ドイツ国内でも有数の人口を誇り文化も歴史もあるはずの街だが、どこか垢抜けない、良く言えば長閑な、悪く言えば田舎の空気が抜けない街だと周囲を見回したヨハンが呟くと、同行していた男が自嘲気味に肩を竦める。
『大きな田舎だと称される街だからな』
その言葉に籠る雑多な思いを僅かでも感じ取った彼は、それでもあの辛気臭い独特の空気が街全体を覆っていた祖国よりは遥かにマシだと己と彼女を鼓舞し、確かにそうだと同意してくれる好奇心に紅潮した頬にキスをする。
『仕事を斡旋している人とは明日の午後に会う事になる。それまではここの教会で世話をしてもらってくれ』
着の身着のままに近い状態でこの街へとやって来た三人は、当然ながら今夜の宿すら無く、所持金と言えば難民収容施設で細々と手伝いをした結果の少しの現金だけだった。
その少ない現金で宿を取って食事をすればあっと言う間に所持金が底をつくことが同行した男にも分かっているからか、知り合いがいる教会に話をしてあること、そこの教会は余程の悪党でもない限りは迎え入れてくれるはずだからと、彼女の手に住所が書かれたメモを握らせる。
『そこにブラザー・ヤーコプがいる。その人を頼れ』
男が教えてくれた人の名を口の中で何度も繰り返して頷いた彼は、彼女の手からメモを受け取ると、二人から少しだけ距離を置きながらも全神経を集中させている顔で見つめて来る長身痩躯の青年へと身体ごと振り返る。
『ヨハン、一緒に行くか?』
『ああ、行く』
亡命者を受け入れていた施設で知己になり、年頃も近いからか徐々に親しくなったヨハンという名の男は、自由になれたはずなのになぜ己の思う通りにならないのか、それが納得できないと言いたげな顔で彼を見つめて来るものの、今は見ず知らずの人の好意に縋るしかない現実を必死に受け入れているようだった。
亡命するまではそれなりに己の意思で出来る限りの事はして来たのだろうが、この国では自分達は最底辺の人達と同等の暮らしを余儀なくされ、周囲の目も祖国では感じることのなかった、福祉の力を借りなければ生きていけない人達に向ける冷たいものと同じだった。
その屈辱感、卑屈になってしまいそうな思いをグッとこらえ、新たな街で夢を掴むために何でもすると、この街に向かう間の列車でも彼女と誓い合った言葉を胸に刻んだ彼は、好奇心の底に見え隠れする不安を彼女の青い瞳の中に見出すが、大丈夫だと頷いてメモを握りしめる。
教えられた教会はトラムでも行けるそうだが、つい今し方見上げた教会と同じ名前であることに気付き、そちらもさぞかし立派な教会なんだろうと肩を竦めるヨハンに微苦笑し、兎に角今夜の宿を確保する必要があるからと、ここまで同行してくれた男と明日の午後の待ち合わせ時間と場所を再確認し、トラムの停留所に向けて三人で言葉数少なに歩いて行く。
そんな三人の背中を初夏の暮れ行く太陽が心配そうに照らしているのだった。
三人が辿り着いた聖母の名を戴く教会は、つい先程見た立派な教会に比べることすら失礼に感じてしまう様な、はっきり言ってしまえば、みすぼらしい、今にも壁や窓が壊れてしまいそうな程古くて小さな教会だった。
教会の前に三人で立った時、少し離れた場所から何かが壊れる物音が響き、次いで言い争う男女の声が響いてくる。
三人がいた、肌にまとわりつくような空気が漂っていた祖国でも時折聞いた物音だったが、今耳にしたのは一瞬どこの国の言葉かすら理解出来ないほど乱暴な言葉で、生理的に感じた恐怖に彼女の顔から好奇心が搔き消え、浮かんだ不安を解消したい思いから彼の腕にしがみつく様に身を寄せる。
『ウィル、本当にここ・・・?』
『あ、ああ、そう、みたいだ』
彼女が不安に顔を染めつつ周囲の様子を窺う様に見回し、動く物を見つけた恐怖から更に身を寄せれば、彼が安心させる様に肩を抱いて撫でる。
『何を怖がっている。これぐらい日常茶飯事だっただろう?』
そんな二人をヨハンが小馬鹿にしたように顎を挙げてさぁ行くぞと二人の背中を軽く小突くが、その手が小刻みに震えていた事を彼は見抜きつつも何も言わずに頷き、自ら先頭に立って肩で歩くヨハンの後ろからついていく。
