感心しきりの顔を向け、グラスを二つカウンターに置く。
「Malzeit.」
「Da.」
どうぞ召し上がれとの思いを込めて掌を慶一朗に向けるリアムにダンケを短くした言葉で返し、隣から差し出されるサーモンにかぶりつき、美味いと頷きつつ己はマッシュポテトをリアムの顔の前に差し出す。
「ケイさんが力を入れたからすごい滑らかになってる」
「……腹が立っている時にマッシュポテトを作るのも良いな」
さっきまでの怒りはどこへやら、リアムとこうして肩を並べて同じ料理を食べる時間が何よりも嬉しく、また一人で食べるカフェテリアの料理が本当に己の口に合わないと改めて気付いた慶一朗がビールを飲みつつリアムに問いかけたのは、いつかも言ったと思うがランチボックスを作ってくれないかとの言葉だった。
その言葉にリアムが視線だけを向けて先を促し、カフェの食事が本当に口に合わなくなってきた、あれを食べるぐらいなら何も食わない方が良いとすら思えると素直な思いを伝えると、褒めるように手の甲で頬を撫でられる。
「うん。じゃあ明日から用意しようか」
「頼む」
中身については極力文句を言わないようにするから頼むと殊勝な態度で隣の専属料理人を見つめると、任されましたと胸を叩かれて小さく吹き出す。
「……ケアンズ、少し不安だけど行ってくる」
「うん。あなたなら大丈夫だ」
今ここでどれだけ不満を訴えていようが仕事となればあなたは出来る人だからと、日常生活においては何一つ出来ない男が仕事となれば豹変という変化が相応しい変わりようをする事実を誰よりも知るリアムがその決意を応援するようにそっと頷くが、結婚してからは一日以上離れたことが無いことを思い出し、仕事が終われば電話をすると伝えて無言で頷かれる。
「明日詳しい話を聞いてくる」
「うん、また教えてくれ」
二人にとっては結婚後初めて別々の夜を迎えることになるケアンズ行きにどちらも一抹の不安を覚えるが、今はそれ以上何も考えないでおこうと強引に話題を切り替え、今日のディナーを食べながら明日のランチボックスの話題でああでもないこうでもないと盛り上がるのだった。
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