意識を取り戻したウーヴェだったが、ギュンター・ノルベルトに付き添われて救急車で病院に向かい、それを見送ったヘクターは後ほど迎えに行く際にウーヴェの着替えなどを持って行く事を何とか伝えるが、己の意識野で何かが欠けた事に気付いて周囲を見回す。
救急隊員がサイレンと共に姿を消し、制服警官も姿を消し始め、ウーヴェの診察が終われば警察に連絡をくれと伝言を残す警官に頷いたり今後の事を軽く相談したヘクターは、皆が引き上げて一気に静まりかえった別荘でようやく欠けた何かに思い至る。
「リオン……!」
さっきまで一緒に警官の話を聞いていた筈のリオンが姿を消していたことに気付き、何故だか急に寒気を感じて身体を震わせたヘクターはリオンの携帯を呼び出すが、流れてくるのは呼び出し音だけで、溜息を吐きながら携帯を見つめると、ウーヴェらが乗ったボートを転覆させた小型ボートの持ち主についての情報をくれた秘書からの着信に目を瞠る。
「ヴィルマ?俺だ」
『ヘクター、ギュンター様は?』
聞こえてくる声に焦りを感じてウーヴェに付き添って病院に向かったことを伝えると、小さな安堵の溜息が聞こえてくる。
『さっきボートを持っていそうな人のリストを送ったけど、持ち主が特定出来たわ。その村出身で州議会で会派の副代表を務めている男よ』
「名前は?」
ヴィルマの声に籠もる焦りと怒りを己のものとしつつも冷静に問いかけたヘクターは、己の脳内にある顔と教えられた名前が一致したことに頷き、その議員の子どもや孫はいないのかと問い返すと、子どもは娘が一人とシュタイナー学校に通う孫娘がいること、その孫娘が長期休暇になればここに逗留し、その間に村の住人が頭を抱えるようなことをしでかすが、祖父に遠慮をして誰も何も言えないでいることを教えられて眼光鋭く目を細める。
「そうなのか?」
『ええ。少し調べただけでその議員に対して孫娘の苦情が出てきたわ』
だがそれら全てを祖父が握りつぶしたため、孫娘は今も好き勝手にやっていること、その張本人が今年は祖父が所有しているボートを湖に運ばせたこと、年上の彼氏と一緒に村に滞在していることも教えられて片手で肘を掴む。
「そうか……じゃあその孫が操縦していたことは間違いなさそうだな」
『そうね。ヘクター、ギュンター様は大丈夫?』
目に入れても痛くない、そんな表現が相応しいほど大切に思っているウーヴェが命の危機にさらされ、その犯人-例えそれが未必であったとしても-に対して冷たく怒り狂っていることは手に取るように分かるが、怒りで目の前が真っ赤になって冷静さを欠くことにならないかと問われ、今までギュンター・ノルベルトを陰日向無く支え共に歩んできた戦友ともいえる女性の悩みも己と同じであることに気付いたヘクターだが、それは大丈夫だがギュンターよりも心配なヤツがいると呟くと、暫くの沈黙の後息を飲んだ彼女がその名を呼ぶ。
『……リオン!?』
「ああ。あいつが大人しくしていると思うか?」
『そうね……ウーヴェが大切で仕方がないのはギュンター様だけじゃなかったわね』
「ああ。……そのリオンが姿を消した。これから探してみる」
『熱くなるのは分かるけど……無茶をしないで欲しいわ』
「そうだな、俺もそう思う。ヴィルマ、万が一のことがあるかも知れないから、顧問弁護士に連絡を入れておいてくれ。法的なことがあればすぐに動いて貰う必要がある」
ウーヴェは被害者だがもしかするとリオンなりギュンター・ノルベルトなりが加害者になる可能性もあったため、そうなった場合は弁護士にすぐに手を打って貰う必要があるから伝えると、さすがに長年ギュンター・ノルベルトの主席秘書を務めるだけの人材であることを証明するように弁護士にはすでに連絡済みであり、加害者についても弁護士からの情報を得ていることも教えられて信頼の証に溜息を吐く。
「助かる」
『いいえ。……せっかくのバカンスなのに、ギュンター様がお気の毒だわ……』
「そうだな」
その思いも全く同じだったために頷いて何かあればまた連絡をくれと伝えて通話を終えると、つい先程まで皆で笑いあいランチの用意をしたりボートに乗る二人を見守っていた楽しく穏やかな時間を過ごせていたのに、今は誰もいないことに突然膝が砕けるほどの衝撃を感じるが、ウーヴェが腰を下ろしていたラウンドソファの背もたれに手を着いて身体を支えたヘクターは、すぐにウーヴェもギュンター・ノルベルトも戻ってくると己に強く言い聞かせ、彼らが戻ってくるまでにリオンを探し出して連れて帰ってこようとも頷くと、頭をひとつ振って気分を入れ替えて病院に持って行くものを用意するのだった。
