Die Sonnenblumen-3-

Über das glückliche Leben(UGL)-Lion & Uwe -

 生まれ育った街とはまた違う、どこか長閑な空気が覆う街をホテルの窓から見下ろし、ここにやってきて何度も聞かされた、大きな田舎という言葉が本当に相応しいと皮肉げに呟いたのは、足が悪いためにステッキを手放せない初老の男だった。
 亜麻色の髪はふさふさとしていたが、年を取った証に色が白くなり始め、茶色の双眸には年月がもたらした澱の様なものが揺蕩っていた。
 澱の底から見上げる世界は眩しさと共に消し去ることの出来ない羨望感と幾許かの寂寞感を男の顔中に広げている様で、そこには初夏の晴れ渡った青空を振り仰ぐにはふさわしくない陰が生まれていた。
 真夏の日差しに比べればまだまだ柔らかなものだが、光を受ける足元には確実に濃い影を生み出していて、己の足元を何気なく見た男は、安物の絨毯に広がる陰の中から得体の知れない怪物が今まさに生まれようとしている錯覚に囚われ、揺れる身体を支えるためにステッキを握りしめるものの、それだけでは支えられずに背後のベッドに座り込んでしまう。
 若い頃の出来事のせいで足が悪くなり、そのお陰で同年代の者と比べて働ける場所が限られてしまい、年老いた母にも苦労をかけてしまっていたが、今更足の悪さを嘆いたとしても時間が戻る訳でも、足を悪くした原因がなくなる訳でもなかった。
 諦めの溜息を金に置き換えればきっと今頃誰にも負けないほどの財産を築いていたであろうが、溜息はただ空気を震わせるだけで、今もまた空気を震わせた男は、前髪を掻き上げて諦めとは違う溜息を吐いた後、ベッドに手をついて立ち上がろうとするが、その手に新聞が触れ、残念な気持ちとほんの僅かの安堵が胸に溢れる。
 この街にやって来る前、映画祭の共催でもある新聞社に手紙を送ったのだが、今日は前夜祭、明日は授賞式だというのにまだそれが記事になっていなかったのだ。
 その事で得られる安堵感と失望感と己の感情を纏められないもどかしさを感じつつ再度新聞を手に取った男だったが、ベッドサイドから機械音が流れ出した事に気付き、寝転がりながら音の発生源である携帯を手に取る。
 「ハロ」
 『ハロ、パパ。そっちの天気はどう?』
 「ああ、晴れていて気持ち良い。ベルリンはどうだ?」
 電話の相手はベルリンで大学に通う、論文に取り掛からないといけないから今回の旅行には一緒に行けないと、一人旅をさせることを詫びてきた心優しい娘だった。
 『曇ってるわ。今日は一日研究室にいなきゃいけないから憂鬱よ』
 「そうか。ヘルガおばさんのインビスでカリーヴルストを買って食べればどうだい?」
 『そうね、そうするわ。おばさんも私の顔を見ないと心配だって言ってたし』
 大学の入学が決まると同時に友人達と一緒に暮らす事にしたため独り立ちした娘だったが、週末になれば一緒に食事をし、共通の趣味である映画を見たり、足の悪い父親とゆっくりと散歩をしたりと、傍から見れば家族仲が良い親子だった。
 独り立ちした娘が良く小腹を満たすために訪れているインビスは古くからある店で、ベルリンの壁が崩壊する前から同じ場所で時代が変わってもそれだけは変わらない、空腹を抱えた若者達に手頃な値段でお手製のカリーヴルストを食べさせてくれていた。
 その店の主人であり名物おばさんとして有名なヘルガのそれを食べておいでと優しく囁く男の顔には先ほどのような陰りはなく、娘が男にとって癒しの存在であることを教えていたが、いつ帰って来るのと問われて携帯を少しだけ握り締めてしまう。
 『パパ?』
 「そうだね、用事が済めば帰るから、心配しなくて良い」
 それよりも、老人ホームにいるおばあちゃんに顔を見せてやれと告げ、分かったと素直に返事をされて胸をなで下ろす。
 用事が済めば帰ると告げた男だったが、愛している、今日も学校で友人達と仲良く楽しくしなさいと、娘が幼い頃からずっと伝えていた言葉–己の人生は母以外誰も信じられなかったが、娘にだけはそんな寂しい人生を送って欲しくない思いから伝えていたそれを、今朝は特別な思いを込めて囁いた男は、通話を終えて携帯をベッドに投げ出すと、両頬を軽く叩いて気分を切り替えるように大きく息を吐いて顔をあげる。
 その顔には先ほどのような優しさは一切なく、己の目的を果たすためならば最愛の母や娘を悲しませ、不幸のどん底に落としても悔いはないとの決意が顔中に広がっていた。
 男が腰を下ろしているベッドの足下に荷物台があり、その上に小振りのスーツケースが広げられ、衣類の上に無造作に投げ出された黒光りしている拳銃と瀟洒なデザインの封筒が窓から入る初夏の日差しを浴びていたが、それを一瞥した男にも日差しが当たり、眩しそうに目を細める男の顔に先ほどよりも濃い陰が翼を広げているのだった。

 

 

