リオンが運転する車で別荘に戻ったウーヴェは、敷地内に停まっているのが自分たちの車だけであることに気付き、レオポルドがまだ来ていないのだと胸を撫で下ろすが、アーチ状になった階段の手すりに寄りかかってこちらを見ている人に気付き、思わずリオンの横顔を見つめると、その視線に気付いたリオンが安心させるように目配せをしてくる。
ああ、これからの時間どんな恐ろしいことが待ち受けているんだろうかと、この後のパーティが楽しいと言いたげな声で呟く横顔には悲壮感や不安などは一切なかった。
「さー、これからバトルしますかー」
その暢気なかけ声に今度はウーヴェが溜息をこぼすが、シフトレバーに置いた手に手を重ねたとき、声と表情と心が裏腹であることに気付き、安心しろと伝えるように手を撫でる。
「……ダンケ、オーヴェ」
「ああ」
白のBMWの横に今は兄の車になっているスパイダーを止めるとすぐさまリオンが助手席のドアを開けるが、頭上から怒り狂っている声がリオンを呼ぶ。
「リオン!事情を説明しろ!」
その怒声の主はリオンがたった今バトルをすると宣言した相手であり、ウーヴェが溺れて病院に運ばれた事情を電話で知らされて駆けつけたレオポルドだった。
義理の父の声に一瞬だけ首を竦めたリオンだが、ウーヴェを支えながら振り返ると家の中で静かに話をすると伝え、ウーヴェの歩調に合わせてゆっくりと進んで義父の前に立つが、怒声を発したレオポルドは一度怒鳴ったらすっきりしたのか、今度は表情をがらりと変えてウーヴェの頬を撫で髪を撫でて安堵の表情で抱きしめる。
「大変な目に遭ったな。だが無事で良かった」
「……心配、を、かけました……」
「いくら子どもの心配をするのが親の役目だとしても、今回のはさすがに心臓が止まるかと思ったぞ」
まったく、お前を溺れさせたヤツが来れば同じ目に遭わせてやると父が唸るように呟いた為、ウーヴェがレオポルドのシャツの背中を幼い頃に良くしていたようにぎゅっと握り、もうリオンが同じ目に遭わせてくれたと返して驚きに丸くなる父の目を真正面から見つめ、ゆっくりと頷くと意味を察したレオポルドがリオンへと目をやるが、無言で肩を竦められてウーヴェをリオンの手に預けて中へと戻っていく。
ウーヴェがボートに乗っている間にギュンター・ノルベルトとヘクターがランチの用意をしてくれていた為、カウンターにはパスタが盛りつけられるはずだった皿が出されていたり鍋がそのままにされているはずだったが、キッチンはここにやってきたときと同じようにきれいに片づけられていてリオンと顔を見合わせてしまう。
「父さん、キッチンを片付けてくれたんですか?」
「俺は誰かさんとは違うが、食べるだけの男だ」
ウーヴェの疑問にレオポルドが胸を張って返すが、誰かさんとは誰だ、それに自慢できることかとリオンが呟いたため、それを聞きつけたレオポルドが再度リオンを睨み付ける。
「何か言ったか」
「べーつに。もう聞こえなくなってきたのかなーって思っただけー」
「リーオ、いい加減にしろ。父さんもいい加減にして下さい」
ヒートアップ-と言っても実際のところは二人がじゃれているだけ-しかけるのを、まるでサーカスの調教師か何かのように鋭い声を発して制したウーヴェは、父と伴侶が似たような顔で己を見つめてきたため、何か言いたいことがあるのならばはっきりと言えとにらみ返す。
ウーヴェのそんな態度にレオポルドは可愛さから、リオンは日頃の教育の賜から逆らえずほぼ同時に咳払いをしてそっぽを向くと、ウーヴェの口から安堵と呆れの混じった溜息がこぼれ落ちる。
「……母さんも一緒に来たんですか?」
