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仕事終わりに伴侶が勤務する病院へと立ち寄ろうと考えていたリアムが今日もお疲れとスタッフ達に労いの言葉を掛けながら駐車場に出ると、そのタイミングを見計らったように着信音が流れ出す。
「ハロ」
画面を確かめて周囲に誰もいない為にかそれとも無意識にか、柔らかな声でハロと通話に出るが、向こうから届くのは沈黙の音だけだった。
その沈黙に付き合ってやりたかったがどうせならば直接声を聴き顔を見、その温もりを感じながら付き合う方が良いと気付き、今どこにいるとそっと問いかける。
『……いつもの場所』
「そうか。何か珍しいモノでも見えるか?」
『いや、いつもと変わらないな』
聞こえてきた返事が教えてくれたのは職場でも自宅でもない、伴侶の心が深く傷ついたりやるせない思いに囚われたりするときに向かう場所との言葉で、そこにいるのならば万が一のこともないだろうと胸を撫で下ろす。
今そこにいる本当の理由については聞き出さない限りは分からなかったが、今までの経験上、沈むところまで沈んだら後は自然と浮上するだけだと気付き、その浮上のきっかけになれば良いと願いつつ愛車に乗り込みフロントガラス越しの夕闇色の空を見上げる。
「ケイさん」
『……何だ』
「うん。夕陽、見えるか?」
『……ああ。今日の夕陽は綺麗だな』
沈みゆく太陽や吹き抜ける風の色は変わることのない美しさを見せていて、今日、不幸な交通事故で三名の命が危機に瀕し、そしてリアムが認知していないところで起きている事件や事故で命を落とす人がいたとしてもその美しさは古来より変わることはなかった。
大自然の前では人の営みなど畢竟合って無きが如しだった。
だが、自然にとっては何の痛痒も感じない存在であっても、それでも人は己を生きているのだ。
古くからの名曲が高らかに歌い上げるように、大自然の前のちっぽけな存在の人の営みは、それでも美しいものだった。
悲喜交々、それでも人は生きている。
その時々に傍にいる人に支えられたり支えながらも、今日も夕陽を見送り明日朝陽を迎えるのだ。
「ケイさん」
伴侶の心を思って痛みに眉を寄せたリアムの耳に今日は展望台に上がって来たと教える声が流れ込み、今日は交通量が少ないと続ける声にそうかと返して鋼鉄の荒馬を眠りから目覚めさせる。
『……今から帰るのか?』
「うん。早く帰ってやりたいことを思い出した」
『何だ?』
ひとつ屋根の下で暮らしながらお前のやりたいことが想像できないと、すべての事象がどこか見えない奈落へと引きずり込もうとしている、そんな感じがする声で苦笑されて一瞬危機感を抱くが、努めて明るい声で言い放つ。
「帰って来たケイさんをハグしてキスしたい」
『……』
いつもそうだが今日はいつも以上に疲れているだろうから、今ならば食いたいもののリクエストを受け付けるしそれ以外にもして欲しいことがあれば教えてくれと目の前に慶一朗がいるときと同じような顔で囁くと、ただ風の音だけがスマホから流れてくる。
それを辛抱強く待っているリアムの耳に次いで聞こえてきたのは、二人にとっては懐かしさを思い出させる料理の名前だった。
『ばあちゃんの、プファンクーヘン……』
「分かった」
極力ばあちゃんの味に近づけるけれど俺のもので許してくれるかと下手に出ると、うんという頼りない声が返ってくる。
そんな声をそんな場所でひとりで発しなくてもいいと不意に強く思い、ステアリングを握りしめながらリアムが口を開くと、己でも驚くような強い語気で帰って来いと命じてしまう。
「帰って来い、慶一朗。そんなところに一人でいるな」
『……うん』
