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慶一朗が愛車で出勤したビクトリア・ノースヒル・ホスピタルは、自宅から西に小一時間走った丘陵の上に立つ、この地区周辺の中核となる私立病院だった。
中核となる病院は周囲のホームドクター達の紹介を受けた患者が専門的な治療や手術を受けるために入院したりするため、病床数もこの近辺では有数の規模を誇る病院だった。
その病院の脳神経科のドクターとして勤務している慶一朗が今日の朝一番の手術を無事に終わらせ、患者を病室へと搬送するための準備に取りかかっているスタッフらに注意事項を伝えると、オペ室の隣の準備室で衣類を脱ぎ去り、ロッカーから取り出したシャツに着替えると準備室を出る。
主治医の慶一朗が出てきたことから、オペ室の近くで待っていた家族が彼の前に駆け寄り、自分達の愛する家族の手術はどうなったと固唾を飲んで端正な顔を見つめるが、オペは無事に終わったこと、また後ほど詳しい話をするがまずは病室に移動するのでそちらで担当の看護師から話を聞いてくれと、なるべく冷たくないように口調に気を付けつつ伝えると、胸の前で手を組んだ女性が短く祈りの言葉を口にする。
「ドクター・ユズ、ありがとうございました」
「いえ。あなたのご主人も頑張りました」
だから彼が目を覚ませば褒めてあげろと笑顔で伝えて踵を返した慶一朗は、エレベーターに乗り込んで上司のオフィスがある階へと向かうと、同じように朝一番の手術を終えたらしい同僚が声を掛けつつ駆け寄ってくる。
「ケイ!」
その声に足を止めて振り返り、隣に並ぶ銀縁眼鏡を掛けた怜悧にすら見える顔立ちの同僚、オーガスト・ヒルに労いの言葉を掛けるとお互い様だと返され、1年前のことを思えばこんなにも穏やかな気持ちでこの男と言葉を交わせるようになった不思議につい苦笑してしまいそうになる。
「部長から呼び出されたが、何の件か知っているか?」
「いや? カンファレンスの後にオペが終わったらオフィスに来いとしか言われてないな」
脳神経科は他科同様平日にはオペの予定や診察の予定がみっしりと詰まっていて、一件のオペの後に呼び出された理由を探るように口にするが、どちらも詳しい事情は知らないとしか答えられなかった。
廊下を進み角をひとつ曲がった先にオフィスが並ぶ廊下へと足を踏み入れると、ちょうどのタイミングでドアをノックしようとしている巨漢を発見する。
「リベリオ!」
慶一朗やヒルのもう一人の同僚であるリベリオ・パリスの名を呼ぶと厳つい肉体に相応しい厳つい顔が振り向き、二人も呼ばれているのかと軽く驚く。
「ああ」
脳神経科に所属するドクター三名を招集して一体何を言うつもりだとヒルが皮肉な笑みを浮かべ、さあ、何だろうなと慶一朗が肩を竦める横、パリスが一同を代表するようにドアをノックして返事を待つ。
「どうぞ」
聞こえてきた声にパリスがドアを開けて容姿も出身母国もバラエティに富んだ三人のドクターが入ると、中には応接セットに腰を下ろす二人の後ろ姿が見え、応接セットの向こうの大きなデスクにはテイラーが緊張気味に顎の下で手を組んで座っていた。
「お呼びですか?」
三人のドクターで最年少のパリスが今日は代表を務めると言いたげに口を開いてソファの横に向かい、ヒルと慶一朗が皮肉な思いと面倒くささから彼に一任して二人の人物が腰を下ろすソファとは別のソファに向かうが、その時慶一朗が眼鏡の下で一瞬だけ目を見張り、拳を握りしめてしまう。
慶一朗のその変化をテイラーは見抜いていたようで、咳払いをして皆に紹介すると告げつつデスクから立ち上がる。
「紹介しよう」
来週から僕たちのチームに入ってくれる事になった二人だとテイラーがソファに先に座っていた二人に合図を送ると、二人同時に静かに立ち上がり、コーヒーテーブルを挟んで三人のドクターと対面する。
「ホアキン・ファルケとダナ・アントショヴァー。長らく不在で皆には迷惑を掛けたが研修医としてそれぞれに着いてくれることになった」
「ファルケです。よろしく」
「アントショヴァーです」
