1
太陽が寝床にいる時間帯は冷え込むことが増えてきた6月の終わり頃、シドニーより内陸の丘陵地帯にある病院群の中でも中核をなすビクトリア・ノースヒル・ホスピタル内のスタッフ達しか入る事のないオフィスに、脳神経科の部長以下所属ドクターやナース達を纏めている師長、副師長といった所謂責任者が一室に集まっていた。
普段は広々としたオフィスだが流石に大人数が入ると窮屈さを感じ、ここに集まってもらったけれど、会議室に移動しようと部屋の主であり脳神経科の責任者であるテイラーがやれやれと溜息を吐き、それに対して約一名がそんなことは最初から分かっている事で今更何を言うと言いたげにテイラーを見るが、その視線を黙殺したテイラーの一言で皆が最も近くにある会議室に移動し、ホワイトボードを背にテイラーが腰を下ろし、三方をドクターとそのアシスタントをしている研修医、そしてその彼らを支える看護部門の責任者の師長と副師長が席に着く。
「移動してくれてありがとう」
テイラーが微苦笑しつつ皆の顔を見渡し、忙しい時間を割いて集まってもらった理由を手短に説明をする。
「新しく研修医として勤務してくれているホアキンとダナだけど、どうかな、もう慣れただろうか」
新人研修医が職場に慣れたかどうかを確かめる為ならば個別にオフィスに呼べば良いだろうに、そう言いたげに口の端を持ち上げたのは、銀縁眼鏡の下の青い目を冷たく光らせたオーガスト・ヒルで、その横では一見するだけでは感情が読み取れない飄々とした顔で頬杖をついている慶一朗と、今日も今日とて厳つい顔に熱意を込めたリベリオ・パリスが座っていた。
「は、はい。少しですが慣れました」
「私も同じです」
テイラーの物腰柔らかな視線と口調に緊張を少しだけ和らげたホアキン・ファルケとダナ・アントショヴァーが返事をし、ちらりと自分達を現場で指導している二人のドクターの顔色を窺うように見つめるが、その横では研修医としては先輩になるビクター・ロブソンがヒルよりは柔らかだがそれでも冷静な目で二人を見ていた。
「ミス・アントショヴァーは細かな所にまで気が付くしアシストされていて不自由さを感じなくなった」
アントショヴァーの視線を受けて顔色を変えることが無かったヒルだが、彼女の働きぶりや仕事を少しでも覚えたいという向上心は傍で見ていても気持ちが良く、こちらも快適に仕事が出来るとヒルが明瞭な言葉でテイラーに報告をし、助かっているとまで伝えるとヒルの左右から驚愕の気配が沸き起こる。
「……何だ?」
「いや、何でもない」
ヒルの視線に慶一朗が無言で咳払いをし、パリスが何でもないと返すと、オーガストがそこまで褒めるのは珍しいことだ、本当にダナは優秀なんだなとテイラーが三人の空気を和らげるように言葉を引き取ってフォローをすると、三人がそれに対して異論はないと言いたげに頷き、慶一朗が発言を求めて挙手をする。
「ケイ?」
「ホアキンも向上心がある。何よりもナースらの仕事であっても嫌な顔をせずに引き受けてくれる」
オペ室でのアシスタントも技術というよりは経験不足からくるものは多少あるが、それを補って余りある向上心を見せてくれる事、ナース達の仕事と思われる事でも率先して行ってくれる事は褒めるべきことだと報告し、その言葉にファルケの顔が褒められた事実に赤く染まる。
「そうか……本当はビクターも入れて三人でローテーションを組んでみようと思ったけど、ダナもホアキンもそれぞれのドクターと相性も悪くないようだし、このままのチームで固定しても問題はないかな」
「俺は問題ありません」
「俺も」
テイラーが室内の顔を再度見回した後の言葉にヒルが賛成と頷き慶一朗も言葉に出して問題は無いと答え、二人については分からないが現状のままがありがたいとパリスが素直な感想を口にすると、研修医三人が同時に顔を見合わせて小さく笑みを浮かべて頷き合う。
ドクターの三人の関係とはまた違う研修医達の中での関係が出来ているようで、今の様子からその関係は悪いものではないと判断をしたテイラーが内心胸を撫で下ろし、ではこれからもダナがオーガストと、ホアキンはケイと、そしてビクターは今まで通りリベリオと一緒に働いてくれとひとつ手を打ち皆が一斉に頷くと、看護師長のミランダ・オーエンが隣のキャサリン・クリフォード副師長と顔を見合わせた後、患者からも二人について概ね良好な感想を聞いていることが報告され、指導をするドクターだけではなく患者からも評判が良いと教えられてテイラーの顔がみるみる綻んでいく。