 ハーロルトがひまわりとノアの情報を抱えてウーヴェのクリニックを訪れ、リオンと良く似た男とその周囲の人たちの情報を得て頭を悩ませていた頃、リオンは会社でソワソワしながら己のデスクで仕事をしていた。
 そんなリオンにレオポルドが、祭り前の子供みたいだから少しは落ち着け、そんなに楽しみかと呆れ顔で諌めていたが、今までほとんど意識することのなかった映画祭だが、有名人が文字通り山ほど集まる会場に初めて行けるのだ、楽しみに決まっていると、楽しみが芸能人と直接会える事以外にもあると教える顔でデスクの端にサイン帳を積み重ねながらリオンが言い返す。
 「・・・仕事にならんな」
 「今日は仕事をしている方がバカでしょ」
 うちもスポンサーになっている映画祭、今日は前夜祭で明日は授賞式なのだ、パーティーだ、有名人が山ほど集まるパーティーだ、サインをもらって売り払ってやると、悪魔じみた事を呟くリオンにお前が本当に楽しみにしているのはそれかと呟いたレオポルドは、本当に楽しい人なのだからと口元に手をあてがって心底楽しそうに笑う妻へと溜息を吐くが、気分を切り替えるようにデスクを拳で一つ叩くと、ボディガードを頼むとリオンを見やる。
 「Ja」
 流石にその言葉に対しては真摯な返事をするリオンだったが、ついさっき届いた旧友からの一報を思い出し、ハンガーラックに吊るしてある己のタキシードへと顔を向ける。
 「リオン?」
 「や・・・ナントカって女優に脅迫状が届いたって本当なんですかね・・・」
 「新聞社に届いたと言っていたな」
 「Ja」
 つい先ほど、今よりは少しマシな態度で仕事に臨んでいたリオンに、前職での同僚であり仕事を離れた今でも付き合いのあるコニーから、ハイディ・クルーガーを殺傷するという脅迫状がこの街に本社がある大手新聞社に届けられたという連絡が入ったのだ。
 差出人の情報等は不明だったが、脅迫状が投函されたのは数日前のベルリンらしく、今あちらの警察に連絡を入れて協力を仰いでいる所だとも教えられ、その女優は命を狙われるほど悪いことをしたのかと、リオンが前職を彷彿とさせる顔で問い返し、華やかな世界に生きているのだ、裏では何があるか分からないとコニーに返され、そんなものかと納得していた。
 その脅迫状の内容が実行されてしまえば街をあげて盛り上げている映画祭が中止になるだけではなく、スポンサーであるバルツァーも被害を被るかもしれなかった。
 女優に危害が加えられないように警備がつく事、昨今の事情からテロ対策の専門家も応援に来ることも教えられたが、バルツァーの会長夫妻と社長がゲストとして招待されているだろうから一応お前も周囲に気を配っていてくれとも教えられ、リオンにとって色々な意味で大切な人達であるレオポルドとイングリッド、そしてギュンター・ノルベルトをしっかりと守れと言外に告げられて一瞬だけ真摯な顔で頷いたリオンは、己を見つめる二対の双眸に安心させるように太い笑みを見せて通話を終えていたのだ。
 「まあ、その女優については警察に任せておけば良い」
 お前は俺とリッドを守っていれば良いと、リオンを秘書として雇っている最大の理由が発揮されないことを祈りつつレオポルドがイングリッドの横に腰を下ろすと、リオンを手招きして今仕事をしても効率が悪いからもう今日は仕事をするなと太い笑みを浮かべ、ハンガーラックで出番を待っているタキシードへ目をやる。
 「あのタキシードはウーヴェのお気に入りの店で誂えたものだったな」
 「久しぶりに引っ張り出してきたけど、腹回りも特に窮屈じゃなくて良かった」
 結婚して幸せ太りしていたらどうしようと、その気配を微塵も感じさせない己の腹を見下ろしつつ二人の向かいに腰を下ろしたリオンは、女優や映画監督からサインを貰ってネットで売ればどれくらい稼げるだろうかと砂糖菓子で出来たような甘い夢を口にするが、バルツァーの関係者だと分かると評判が落ちるからサインを貰っても売り払うのは禁止だとレオポルドに釘を刺されて一気に苦虫を噛み潰したような顔になる。
 「チッ。親父のケチ」
 「なんだと?」
 「小遣い稼ぎしても良いだろうが」
 「あら、結構な給料を出しているはずなのにまだお小遣いが足りないの?」
 夫と息子の伴侶の険悪になりつつあるやりとりを黙って聞いていたイングリッドがこの時初めて口を挟み、お小遣いが足りないのかと素朴な疑問を問いかけて来るが、金はあればあるほど嬉しいとリオンが素直に返す。
 「確かにそうねぇ」
 「だろ?だってさー、オーヴェをハニーって呼ぶだけで1ユーロ貯金させられるんだぜ!?」
 どうして最愛のウーヴェをハニーと呼んだら張本人に金を徴収されるんだと、憤懣やるかたない顔で拳を握るリオンにレオポルドとイングリッドが顔を見合わせるが何も返す言葉が思い浮かばず、ただ気の毒そうに溜息をこぼす。
 「前は警部にタバコを売って小銭を稼いでいたけど、ここじゃあ誰もタバコを吸わねぇし」
「そんなに小遣いが欲しいか?」
「欲しいに決まってる!小遣いが増えれば増えるだけオーヴェをハニーって呼べる!」
 その結果が豚の貯金箱から硬貨が溢れかえることになろうとも呼びたいのだから呼ぶのだと、ウーヴェのいない場所で高らかに宣言するリオンに今度は明確な意思を持って何も言い返さなかった二人だったが、ノックに気づいてレオポルドが入れと声をかける。
 「社長が戻りました」
 「そうか。ヴィルマ、社長の用意ができれば会場に行く。後は頼んだぞ」