ファルケと名乗ったのは研修医として駆け出しだと思われる青年で、その青年よりは少し年上に見えるアントショヴァーと名乗った女性が一礼するが、三人のドクターをゆっくりと何かを確かめるように見つめた時に慶一朗にだけやけに時間を掛けて見つめてくる。
眼鏡のブリッジを軽く押してその視線と決して視線を合わせないように細心の注意を払った慶一朗だったが、腹の奥底に記憶を封じている箱がゆっくりと開く光景が脳裏に浮かび、咄嗟に口を手で覆って顔を背ける。
「ケイ? どうした?」
「……何でもない」
大丈夫だ悪かったと気遣う声を掛けてくれる同僚に片手を挙げた慶一朗が一度深呼吸をし、何かに対して負けないと教えるように顔を上げると、今度はしっかりと彼女と視線を合わせ、スタッフ達に見せている飄々とした笑みを浮かべてひとつ頷く。
「ミス・アントショヴァー、そんなに見つめられると緊張するな」
「あ、し、失礼しました」
慶一朗の戯けた声にアントショヴァーが赤面して謝罪をし、申し訳ありませんと頭を下げる。
「二人の配属先はまだ決定していないんだ」
「そうなのか?」
ソファを囲んで立ち尽くす皆にテイラーが肩を竦めた後それぞれ座ってくれとソファを勧め、己はデスクに戻って受話器を取り上げる。
「今日はビクターが休みだから決められないけれど、彼が出勤してきたら週替わりでそれぞれのドクターについて貰おうと思っているんだ」
パリスのアシスタントをしているビクター・ロブソンが今日は休暇のために明日からのシフトになると説明をし、三人のドクターの顔を見た後二人の新人研修医を見る。
「二週間、まずはドクター・ヒルにミス・アントショヴァーが、ドクター・ユズにはミスター・ファルケについて貰う」
ちなみに、ドクター・パリスについては今後のオペの予定などを考えてシフトを組むとテイラーが伝え、皆の顔が一斉に上下したことに安堵の息を吐くが、その中でも慶一朗の手がずっと握りしめられている事に気付いていて、二人きりで話す必要性を覚えてしまう。
前のような過ちを繰り返す訳には行かないのだ。
その思いがテイラーに以前以上に己の部下に対する配慮をする様になり、それを部下達も皆何となくは感じ取っていた。
「今日は新しいチームに加入してくれた二人の紹介とうちのホープ達の紹介をしたかったんだ。忙しい所呼び出して悪かったね」
ああ、あと、二人には少し説明をしたけれど僕は皆を部下と言うよりもチームと思っている、チームワークが何よりも大切だとも思っているからチーム内でのコミュニケーションは大歓迎だけれど行き過ぎたそれはなるべく控えてほしいなと笑顔で皆の顔を見回すと、ヒルがぼそりと呟きを落とす。
「このメンツで何処をどうすれば行き過ぎたコミュニケーションを取れるんだ」
その呟きは以前ならば慶一朗が口にしそうな言葉だったために先を越されたと慶一朗が舌打ちをし、その横でヒルがにやりと笑ってパリスが呆気に取られるという最近増えてきた光景をテイラーの前で開陳してしまう。
「分からないぞ?」
テイラーがヒルの言葉ににやりと笑って頷くがその話題はこれで終わりだと言うようにヒルを見つめ、呼び出して悪かったと三人に再度詫びるが、やれやれと言いたげに立ち上がる慶一朗を呼び止めて三人同時に振り返られる。
「ケイ、少し残ってくれ」
「……居残りのお説教をされるようなことはしてませんよ」
「僕も説教をするつもりはないよ」
減らず口を叩かずに残れと命じられてひとつ肩を竦め、気の毒そうに見つめてくるヒルと頑張れと言葉に出してくれるパリスにありがとうと皮肉を込めた礼を言い、私達もこの後病棟の説明を受けるので失礼しますと立ち上がって一礼するファルケとアントショヴァーに無言で頷く。
皆が出て行ったオフィスは一気に静けさを取り戻し、慶一朗が重苦しい吐息を床に落としながら再度ソファにドサリと腰を落とす。
その手が微かに震えている事にテイラーが目を細め、よく我慢したとぽつりと呟くと慶一朗が些か乱暴な手つきで眼鏡を外してソファに投げ捨て、掌で目元を覆い隠す。
「二週間!」
「自信が無いか?」
