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ベッドの中にいても冬の気配を感じるようになりだした6月、夏だろうが冬だろうが夜を越えれば朝が来るのは当たり前で、そんな当たり前を小さな欠伸1つでやり過ごし、微かに聞こえる穏やかな寝息へと視線を向けたのは、この家の主の一人であり寝息の主の伴侶であるリアム・フーバーというドイツ出身の壮年の男だった。
今はパンツ1枚だけだから余計に目立つ鍛えている身体から初対面の人達には身体が資本の仕事をしていると思われがちのリアムだが、職業はといえば規模としてはさして大きくはないクリニックに勤務するドクターだった。
趣味で鍛えている身体からは想像できない静けさでベッドから抜け出し、空いたスペースに慣性に従って転がってくる伴侶に惚けたような笑みを浮かべて髪にキスをし、起こさないように注意を払いつつベッドルームを出ると、全身に力を込めて脱力し身体に痺れを走らせて心身ともに覚醒させる。
「今日は何を食おうかな」
突き上げた右腕を左手で掴みストレッチをしながら階段を下りた後、玄関から一続きになっている庭への掃き出し窓までの広い空間をソファと本棚で区切り、その役割を果たしている本棚に飾られている自分達に縁の深い品々や人達の写真に顔を向け、その中の1つの写真立てを手に取る。
その写真は穏やかな顔で笑っているリアムの祖母のクララが写っているもので、写真の祖母におはようのキスをした後にそっと元の位置に戻し、ベルベットの小箱に当ててひとつを床に落としてしまう。
「おっと」
そっと拾い上げたそれを定位置に戻したリアムだったが、小箱を開けて中でひっそりと光る小さなリングを見つめて目を細め、これを受け取ってくれた人はまだ夢の中だと写真の祖母に笑いかけるが、その奥にあるその時の空気感も写したような集合写真の己と目が合い、その隣で珍しく満面の笑みを浮かべる端正な顔に無意識に笑いかけてしまう。
その集合写真は本棚の一角に相応しい自分達二人の結婚披露パーティーの時に参加してくれた皆と写したもので、中央にリアムとまだ夢の住人である伴侶がいて、二人を囲むように家族や友人達がいる幸せな時間を永遠に切り取ったものだった。
二人の間で些細だったり深刻だったりする問題が起きた時にこの写真を見れば二人が一緒にいる意味を思い出すことが出来ることからすぐに目に入る場所に飾る事にしたのだが、その写真とその後ろにある文字の書かれた一ダースのエッグハント用の卵や、喝采という名を持つ青いバラを見た後、素足のままリビングと玄関の間の己の趣味のエリアを通過して玄関のドアを開ける。
この家の玄関ポーチはテラコッタが敷かれていて、冬だが素焼きタイルの温かさが素足の裏に伝わってくるのを感じつつ玄関を出て右手の隣家との境の役目にもなっている板塀に設えてあるポストを開ける。
「おはよう。今日は冷えるね」
差し込まれている新聞を取り出したポストのドアを閉めたとき、板塀の向こう側から男が眠そうに挨拶をしてきて、その声にリアムもおはようと気軽に返す。
「それだけ鍛えていたら寒くない?」
「人より寒さは感じないかも」
でも寒いものは寒いと笑って隣家の住人であるエディと話していると、自宅前の舗道を黒い中型犬を連れた青年が通り過ぎようとするが、二人に気付いたのかこちらも眠そうな顔でリアムとエディにおはようと手を上げる。
「おはよう、ダニー。シバも元気か?」
黒い中型犬――最近こちらでも見かけるようになった日本原産の柴犬という犬種らしい――のシバにも笑いかけたリアムは、ダニーと呼んだ青年が小走りに駆け寄ってきた事に気付き、新聞を小脇に抱えてしゃがみこむ。
「今日も元気そうだな、シバ」
「元気すぎる」
パートナーが犬を飼いたい、柴犬が良いと言った癖に朝一番の散歩には行かないんだからと犬を飼っている人達の間では良くある不満を欠伸混じりに聞かされて苦笑を落とすが、シバは元気よく嬉しそうに尻尾を振っていて、楽しそうだから無碍に出来ないなと笑って立ち上がる。
「……犬か」
「どうした?」
「いや、ケイさん、犬は平気かなと思っただけだ」
隣家のエディはリアムが近所付き合いを割と大切に行うために二人の関係も良く知っていたが、ダニーことダニエルは近所の噂程度でしか知らず、リアムの伴侶の話題について特に口を挟むことは無かった。
「あ、ヤバイ。朝飯作らないと」
新聞を取りに来て話し込んでしまったリアムが朝一番のミッションの途中だと思い出して二人に手を上げて背中を向けるが、その広い背中に足下から不満の叫び声が1つ上がる。
「ほら、もう行くぞ!」
魂の叫びのようなそれに少し慌てたダニエルの声が重なり、それに気付いたリアムが振り返ってリードを引っ張られているのに動こうとしないシバの前に再度しゃがみ込むと、両手で耳の根元を撫で回す。