 「はい」
 映画祭の関係者と打ち合わせをしていた社長が戻ってきた事を秘書のヴィルマが伝え、その言葉にレオポルドが頷き後のことを頼むと返す横でイングリッドが彼女を手招きする。
 「ヴィルマ、誰かのサインが欲しいなら言いなさい。リオンがもらってくれるそうよ」
 「げ!ムッティ!!」
 俺がサインを貰うのは俺の小遣い稼ぎの為だと、ソファの上で飛び上がるリオンを尻目にイングリッドの耳に口を寄せたヴィルマは、ハイディ・クルーガーがノミネートされている映画を撮った監督のサインが欲しいと囁き、イングリッドが満面の笑みでリオンに伝える。
 「だそうよ、リオン」
 「~~~むぅ」
 仕方がないとは言わないが盛大に顔で語った後、気分を切り替えて笑顔で頷いたリオンは、大切なことを思い出したと呟き己のデスクに置いたままのスマホを取りに立ち上がる。
 「どうした?」
 「前夜祭の様子ってテレビで放送するよな?」
 俺が映るかもしれないから録画して置いて欲しいとウーヴェに頼むのを忘れていたと、本当に浮かれている顔でスマホを耳に宛がったリオンは、回線の向こうから聞こえて来る声に若干の恨みがこもっていることに気付き、ウーヴェが見えないのを良いことに不気味な笑みを浮かべて周囲の男女の表情を凍り付かせる。
 「まーだ拗ねてんのかよー。あれはお前が悪いんだからなー」
 だから昨夜の事は絶対に謝らないからなと、今朝も同じやりとりを繰り返した事を否が応でも教える言葉を少しだけ不機嫌に伝えたリオンだったが、どうしたと問われて表情を切り替える。
 「ああ、今日前夜祭に親父とムッティのボディガードで行くけどさ、もしかしたらテレビに映るかもしれないから録画して欲しいなーって」
 どんな感じに映っているのかを後で見てみたいと笑うリオンに、数時間後の事件のことなどこの時予想できるはずもなく、己の姿を客観的に見る良い機会だと笑って念押しをするが、ウーヴェの声が若干色を変え、何か問題でも起きたのかと問いかけてきた為、流石に拗ねてようが不機嫌であろうが勘の良さは損なわれていないと肩を竦め、コニーから得た情報を手短に伝えると、心配そうな空気が伝わってくるものの、小さな吐息の後にお前がいるから大丈夫だろうと、リオンに全幅の信頼を置いている声が聞こえてきて、うん、大丈夫だとリオンもそれに応えるように太い笑みを浮かべる。
 「だからさ、録画してくれよな」
 『分かった。帰りは遅いんだな』
 「そうだな。また適当に電話する。ああ、兄貴も一緒だから」
 『分かった。────リーオ』
 「ん?」
 『有名人からサインを貰って後で売るとか言うなよ』
 「・・・・・・なぁんでオーヴェまで同じ事言うんだよー」
 せっかくの俺の小遣い稼ぎをみんなで寄って集って邪魔しやがってと盛大に不満を訴えるリオンに呆れた溜息を聞かせたらしいウーヴェだったが、機嫌を直せとキスをし帰る前に電話をくれとも伝えればリオンもそれですっかり機嫌を直したらしく、同じくスマホにキスをする。
 「分かった。また後で、ダーリン」
 『ああ』
 俺がテレビに映ったら見ててくれてよなーと、最高に期待している顔で笑うリオンを、わざわざテレビなどで見なくても毎日見ているのにまだ見ていて欲しいのかと言いたげな顔でレオポルドが目を眇めるが、それはそれこれはこれだとある意味最強の言葉を言い放ち、ハンガーに吊るしてあるタキシードに着替えるために移動する。
 「さっきウーヴェが悪いと言っていたが、何かあったのか?」
 「へ?ああ、昨日俺と良く似た男が知らない女と一緒に歩いているのを見て、俺が浮気したって勘違いして不機嫌になったから口論しそうになった」
 タキシードに手早く着替えながらリオンがなんでもないことのように答えるが、ウーヴェと喧嘩など珍しいんじゃないのかと問われて肩を竦める。
 「んー、最近は無いなぁ。ああ、でも新婚旅行でもあったから、そう珍しいことでもねぇかな」
 それよりもこの蝶ネクタイの結び方が分からないと、情けない顔でくるりと振り返ったリオンは、いつもならばウーヴェがどれほど文句を言いながらでもネクタイを結んでくれるのにと更に情けない顔でイングリッドをみると、本当に仕方がないと言いたげな顔でイングリッドがリオンを手招きする。
 「私にこんなことをさせるなんて、レオでも無いことよ」
 「へ、そうなのか?」
 イングリッドの言葉に朗らかに感謝の言葉を伝えたリオンにレオポルドが嫌味も通じないのかと頬杖をつくが、ムッティはそんな嫌味は言わないと憎たらしい顔で舌を出されて目を瞠る。
 「はい、出来ました」
 「ダンケ、ムッティ!」
 感謝の気持ちを言葉と頬へのキスですませたリオンは、ドアが開いてこちらも盛装に着替えているギュンター・ノルベルトに馬子にも衣装かと嫌味な笑みを浮かべられて歯をむき出しにする。
 「マジでこの親子は嫌味を言わせれば世界一だよな!」
 「どうした?」
 「さっきウーヴェにも色々言われたから拗ねているだけよ。さあ、年に一度の映画祭を楽しみましょう」
 ギュンター・ノルベルトとリオンが顔を合わせれば始める啀み合いを笑顔で制したイングリッドは、制止することすらしなくなったレオポルドに笑顔でこの後の楽しみを訴え、有名人との挨拶は少しだけ面倒だがそれでも楽しみだと笑い、頭を下げるヴィルマに後は頼んだ事、ヘクターと二人でテレビ中継でも見ていなさいと笑いかけて会長室を出て行くのだった。