新たな研修医としてやって来たアントショヴァーと二週間一緒に仕事をした後、本格的にヒルか己のどちらかに彼女が配属される事を思えば自信が無いかと、煽ると言うよりは心配を優先させた声でテイラーが問いかけ、その気持ちを理解している慶一朗が天井を見上げて嘆息する。
以前慶一朗の心身を壊すような事件に巻き込まれ、本人の血の滲むような努力と周囲の理解と長い時間を掛けてようやく事件の影を払拭できるようになってきたが、その事件の切っ掛けとなった出来事を彷彿とさせる彼女の視線が不愉快ーというよりは恐怖を覚えさせるものだったため、さっきは拳を握って堪えていたのだが、それをテイラーに見抜かれていた安堵にもう一度嘆息する。
「大丈夫だろう」
ただそれはこちらの心身が万全の状態であればだと断りを入れつつ顔を戻して心配そうに見つめてくるテイラーを真っ直ぐに見つめると、本当は男性研修医を採用するつもりだったがそちらは不採用にしたと人事の人間だけが知りうるような情報を教えられて放りだした眼鏡を掛ける。
「……名前が、ダメだった」
「?」
テイラーの顔に苦渋の決断を下したような色が浮かび、どう言うことだと無言で先を促すと、彼と同姓同名だったと教えられて眼鏡の下で目を限界まで見開いてしまう。
「別人だと分かっていても同姓同名は僕も厳しいと思った」
だから消去法で彼女を採用したと教えられて上司の判断にただ感謝の思いで黙って頭を下げると、お前を失うような事件は二度とごめんだと苦く笑われる。
この病院に勤務するようになってからは上司と部下の付き合いだが、それ以前から友人であり己の面倒を何くれと無く見てくれていた恩人であるテイラーにもう一度頭を下げた慶一朗は、そういった事情だから彼女との二週間を何とか乗り切れ、彼女とオーガストの相性が良ければお前には彼を配属させると、既にテイラーの中では決まっている人事について説明をしてくれる上司に頷き、オーガストも馬鹿ではないから以前のことから何かを学んでいるはずだと笑うとようやくテイラーの顔にも人なつこい笑みが浮かぶ。
「そうだなぁ。彼は優秀だからな」
「ああ。……それよりも、ビクターと一緒にオペをした事が無いが大丈夫か?」
彼は異動などさせずにリベリオに付けておいた方が良いんじゃ無いかと慶一朗が安堵の息を吐きながらソファの背もたれに腕を回して足を組み、テイラーもその様子から彼女の件について年下の友人の中で収まるべき場所に収まったことを知る。
「そうだよなぁ……ビクターとリベリオは離さない方が良いよな」
「ああ……リベリオが暑苦しい男だから皆気付いていないがビクターもかなり熱い男だぞ」
「うん……すまないがお前とオーガストの二人で二人の面倒を見てくれ」
三人でシフトを回すと言っていた言葉を撤回すると告げられてやれやれと息を吐いた慶一朗だったが、仕方がない兎に角やるだけやると告げて立ち上がる。
「今日は午後からは診察だけだ……少しゆっくりさせて貰う」
「ああ、そうしてくれ」
朝一番のオペはご苦労様だったと部下を労い掛かってきた内線電話に出るために受話器を取ると、静かに手を挙げて出て行く慶一朗に同じく手を挙げて見送る。
テイラーのオフィスを出た慶一朗が自然と零れる溜息をリノリウムの床に落とした後、背筋を嫌な震えが這い上がった事に気付き、口を手で覆いながら足早に階段を駆け上がり、ヘリポートも常設されている屋上へと出る。
その頃には慶一朗の顔は蒼白さを通り越して白くなり、コンクリートの地面に座り込んでしまう。
「……あ……っ!」
膝を着き額を地面に押しつけるように身体を丸め、体内からじわりじわりと這い出して己を絡め取ろうとするような感情を封じ込めるように両手で己を抱きしめる。
テイラーが気遣ってくれたことは嬉しかったが、己の心身だけではなく医者としてのキャリアも壊しかけた事件、その主犯である彼と同姓同名だと教えられては冷静でいろと己に命じることが精一杯だった。
だから誰もいない屋上へと逃げてきた慶一朗は、体の震えを何とか抑えようと両手に力を込めるが、震えは一向に収まらなかった。
このままでは午後からの診察に影響が出る、早く何とかしないとと焦る中、最後の手段だと己に言い聞かせている事を実行するためにスマホを取り出し、震える指で通話履歴の最も回数の多い番号に電話を掛ける。