ウーヴェを乗せた救急車がサイレンの音と共に遠ざかっていくのを、別荘の門柱に寄り掛かりながら見送ったリオンは、少し離れた場所で同僚と話をしている制服警官に気付き、それが旧知の人物であることを知ると、考え込んでいる顔を一瞬で掻き消していつものと称される顔でさり気なく彼の肩に腕を載せる。
「よぅ、ゲープじゃねぇか。久しぶりだなぁ」
「?……リオン?お前、リオンか?」
「忘れるなんてヒドイじゃねぇか兄弟。元気そうだな」
「ああ、元気だ。お前も元気そうだな」
肩に腕を載せられて不愉快そうに顔を振り向けた彼、ゲープハルトは、それが誰であるかを思い出して表情を一変させると、訝るように見つめて来る同僚に手短に事情を説明する。
「お前、今でもボスを怒らせてるんじゃねぇのか?」
「当たり前だろ。部下はボスを怒らせて当然なんだよ」
己のボスを起こらせるのが当たり前、そんな言葉を聞けば当のボスは憤死するだろうが、ゲープハルトも違いないと笑ってリオンの腕を叩き、互いの仕事についての愚痴を交わし合うが、どうしてここにいるんだと問われてリオンが肩を竦める。
「さっき救急車が行っただろ?…………あれに俺のダーリンが乗ってるんだよ」
「ダーリンって……お前、あれに乗ってたのは……」
俺たちと変わらないぐらいの男ともう少し年上の男だったと怪訝な顔を向けるが、リオンが蒼い目を茶目っ気たっぷりに細めた為、咳払いをひとつしてその肩をぽんぽんと叩く。
「そうか、そいつは気の毒だったな」
「まぁな。まあ生きてるからいいけど、ちょっと教えてくれねぇか?」
「何だ?」
「ここって確かモーターボートは禁止だろ?」
何故小型とはいえガソリンを燃料にしたエンジンを積んだ舟がいるんだと問えば、ゲープハルトとその同僚が顔を見合わせて意味ありげな咳払いをしたため、リオンが言いたいことに気付いて目を細める。
「……政治家か誰かがいるのか?」
「ああ。州議会で大きな会派で役員をしているじいさんがいる」
そのじいさんの孫がこの辺では有名な孫娘-名前はエーリカ-で、幼い頃に両親が離婚し母方の祖父母に引き取られたが、その頃から素行の悪さは有名で、注意をしたとしても己の祖父の権威を笠に着て威張り散らしていると教えられて口笛を吹く。
「何処にでもいるんだな、この手のヤツ」
「ああ。確かシュタイナー学校に通っているはずだが、夏になるとこの村に帰って来る。今年は何をするんだろうなって俺たちも言っていたところだ」
だからお前のダーリンがその被害者になってしまった事は気の毒だが、警察に訴えたところでその州議会議員をしている祖父が事件そのものを握りつぶすことを肩を竦めながら教えられて小さく溜息を吐いたリオンは、過去にも同様の事件を起こしているのかと問いかけて頷かれる。
「じゃあさ、自分の孫が被害者になった時に訴えると思うか?」
「気が狂ったように喚き散らして警察署に怒鳴り込んでくるだろうな」
俺たちにとっては頭痛の種だしいなくなった方が良いと思うが、じいさんにとってはたった一人の孫娘で目に入れても痛くない可愛がり方をしていると諦めの溜息を吐く旧友に素っ気なく頷いたリオンは、目に入れても痛くない可愛がり方をしている人間ならここにもいるが、どちらが強く可愛がる人間で力が上だろうかと呟くと、ゲープハルトがリオンの顔を覗き込む。
「おい、リオン……?」
「ん?ああ、悪ぃ。……そのじいさんは今帰って来てるのか?」
「ああ、さっき家に車が向かったのを見たヤツがいる」
「そっか。……ダンケ、ゲープ。いい情報をありがとうよ」
「リオン?」
「孫娘を可愛がるジジイと息子を溺愛する親父の対決が見られるから楽しみにしてろよ」
「おい!」
手をひらひらと振ってにやりと笑うリオンにゲープハルトが嫌な予感を抱いたのか、俺はお前に手錠を掛けたくないぞと怒鳴ると、煙草に火をつけたリオンが肩越しに振り返り、安心しろ、そんなヘマはやらねぇと笑みを深める。
「ヘマって……!おい、リオン、聞いてるのか!」
ゲープハルトの旧友を思う声に振り返らずに手を振ったリオンは、愛するダーリンが戻ってきたらバカンスのやり直しだ、買ってきたチーズを一緒に食べようと歌うように呟きながら歩き去るのだった。