 

 

 街を挙げてのお祭りは春と秋のビール祭りを含めていくつかあるが、初夏のこの時期はドイツ国内外で一年の間に作られた映画の出来を競うお祭りで盛り上がっていた。
 カンヌやベルリン、ヴェネチアと言った三大映画祭には及ばないものの、我が街の映画祭といった手作り感から徐々に大きくなってきたそれを街の人たちも娯楽が増えてきた現代でも楽しみにしていた。
 映画祭の期間は街中の映画館で新作旧作海外作品に関わりなく様々な映画が上映され、映画好きな人達や時間潰しを探している人たちに提供されていた。
 その祭の空気を、前夜祭が行われる会場周辺に近付けば否が応でも感じ取り、仕事にならないと言われた気持ちが完全に祭りモードに切り替わってしまう。
 車から真っ先に降り立ったリオンの背中にギュンター・ノルベルトがそんなに楽しみなのかと子供をからかう声を掛けるが、振り返ったリオンの顔に浮かぶ笑顔と双眸の感情にギャップを感じて密かに眉を寄せる。
 その勘の良さにさすがはウーヴェの兄貴だと感心したリオンは、特に何も言わずにイングリッドが車から降りるのを手伝い、素早く周囲の様子を窺う。
 その動きは刑事の頃にクランプスと罵倒していた上司から叩き込まれたもので、まさかここで役に立つとはと感心しつつレオポルドの傍に立ち、ギュンター・ノルベルトに合図を送る。
 「・・・リオン、まさかとは思うが・・・」
 ギュンター・ノルベルトが顔を寄せて不安そうに囁く言葉にリオンが無言で頷くが、タキシードの前をそっと開けて脇を見せると、不安の色が濃くなるものの、ある種の信頼へとそれを昇華させたようにそっと頷く。
 「お前に任せる」
 「Ja.兄貴は安心して親父やムッティと祭りを楽しめよ」
 こんな時のために自分は雇われているのだと、レオポルドの秘書という立場にカモフラージュされたそれを彷彿とさせる顔で笑うリオンの肩を信頼の証に一つ叩いたギュンター・ノルベルトは、明日の授賞式の会場ともなる特設会場に敷かれたレッドカーペットの周囲に集まるマスコミや招待客らを見回し、見知った顔をいくつも発見する。
 「ああ、ゲープがいるな」
 「ゲープって新聞社の?」
 「ああ。・・・さっき父さんが話していた脅迫状の件、彼に聞いてみるか」
 「そーだな。ただ、正直な話、親父やムッティやあんたに危害が加えられなければどうでも良い」
 俺の本領は愛する人が守ってくれと頼んだ人たちを守り抜くことだと、刑事時代を彷彿とさせる顔で前髪をかき上げるリオンの横顔を見惚れたような顔で見つめてしまったギュンター・ノルベルトは、頭を一つ振って咳払いをし、とにかく彼に少し話を聞いて来ると、別の知人と話している両親に伝えて手を挙げてゲープに合図を送る。
 その背中を見送ったリオンは、イングリッドとレオポルドの傍にさりげなく立ち、周囲をぐるりと見回すが、少し離れた場所に懐かしい顔を見つけて顔に笑みを浮かべる。
 「親父、コニーと警部がいる」
 「そうか。仕事中だからあまり話は出来ないか」
 ウーヴェの誘拐事件の時に世話になって以来の再会にレオポルドも嬉しそうに目を細め、知人と話を終えたイングリッドにも囁き掛ける。
 「そう、ここでもお仕事なのは大変ね」
 あの脅迫状が無ければ自宅で楽しんでいられたのかしらと気の毒そうな表情を浮かべるイングリッドに、ヒンケルが映画を観に行った話を聞いたことがない、そもそも映画など理解出来るのかと、元の上司を扱き下ろすリオンがチラリと仕事中のヒンケルを見ると、己の言葉が聞こえていたかのように睨まれてしまい、つい癖で首を竦めてしまう。
 「さすがはクランプスだな。地獄耳だ」
 「・・・お前は懲りるという言葉を知らんのか」
 離れていても扱き下ろすリオンに心底呆れた顔でレオポルドが呟くが、夫妻共通の友人のカメラマンが手を挙げながら近づいてきたため、リオンが一歩引くように下がる。
 レオポルドとかなり親しいのか、気兼ねすることなく手を差し出して握手をし、イングリッドには恭しい挨拶を大袈裟に行ったそのカメラマン-名前をジーノと言う-は、一歩身を引いたリオンをチラリと見ると親しげな笑みを浮かべるが、次いで眉を寄せて顔中に疑問を浮かべる。
 「・・・ノア・クルーガー・・・?」
 「は?」
 「何を言ってる、ジーノ。これは俺の秘書のリオンだ」