「ああ。ギュンターから連絡を受けて飛ばしてきたからな、アウトバーンが無制限だとこういうときに本当に助かるな」
「父さんが運転してきた?」
レオポルドが広いリビングに相応しい大きなソファにゆったりと腰を下ろすのを見計らい、リオンに何事かを囁いてその頬にキスをしたウーヴェは、不機嫌さを感じさせない顔でキッチンの冷蔵庫のドアを開けるリオンの背中を見て笑みを浮かべた後、レオポルドと対面するようにスツールに腰を下ろす。
「母さんは?」
「エーリヒを連れて買い物に行った」
「じゃあエーリヒが運転してきたんですね」
「ああ」
本当は自分で運転したかったのだが、妻と家人の猛反対を食らってしまったため、運転もブルーノの次に信頼できて若くて行動力もあるためにエーリヒに頼んだと、腕を組みながら憮然と呟く父に苦笑し、冷静さを欠いているとは思わないがそれが最良の方法だと頷くと父が口ひげを撫でながら溜息をつく。
「リッドも心配していたからな」
父のその言葉にウーヴェが神妙な面持ちで頷き、心配をかけましたと目を伏せたとき、こつんと頭に何かがぶつかったことに気付いて振り返れば、リオンがにやりと笑みを浮かべて立っていた。
「ビールって思ったけど、さすがに今はちょっと心配だからこれにした」
冷蔵庫から飲み物を出してほしいと頼んだウーヴェだったが、差し出されたのが湯気の立つマグカップだと知って小首を傾げるが、漂ってきた匂いから心身の緊張がほぐれていくことも知る。
「…ダンケ、リーオ」
「どういたしましてー」
リオンが差し出したマグカップに満ちているのは命の水と呼ぶ飲み物で、そのカップを受け取って口を付けると、優しい暖かさとほのかな甘さが喉を通りすぎて冷えた身体を内側から暖めてくれると同時に、心肺停止を経験した身体もだがそんな異常事態を経験した心が先ほどのように悲鳴を上げ始めたことに気づき、カップをテーブルに何とか置くと、異常を察したリオンが驚くレオポルドの前であってもいつもと同じようにウーヴェの背後から腕を回してそっと抱きしめる。
「オーヴェ、もう大丈夫だ。驚いたよなぁ」
「…………リーオ…」
「うん。大丈夫。俺がいるし今は親父もいる」
だからもう何も心配する必要はないと頷いてウーヴェの髪にキスをしたリオンは、心配そうに見つめてくるレオポルドにも頷いて目配せをする。
「それを飲めよ、オーヴェ」
そうしてさっきのように怖い顔や俺たちが互いに望んでいる笑顔を浮かべてと強請るとウーヴェの頭が上下に揺れ、震える手がマグカップを再度取ったため、リオンの口から安堵の吐息がこぼれ落ちる。
「親父、さっきオーヴェも言ってたけど、俺たちを溺れさせたボートの持ち主にはもう同じ目に遭ってもらった」
「まさか沈めたのか?」
「全身沈めさせるのも面倒だったから顔だけ」
まるで野菜か何かを水で洗ったか何かのように軽い口調で告げるリオンだが、その蒼い瞳に浮かぶ強い色に気付いたレオポルドが口を開こうとするものの、いつも見ている騒々しい子どもっぽい言動からは想像も出来ないことだと気づいて咳払いをする。
「で、今ヘクターが後始末をしてくれている筈なんだけど、もしかすると親父の力を借りるかも知れない」
「……相手は州議会議員のニクラス・アイゼナハだな」
「えーと……名前は知らねぇんだけど、ジジイが州議会議員だって言ってたかな?」
「ああ。アイゼナハ議員の孫娘は割と有名のようだ」
ギュンター・ノルベルトから連絡を受けたレオポルドがまずしたことは、モーターボートの使用が禁止されている区域で堂々と使える人物のリストアップを秘書に頼んだことで、ほどなくしてすぐに返事が来たためそれを元に長年の友人であり顧問弁護士でもあるウルリッヒに確かめてみたことをため息交じりに告げたレオポルドは、不安そうに見つめてくる末息子の視線に気付いて口元に太い笑みを浮かべる。