「……っ……」
早く、早く出てくれ、でなければと焦りから更に血色を失った慶一朗の耳にハロという声が聞こえてくる。
「あ……っ!」
その声を聞くだけで失われた血が戻ってきたように感じ掠れ震える声でスマホに呼びかけると、それだけで事情を察したような声が大丈夫だから落ち着けと返してくれる。
『ケイさん』
そして彼だけが呼べる名を呼び、大丈夫だからと繰り返してくれる声に次第に体の震えが収まり、永遠にも感じる時間の経過後、肺を空にするような息を吐く。
『何があった?』
柔らかく問いかける言葉に前髪を掻き上げたとき、右手薬指が視界に入り、それが一気に現実に引き戻してくれる。
「……新しい研修医が来ることになった」
『そうか。少しは仕事が楽になりそうか?』
何しろあなたは脳神経科のホープだからと褒められてもJa.ともNein.とも言えずにいたが、その研修医に何か問題があるのかと問われ、短く息を呑んでしまう。
「男女だった」
『うん』
「……女が……ずっと、嫌な目で見てきた……」
その視線があの事件を思い出させたと素直に告白すると、そうかという慶一朗以上に苦痛を感じているような声が返ってきて、それに釣られて思わず本音を零してしまう。
「仕方がないのは分かっている……でも、嫌だ」
『うん』
耳に流れ込む穏やかに己の激情を受け入れてくれる声に次第に慶一朗の心も落ち着きを取り戻し、テイラーが配慮してくれているのも分かっているがと言い訳じみた言葉を呟くと、小さなキスがスマホを通して届けられる。
『ケイさん。部長の気持ちが分かるなら少しだけ頑張ってみないか?』
「……」
『今経験したばかりで混乱しているだけかも知れない。彼女も初めて見たケイさんに見惚れていたかも知れない』
「迷惑だ」
『うん。でも初めてあなたを見た時俺も見惚れてしまったからなぁ』
一目惚れをしてしまう人を否定できないと明るく笑われてその声に何だそれはと返したときにはさっきまで下を向いていた顔も気持ちも上を向けるようになっていて、声だけでも人の気持ちを上向かせる事の出来る伴侶に惚れ直してしまう。
「……リアム」
『うん、どうした?』
「……家に帰ったら聞いてくれるか?」
今のこの混乱した気持ちを、整理を付けられるかどうか分からない感情を纏めてくれるかと、本来ならば己で行わなければならないそれを手助けしてくれと告げると再度キスが届けられ、もちろんという何よりも信頼できる男の言葉が聞こえてきて腰が抜けそうなほどの安堵を覚えてしまう。
『まだ午後からも仕事があるけれど頑張れ、ケイさん』
朝自宅を出る前にも告げたが、あなたならば出来るとそっと背中を押されて顔を上げた慶一朗は、今声を聞くだけでも己に力を分け与えてくれる男がいる方角へと目を向け、その辺りに太陽を隠しているかのような光と熱を感じてしまう。
「……やってみる」
『うん。それでこそケイさんだ』
帰ってくればそれこそ好きなだけあなたが満足するまでハグしてやるしキスもしてやる、だからそれまではあなたでなければ出来ない事を頑張れと励まされて立ち上がり、上空を見上げて深呼吸をする。
「ああ」
『頑張ったケイさんにご褒美を用意しないとな』
「そんなに甘やかして知らないぞ」
お前は一体俺を何処まで甘やかすつもりだと苦笑すると、ケイさんが天に昇るような気持ちになるまでと突き抜けたような声で返されて絶句してしまう。
『慶一朗、あなたなら出来る』
その呼びかけも今では慣れてきたが、何よりも力を分け与えてくれるものだと改めて気付き、ああと頷くと電話を掛けたときとはまったく違う気持ちでじゃあと告げる。
『うん』
その時になって初めて名残惜しさの片鱗を感じ取り、周囲に誰もいないことを確認した慶一朗がスマホにキスをする。
「また後で」
『うん』
頑張れと励ましてくれる伴侶に自宅の時のように人差し指でもう一度キスを送ると、それを合図に通話が切れる。
一先ず役目を終えたスマホをポケットに戻して上空を再度見上げた慶一朗は、耳の奥から励ましてくれる声に約束するように頷き、ここに上がってきたときとはまったく違う心持ちで己の職場へと戻っていくのだった。