三人が辿り着いた古い今にも壊れそうな教会がある地区は、観光客やこの土地以外の出身者ならば迷い込まない限りは入って来ない、ガイドブックなどには絶対に掲載されない様な地区で、先程三人が耳にした物が壊れる音や人が争う様な声などはヨハンが強がりで吐き捨てたように確かに日常茶飯事だった。
彼方此方が破けているフェンスを肩越しに振り返り、小さな聖堂の横にある、これまた小さな母屋らしき建物へと足を向ける。
玄関のドアに取り付けられている金輪を何度か叩くと内側から声が聞こえ、程なくして三人とさほど年の変わらないシスターが顔を見せる。
『どちら様ですか?』
『あ、あの・・・ブラザー・ヤーコプは・・・』
シスターの声にヨハンが緊張に震える声を発するが、聞かされていた名前を告げると、シスターの顔に一瞬にして親しみのこもった笑みが浮かぶ。
『ヤーコプはあいにく留守ですが、ゲオルグの紹介でいらっしゃった方ですね?良く来てくださいました』
寝る場所とささやかな食事ぐらいはありますよと笑顔で促されたものの、まるで古くからの知り合いを迎えているかのようなシスターの態度に極度の緊張と疲労を覚えていた身体が素直になったらしく、どうぞと踵を返すシスターの誘いに頷き、外に比べれば少し明るい程度の暗い廊下を無言で進んでいく。
キッチンの様な部屋に通された三人はテーブルに案内されて腰を下ろすが、他の部屋から微かに聞こえてくる大人と子供の声が気に掛かり、ついついシスターの動きを目で追ってしまう。
『・・・みんな、そろそろ寝ますよ』
廊下から顔を出して隣の部屋に呼びかけ、それに対して素直であったり不満であったりの返事があるが、どこからか子供達がドアの前に立つシスターの元に駆け寄ると、おやすみの挨拶とキスを交わしていく。
『お休みなさい、マザー』
『良い夢を見るのですよ、リック』
『うん』
五人ぐらいの子供一人一人に挨拶とキスをし、夢を見ても怖く無い、大丈夫だからと安心させるシスターを感心顔で見守っていた三人へと子供達は好奇心を抑えきれない顔を向けるが、肩の下まで伸ばした黒髪を指に絡めながら一番幼いと思われる子供がしゃがみ込むシスターの頬にキスをする。
『お休みなさい、マザー』
『ええ、お休みなさい。きっと今日は良い夢を見ますよ、ゾフィー』
『・・・うん』
だからお休みなさいと再度伝えた子供は、キッチンから出る直前に三人を一瞥し、己の寝室へと向かうために廊下へと出ていく。
『お待たせいたしました。スープとパンですが、どうぞ召し上がってください』
『ありがとうございます』
シスターの言葉に何度目かの礼を言い、別のシスターが用意してくれたスープとパンは、昨日までいた難民施設で食べていたものでさえも贅沢に感じるほど質素で、スープは小さな野菜が控えめに浮いているだけで、パンも驚くほど固く、いつ焼いたのかと疑いたくなる程だった。
『・・・大きな教会は教区の補助があったり寄付があったりしますが・・・』
初めていらっしゃった方にする話では無いですが、ここは見ての通り孤児院も併設していて、いつも資金と人手が不足していますと、水をマグカップに注いで三人の側に椅子を置いて腰掛けたシスターの言葉に今まで不安そうに眉を寄せていた彼女が頭を一つ振って長いくすんだ金髪を左右に振ると、難民施設で世話になり教会に通って覚えた食事の前の祈りをするために手を組む。
『ありがとうございます』
『明日の朝にはヤーコプが戻ります。今夜はゆっくりして下さい』
『ありがとうございます』
難民施設で食べていた料理の方が豪華に思えるここの暮らしは質素という言葉では表せないものだったが、そんな中でもこうしてヤーコプを頼って来た何処の馬の骨とも知れない自分達を快く招き入れ、食事と寝る所を与えてくれるシスターの笑顔に思わず泣きそうになった彼女は、固くてなかなか噛み切れないパンをスープに浸して柔らかくし、味も何もしないそれを今まで食べた中でも最高の料理だと言いたげに咀嚼する。