「帰って来い」
そして、俺がいてあなたの好きなキャラクターグッズに囲まれている家で沈み込んだ気持ちを浮上させようとも続けると、言葉に出しての返事は無かったが、風の音の中に濡れた音が混ざって耳に届けられる。
『……今から、帰る』
「大丈夫だって分かってるけど、気を付けて」
『ああ』
いつもならば切るのが惜しい通話だが今だけは自宅で顔を見て互いの温もりを感じた方が良いと気付いたように通話を終え、溜息をステアリングに落としてしまう。
「早く帰るか」
シドニー市内から郊外へと戻る車の量は多いはずで、己が自宅に帰るのとどちらが早いだろうかと再度呟きこちらの方が早そうだが帰宅ラッシュにぶつかってしまえば似たり寄ったりになると気付き、少しだけ慌て気味でシフトレバーを操作して愛車を走らせるのだった。
予想通り先に家に帰ったのはリアムで、ガレージのシャッターを下ろして家に入る鉄の扉を開けた時、下ろしたばかりのシャッターが上がっていく音が聞こえて振り返る。
徐々に広がる隙間から見えるのは赤いスポーツセダンの車体で、ドアノブを握ったままの姿勢で慶一朗の愛車が己の愛車の横に並ぶのを待ち構えてしまう。
定位置に停まる車から慶一朗が降り立ったと同時にお帰りと声を掛けると、俯き加減だった顔が挙げられるが声に出しての返事はなく、ドアを開けているから早く中に入れと無言で促すと大人しくそれに従って中に入る。
シャッターを再度操作し閉まるに任せたリアムが慶一朗に遅れて自宅に入ると、目の前のソファの背もたれに尻を載せて待っていた慶一朗がのそりと立ち上がり、リアムの腰に無言で腕を回して肩に額を押し当てる。
それが己にだけ見せる甘えている姿だと今のリアムはもう熟知していて、どうしたと問いかけながら細い腰に腕を回すと、助けられなかったという悔しそうな声が己の胸板にぶつかって床に落ちていく。
ランチタイムの後にニュースでリアムが見た交通事故、その被害者かとそっと問いかけると、親子が乗っていたセダンにぶつかったピックアップの運転手という言葉も続けられる。
「そうか」
「どちらもドライブレコーダーを警察が調べたらピックアップの無謀運転だったことが分かった」
しかも彼からは酒の匂いもしていたと呟き、リアムの背中をギュッと抱きしめる。
「父親は無事にオペが終わって意識を取り戻した。子供はチャイルドシートのベルトで圧迫されたらしい骨にひびが入っただけで大きなけがは無かった……ピックアップの運転手のオペを無事に終えて……親子に対して生きて償わせたかった」
「ああ」
死んでしまえば本人にとっては何もかも終わりかも知れなかったが、ピックアップの運転手にも親兄弟や子供たちがいて、彼の無謀運転のツケを払わされることになるかも知れなかった。
それよりも何よりも、アルコールを飲んだ状態で無謀運転をし、何の関係もない親子を巻き込んだ事故を引き起こしたことへの謝罪をさせたかったと教えられ、伴侶の痛みを感じながらこめかみにキスをする。
「……残念だな」
「ああ」
ただ、それでもあのオペで自分たちはやれる限りの事をやったと続ける慶一朗の髪にリアムが労いのキスをする。
「ケイさん、プファンクーヘンを焼いておくから先にシャワーを浴びてこい」
「……横で見ていたい」
いつもとは全く違う力を感じられない声に軽くリアムが驚いてしまうが、そういうことなら何も問題は無いと笑ってもう一度髪にキスをすると、慶一朗がリアムの肩に頬を宛てて目を閉じる。
「じゃあ先に手を洗っていつもみたいに服を着替えて。それからプファンクーヘンを焼こう」
帰宅後のルーティーンをまだ終えていないと思い出したリアムが苦笑しつつ慶一朗の頬をそっと手の甲で撫で、その優しい温もりに慶一朗が小さく頷く。