「たかが議員とその孫が何を吼えたとしても俺たちにはさほど影響がないから安心しろ」
そのことによって俺自身に不都合が起きることもなければ、社長であるギュンター・ノルベルトにも影響が出ることはないことを断言したレオポルドだが、あちらの孫に対する暴行容疑については些かまずいことになりかねない、だからお互い様にするように話を落とすつもりだからそのためには何があったのか一部始終を話せとリオンに向き直る。
「Ja」
ここですべてを話しておく方が得策だと判断したリオンは、ウーヴェの横にあぐらをかいて床に座り込むと、無意識にウーヴェの手が頭に宛われ、リオンの口からこれもまた無意識に安堵の溜息がこぼれ落ちる。
「俺とオーヴェがボートに乗っているとき、モーターボートが結構な早さでやってきた。その波が強くてボートがひっくり返ってしまい、オーヴェが溺れた」
「ああ、それは聞いていた。その後病院に行ってからお前はどうしていた」
レオポルドの問いにやや躊躇ったように視線をさまよわせたリオンは、ウーヴェの手を己の頭から剥がすと同時に足の上でその手と手を重ねてしっかりと指を絡ませる。
「ボートの持ち主を探してた」
「アイゼナハの孫娘をか?」
「Ja.…いくら治外法権だと言っても堂々とボートを岸に横付けするとは思えない。だから人目につきにくいところにボートを揚げると思って探してた」
そうしたら、ここからすぐ近くにあるパブの横手の広場にボートを牽引してきたと思われるピックアップを発見し、ついで戻ってきたボートも発見したことを告げると、ウーヴェの手の甲を親指の腹で何度も撫でるが、それが無意識の行為だと気付いたウーヴェが同じように指で撫でると手に力がこもる。
「で、そこで戻ってきた孫を沈めたのか?」
「Ja.あ、その前に顔を軽く一発叩いたけど」
その発言にレオポルドが眉を寄せてウーヴェがきつく目を閉ざすが、悪いことだと思っていない顔でリオンが頷き、その後はまあ何回か水に顔を突っ込ませたと肩を竦めたリオンは、一発だけで済ませたことを誉めて欲しいと呟くが、頭に載せられたままの手が宥めるように髪を撫でたため、その気持ちに応えるように軽く首を傾げてウーヴェの腿に肩を触れさせる。
「叩いたのは一度だけだな?」
「Ja」
再度の念押しに頷くリオンだがその声に玄関のドアが開く音が重なり、三人の視線がリビングのドアへと向けられるが、程なくして幾人かの足音が聞こえ、ドアにはまっているガラスの向こうに細いシルエットが見えると同時にドアが開く。
「レオ、ヘクターも帰って来たわよ…!」
背後にいるヘクターを振り返りつつ室内にいる夫に呼びかけたのは、皆が戻ってくるまでの間にキッチンの片付けを済ませて買い物に出掛けていたイングリッドだった。
彼女の声にいつもならばすぐさま夫が返事をするが、ソファの肘掛けに手をついて頬杖をついたまま沈黙していたため、どうしたのかと顔を戻したイングリッドは、己の視線の先で申し訳なさそうな顔で目を伏せる末息子を発見し、真後ろにいる長男の右腕的存在の青年の腕を後ろ手で触った後、リビングを突っ切ってスツールに腰掛けているウーヴェの前に駆け寄ってくる。
規則を平然と破る人達のせいで溺れたと教えられた時、彼女は様々な意味での最愛の息子が三度命の危機に曝された事を知り、夫に寄り掛かることで何とか意識を保てるほどの衝撃を受けた。