 ノア・クルーガーなどと言う男ではないぞと、レオポルドが旧友の言葉を否定し、もうボケたのかと太い笑みを浮かべるが、いや、よく似ているから見間違えたと上の空で返されてイングリッドと目を見合わせる。
 「リオンがそのノアと言う人に似てるの、ジーノ?」
 「ああ。最近名前が売れてきた若手カメラマンでな、親父も同じカメラマンだ」
 ノア・クルーガーとリオンが口の中で音を転がし、その転がり方を記憶していることに気づいて小首を傾げると、その拍子に脳内で一つの単語がカラカラと音を立て、腰の上で無意識に手を組んで親指を回転させ始めたリオンだったが、ゲープとの会話を終えて戻ってきたギュンター・ノルベルトが両親の友人がいる事に笑顔になる。
 「ジーノ、久しぶり!」
 「おお、ギュンターも来ていたんだな」
 「ああ」
 家族三人が旧友と久闊を叙している横ではリオンが脳内で目まぐるしく思考を働かせているが、昨日ウーヴェとリアが見間違えた男がそのノア・クルーガーで、その男と腕を組んで楽しそうにしていた女が脳内でカラカラと音を立てる名前の女優だとすればと仮説を組み立てた時、彼の父親はヴィルヘルム、母親はハイディ・クルーガーという女優だとジーノが呟いた瞬間、脳内で組み立てられた仮説が揺らぐことのない土台を得て頭を擡げる。
 「・・・その、ノア・クルーガーの母親はハイディ・クルーガー?」
 「ああ、助演女優賞にノミネートされているだろう?」
 ジーノの手がリオンの背後の柱に飾られている映画のポスターを指し示し、皆の視線がそちらへと向くと、パネルに飾られたポスターの中、主役の男女の次に大きく写っている女性と目があったような錯覚に陥ってしまう。
 ハイディ・クルーガーという、リオンやレオポルドらにとっては映画の紹介やゴシップなどでしか見聞きすることのない女優の名前を今日は随分と耳にすると思案した時、周囲にざわめきが沸き起こり、少し離れた場所でカメラのフラッシュが瞬き始める。
 「ああ、ハイディとヴィルヘルムが来たぞ」
 その歓声やカメラのフラッシュに気付いたジーノが顔を向け、彼の声に釣られてリオンもそちらを見ると、自分たちがいる特設会場に上がる為の階段下に敷かれたレッドカーペットの上を身体のラインを見せながらも品を失わない、初夏に相応しいカラーのドレスに身を包んだハイディ・クルーガーが同じくタキシードで正装している夫のヴィルヘルムと腕を組んでマスコミの取材を受けていた。
 「あれがハイディとヴィルヘルム。ノアの両親だ」
 「ふぅん」
 そのノアという男を見たことがないから良く分からないし二人の顔も見たことがないからはっきりと見てみたいと目を細めるリオンにジーノが頷き、あとで挨拶をするから一緒に来るかとリオンを誘うが、レオポルドの側を離れられないからと、肩を竦めて誘いを断る。
 「そうか、まあ今日明日ここにいるのなら顔を合わせる機会があるだろう、その時にでも挨拶をすればいい」
 両親がここにいるということはノアも来る可能性が高いとも告げ、少し離れた場所から名を呼ばれたジーノがレオポルドとイングリッド、ギュンター・ノルベルトにまた後でと手をあげて立ち去ると、三人が一斉にリオンを見つめる。
 「なんだ?」
 「いや、ジーノも有名なカメラマンだぞ、サインを貰えば良かったのに」
 「げ!忘れてた!!」
 ギュンター・ノルベルトが囁いた映画の名前を聞いてリオンの蒼い目が見開かれ、どこに行ったまだ間に合うかと周囲を見回すものの、ジーノの姿は見えず、ちくしょうと、ウーヴェの前では滅多に口に出すことがなくなった言葉を吐き捨てる。
 「他にもスターはいるわ。その人達からサインをもらったらどう?」
 イングリッドが慰めるようにリオンに笑いかけて肩の埃を払うように手で肩を撫でると、優しいのはムッティだけだとリオンがレオポルドとギュンター・ノルベルトを睨む。
 「うるさいぞ」
 レオポルドの言葉にリオンが憎たらしい顔で舌を出し、ああ、いつもの光景だといつからか思えるようになった事をイングリッドが胸中で呟くが、ノア・クルーガーと、リオンに良く似た男の名を口の中で呟き、息子に訝るように見つめられてなんでもないと笑みを浮かべるが、インタビューを終えたクルーガー夫妻が階段下から見つめている事に気付かず、懐かしい声に呼び掛けられて顔を振り向け、旧友の笑顔を見出して同じく笑みを浮かべるのだった。
 