「ああ、そうだ……リアム」
「ん?」
どうしたとの疑問の声は慶一朗の重ねられた唇の中に吸い込まれ、軽く驚いたようにリアムが目を見張ると、ただいまという少しの照れを感じさせる言葉が返ってくる。
「うん、お帰り」
今日も一日良く頑張ったと褒めつつ慶一朗の頬にもう一度キスをしたリアムは、ほらと細い背中を洗面所に向けて押し、自らも同じことをする為にその背中を追いかけるのだった。
慶一朗希望のプファンクーヘンを食べ、今日はこれ以外に何も食べられないと慶一朗が申し訳なさそうな顔で謝罪をしたディナーを終え、今日はもうベッドに入りたいとリアムに告げた為、慶一朗を少し待たせてキッチンの片付けを終えたリアムは、水のボトルを二本持たせて掛け声一つで痩躯を抱き上げる。
「少し見たい本があるから見ても良いか?」
「ああ」
ベッドルームに入れば仕事の話題は口に出さない約束になっている、だから本を見ているお前の横で寝ていると慶一朗がため息混じりに呟くと、明日の朝は何を食いたいか考えてくれとリアムが笑う。
まるでそれが己にできる慰めだと言わんばかりのリアムの様子に驚いた慶一朗だったが、お前は料理人ではなく一緒に暮らす伴侶であり誰よりも何よりも頼りになる男だと伝える代わりに頬にキスをすると、ベッドルームのドアをリアムが開けてベッドにそっと下ろされる。
「何の本を見るんだ? 読むんじゃないのか?」
「イチローが送ってくれたニュージーランドを中心に星空の撮影をしている人の写真集」
「ふぅん」
あまり興味は無いがお前が興味を持つ事には反対も否定もしないから読んでくれと苦笑しつつ掛布団の中に潜り込む。
その隣にリアムが座りベッドヘッドにクッションを立てかけて背中を預けてナイトテーブルの上の照明を付けると、慶一朗の双子の兄が送ってきた写真集を照明の明かりの下で捲り始める。
ぱらりぱらりと捲られていく紙の音を聞いていると落ち込んでしまっている心が少し軽さを取り戻し、もぞもぞと掛布団の中で身動いだあと、鍛えられているリアムの太腿に頭を乗せて本と体の隙間から見下ろしてくる双眸を見上げる。
「リアム」
「ん?」
慶一朗の何か秘めたような声にリアムが本から顔を上げて慶一朗を見下ろすと、右手の薬指のリングを光らせながら手が挙げられる。
「俺は……明日からもやれるだろうか」
「うん。ケイさんなら出来る」
あなたなら大丈夫。
その言葉に籠もる感情を己のものにしようとしているのか、慶一朗が広げていた手をぎゅっと握りしめて胸元に引き寄せると、リアムの顔も引き寄せられてその手に顎が乗せられる。
「だからそんな顔をするな、ケイさん」
今日の事は今日で納めるべき場所に納めよう、そして明日もあなたを必要とする人達のために頑張ろうとまずは約束を形にしたリングに口付け、次は手の甲、手首、二の腕と徐々に顔に向けてキスで移動していったリアムは、そっと閉ざされる瞼に鼻の頭に、最後に微かに震える唇にそっとキスをする。
そのキスを終えたリアムが離れようとした時、握りしめられていた右手が開いて伸ばされ頭を抱き寄せられる。
「ケイさん、首が痛い」
「うるさい」
態勢が苦しいと笑うリアムにさっきまでの力がこもっていないものではない、いつものと言いたくなるような声で言い放った慶一朗は、己の体に覆い被さってくる鍛えられている身体を抱き留め、寝返りを打って乗り上げる。
「……明日の朝もプファンクーヘンが食いたい」
「うん、良いな」
「ピーナツバターを塗ってくれ」
「美味そうだなぁ」
そんな、振り返ればいつだったかも思い出せないような日常の言葉を交わしながら自然と浮かぶ笑みを口の端に浮かべた慶一朗がリアムの額に額をぶつけ、ダンケと礼を言うと髪を撫でられて気にするなと笑われる。