「ほら、ダニーと散歩に行ってこい」
その言葉が欲しかったのかそれともリアムからのスキンシップが欲しかっただけなのか、耳の付け根辺りを撫でられて甘えるような声を出した後、私は何もワガママなど言っていないと言いたげなすました顔になり、早く行くぞと言わんばかりにポカンとする3人の男たちに尻を向ける。
「……柴犬って面白いな」
「そうか?」
リアムの楽しそうな言葉にダニエルが信じられないと目を丸くしエディが無言で肩を竦めるが、皆それぞれ朝のルーティーンの途中だと思い出し、じゃあと手を上げて家に戻ったり散歩に向かったりするのだった。
まだ寝ていたいという子どもじみた顔を見せながらも、己にしか出来ない仕事をするために今日も一日働くつもりだと睡魔の残滓が色濃く揺蕩う目で起こしに来た愛嬌のある顔を見上げたのは、杠慶一朗という長年暮らしている国なのに自己紹介をするたびに必ず聞き返される氏名を持つ端整な顔立ちの男だった。
「おはよう」
朗らかな朝一番の挨拶としては最高の笑顔で頬にキスをされて頷いた慶一朗だったが、まだ眠いと欠伸をし、のそのそと掛け布団から這い出してくる。
その姿がナマケモノそっくりで、ミスター・ナマケモノと起こしに来た伴侶のリアムに笑われてしまい、じろりとその顔を睨むものの、睡魔の残滓が予想外のしつこさを見せていて、欠伸をしながらリアムの分厚い胸板に額をぶつける。
「今日の卵料理は何が良い?」
お望みのものを用意するからシャワーを浴びて今日も世界一イケメンなあなたになって来いと跳ね放題の髪にキスをしながら笑われ、黙ったままぐりぐりと頭を左右に振ると、くすぐったいと笑い声が上がる。
「……ベティーが食いたい」
一瞬でリアムの笑い声が止まる一言を呟いた慶一朗だったが、ベティーと呟き返されて己も一瞬で睡魔の残滓を吹き飛ばす。
「ああ、違う、女なんか食いたくない」
卵料理で何という料理だったか忘れたがどこかのカフェの店員がそう言っていたと、内心の焦りを少しだけ滲ませながらヘイゼルの双眸を見上げると、何かに気付いたように目が見開かれた後で頬に嫉妬したことを許してくれと願うようなキスをされる。
「ああ、分かった。……そのカフェの店員に一言言ってやりたいな」
エッグベネディクトをベティーと略すなと慶一朗の細い腰に腕を回しながらリアムが珍しく舌打ちし苦々しく呟くと、機嫌を直せ王子様と隣から穏やかな声が聞こえてくる。
「エッグベネディクトで良いか?」
「ああ。シャワーをしている間に作れるか?」
「もちろん」
どこかのベティーならばいざ知らず、俺が知っているものであれば作れると、先程の一言をいつまでも根に持ちそうな顔でリアムが頷くが、さっきは言葉だったが今度は態度でも機嫌を直せと伝えるようにその頬にキスをする。
「ベティーを作ってくれるお礼に今日は新しく買った豆でロングブラックを淹れてやる」
「うん。楽しみにしている」
ベッドルームから出た二人だったが、慶一朗は起き抜けの素っ裸のままバスルームに向かい、そんな伴侶の頬にキスを残してリアムは階段を下りていく。
「リアム」
「ん?」
階段を下りていくハニーブロンドに呼びかけ、どうしたと振り仰ぐ顔に今日も絶品の朝食を食わせてくれてありがとうと先に礼を言った慶一朗は、軽く驚いた後に嬉しそうな笑みを浮かべるリアムに頷き、バスルームのドアを開けてシャワーブースでまだ少しだけ体内に残っている睡魔を洗い流すのだった。
短い廊下の先にある洗面所で鏡の中の己とその後ろで毎朝毎朝何が楽しいのか分からないが、嬉しそうに髪を束ねて今日の服に合わせたゴムで纏めているリアムに苦笑する慶一朗に鏡の中で視線を合わせたリアムがどうしたと問いかける。
「毎朝面倒だろう?」
「もう慣れたなぁ」
以前とは違って後ろ髪を伸ばすようになった慶一朗だったが、生活不能者と友人達に揶揄われるほど何もできない男が己の髪を束ねる事など出来るはずがなく、髪を伸ばすことが決定されたその日以降、毎朝リアムがこうして慶一朗の髪を梳りいつの間にか色取り取りのものが用意されているゴムで丁寧に束ねるようになったのだ。
己ならば天地がひっくり返ってもそんな面倒なことをしないと思っているからか、毎朝面倒だろうと思いつつもリアムがこうして髪の手入れをしてくれる朝の時間が己にとっては思いの外貴重な穏やかな時間だと今では慶一朗も理解している為、お前がやりたいのなら好きにしろと素直ではない言葉をリアムに告げて好きにさせていたのだ。
「前髪も少し伸びてきたか」
「そうだな、目に掛るようになってきたな」
まだ大丈夫だから次の休日にでも前髪を切ってくれと笑うと了承の返事が整えられた頭にキスで届けられる。
「良し」