新しく仲間に入る二人の男女を紹介され、腹の奥底に沈めた記憶から何かが這い出しそうになったのを愛するだけではなく全面的に信じてくれている伴侶の力を借りて抑え込んだ慶一朗は、その後の仕事も午前中と何ら変わらない飄々よした様子でこなし、スタッフ達ともコミュニケーションを取っては患者の容態に胸を撫で下ろしたり心配に眉を顰めたりと、医師として忙しい時間を送っていた。
そして、今日の業務が終わりを迎えた時間、周囲の挨拶を背中で受けながら駐車場で待機している愛車に飛び乗り、エンジンを掛けている間も待ち遠しいと思いながらスマホを取り出してメッセージを送る。
それに対する返事は程良くエンジンが温まった頃にあり、それに目を通してシートベルトを引っ張ると愛車を駆って帰路に就く。
己の気持ちを抑えてくれた伴侶はもう自宅にいて気をつけて帰ってこいとメッセージを送ってくれていた。
その男の元に少しでも早く帰ろうとアクセルを踏み込み、帰路に就く車の流れに愛車を乗せて自宅に向かう。
冬の空は日が沈むのが早く感じられ、既に暗くなっている空の下を走らせて住宅街を進むと、日本では当たり前に見ていた気がする黒い中型犬を散歩させている長身の男が自宅方向から坂道を上ってくることに気付く。
それが近所に暮らすカップルのひとりで、彼が今連れているのが日本の柴犬だとリアムからいつか聞かされたことを思い出し、視線が重なったために軽く目礼をすると相手も顔を見知っているだけだがそれでも知っているからか笑顔で手を挙げてくれる。
そんな隣人達への挨拶をしながらガレージのシャッターを開けるリモコンを操作し、愛車を既に定位置に停まっている白の年季の入ったジープの横に滑り込ませる。
ガレージを閉めて車から降り立ちガレージから家に入ることの出来るドアを開けると、目の前のソファとその近くにあるエアロバイクに跨がっていたリアムが足を止めて笑顔でお帰りと出迎えてくれる。
その自分達にとっては日常になっているそれを目の当たりにし、膝から力が抜けるほどの安心感を覚えた慶一朗だったが、こんな所で膝を着くなんて許せないというささやかなプライドから踏ん張ると、バイクから降りてきたリアムが大股に近寄り、プライドだけで立っている慶一朗の頬にお帰りのキスをする。
「お帰り、ケイさん」
今日も一日頑張ったあなたに褒美を用意したと笑われ、汗が流れる首筋をタオルで押さえるリアムをじっと見つめた慶一朗だったが、汗だくであろうが関係ないと言いたげに分厚い胸板に突進するように寄り掛かり、微動だにせずに受け止められる。
「……リアム」
「うん」
その声で慶一朗の疲労度をある程度計れるリアムがひとつ掛け声を放つと慶一朗の痩躯を軽々と抱き上げ、驚きに見開かれる双眸に本当に今日は良く頑張ったと手放しで褒める言葉を伝える。
「……もっと」
「うん……ケイさんはケイさんにしか出来ない事をした。だから今からもう一つだけあなたにしか出来ない事をしよう」
世界中の何処よりも安心できる腕の中で息を吐いて力を抜いてハニーブロンドの髪に頬を宛がうと、あとひとつだけ頑張れと励まされて何だと気怠げに愛嬌のある顔を見下ろすと、晴れ渡った青空が似つかわしい笑みを浮かべられる。
「食後に絶品のフラットホワイトを飲ませてくれ」
「……そんな事で良いのか?」
「もちろん!」
頑張ったケイさんへのご褒美になるかどうかは分からないがと笑うリアムの頭に再度頬を宛がった慶一朗は、お前のためならご褒美だなと笑み交じりに告げ、ようやく笑ってくれたと笑われて目を瞬かせてしまう。
「今日はフィッシュアンドチップスにした」
だからそれを一緒に食べて食後のコーヒーを一緒に飲んでソファで好きなドラマを見ながら今日の出来事をゆっくりと昇華しようと囁かれ、うんと頷いてリアムの髪にキスをすると、帰宅後のルーティーンをまだ行っていないことを思い出し、洗面所に連れて行けと命じるのだった。