「皆、今まで人手不足の中頑張ってくれていた。きっと神様がそれを見ていてくれたんだ」
頑張ったご褒美だと笑うテイラーに皆が頷くが、では本格的に二人はそれぞれのドクターの下で頑張ってくれと纏め、集まってくれてありがとうと解散の言葉を伝える。
「ケイ」
三々五々立ち上がり、あるものは病棟へあるものはこの後のオペの準備のためにオペ室があるフロアに向かおうと会議室を出ていくが、己の診察室に向かおうとしていた慶一朗をヒルが呼び止め、ドアに手を掛けたまま顔だけを振り向ける。
「どうした?」
ああ、ホアキン、先に診察室に行っておいてくれと一足先に会議室を出たファルケに笑顔で指示をした慶一朗が振り返ると、ヒルの双眸に躊躇うような色が浮かび、何かあったのかと声を潜める。
「いや……ミス・アントショヴァーの事だ」
ヒルが躊躇いを覚える理由は分からないがその一端を教えられてファルケと一緒に外に出た彼女の背中を思い出した慶一朗が壁に背中を預けると、ヒルが誰もいなくなった会議室のデスクに手をついて尻を載せる。
「……俺も、ダナと呼んでも問題はないだろうか」
「……は……は?」
ヒルの真剣な面持ちから先程の報告とは真逆の言葉を聞かされるのではと予想した慶一朗の耳に流れ込んできたのは、自分も彼女のことをファーストネームで呼んでも問題はないだろうかとの疑問で、予想と現実の落差に慶一朗が足を滑らせてしまいそうになる。
「そんなに驚くな」
「いやいやいや、これは不可抗力だと思うぞ」
「……」
慶一朗の驚愕ぶりにヒルが顔を赤らめ俺は悪くないと言い放つが、フォローが必要だと気付いて己の言葉の真意を伝える為に口を開くと眼鏡の下の視線を和らげる。
「部長がチームだと言ったのを覚えているだろう?」
「……ああ」
「その部長が皆をファーストネームで呼んでいる。俺もホアキンと呼んでいる。お前が彼女をダナと呼んでも誰も何も言わないと思うし、それにこのメンツで行き過ぎたコミュニケーションをどうやれば取れると言ったのはお前じゃないか、オーガスト」
「確かに」
「なのにそれを敢えて質問してくるから驚いただけだ、それ以上でもそれ以下でもない」
だからさっきの俺の言葉で必要以上に気分を害さないでくれと親しい友人や伴侶には決して見せない、敢えて言えば脳神経科の同僚や上司のテイラー達にしか見せない真摯さを飄々とした雰囲気に混ぜ込んで肩を竦めると安堵したように眼鏡の下の怜悧な目が細められるが、研修医をファーストネームで呼ぶことなど以前なら考えられなかったとヒルがポツリと述懐し、そうなってしまう理由もわかると、優秀なドクターだったが今はここではない何処かでドクターとして働いているらしい男の顔を二人同時に思い浮かべる。
「あの人の下にいたからかな」
「影響がないとは思わないな」
ただテイラーは、ドクターも研修医も一緒に働くチームだ、チーム内での上下関係など必要最低限で良いという考えだから親密になる事に対しては何も言わないと思うと、上司であり年の離れた友人の心を思って小さく笑みを浮かべ、ヒルも二人の交友関係を聞きかじっているからか納得した顔で頷く。
「ああ、そうだ、今度飲みに行かないかと言っていた件だけど、近いうちの週末にどうだ?」
「そういえば言っていたな。もちろん、俺は構わない」
今日帰ってあいつにも確かめてみると頷くとヒルの顔に漸く安堵の笑みが浮かび、アビーも楽しみにしていると目元をうっすらと赤らめながら伝えた為、慶一朗が再び驚愕に囚われそうになるのを鉄の意志で押し殺し、お前も彼女も楽しみにしてくれている事は嬉しいなと返すとヒルの端正だが怜悧な顔に赤みが広がる。
「金曜の夜だから市内に出るか」
毎週金曜日は親友が経営するナイトクラブに遊びに行くからシドニー市内の店で食べたほうが都合が良いと気付くと、何処かおススメの店があれば教えて欲しいとヒルの肩を叩く。
「何でも良いのか?」
「そうだな、日本食以外なら何処でも良い」
「そうなのか」
慶一朗が日本食以外なら何処でも良いと言った深い意味をヒルは当然ながら理解できずに好き嫌いがないのかと不思議そうに問いかけると、人並み以上に好き嫌いがあると肩を竦められるが、それなのにどこでも良いのかと苦笑交じりに返す。
「ああ。ビールとチップスがあれば問題ない」
好き嫌いが激しい為にチップスーフライドポテトーとビールがあれば大丈夫と親指を立てる慶一朗に本当に大丈夫かと不安げに呟いたヒルだったが、そろそろ診察室に向かわないと二人の研修医を不安の中で待たせてしまう事になると気付き、慌てて会議室を飛び出していくのだった。