いつか演技で賞を取ると誓った彼女の演技は流石に立派なもので、男二人はただ呆気に取られていたが、早く食べなさいと小声ながらも強い口調で促されて何度も頭を上下に振り、彼女と同じ様にパンを浸して食べ始める。
そんな三人をシスターがマグカップを両手で持ちながら、教会の名に相応しい笑みを湛えて見守っているのだった。
己の母が迫真の演技をしているポスターがトラムの停留所に設置された縦型の広告パネルの上を流れて行く様を、慣れているものの気恥ずかしい思いから僅かに視線を逸らしながらも視界の端に捉えて足を組んだのは、明日いよいよ映画祭の授賞式だと緊張気味の母の頬にキスをし、ホテルで行われる前夜祭の時間まで観光していると言い残してホテルを一人で出たノア・クルーガーだった。
間も無く午後の鐘が何処かから聞こえて来そうな時間、トラムは朝の通勤ラッシュが過ぎて人も疎らで、このまま何処に向かおうかとガイドブックを開くが、気になった停留所で降りても良いかと、開いたばかりのガイドブックを閉じる。
やって来たトラムに乗り込み、周遊チケットを持っている気安さから車窓を楽しんでいたノアだったが、郊外に近付きつつあることを車窓の風景から気付き、次の停留所が見えた為に運転手に合図をしてトラムから降り立つ。
カメラマンとして実力を認められつつあり、ヨーロッパを中心とした様々な地域で仕事をするようになって来たが、両親が一時期暮らしていたこの街に来るのは初めてだった。
だから両親よりも先にこの街へとやって来ていたノアは、周遊チケットをフル活用するように興味が惹かれるところ、気の向くところへと足を運んでは自分でも驚くほどの写真を撮影していた。
仕事道具としても趣味としても大切なカメラを肩に担ぎ直して一歩を踏み出したノアは、なだらかな斜面の彼方此方に藁の束が点在する畑を眩しそうに細めた目で見つめるが、視界の端にぼんやりと黄色の色彩を捉えて顔を自然と向ける。
ノアの視界の先、ちらほらと黄色と緑のコントラストが広がっていたのだ。
菜の花がまだ残っているのだろうかと思案しつつその黄色の方へと足を伸ばした彼は、畑に近づくにつれそれが己が想像していた花よりも大振りの花である事に気付き、目の前の光景に言葉を無くす。
それは、いつだったかスペインやイタリアなどのヨーロッパ南部を訪れた際に目にした、一面のヒマワリ畑だった。
まだ時期が早いのか、5分咲程度の花が多かったが、それでも太陽を精一杯浴びるように頭をもたげている花々を目の前に、これが満開になった時の美しさはどれほどだろうと、畑を囲う柵に手をついてぼんやりと考えるが、気がつけばカメラを構えて撮影を始めていた。
写真が趣味であり仕事である事の幸福を味わいつつも満足するまで撮影をしたノアは、もっと近くで撮影したいという思いに突き動かされて柵を乗り越えそうになるが、少し離れた場所から呼ばれてびくりと身体を竦めてしまう。
「リオン?何をしているんだ?」
「!?」
投げかけられた声は彼が知らない名を呼ぶものだった為に周囲を見回し、己以外誰も近くにいない事を確かめたノアは、恐る恐る声の主へと顔を向け、柵を乗り越えそうな体勢である事を思い出して慌てて飛び降りる。
「あ、その・・・」
「・・・何だ。あんた、リオンじゃないのか」
彼が振り向いた先にいたのは、長身の彼よりもさらに背が高くがっしりとした体格の男で、農夫である事を簡単に予想させるシャツとオーバーオールなどから、もしかしてこの畑の主人かと問いかけるノアにそっけなく頷くが、誰かと見間違えたのかと上目遣いに問いかけると、男が胡乱な者を見る目付きで睨むように見て来る。
「ああ、友人と良く似ていたから間違えた」
俺の畑の柵に乗って何をしているのかが気になったと苦笑らしき表情を浮かべた男にノアが肩を竦めるが、ひまわり畑を久しぶりに目にしたのでつい撮影してしまった、もし可能なら中に入って撮影をして良いかとカメラを見せながら問いかけ、今から出荷の準備をするからその邪魔をしないのなら構わないと、これもまたそっけなく返事をされてくすんだ金髪を束ねた尻尾のような髪を上下に振る。