リアムのその満足そうな声に慶一朗も満足し鏡越しに礼を言った後、くるりと振り返って満足げな顔の伴侶の鼻の下と顔の輪郭を覆う髭を指で撫でる。
「……やっぱり髭を生やしたお前は世界一イケメンでセクシーだな」
「それはケイさんだろ?」
俺はイケメンでもないしセクシーさなんてないと心底本気で思っている顔のリアムの鼻をギュッと摘まんだ慶一朗は、目を白黒させる伴侶にうっとりとした顔でそう思っているのはお前だけだと返し、羞恥の色を纏ったヘイゼルの双眸に嫣然と笑いかける。
「今日は早く帰れると思う」
「うん」
「晩飯にマッシュポテトが食いたい」
「マッシュポテトか……肉を焼くか」
メインではなくサイドディッシュを先に決められたことから思案するリアムの顎髭をもう一度指で撫でた慶一朗は、お前のチョイスに任せるから食わせてくれと再度伝えると、思案気に少し尖る唇にキスをし、そろそろ出かける時間だとそれで伝えるのだった。
玄関のすぐそばに置いた小さなラックの上が二人の愛車のキーの定位置だったが、そのキーを守るようにテレビボードの前から一体のフィギュアが出張してきていた。
そのフィギュアをそっと撫でて己の愛車のキーを手にした慶一朗に背後から、最近家じゅうにそのフィギュアが増殖している気がすると苦笑交じりの声が投げかけられ、好きなんだから良いだろうと開き直りとも取れる言葉を口にしつつ振り返る。
「上のバスルームにもいつの間にか5体も窓に並んでいるし……」
そしてそのドラマに精通していない己には分からないが、きっと敵の一体だろうと思われる天使のような姿形をしたフィギュアが最近では洗面台の上でこちらの動きを見張っていると眉尻を下げると、瞬きをするなと慶一朗がドラマ内での有名な言葉を口に出してにやりと笑みを浮かべる。
「シャワーブースにはロボットみたいなのもいるし……」
ああ、この家は気が付けばきっとケイさんの好きなSFドラマの敵に占領されてしまうんだと嘆くリアムにさすがに少しだけ申し訳なさを覚えたのか、大丈夫だ、青い電話ボックス型のマグカップを洗面所に置いてあるだろう、あれは敵じゃないと取り繕うように告げると、じろりと湿り気を帯びた視線に睨まれてしまう。
「それもそのドラマのグッズだろうが」
「……ま、えに買おうか悩んでいた新しい工具セット、買っても良いぞ」
取引だと言わんばかりに慶一朗が身振り手振りでリアムが以前から欲していた工具セットを購入しても良いと伝えると、湿り気を帯びていた視線が一瞬でからりと晴れ渡った笑顔になる。
「ダンケ、ケイさん」
「……」
今泣いた烏がもう笑ったとしか言いようのない見事な感情の切り替えについていけなかった慶一朗だったが、ひとつ息を吐いた後、満面の笑みを浮かべるリアムの腰に腕を回して肩にそっと額を押し当てる。
「ケイさん?」
「……今日も頑張ってくる」
だから仕事に行く前にやる気が出るように褒めて褒めて褒めまくれと、己にしか見せない甘える仕草にリアムの目尻が少しだけ赤くなるが、そっと白皙の頬を両手で包むと、眼鏡越しになってしまっても綺麗な色素の薄い双眸を真っ直ぐに見つめる。
「ケイさんなら大丈夫。きっと今日のことはあなたにしかこなせない事だから」
だからいつものように真っ直ぐに前を見ろ、俯きたくなったら俯いても良い、でも気が済めばまた顔を上げてくれと、心の底から溢れ出すような思いをそっと伝えたリアムは、その言葉を受け止めているように目を閉じる慶一朗の額にキスをし、そこに己の額を重ねて同じように目を閉じる。
「……お前も、リアム」
俺の気持ちを上げてくれて信じてくれるお前も、お前を頼ってやってくる患者の拠り所になってやれと慶一朗が返して離れた額にキスを返す。
「うん」
「……行ってくる」
お前よりも少し遠い所に勤務先の病院があるために仕方がないが一足先に出る事をキスで伝えた慶一朗は、愛車のキーを手の中でひとつ跳ねさせると、毎朝毎朝出勤前にいつまでも名残惜しいなどとやっていられないのに止められないと己を少しだけ笑い、置いてけぼりをくらわされた犬のような目で見つめてくるリアムに片目を閉じて人差し指を己の唇に宛がい、小首を傾げるリアムに届けと人差し指を弾いてキスを投げる。
「……気を付けて、ケイさん」
「ああ」
人差し指からのキスが行ってくるの最後の合図になっている為、諦めの溜息を吐いたリアムがそれでも笑みを浮かべてガレージに出るドアを開ける慶一朗を見送り、ガレージのシャッターが上がる音と慶一朗の愛車のエンジン音が聞こえたあとに遠ざかるのを確かめると、己も出勤するための支度にとりかかるのだった。
| 第1話 Ordinary days. |
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