その後は若い家人に運転を任せて駆けつけたが、その道中も脳裏に浮かんでいるのはウーヴェの顔で、どうか昨夜のバカンスに行って来ると言う報告が最後の会話にならないようにと祈りを拳に閉じ込めていた。
そのウーヴェの前に一点物のオフホワイトのパンツスーツが汚れることも厭わないで膝をついたイングリッドは、申し訳なさそうに目を伏せるウーヴェの頬に手を宛がって視線を重ねさせると、微かに震える声でただ一言問いかける。
「……もう大丈夫なのですね、ウーヴェ?」
母の一言に素直に頷いた息子だったが、幼い頃の面影を残す顔で謝罪をすると、それら全てを許すように額にキスをし、昔とは違ってしまった色の髪を撫でて抱き寄せる。
「心配することは親の役目。でもお願いだから、今回みたいなのはもうやめてちょうだい」
おお、神よ、感謝いたしますと祈りを捧げたイングリッドは、隣でじっと見つめてくるリオンに向き直り、今度はリオンの頬を撫でそこにキスをしてウーヴェと同じようにその頭を抱き寄せる。
「……っ!」
「あなたも苦しいところはないの?」
その優しい声はリオンの記憶の中ではマザー・カタリーナやゾフィーと共通するもので、咄嗟に唇を噛み締めるが、ウーヴェの手に促されて素直になって頷くと、安堵の溜息がこぼれ落ちる。
「そう、良かった」
「オーヴェを……あなたの子どもを守れなくて……ごめん」
「あなたがいたからウーヴェは助かったのですよ」
それに、あなたもわたくし達の大切な子どもなのですと告げられてもう一度頷いたリオンは、イングリッドの優しい腕の中から顔を上げ、いつもの笑みを浮かべて大きく頷く。
「心配かけてごめん、ムッティ」
「罰として美味しいコーヒーを飲ませてもらいましょう」
イングリッドの笑顔のお願いは、リオンがウーヴェを怒らせたりした時に仲直りのひとつであるコーヒーを淹れることだったため、それぐらいならば任せてくれと胸を張って頷くが、次いで聞こえてきた言葉に思わず首を竦めてしまう。
「……まったく、お前が最初から病院に来ていれば俺たちも探し回らなくて済んだんだ」
「へへ…」
「へへ、じゃない。……会長、ついでではないですけど、客を連れてきました」
家族の抱擁を温かな目で見守っていたヘクターが、己の背後で今にも噴火しそうな山のように顔を真っ赤にして腕を組む初老の男と、特に上半身がずぶ濡れの髪型も乱れて頬がわずかに赤くなっている少女にぞんざいな態度でリビングの中を示すと、レオポルドが鷹揚に頷いて客をリビングに招き入れるが、話に口を挟むつもりはないが聞いておきたいイングリッドがキッチンへと移動し、その後をエーリヒがついて行く。
話の邪魔にならないように気を配りつつも、この後皆で食べる昼食の用意-もしくは夕食の用意-にイングリッドが取りかかり、エーリヒが慣れない手つきながらも必死にそれを手伝い始めるが、カウンターで仕切られたキッチンの向こうには異様な空気が漂い始めていた。
「失礼する」
「俺は招いたつもりはないが、何の用だ」
ドアの前に立つヘクターを押しのける勢いで入ってきたのは、ボート遊びから戻ってきた孫娘の惨状を目の当たりにして脳味噌の血管を何本か切ってしまったようなニクラス・アイゼナハだった。
その後ろでは顔を押しつけられて危うく溺死させられかけたことへの怒りと、彼氏の前で侮辱された怒りに顔を赤くしつつも、己のすべてとも言える祖父が出てきてくれたことでいつものように何のお咎めも受けないと高を括っているエーリカがいるが、リオンと目があった瞬間、先ほどの恐怖を思い出したのか祖父のサマージャケットの背中を握りしめる。
「バルツァー会長か……!」