「あんた、カメラマンか?」
「ああ、動物が専門だけど、時々風景も撮ったりするな」
「そうか」
興味があるのか無いのか咄嗟に判断が付かない返事に戸惑いつつも、柵の一部を開けて畑に入る男の広い背中に慌てて呼びかけた彼は、面倒臭そうに振り返る男に中に入っても良いかと再度確認を取り、顎でついてこいと示されたため、慌てて荷物を担ぎ直して後を追いかける。
「俺は、ノア・クルーガー。ウィーン出身のカメラマンだ」
「・・・ハーロルトだ。ハールで良い」
「そっか。ハールは花専門の農家か?」
「ああ」
季節の花々を育てて出荷していると、手頃なひまわりを見つけては鎌で切って行く様を見ていたノアだったが、その作業がついつい珍しくてカメラを構えてしまう。
「俺なんか撮っても楽しく無いぞ?」
「そんな事ないさ」
楽しいかどうかは俺が決める事だと、ファインダー越しに見つめて来るハーロルトに笑いかけたノアは、気にせずに作業をしてくれと伝え、働く男の背中を構図の端に納めた写真を撮ったり、咲き始めたひまわりを写したりと、ハーロルトと同じぐらい忙しく動き回る。
二人の別々の作業がほぼ同時に終わりを迎えた頃、初夏の太陽は文字通り頭上で燦々と輝いていて、その眩しさにノアが腕をあげて日差しを遮るが、刈り取ったひまわりを束ねていたハーロルトが本当に良く似ていると呟き、ノアの視線に応えるように目を細める。
「俺の友人のリオンだ」
「ああ、さっきも言っていたな・・・そんなに似てるか?」
そのリオンという友人と俺はそんなに似ているのかと、汗を腕で拭いながら問いかけるノアに変わらない素っ気なさで頷くハーロルトだが、お前よりもう少し年上だが、後ろ姿が本当に良く似ていると顎に手を宛てがいつつノアの天辺から爪先までを見つめ、少しだけ彼に居心地の悪さを覚えさせる。
「髪の色と目の色も良く似ている」
「そうなのか。なんだか興味が湧くな」
その俺に似ているリオンという男はどんな男だと、柵にもたれかかりながら突き抜けるような青空を見上げたノアは、隣で同じように柵に寄りかかるハーロルトが愉快な男だと答えたことに肩を揺らす。
「愉快か」
「ああ。・・・前は刑事をしていたが、今はバルツァーの会長秘書をしているはずだ」
「バルツァーってあのバルツァーか?」
駆け出しの写真家である自分ですら名を知っている会社の会長秘書をしているなんてすごいなと笑うノアにハーロルトが確かにそうだと笑うが、柵から体を起こして伸びをする。
「そろそろ昼飯だ」
「ああ、そうだな・・・いや、仕事の邪魔をしてしまったな」
「いや、そんなに邪魔じゃない」
ノアが言葉と共に手を差し出すと、己の手が土に汚れていることに躊躇いを覚えているように戸惑うハーロルトに白い歯を見せて強引にその手を握る。
「今日はありがとう。まだしばらくこの街にいるつもりだから、写真が出来れば持って来る」
「ああ」
気にしなくても良いが確かに写真は見て見たいと、この時になってようやくハーロルトの顔に笑みが浮かび、それを見たノアが内心呆気に取られるものの、何かに気付いて慌ててバッグを開け、名刺がわりにしているL判サイズの写真を差し出す。
それは、数年前に彼が休暇で訪れたカナリア諸島で写したものだったが、写真の整理をする時も何故か目に入って来るため、名刺がわりにしようと仕事仲間でもある彼女に名刺のようにデザインして貰ったものだった。
「・・・これ、あんたの写真か?」
「ああ。会心の一枚じゃないけど、名刺がわりにしてるんだ」
「へえ・・・綺麗だな」
この光の階段を登れば確かに天国に行けそうだと、宗教に熱心な雰囲気などないハーロルトが心底感心して呟く言葉にノアの蒼い目が見開かれる。
「ヤコブの梯子、だったか?」
「あ、ああ、確かそうとも呼ばれているな」