旧知のゲープハルトと別れたリオンは、ティアドロップ形のサングラスを掛けて煙草を吸いながらボートを湖に下ろしやすい場所を探すが、濡れた服から着替えを済ませたジーンズのポケットに手を突っ込みながら鼻歌なども歌っていたため、保養地に来て一夏の恋を探し浮かれている青年にしか見えなかった。
事実、リオンとすれ違った若い女性二人組などは今夜何処かのパブかレストランで再会出来ないかと笑いあっていたほどで、そんな女性の視線に気付いたリオンが肩越しに振り返ってサングラスの下で目を細めるが、彼女達の耳には決して届くことのない小さな声で呟いたのは、ウーヴェが耳にすれば険しい表情になる様な言葉だった。
「……盛りのついた雌猫の相手なんてしてられるかよ」
一見すれば人懐っこい笑顔のためにまさか扱き下ろされているとは思わない彼女達はリオンに少しの色目を使うが、今のリオンはそんな女性達の相手をしている暇はなく、また以前とは違ってウーヴェという公的にも神にも認められた伴侶がいる今、一夜限りの遊び相手を必要とはしていなかった。
だからその色目も適当に受け流して煙草を投げ捨て、ぶらぶらと湖の周囲を歩いていると、ウーヴェの別荘から湖に沿って少し歩いた先に小さなパブがあり、そのパブの建物の影にピックアップが停まっていることに気付く。
何気なさを装いピックアップの傍に近づくと、車内は無人だったが荷台にはボートに必要になりそうなものが散らばっていて、ピックアップの後部にはボートを牽引するための金具もついていたため、ナンバープレートを携帯のカメラで撮影し、車全体も撮影をしておく。
さて、これで証拠物件のひとつが手に入った、次は犯人を見つけることだと顔を上げて辺りをぐるりと見回した時、手にした携帯からピアノ曲が流れ出す。
この電話に出るべきかどうかを一瞬躊躇ったリオンだったが、意を決したように一度携帯を握りしめ、ピアノ曲を止めるようにボタンを押して耳に宛がう。
「ハロ、オーヴェ。検査はもう終わったのか?」
そして、一緒に病院に行ってやれなくて悪かったが、兄貴がいるから大丈夫だろうと口早に告げると、小さな溜息の後に検査が終わって今は検査結果を待っていると答えられて見えないのに頷いてしまう。
「そっか。……左足、痛いのはマシになったか?」
『…………ああ。でも……』
お前がいないから歩くのが不安定なんだと小さく答えられて口を無駄に開閉させてしまう。
ウーヴェが杖がないと日常生活に不自由を来すことを知って以来、文字通り愛する人の支えになっていたリオンだが、今その役目を放棄しているのだと暗に言われて唇を噛む。
『リーオ……病院にいる……来てくれないか』
いつもならば自力であれギュンター・ノルベルトの力であれそれを使って帰ると言うが、心肺停止を経験しまたそれを引き起こすことになった幻影が脳裏や左足にしつこく残っているように感じている今、ウーヴェがその不安をそんな言葉でリオンに伝えると、さすがにリオンもすぐにウーヴェの元に飛んでいき、大丈夫だとその痩躯を抱き寄せたくなってしまう。
だが、その思いと同等の強さで、そもそもの原因となったボートの持ち主に対してこの怒りをぶつけなければという思いがあり、その思いの狭間で揺れていたリオンは、そっと名を呼ばれて拳を握る。
『リーオ』
「…………オーヴェ、もうちょっとだけ待っていてくれよ」
用事が終わればすぐに病院に行く、だからそこで待っていて欲しいと何とかウーヴェを説得しようとするが、その時、湖の方からエンジン音が聞こえ、楽しそうな男女の笑い声も聞こえてくる。
「やっぱりボートは飛ばさないと気持ちよくないわね!」
「こんなに気持ちいいのにもったいない」
その声はまだまだ子どもじみていて、そちらに注意を払っていたリオンは、ウーヴェの声が何度も呼んでいることに気付き、携帯にキスをしつつ見つけたと告げ、訝る声にもう一度キスを返す。
「ダーリン愛してる。だからまた後で電話する!」
『リオン!?』
ここで見つけたボートの持ち主を見逃すことは出来る筈もなく、急いで通話を終えて携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込むと、建物の壁に人待ち顔でもたれ掛かり煙草に火をつける。
リオンの正面には店がつけたのかどうなのか視界を良くするためのミラーがあり、腕組みしつつそのミラーの中でピックアップの動きを見守っているが、ウーヴェの家族のように自然なものではない、一見して染めていることが分かるブロンドを頭の上でひとつに纏め、大きめのサングラスと高校生にしては挑発的すぎる水着にざっくりとした目の荒いセーターを着た少女が辺りを見回し、その背後ではリオンとそう変わらない青年がボートを金具に繋ぐ作業をしていた。