その後、リアムが全ての用意をしたディナーを二人で済ませ、これだけは譲れないからとフラットホワイトをいつも以上に丁寧に淹れた慶一朗は、マグカップを両手にソファに向かうが、後からやって来たリアムがクッションを肘置きに立てかけてもたれ掛かったため、コーヒーテーブルにカップを置いてリアムの胸をクッション代わりにもたれ掛かる。
家で二人きりの時には当然の態勢になった二人はどちらからともなく安堵の息を零し、リアムが今日一日のニュースを確かめようとテレビのスイッチを押し、慶一朗が少し体を起こしてマグカップのコーヒーを飲んで出来映えに満足そうに頷き眼鏡を外してテーブルに置く。
食事の際に今日の出来事を洗いざらい話してしまったために気分的にはすっきりした慶一朗だったが、ひとつだけ懸念があった。
自身では滅多に覚えていないが夢に魘されていることが今でもあり、それが今夜出るのではないかというものだった。
同じベッドで寝ているために隣で夢に魘された慶一朗が飛び起きれば当然ながらリアムにもそれが伝わり、せっかくの眠りを妨げてしまうとの危惧は慶一朗が口に出そうとする前にニュースを見ていたリアムが伝えた一言で霧散してしまう。
「大丈夫だ、俺がいる」
「……うん」
そのお前に迷惑を掛けるかも知れないという申し訳なさは事件後から長い時間を掛けて薄らいでいたが、不意に顔を出すこともあった。
だがそれをリアムへの信頼で抑え込んだ慶一朗は、マグカップをテーブルに戻し、リアムの体の上で寝返りを打って分厚い胸板に頭を預けると、大きな手が髪をゆっくりと撫でてくれる。
その心地良さに自然と瞼が下がり、夢を見ても良いからゆっくり寝ろとも囁かれ、本当に己の伴侶は世界一心の広い男だと改めて認識すると、優しい手の温もりとキスに小さな欠伸をしてしまう。
「……30分だけ、寝る」
「うん。起こしてやるから安心しろ」
せっかく淹れたコーヒーが冷めてしまうが今はこの安心感に包まれていたいと胸の内でのみ呟くと、全てを理解している男がそっと心地よい態勢を作り出してくれる。
日常生活で何もかも甘やかせてくれる伴侶に礼を言ったつもりの慶一朗だったがその言葉は彼の口の中でのみ呟かれたもので、何だと不思議そうな顔でリアムが慶一朗を覗き込むが、その時には小さな寝息が流れ出すだけだった。
翌朝、昨日と同じようにリアムに起こされてのそのそとベッドから抜け出した慶一朗だったが、今日はベティーではなくスクランブルエッグが食いたいとリクエストをし、シャワーを浴びると言い残してベッドルームの中にあるトイレに駆け込みシャワーを浴びると、髪から水を滴らせながら階下にやって来る。
それを見たリアムが呆れを通り越した顔で腰に手を当てて溜息を吐くが、水も滴るいい男と自ら宣言されてしまい何も言えなくなってしまう。
「……リアム」
「ん?」
その脱力から復帰した時を見計らってか、慶一朗が冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しながら名を呼び、どうしたと顔を上げる伴侶にはにかんだような笑みを見せる。
「今日から一緒に働くことになる、その間様子を見てみる」
誰と一緒に働くのかも言わずに呟かれる言葉の主語を正確に理解しているリアムが大きく頷き、さすがはケイさんだと褒めるようにひとつ手を打つ。
「……お前がいるから、大丈夫だ」
「それは嬉しいな」
慶一朗の信頼の証の言葉にリアムが大きく頷くと伴侶の手からジュースが入っているボトルをそっと取り上げ、二つグラスを持たせてそこにジュースを注ぎ、カウンターに並べている二人分の朝食を食べるために席に着けと背中をそっと押すのだった。
そして、昨日と同じように愛車のキーを手にした慶一朗を玄関前でキスとハグと自然と力を分け与える言葉で送り出したリアムは、昨日の仕事中の不可解な落ち込みからは復帰できた事、己を信じてくれているとの言葉と態度が嬉しくて、浮かれながら己の出勤の準備に取りかかるのだった。
そんな二人が暮らすシドニー郊外の住宅地を、季節がいつであろうと何ら変わることのない悠然さで風に身を委ねている雲が見下ろしているのだった。
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