「久しぶりだな、アイゼナハ議員」
政界と財界という違いはあれども、各界で名の通った人物である二人は互いに面識もあるため、祖父の背中に身を隠したエーリカがいつもと様子が違うことに気付いて訝るように祖父を呼ぶ。
「おじいちゃん……?」
「……会長、詳しい話を聞かせて貰っても良いだろうか」
「おお、構わないぞ」
ただ、ここで話をするには関係者と言えども人が多すぎるため、まずは被害者である俺の息子と加害者のリオンと一緒に外で話をすると告げてソファから立ち上がったレオポルドは、被害者が息子だと聞かされて思わず社長かと呟くアイゼナハに微苦笑するが、残念ながら長男ではなく末っ子のウーヴェが溺れたと告げてウッドデッキに出るための大きな窓を開けてカウチソファへと移動する。
その後ろをついていくウーヴェにぴたりと寄り添ったリオンは、意外そうな顔で見つめられていることに気付いて肩越しに振り返ると、祖父と孫の二対の視線が己に突き刺さっていることに気付く。
そんな二人に向かって小さく中指を立てたリオンだったが、その行為は前を見ていたはずのウーヴェにばれていたようで、ウーヴェの手が載せられている腕に突如痛みが芽生えて悲鳴を上げる。
「いてぇ!」
「…………その中指を下ろせ、リーオ」
「ちぇ、ばれてたか」
「当たり前だ」
レオポルドが腰掛けているカウチの横に同じように座ったウーヴェは、呼吸をするのと同じ自然さで隣の床に先程のように直接座るリオンの髪に手を差し入れて一撫でする。
「……さっきエーリカから聞いたのだが、ボートがひっくり返って溺れたとか……」
「ああ、そうだ。すぐ傍を規則に反したモーターボートが通り過ぎたため、その波を受けて転覆してしまった。その波さえ無ければ俺の息子は溺れることも一時心臓が止まることもなかったはずだ」
「心臓が止まった……?」
「ついさっきまで病院で検査を受けていた。ああ、そうだったな、その間にリオンが孫を殴ったようだな」
その事についてはリオンに謝らせるが、これで話を納めないかと提案をしたレオポルドに噛み付いたのはアイゼナハではなく孫のエーリカだった。
「あたしも溺れさせられかけた!死ぬかと思ったわ!」
「そうか。俺の息子は実際に溺れて一時とは言え仮死状態になったぞ」
「!!」
それに対する責任を取れとは言わない代わりに、リオンがお前にしたことも許せと告げるが、そんなの許せるはずがないと甲高い声で否定されて仕方がないと溜息を吐いたかと思うと、皆が驚くほどの力強さでリオンを立ち上がらせる。
「謝れ、リオン」
「……イヤ、です」
「そうか」
リオンの目が不敵に光った直後、あちらが謝らない限り謝らないと言い返すと同時にレオポルドの手が上がり、程なくして小気味良い音がウッドデッキを渡る風に乗って湖に運ばれていく。
「……やり過ぎました」
「ばかもの」
素直に謝れば痛い目に遭わずに済んだのにと、己の右手を見つめて一言言い放ったレオポルドは、目玉が零れ落ちそうなほど目を瞠って見つめて来る祖父と孫に振り返り、こちらは謝ったそちらはどうすると視線で問いかけると、我に返ったアイゼナハが孫の頭に手を載せて無理矢理押さえつける。
「────この通りだ」
「………………」
「孫は謝ってないようだぞ」
レオポルドの言葉にアイゼナハが鋭い声でエーリカを叱責し、祖父の叱責を受けたことがないため戸惑いつつも小さな声で謝罪をする。
「聞こえないぞ」
「ごめんなさい!」
レオポルドの一喝に余程堪えたのか、エーリカがバネ仕掛けの人形のように背筋を伸ばしたかと思うと、しっかりとした声で謝罪を繰り返す。
「どうする、ウーヴェ」