早朝や夕方に条件が揃えば見ることの出来る、薄明光線と呼ばれる自然現象だが、プロアマを問わず良く写真のモチーフになっているものだった。
カナリア諸島のホテルのテラスで早朝に目覚めてしまい、何と無く眺めていた穏やかな海から昇る太陽が短時間だけ見せてくれた極上の景色、それを脳裏に焼き付けるだけではもったいないとの思いから慌ててカメラを構えて何枚も写したものの一枚だったが、今でもそれを見るたびにノアの心をあの日の穏やかな海のように鎮めてくれるものでもあった。
己の心を鎮めてくれるそれを見て欲しい、ただその一心で知り合った人に配る名刺だったが、受け取った人々の反応は千差万別で、それを非難するつもりも過剰に喜ぶつもりもなかったが、今のように朴訥とした男の口から綺麗だと褒められた事がじわりと心を温め、ありがとうと照れながら礼を言うと、素直なリオンを見ているみたいで気持ちが悪いと眉を寄せられてつられて眉を寄せてしまう。
「・・・そんなに似てるのか?」
同じことを何度も聞き返すのは好きではないが、それ程似ているのかと三度問いかけたノアにハーロルトが今から知人のところに行くから付いて来るかと問いかけ、ノアが目を瞬かせる。
「いや、今日は他にも色々行って見たい場所があるから無理だ」
「そうか」
写真が出来上がれば見せてくれ、ここにいなければ近くの居酒屋でハールを探していると言えばわかると言われ、再度土に汚れた手を握ったノアは、己と良く似ているリオンという男の背中を脳裏に描こうとするが、見た事もないから分からないと当たり前の呟きを発して肩を竦める。
「じゃあ、ハール、また」
「ああ」
何だかいつまでも心に残りそうな男との出会いにノアの心に名付けようのない思いが芽生えるが、ポケットに入れたスマホが電話の着信をバイブで教えてきた為、少し離れた日差しを遮ることの出来る大きな樹の下に入り込んでスマホを取り出す。
「ハロ」
『ノア?今大丈夫か?』
「ウィル?どうした?」
少しだけ申し訳なさそうに電話を掛けてきたのは父で、日差しが遮られたことで感じられる涼しさに息を吐きどうしたと再度問いかけると、少し厄介な事が起きたからこれから警察と話をしなければならないと教えられて一瞬にして心地良さを吹き飛ばしてしまう。
「どうした!?」
『まだ何も無いから安心していい、ノア』
息子の緊張に大きくなる声を宥めるように苦笑した父は、明日の映画祭に絡んで脅迫状がマスコミに送られた、その事で話を聞きたいらしいと答え、後ろに妻でありノアの母であるマリーがいる事を教えるように、なぁマリーと呼びかける。
「マリーも一緒か?」
『ああ。脅迫状なんて本当に来るんだな』
今まで生きてきて初めてそんな嬉しくないファンレターを貰ったと、電話の向こうで憤慨している母の声にいつもと変わらないものを感じ取って安堵したノアは、前髪をかきあげつつ盛大な溜息を吐く。
「何もないと良いな」
『ああ。映画祭の警備は警察も警備に協力してくれるらしいから、まあ大丈夫だとは思うよ』
ただ、マスコミに脅迫状が送りつけられ、脅されているのがマリーであることから記事になってしまい、もしかするとお前の所にも記者が行くかもしれないから気をつけてと、父が同じカメラマン、母が女優というマスコミに近い場所で生きてきたノアだったが、両親が主役になったスキャンダルを今までにあまり経験したことはなかった。
ただ、母を付け回すようにいつでもどこにでもいたカメラマンなどの撒き方や扱い方はよく分かっていて、気をつけるとだけ返して通話を終えたスマホをポケットに入れると、バッグから取り出したティアドロップ型のサングラスを掛ける。
母に送りつけられた脅迫状の内容が気になるが、父が側にいるのだから大丈夫だろうと半ば己を安堵させる為に呟いた彼は、気分を切り替えるように両手を突き上げ、さぁ次はどんな楽しみを分け与えてくれる景色に出会えるだろうかと、鼻歌交じりに呟きながらトラムの停留所に戻って行くのだった。