 

 ハーロルトのひまわり畑の撮影後、トラムの周遊チケットをフル活用して少し遠出していたノアは、前夜祭で両親と待ち合わせている時間が近づいていることに気付き、慌てて己が宿泊しているホテルに戻っていた。
 ひまわり畑から少し街中へと戻った辺りをトラムが通り過ぎたとき、車窓に小さな教会らしき建物を見かけたが、最寄り駅の停留場やその周囲の壁などに乱雑な落書き-決してそれらはグラフィティとは呼べない低レベルなもの-がなされていて、目にするだけでも不愉快だとサングラスの下で目を細めていたノアだったが、その停留場の横を何事もない顔で落書きを一瞥する事なく路地の奥へと進んでいくシスターの背中に心が惹かれてしまい、今さっきトラムの車内から見かけた教会の関係者だろうかと思案し、時間があれば教会へ足を向けてみようと決め、通り過ぎたばかりの停留場の名前を地図で見つけて印を付ける。
 トラムの中は映画祭を心待ちにしていることが誰の目にも分かる程で、映画祭を記念して様々な企業が協賛セールをしていたり、映画館ではオールディーズと称される映画の上映をやっていたり、所謂単館でしか上映されないようなものも彼方此方の映画館で上映している広告などが車内に貼られ、通り過ぎる停留場の風防パネルにも広告が流れていた。
 前夜祭では両親の友人達とも久しぶりに会えるが、それが楽しみだと顔がにやつくのを何とか堪え、ホテルの最寄り駅に到着したことに気付いて慌ててトラムから降りる。
 ホテルでタキシードに着替え、何があっても手放せないカメラバッグを肩に担いだノアは、ドアの横の姿見の前で身だしなみを確認し、特段褒められないが貶されることもないと己に囁くと、招待状をバッグに入れたか再確認し、伸び放題になっている母親譲りのくすんだ金髪を一つに束ねて前髪を掻き上げ、よしと気合いを入れてホテルの部屋を出る。
 そして、映画祭の熱気に充てられた人達が行き交う特設会場近くにまでタクシーでやって来た彼は、レッドカーペットと彼方此方で光るフラッシュや盛り上げてくれる音楽を聴きながら受付を探すと、セキュリティの警備員に求められるままに招待状を見せ、空港などとは比べられないほど簡単なセキュリティチェックを受けて中に足を踏み入れる。
 そこは、己が職場にする自然界からはかけ離れた人工的な美が溢れる世界で、少し前までの彼ならば敬遠していた場所だった。
 だが、今回母が長年望んでいた助演女優賞にノミネートされたことから、珍しく両親と行動を共にすることにしたが、それならばと映画祭前に他の仕事をこなしていたのだ。
 映画祭が終わり自宅兼スタジオに戻ってからの作業を終えれば納品できるまで仕事を進めていたノアは、今日と明日は純粋に己のため、両親のために楽しもうとも決めていた。
 どちらかと言えば人工物よりも自然を愛する彼だが、目の前に広がる光景にはただただ目を奪われてしまう華やかさがあり、人物の写真を滅多に撮らないはずなのに思わずカメラを構えてしまう。
 報道陣の許可証を得ていないノアがカメラを構えていると当然ながらスタッフの目にとまり、撮影を遠慮して欲しいと注意を受けるが、近くにいた売れ出しつつある俳優が、そんなノアに手を差し伸べるように笑顔で彼の両親の名をそのスタッフの耳に囁きかける。
 「…助かったよ、クルト」
 「どういたしまして」
 お礼ではないが今度一緒に飲みに行こうと、若手俳優の中では母に可愛がられているクルトのウィンクに力なく返した彼は、両親はどこにいるのかと周囲を見回すものの姿を見つけることは出来ず、一緒にいた女性と談笑し始めたクルトに断りを入れて母を見なかったかと問いかけると、間も無く到着することをさっき小耳に挟んだと教えられ、おざなりに礼を言って背伸びをしつつ再度周囲へと目を向ける。
 その時、特設会場の壇上、見慣れた背中を発見して声を掛けようとするが、一瞬のうちに人の波に飲まれてしまい、その背中を見失ってしまう。
 「ウィルだったよな…?」
 ノアが声を掛けようとしたのは父の背中だったが、父にしてはがっしりとしていた事、髪も己と同じように首筋の上で一つに束ねていた事から、父ではなく良く似た他人だったのだろうと己を納得させる。
 それに、もしあの背中が父だとすれば、隣に必ずいるはずの母の姿がないことも不思議だった。
 己も驚くほどの仲の良い両親が、パーティーなどの華やかな場所に二人でいるときに一人きりになるとは思えず、そのことからもやはりさっき見たのは別人だろうと結論づけたノアは、肩を叩かれて振り返り、そこに一時期父のスタジオでスタッフとして働いていた先輩カメラマンが笑顔を浮かべている事に気付いて手を差し出す。
 「久しぶり」
 「そうだな」
 母のノミネートを祝う為にここにやって来たが、己に関係する人達とも久闊を叙すことが出来る意外な幸福に素直に顔を輝かせたノアは、先輩の問いに色々と答えながら特設会場の壇上に肩を並べて向かう。
 「今日は先生や奥様は?」
 「ああ、もうすぐ来るって聞いた」
 「そうか」
 二人に会うことが出来れば、彼女のノミネートの祝いと己のそれも祝って欲しいと笑う先輩カメラマンにノアの蒼い目が丸くなるが、彼の姿に気付いた女性が遠慮がちにノアに笑いかける。
 二人揃って今回の映画祭に招待されたこと、彼女が監督した映画がノミネートされた事を自慢げに教えられたノアだったが、先輩が自慢したくなる気持ちも理解出来た為、嫌味ではなく素直な気持ちから、ほぼ同時に顔を赤らめる二人に祝福の言葉を伝え、撮影の苦労などを聞き、両親と会うまでの時間を何とか過ごすのだった。