「……もう、良いでしょう」
今まで沈黙していたウーヴェに問いかけたレオポルドに素っ気なく頷くと、彼女も恋人と別れる事になったのだからもう良いだろうと告げると、後はお願いしますと言い残して一足先にリビングに戻っていく。
「本人がもう良いと言っているから、今回の事はこれで終わりだ」
これ以降、もしもこの件が誰かから、特にマスコミから耳に入れば政治家生命が終わりを迎えると思えと恫喝したレオポルドにアイゼナハが汗を浮かべつつ頷き、エーリカを庇うように腕を回して孫を抱き寄せる。
「おじいちゃん……」
「お前もそろそろ人に迷惑をかける生き方を改めなければならないな」
それについては家に帰ってみっちり説教をしてやると宣言する祖父に孫が項垂れるが、肩に回された腕の強さは幼い頃から感じているものと変わらないため、ひとまず殊勝な態度で頷くと、レオポルドと殴られた頬を手で撫でているリオンにもう一度ごめんなさいと謝罪をする。
「ここに俺の長男がいなくて良かったな」
あいつがいれば今頃お前は立ち上がる気力が無くなるほどの言葉を投げつけられていただろうとレオポルドが苦笑すると、アイゼナハがバルツァーの社長と呟く。
「ああ。今ウーヴェの診断結果を病院で聞いているはずだ」
もっともあの様子からすれば異常がないと思うがと頷くと、アイゼナハに向き直って口ひげを指で撫で付ける。
「リオンもやり過ぎたが、それだけ腹が立っていたと思ってくれ」
「分かっている……エーリカには良く言い聞かせておく」
その言葉でこの件についてはお互いに口外しないことを約束した二人は、それでも互いを牽制するように視線を交わしあった後、アイゼナハがエーリカの肩を抱いたままリビングに戻って家を出ていく。
客人が帰ることを大声で室内に伝える声にエーリヒがすぐさま反応し、玄関まで二人を案内していくのを見送ったレオポルドは、頬を撫でているリオンを見て無言で肩を竦めるが、ひとつ嘆息した後太い笑みを口元に浮かべてリオンの頭に手を載せる。
「リッドも言っていたが、本当に良くウーヴェを守ってくれた。お前自身も辛かっただろう」
「…………その言葉で……十分ですよ、親父」
「そうか」
「……あー、何か落ち着いたら腹が減ったなぁ」
口では憎たらしいことも平然と言い放つが心では敬愛し尊敬しているレオポルドに誉められ認められたことが余程嬉しかったのか、リオンの顔が歓喜にくしゃりと歪むが程なくして気恥ずかしさを思い出したのか大声でウーヴェを呼んでリビングに駆け戻っていく。
「まったく」
どうしようもない騒々しい男だと呆れる義父だが、それでも憎めないし何よりもウーヴェがもっとも愛し信頼する男である事を再認識すると、そんな呆れも晴れ渡る夏空に溶けこませるように嘆息する。
今回はとんだ災難だったが、短いバカンスの口実が出来たことにも気付いたレオポルドは、今日は泊まって帰るぞと笑いながら告げてリビングに戻り、リオンの盛大な拒絶の声と態度に生意気だと大声を張り上げるのだった。
リビングのソファに座りぼんやりと開け放った窓から世界の上半分を占める星空と湖を見ていたリオンは、ビールを取ろうと身動ぎするが、それを非難するように伸ばされた手が前髪を引っ張ったため、大げさに痛いと悲鳴を上げる。
「うるさい」
「ごめーん、オーヴェ」
「……仲が良いのは分かるが、そんな暴力男から離れればどうだ、フェリクス」
呆れが多分に含まれた声にリオンが不満を訴えるように口を尖らせるが、当のウーヴェはその声に小さく首を横に振るだけで、己の枕と化したリオンの足の上から動く気は無かった。
「……仲が良いと言うよりはこれはリオンに対する罰だな」