午後の診察が珍しく入っていない為、昨日とは違ってどこかのんびりした気持ちで仕事をしていたリアだったが、当然自分と同じように気持ちに余裕があると思っていたウーヴェは、出勤してきた時から不安になる程眉を寄せて不機嫌–とはまた違った感情を顔中に、特に眉間に浮かべていた。
その理由を聞きたいが聞いてはいけない気がしてぐっと堪えていた彼女は、午後の早い時間に患者が安心の笑みを浮かべてクリニックを出て行くのを見送り、ドアを閉めて無意識に溜息をこぼす。
昨日リオンが不気味な笑顔で言い放った、ルバーブの入ったチーズケーキが食べたいの一言だったが、ウーヴェからではなく直接リオンから今朝、来週はカップケーキが食べたいとスマイルマーク付きの脅迫文が届けられたのだ。
それをウーヴェには伝えたものの、己の心身の疼痛と向き合っているからか生返事があるだけで、もう一度説明した方がいいかと天井を見上げた時、診察終了の札をぶら下げていなかった事を思い出し、両開きの扉を開けてその準備をしようとするが、目の前に突如現れた壁に顔をぶつけそうになる。
「キャ!」
「・・・大丈夫か、リア?」
目の前の壁が口を利いたことへの驚愕に目を見張り恐る恐る顔を上げた彼女は、そこにいるのが壁などという無機質なものではなく、ひまわりの束を抱えたハーロルトであることに気付いて別の驚きで顔を彩る。
「ハール?久しぶりね」
「ああ。ひまわりを持ってきた」
ウーヴェの分もだがあんたの分もあると、ひまわりと白さが引き立つ百合の小ぶりの花束を差し出したハーロルトにリアの顔が今度は喜色に染まり、ついでくしゃくしゃの笑みを浮かべてそれを受け取る。
「ありがとう、ハール。お花を貰えるのは本当に嬉しいわ」
「そうか」
喜んでもらえてこちらも嬉しいだの百合が似合うだのという美辞麗句や歯の浮くようなお世辞から最も遠い場所にいる朴訥な男が、日頃は見せない最大限の気遣いをした結果の花束にリアが心底嬉しそうにそれを受け取って抱え、百合の匂いにうっとりとしてしまうが、中に入って良いかと問われて赤面する。
「ええ、もちろん。入ってちょうだい」
診察終了の札をぶら下げるからと、何故扉を開けたのかを思い出させてくれたハーロルトに礼を言って中のカウチを勧め、自らはドアノブに吊るしていた札を表のドアノブに引っ掛けて扉を閉める。
「・・・リア?」
扉を閉めて花束に顔を再度近づけていたリアは、診察室のドアが開いてウーヴェが出てきたことに気付き、ハールに花束を貰ったと宝物を紹介する顔でウーヴェに笑いかけると、流石にそれに気付いたウーヴェが綺麗だなと笑みを浮かべる。
「ええ。お茶を淹れるわ」
ハーロルトの分も淹れるから待っていてと、男二人に笑いかけた彼女は、軽やかな足取りでキッチンスペースに向かい、鼻歌を歌いながらお茶の準備をする。
そんな彼女を何となく目で追いかけたウーヴェだったが、ハーロルトがひまわりの花束を差し出したーというよりは突き付けた事に気付いて頭を仰け反らせてしまう。
「ハール?」
「今年一番のひまわりだ」
家でもクリニックでも好きなところに飾ってくれと、いつからか習慣化しているそれを今年もしてくれと差し出されて受け取ったウーヴェは、リアほどではないがあぁと短く感嘆の声を零し、ハーロルトに極上の笑みで礼を言う。
「ダンケ、ハール」
「ああ」
あんたは本当にひまわりが似合うと、朴訥なくせに臆面も無く告げるハーロルトに微苦笑するウーヴェだったが、今日は面白い男に会ったと教えられて眼鏡の下で目を丸くする。
「面白い男?」
「ああ。リオンに良く似た男だったな」
「!!」
ハーロルトが投げかけた言葉はウーヴェの目を限界まで見開かせるもので、ひまわりの花束をリアのデスクに置いたかと思うと、ステッキも使わずに左足を引きずりながらカウチへと向かおうとするのを立ち上がったハーロルトが支えてカウチに座らせる。
「ウーヴェ?」
「リオンに似た男に会ったのか!?」
「ああ。ウィーン出身のカメラマンだと言っていたな」