いつものように今から帰ると連絡を入れた慶一朗だったが、いつもとは違って今日はもう一言そこに付け加えていた。
『オーガストが愉快なことを突然言い出した、面白かったからメシの時に話を聞いてくれ』
以前ならば話を聞いて欲しい等と滅多に言い出さない慶一朗だったが、リアムと付き合いだして様々な出来事をそれこそ血の滲む思いで乗り越えて来た今、聞いて欲しいことは聞いて欲しいと素直に口にするようになっていた。
それをリアムも理解しているようで、もちろんとの言葉とサムズアップのイラストが返ってきて、それだけで胸を撫で下ろした慶一朗は、俺のするべき事はあいつを信じて頼ることと、リアムの祖母であり己にとっても祖母のような存在であるクララの言葉を思い出して自然と笑みを浮かべてしまう。
「ばあちゃん、これで良いよな」
もしかすると誰かにとってはつまらない話かも知れないが、それでも肩を並べて同じ料理を食べながら笑顔で相槌を打ってくれる光景が簡単に想像出来る己の伴侶の優しさを思い出し、それが突然変異ではなく彼の両親、そしてそのまた両親から受け継がれた奇跡のようなものだと今の慶一朗は理解しており、その根源のクララの笑顔を思い浮かべて笑いかける。
慶一朗の人生で最も辛く生きていくことすら苦痛に思えたあの頃、ドイツからやって来てくれた祖母のクララの存在は文字通り神の使いのように二人の孫を救ってくれたのだが、その時の事を思い出し、信号待ちをしている間に素早くスマホを操作して保存している三人が一緒に写っている写真を開く。
そこには満面の笑みを浮かべるリアムと、少しだけまだ笑顔が強張っているがそれでも以前と比べれば遙かにマシになった己の間で、大らかな笑みを浮かべて孫の背中に両腕を回しているクララが写っていて、その顔を見るだけで心が穏やかになる。
幼い頃の家庭の事情から家族の温もりや優しさを知ることなく育った慶一朗にとって、クララもそうだがリアムの両親ー慶一朗は二人のことをダッドとマムと呼んでいたーの存在が、家族というものがどれほど暖かなものであるのかを教えてくれていた。
それを写真からも感じ取り、信号が変わったことに気付いて少しだけ慌てながらアクセルを踏み、夕闇から夜に取って代わられた空の下を自宅に向けて愛車を走らせるのだった。
いつもに比べれば明るい表情の慶一朗を出迎えたりアムは、いつかとは違って今日は笑顔で己にぶつかるようにハグをする痩躯を緩く抱きしめ、そんなに嬉しい事があったのかと己も嬉しそうな顔で問いかけると、嬉しいと言うよりは面白かったと教えられて、ああ、その内容を早く教えてくれと強請るように白皙の頬にキスをする。
「リアム、ばあちゃんのポメスが食いたい」
今から作ることは出来るかとリアムのキスを頬に受けて同じ場所に返した後に少しだけ申し訳なさそうに眼鏡の下からリアムを見ると、軽く驚いた後に考え込むようにヘイゼルの双眸が斜め上を見上げるが、うん、冷凍のポテトもあるからすぐに作れると太鼓判を押すように頷かれる。
「ダンケ、リアム」
お前は本当に世界一イケメンな男だと思わず赤面するような顔で褒め、リアムの頬を両手で挟んでそのまま口を封じるようにキスをする。
「……ケイさん、キスは嬉しいけど、うん……」
恥ずかしいなぁと離れた後に己の舌をペロリと舐める慶一朗にも聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟くリアムにもう一度抱きついた慶一朗は、すぐに着替えてくるから絶品のポメスを食わせてくれと言い残し、その気分の切り替えの早さについて行けないように呆然とするリアムをその場に残して洗面所に駆け込み、帰宅後のルーティーンを行いバスローブ姿で出てくる。
その姿からリアムもいつも通りになったと内心安堵し、さあポメスの用意をしよう、良かったら手伝ってくれと慶一朗に呼びかけ、以前とは違って何をすれば良いんだと己の役割を確かめるためにリアムの横に立つが玉ねぎのみじん切りだと言われ、そんな難易度の高い事が出来る筈が無いと断言しリアムの腰に腕を回して肩越しにその作業を見守るのだった。
そんな二人の様子を、夜空を渡る雲とその上から星が少し呆れたように瞬きながらも見守っているのだった。
← 第2話 Prev | 第3話 The Team A. |
Next →