夕食を終えてここに移動してきてからずっとリオンはウーヴェに命じられて膝枕をしていて、足の痺れなど通り越して今や足の感覚が無くなっているようで、その事からもこれが罰ゲーム的なものだと笑ったヘクターにギュンター・ノルベルトも同じように肩を揺らしてしまう。
そんな二人を囲むようにソファに座って飲んでいたギュンター・ノルベルトだったが、ヘクターの言葉に小さく吹き出してその通りだと頷くと、レオポルドがにやにやしながらリオンを見る。
「大変だな、お前も」
「…………うー、親父のくそったれ!」
「誰がくそったれだ」
「親父!」
「二人とも、うるさい」
己の頭上で始まった舌戦を制したのはウーヴェの冷え切った声で、父と伴侶を一纏めにうるさいと睨むとどちらも情けない顔で口を閉ざしてしまう。
リオンがウーヴェに逆らえないのは当然と言えば当然だが、誰に対しても頭を下げることなどなさそうなレオポルドも悄然としている様はヘクターなどからすればただただ驚きを持って見つめてしまうことで、その視線の中でイングリッドが慰めるように夫の髪を撫でて頬にキスをする。
「……あー、その、なんだ…………ウーヴェ、ブッカーズがあるが飲まないか?」
「………………飲む」
レオポルドが髭を撫でながらぼそぼそと呟くとようやくウーヴェが身を起こしてリオンにもたれ掛かるが、ブッカーズと聞かされて顔が自然とにやけてしまう。
「あーあ、俺よりも酒の方がいいんだよなぁ」
ああ、俺の立場って何なんだと嘆くリオンの頭を後ろ手で抱き寄せて機嫌を直せと笑ったウーヴェは、木箱を持って来る父に頷くと人数分のグラスと氷を運んできてくれたエーリヒに笑いかける。
「エーリヒ、良かったら一緒に飲まないか?」
家とは違って身の回りのものが何も無いここでは退屈だろうから、飲みに行って来ればいいとレオポルドがエーリヒに提案したものの、やんわりとした笑顔で断られたことをウーヴェは知っていて、それならばと誘えば嬉しそうに笑って頷かれる。
運転手を務めているブルーノもそうだが、レオポルドやイングリッドは使用人として人を雇う時に何よりも重視しているのは、仕事関係だけではない人間関係を築けるかと言うことで、エーリヒはその二人の考えに沿っているため、時々レオポルドのお酒の相伴をしているのだった。
「────リーオ」
そして、エーリヒに酒を勧めた時よりも柔らかく穏やかな声でもたれ掛かっているリオンを呼んだウーヴェは、覗き込むように向けられた頬にキスをし、チーズも一緒に食べないかと問いかけると嬉しそうな気配に包まれる。
「食っても良いのか?」
「ああ。好きなものを持って来ればいい」
その言葉にウーヴェの髪にキスをして立ち上がったリオンは、ギュンター・ノルベルトやヘクターらの呆れた様な視線を勝ち誇った顔で笑い飛ばし、チーズチーズと自作の鼻歌を歌ってキッチンに向かう。
その背中を心底嬉しそうに安堵したような笑みで見送ったウーヴェだったが、家族の温かくもいい加減にしなさいと言いたくなるような顔で見守られていることに気付くと、咳払いをひとつして父の手からブッカーズを奪い取るのだった。
そしてその後、リオンが持って来たチーズをイングリッドが微苦笑を浮かべながらクラッカーや軽く焼いたバゲットと一緒に皆で摘んで酒を飲み、家族全員に衝撃を与えた事件を忘れるように賑やかに楽しく過ごすのだった。
開け放った窓から湖を渡る夜風がリビングを巡り、部屋の中から上がる楽しげな笑い声を運んでは湖に戻っていくのだった。
2014/09/06
結局ウーヴェが最高に強くて甘やかされている、と(、、;