 

 

 ノアに少し遅れてホテルからタクシーで前夜祭の会場にやって来たのは、警察から脅迫状についての話を聞かされ、今日と明日の警備についての説明を受けて浮かれ気分が沈んでしまっていたウィルとマリー夫妻だった。
観客と招待客とそれらを一目見たいと集まる野次馬の中を何とかくぐり抜け、少し離れた場所から警備している私服刑事へと視線だけを向けたウィルの口から溜息が零れるが、マリーがそんな夫の腕をぎゅっと掴んで視線を己へと向けさせる。
「マリー?」
「せっかくのお祭りよ、ウィル。楽しみましょう」
警察が教えてくれた脅迫状の事など忘れても大丈夫、ちゃんと警備してくれるからと、警察もただの税金泥棒ではないだろうと少女の顔で笑う妻に夫も己を納得させるように一つ頷く。
そろそろ日が沈み始め、前夜祭が本格的に始まる時間になったが、特設会場を数え切れないほどの照明が照らし、足下のレッドカーペットを重厚なものに見せ始める。
太陽の下では安っぽく見えるそれも照明効果で高価な意味のあるものに見えるのか、野次馬がひっきりなしに会場を取り囲んでいる特設のフェンスから中を覗き、見知った芸能人を見つけては顔を紅潮させて立ち去ったり、彼や彼女が移動するのに合わせてフェンスの外から移動していた。
その様子に感心していたウィルだったが、視線をスポットライトが集中する会場の壇上へと向け、そこにメディアを通して見知った人達や直接顔を合わせる人達を発見し、なんだか奇妙な安心感を抱いてしまうと苦笑すると、ここで知った顔を発見すると安心すると妻に返され、己だけではないそれについつい安堵の笑みを浮かべる。
赤い絨毯が敷かれた階段をいくつか登った先の特設会場、その入口付近で見慣れた背中を発見したウィルは、初めてこの会場を訪れた時の様に頬を紅潮させている彼女の腕を突いて注意を向けさせると、見慣れた背中を指差す。
 「あそこにノアがいる」
 「・・・本当ね。いつ来たのかしら」
 この会場で待ち合わせをしているが一体いつここに来たのかと、訝りつつも息子が先に会場入りしている事に安堵の笑みを浮かべ夫を見上げたマリーは、あの子の横にいるのは女王じゃないのかと夫が囁いた事に首を傾げて夫の蒼い双眸を覗き込む。
 「女王ってどこかの国の女王様?」
 「いや、バルツァーの会長夫人だ。あの横にいるのは彼女の夫と息子だろう」
 「バルツァー?へぇ・・・ノアったらいつバルツァー夫人と知り合ったのかしら?」
 人の山の向こう、階段の上とはいっても大小さまざまな頭の向こうに見え隠れする為にはっきりと顔を見ることは出来ないが、それでもそこで話をしているノアが親しげにしていることから、女王とまで称される稀代の実業家の夫人やその伴侶と一体いつ知己を得たのかと感心してしまう。
 「バルツァー会長夫妻とも知己となれば色々お仕事が増えるかもしれないわね」
 「そうだね・・・でもあの子はコネを嫌うからね」
 だから自分の力で頑張るといってバルツァーの援助は断るかも知れないと、息子の気性を良く知る父が苦笑すると、それ以上に知る母が微かな自慢を込めて大きく頷く。
 「そうよ。あの子は人のコネなんて使わないわ。使う子だったら今頃あなたの名を使ってもっと悪どいことをしているわ」
 実力で勝負をするのではなく、他人を蹴落として己の地位を確保するような卑怯な男などではないと、己の息子が自慢だと言う代わりに笑みを浮かべる妻の頬にキスをしたウィルは、映画専門雑誌の記者が取材を受けて欲しいとマイクを向けた事に気づき、妻の仕事に支障が出ないように一歩引いてその様子を見守っているのだった。

 