リオンに良く似た男に出会ったことがそんなに驚くことなのかと、逆にハーロルトが驚きに目を見張るが、お茶の用意を持って戻ってきたリアがウーヴェと同じような表情を浮かべた為、何があったと問いかける。
「・・・昨日、リオンと良く似た男を見かけたのよ」
結論から言えばそれは人間違いで、結果的にリオンにチーズケーキを貢いで謝罪する事になったとリアがテーブルにカップを並べながら告げて溜息をこぼす前でウーヴェが名前は覚えていないかとハーロルトを見る。
「・・・・・・名刺がわりの写真をもらったな」
作業着のオーバーオールのポケットに突っ込んであった、ノアからもらった写真を取り出したハーロルトは、ノア・クルーガーという名前だったとも告げると、ウーヴェとリアが顔を見合わせ、異口同音に叫ばれてしまう。
「ノア・クルーガー!?」
「あ、ああ。知っているのか?」
昨日はリアとウーヴェが見間違い、今日はハーロルトが見間違えたという男がノア・クルーガーと言う名のカメラマンだと知り、昨日のランチ時に個展が開かれれば見に行かないかと話していた写真家でもある事に二人が呆然と顔を見合わせる。
昨日の今日でリオンに良く似た男と、ノア・クルーガーという名前がウーヴェとリアに纏わり付いていたが、それがハーロルトの言葉によって一つになり、脳内でリオンに良く似たノア・クルーガーという青年の像を作り出す。
「ウーヴェ、この人よ」
昨日の新聞の情報では全然足りなかったノア・クルーガーの情報を、リアがラップトップを操作してネット記事を発見し、ウーヴェとハーロルトの前に持ってくる。
「・・・ああ、この男だ」
ハーロルトが昼食前まで一緒にいたノアの顔を思い浮かべながら頷き、ただこの写真は少し若い気がすると告げ、リアが淹れてくれた紅茶のカップを手に取る。
「後ろ姿がリオンにそっくりだったから声をかけたらノアだったが、リオンよりは随分と若かったな」
「ハールも見間違える程だったから、私たちが間違えても仕方がないわよね・・・」
ハーロルトとリアの呟きにウーヴェが無意識に頷き、確かに似ているが、この写真を見てもあまり似ている感じはしないのは何故だと呟き、何かが気になったのか、更にノアの記事をネットで検索し始める
「ウーヴェ?」
リアの疑問の声を無視しながら画面を睨みつけていたウーヴェは、いくつかの写真や記事を読んだ後、何とも言えない顔で溜息を吐き、訝る顔の二人を交互に見る。
「・・・確かに、ノア・クルーガーはリオンに似ていたが、彼は若いな」
「ええ、そうね。プロフィール写真を見てもリオンよりかなり若いわね」
ウーヴェがラップトップに表示していたのは、ノアの経歴や仕事ぶりを伝える写真のサイトで、本人の写真も複数枚アップされていた為、ハーロルトとリアが身を乗り出して画面を見つめる。
「父親が同じ写真家でヴィルヘルム・クルーガー。母親がマリー・クルーガー。ウィーンで舞台やテレビで活躍している女優?」
ノアの経歴が一覧表記されているのにざっと目を通したリアは、マリー・クルーガーという女優なら聞いたことがあったが、親子だとは知らなかったと苦笑し、芸能関係に詳しくないウーヴェがどんな女優なんだと問いかける。
「主役というよりはその映画に欠かせない女優とでも言うのかしら」
彼女が出ている映画やドラマをいくつか見たことがあるが、どんな役柄でも安心して見ていられるからか、特定の監督の映画やドラマには必ず助演クラスの俳優として出演していた事実をリアが呟くと、マリーが出ていた映画やドラマの情報も検索する。
「・・・ああ、確かにこのドラマは見たことがあるな」
「でしょう?出身は・・・旧東ドイツですって」
リアが呟いた一言にウーヴェとハーロルトが顔を見合わせ、随分と久しぶりに聞いた単語に思えるが、確かに彼女の年齢ならば旧東ドイツ出身であっても不思議はないことに思い至り、ヴィルヘルムの記事も同時に検索し始めるが、ノアよりも沢山の写真や記事が出てきた為、そのうちのいくつかのインタビュー記事をブックマークし他の情報を探していく。