その頃には完全にとはいかないが、それでもいつもの慶一朗の雰囲気に戻っていて、それに気付いたリアムの口から安堵の吐息が無意識に零れ落ちる。
そこまで心配させていた事に慶一朗が今更ながらに気付き謝罪をしようとするが、己を何処までも信じるこの男に伝えるべきは謝罪ではなく感謝の言葉だと気付き、愛嬌のある顔を囲うようにベッドに両手をつく。
「ケイさん?」
「……支えてくれてありがとう、リアム」
「……っ……ケイさんから礼を言われるのって嬉しいな」
だからこれからもどんどん礼を言ってくれと笑う伴侶の額にキスをした慶一朗は、再度寝返りを打ってリアムの広い背中に腕を回すと、今日はこのまま寝るから腕を貸せと笑み交じりに我儘を一つ。
「仕方ないなぁ」
言葉では仕方がないと言いながらも満更でもない顔で笑みを浮かべていそいそと慶一朗の頭の下に腕を差し入れたリアムは、今日の仕事の一件は慶一朗の腹の中の収まるべき場所に収まったことに気付き、明日の朝にはいつものような笑顔が浮かんでいると良いと願いつつ瞼と頬にお休みのキスをするのだった。
翌朝、リアムがそうあって欲しいと願った笑みを浮かべた慶一朗がリクエスト通りのプファンクーヘンとコーヒーの朝食を済ませ、リアムに髪を整えて貰った後に家を出ると、その時には昨日のショックなど一切感じさせないいつもとまったく変わらない飄々とした様子でカンファレンスに顔を出す。
先に席に着いていたファルケに手を挙げて合図を送り、その隣に腰を下ろして昨日はご苦労だったと労いの言葉を掛ける。
「いえ……」
自分は何も出来ませんでしたと顔を伏せるファルケの肩をポンと叩いた慶一朗は、経験の差だと笑った後にその経験はこれから積んでいくものだから昨日覚えた事を忘れるなと頷き、ファルケの顔を上げることに成功させる。
「……はい! よろしくお願いします」
ファルケの素直さからひとりの男の顔が思い出されそうになるが、あの頃目を輝かせて仕事に打ち込んでいた彼はもういないのだと内心で呟くと、本格的に部長が配属先を決めるときには俺も意見を述べさせて貰うと頷き、ファルケの顔を少し明るくさせることに成功するのだった。
カンファレンスが終わり今日のオペや診察の予定を確かめた慶一朗は、今日も己を待つ患者が何人もいる、自分にとって患者は複数人いるうちの一人だが、患者にとっては主治医は一人なのだ、だからこそ丁寧に向かい合いたいと、医師になる前から世話になっていたテイラーの言葉を思い出し、今日もその一人一人に誠実に向き合えればと己に言い聞かせる。
「おはようございます、ドクター・ユズ」
「おはよう、今日も頼む」
今日のオペの終わりに流す曲を選択してくれるのは誰だと笑いながらオペの準備をする慶一朗にスタッフらが口々に己が今聞きたいと思っている曲名を上げ、今日の順番は自分だと手を高く上げるスタッフに笑みを浮かべる。
「オペが終わるまでに決めてくれ」
さあ今日もやるぞと、昨日ここを出た時とは全く違ういつもの彼らしい飄々とした表情にスタッフらも良い意味での緊張感が解れたのか、はいと唱和し己の責務を果たすために慶一朗の指示を聞き逃さずにオペに臨むのだった。
そんなスタッフらの動きのすべてを脳裏に叩き込もうとしているのかファルケの目が真剣になり、その様子を慶一朗が好まし気に見守っているのだった。
そんな丘の上にある総合病院の上を、冬の雲が夏とは違うと言いたげな顔でそれでもゆったりと流れていくのだった。
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