 警備員やハイディ・クルーガーに送りつけられた脅迫状の存在からピリピリしつつ警備をしている警察や映画祭のスタッフが、何事も起こらないように願いつつ有名人見たさに集まる野次馬を整理していたが、その中に、ステッキをついた盛装の初老の男がいて、人集りに四苦八苦しながらもなんとか会場の入口付近へと近付いていた。
 「セキュリティチェックをしています」
 入口で招待状をチェックするスタッフの声に頷き、クラッチバッグを開けて中を見せる準備をした男は、金属探知機のチェックを上手く躱せるかに鼓動を早めていたが、男の番になった時、バイトのスタッフらしき青年が他のスタッフに呼ばれてそちらに意識を向ける。
 関係者や招待客など多くの人々をチェックしている為気が緩んだのか、それともそもそもやる気が無かったのか、男の前後数人がチェックを素通り出来てしまう。
 その運の良さに胸を撫で下ろし、悠々とセキュリティを通り越して人だかりの中から少しだけ離れた壁際に向かうと、忍ばせた黒光りする拳銃をジャケットの上から撫でて溜息をこぼす。
 この後、己の目的を果たした時、あのバイトの青年はきっとセキュリティチェックをしなかったことでお咎めを受けるだろうが、すまないと思いつつも己の計画を実行する為には誰かが辛い思いをしなければならない、それが人生だと、男が生きて来た中で得た厳然たる真理を口の端に皮肉げに浮かべた笑みで表し、どうかこの先の人生が幸多からんことをと、あの夜、荷物か何かのように車から投げ出された夜に粘着性のある声が囁いた言葉を脳裏で蘇らせながら呟くと、赤い絨毯のとその上を歩くことが許された人たちを守るための柵の外から何食わぬ顔で彼女らを見ながらターゲットの姿を探す。
 そして男の視界にインタビューを終えたばかりのターゲットの背中が飛び込み、その隣に常に付き従うような男の背中も発見すると、遠い昔の粉雪が舞うクリスマスイブの夜の景色が一瞬で目の裏に浮かび上がる。
 「────!!」
 あの夜、己の前で仲良く腕を組んでミサに参加する顔で教会に入っていった二人だったが、いつまで経っても姿を見せず、日付が変わって夜が明けても戻って来なかった。
 クリスマス休暇が開けた頃、特徴の無い顔の警官が話を聞きたいと言ってただ驚く男を無理矢理バンに乗せ、どこをどう走っているのかすら分からなくなるほど街中をぐるぐると回った後に連れ込んだ施設の、未だに夢に見るリノリウムが貼られたあの部屋で、思い出すだけでも怖気が走る拷問を受けたのだ。
 その、男の目の中に宿っている澱の根源が一瞬にして目の裏から脳裏に広がり、男の身体が周囲の人が気付くほど震え始める。
 「大丈夫ですか?」
 そばにいた若い女性が心配そうに男に声を掛けるが、男の意識はその声を捉えることができず、少し離れた場所で華やかな世界に身を置く二人を睨みつける。
 彼女が夫と腕を組んでレッドカーペット上を移動し階段を登り始めた時、男の目が二人から少し離れた場所で談笑する懐かしい背中を捉え、身体の震えを忘れて呆然と目を見張ってしまう。
 男が捉えたのは、くすんだ金髪を首筋の上で一つに束ね、タキシードを着て楽しそうに笑っている背中で、それは、いなくなることなど想像もしていなかった頃は毎日一緒に笑っていた在りし日の友の背中だった。
 あの夜、自由を手に入れたいからと、古くからの友人ではなく付き合い出したばかりの彼女の手を取って物心両面で分断していた壁を乗り越えた二人が、望み通りに自由を手にし、今、己が決して得ることの出来なかった自由や名声、地位を手に入れて光り輝いている。
 この差は一体なんだ。
 粉雪が舞うあの夜を境に己の人生はガラリと変化をしたのに、そのきっかけとなった彼らは何故名声という華飾で着飾り、一点の曇りもない顔で人生を謳歌しているのだ。
親友だと思っていた彼から何も聞かされず、付き合い出して日の浅い女に親友を奪われたにもかかわらず、秘密警察の聴取で足を悪くしてまで彼を庇った己は一体何なんだと、あの夜以降考えたくは無いがどうしても考えてしまう疑問を脳裏に浮かべた男は、人生の半分以上をかけて蓄積させたドス黒い感情が一瞬で胸に溢れるだけではなく、出口を求めて体内を駆け巡って脳味噌や視界を血の色に染めたことに気付く。
視界を血の色に奪われた感覚的なものが衝動というものとなって全身を駆け巡った結果、突き動かされた手がジャケットの内側に潜り込んで素早くそれを引き抜くと同時に、一体どこからそんな声と力を出せるのか、後に振り返った時に己でも理解できない力に突き動かされて大声で叫ぶ。
 「ハイデマリー!!」
 階段を今まさに登り終えようとしているターゲットの名を叫んだ男は、周囲の喧噪や驚愕が一瞬で静かになるだけではなく、レッドカーペットに象徴される遥か天上から地上を睥睨している–様に男は感じた–世界から、粉雪の舞う夜と直結する様な視線で見つめられ、震える手で取り出した拳銃を構えると、どこか冷静な頭で安全装置を外す。
そして、男の脳裏に雪が止んだ世界が広がり、その世界を終わらせる様に引き金を引くのだった。

 

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2019.04.22
さ、主要メンバー勢揃いです。頑張れーみんなー


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