そして、短い間ではあったがこの街で暮らしていた事、その時随分と世話になった教会があったことをインタビューで答えているのを見つけてそれもブックマークするが、その後ウィーンへと向かい、そちらでマリーが女優としての頭角を現し順調にキャリアを積んでいったこと、それと同時にヴィルヘルムもカメラマンとしての実力を発揮し始め、世界中に仕事で飛び回る日々が増えたが、ベルリンにだけは仕事で出向かなかったことなども書かれていた。
その、彼が決して出向くことの無かったベルリンの壁が崩壊したその年、自分たちの希望の星となり、辛く苦しかった過去から自分たちを救ってくれるような子供が生まれ、ノアと名付けたとも書かれていて、華やかな芸能界やマス・メディアで活躍する人達だが、自分たちと同じように悩み苦しんできたのだろうと肩を竦める。
辛く苦しかった過去とやらはこの街での暮らしのことなのか、それとも旧東ドイツでの事なのかとぼんやり思案し、ノアとリオンの年の差を何となく考えたウーヴェだったが、不意に芽生えた仮説に突き動かされたようにカウチの上で飛び上がり、ラップトップを同じように見ていたリアとハーロルトを驚かせてしまう。
「ウーヴェ?」
「いや、何でもない」
まだまだ脳内で捏ねくり回している仮説があるが、はっきりとした形を得たら話をすると断り、リアが淹れてくれたが温くなってしまった紅茶のカップを手にとる。
「しかし、本当に似ていたな」
「そうね・・・」
検索画面を閉じてふうと溜息を吐いたウーヴェにリアも頷くが、己が先ほど出した名刺がわりの写真をハーロルトがじっと見つめ、素直な礼儀正しい男だったと呟きつつ写真の角を撫でる。
「・・・天使の階段だったかしら?」
「俺はヤコブの梯子と聞かされたが、そういう呼び方もあるようだな」
「キレイな写真だな」
三人でL判サイズのそれを見下ろし、ウーヴェは新婚旅行で泊ったホテルから見た景色を思い出し、二人もそれぞれ共通する光景を脳裏に描いているようだったが、素直な礼儀正しいリオンを見ているようで気持ち悪かったとハーロルトが再度呟いた為、ウーヴェが紅茶を喉に詰めそうになる。
「ぐっ・・・!!」
「ウーヴェ、大丈夫!?」
液体を喉に詰めた時の苦しさにウーヴェの顔色が再度悪くなるが、リアが背中を撫でていると咳き込んだウーヴェの手が上がり、いきなり何を言い出すんだと涙をにじませた目でハーロルトを睨む。
「・・・俺が悪いわけじゃない」
ウーヴェの睨みを視線をそらして躱したハーロルトは、うまい紅茶をありがとうと礼を言って立ち上がり、ひまわりはこれから満開になるから必要ならば声をかけてくれと二人に伝え、また来ると言い残してクリニックを出ていく。
出ていく大きな背中を呆然と見送った二人は、どちらからともなく顔を見合わせるが、ハーロルトが残していった天使の階段と呼ばれる薄明光線が美しく写された写真を見、本当にキレイだなと感心し合うが、ウーヴェの脳味噌はクルーガー夫妻の辛く苦しい過去がどこの暮らしの事なのかという疑問と、ノアが生まれた年とリオンの年齢差を無意識のように考えてしまっていた。
「ウーヴェ?」
「・・・少し、考え込んでしまったな」
まさかたった二日で似ている男の存在と名前が判明するなんてと、一体どんな風の吹き回しだ、いや、神か悪魔の導きという名の悪戯かと、熱心なクリスチャンがいれば眉を顰めそうな事を皮肉気に呟いたウーヴェは、ハーロルトが残していった写真を手に取り、矯めつ眇めつした後、本当に綺麗だなと心からの感想を口にすると、閉じたラップトップの上にそっと置く。
この時、ブックマークをした検索記事を精読していれば、脳内で組み立てては砂の城のように崩れていく仮説に強固な地盤を作ることが出来たのだが、ノアの存在が判明した事実に驚愕した脳味噌がそれ以上先に進まないように無意識にウーヴェの行動を制御してしまうのだった。
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2019.04.07
素直なリオン・・・(ぷぷぷ)