その青年の外見はがっちりとしているように見えるが、金具を繋ぐ手は男にしては手入れさているようで、力仕事とは無縁であることを教えてくれていた。
そのような男ならば例え体型が良くてもケンカ慣れしていないだろうと予測し、煙草を靴の裏で揉み消した後、サングラスを外すこともなく壁から背中を剥がし、ピックアップのドアを開けて荷物を下ろしている少女の傍にごく自然に立つと、その背中に立てた指を突きつけて動くなと楽しそうに命じる。
「!?」
リオンのその声に少女の身体が跳ね上がり、振り返って何事かを確かめようとするが、動くなと言っていると今度は声音を変えて威嚇すると少女の手が震えながら肩の高さに上がる。
「大人しくしてろよ。大声出せばどうなるか教えてやっても良いけど」
でもできれば面倒くさいから止めてくれと笑い、何事が起こったのかを理解していない青年が顔を上げたのを見計らい、サングラス越しに視線が合うと同時に唇を嫌な角度に持ち上げる。
「な……!?」
「ヘイ、ブラザー。騒いでも良いけどこのビッチが使い物にならなくなるぜ」
その声と言葉は絶対にウーヴェにだけは聞かせることのないものだったが、聞かされた二人にとっては血の気を喪うだけの恐怖をもたらすものだった。
リオンの恫喝にビッチと呼ばれた少女は顔を羞恥と怒りに赤らめ、こんな屈辱を受けた事はないと吐き捨てるが、初めての経験は誰にでもある、経験できて良かったなとからかっているような声に更に顔を赤くすると、対照的に顔を青くさせている己の恋人に向けて何とかしてよと怒鳴りつける。
「大声を出すなって言ったのが聞こえなかったのか?」
少女の声に青年が肩をびくりと揺らし、その二人に目の前の湖よりも冷たく澄んだ声が投げ掛けられ、青年が短い悲鳴を発してボートの向こうに回り込んで距離を取るが、少女は逃げる事が出来ずに小刻みに震え出す。
震える少女をサングラス越しに見下ろしてああ面倒くさいと呟いたリオンは、一挙手一投足に身体を震わせる少女に心底煩わしそうに舌打ちをすると、頭上でひとつに纏まっている髪を無造作に掴んで顔を上げさせる。
「痛い…っ!」
「うるせぇよ」
痛みを訴える彼女に一言言い放って何も出来ずに震えている青年を一瞥すると、少女を青年の前に引きずっていく。
「手を離して!」
「うるさいって言ってんのが聞こえねぇのか?」
お前のピアスがジャラジャラぶら下がっている耳は飾り物か、ならば切ってしまえと再度吐き捨てたリオンは、少女の口を封じる為にか、髪を掴んだ手を高く掲げて視線を合わさせると、空いた手の甲で濃い化粧をした少女の頬を軽く叩く。
「────!」
叩かれた頬を呆然と手で押さえた少女の目から涙が流れ、痛いのか悔しいのかどっちだとその涙すら笑い飛ばしたリオンは、たった今の出来事で完全に戦意を喪失している青年に向けて前屈みになると、このボートを操縦していたのは誰だと問いかける。
「え……え?」
「だから、このボートは誰が操縦していたんだって聞いてるんだ」
お前の耳も節穴かと苛立たしそうに吐き捨てて足に力を込めたリオンに青年が息を飲んで顔を庇いつつ、操縦していたのはエーリカで自分はイヤだと言ったが断り切れずに乗ってしまったと捲し立てたため、思わずリオンが口笛を吹く。
「……お前の彼氏、サイテーだな」
「…………っ……!」
別にフェミニストではないし男女間の格差を埋めるために奮闘する人達への理解もあるつもりだが、同じ男として年下の恋人を庇えないのは最低だと断罪するにしては軽い口調で笑い飛ばし、唇を噛み締める少女の横顔を覗き込んで目を細める。
「目の前でてめぇの彼女を殴られても庇うことも守ることも出来ないような男、さっさと別れた方が良いぜ」
もっとも、男から見ても最低なこんな男でも良いところは何かしらあるのだろうがと、二人をほぼ同時に見下し笑い飛ばすリオンに二人は青い顔を赤くしたりと忙しかったが、少女が渾身の力でリオンの手を振り払い、己の彼氏とは逆の方-つまりは道路側-に駆け出しつつ大声を上げようとしたため、踵を返したリオンが少女の細い腕を掴んで力任せに引き寄せる。
「助けて……っ!」
その声が道路の向こうを歩く人に届く前にリオンの大きな掌に口を覆われて目を瞠ったエーリカは、さっき髪を掴まれたのはそれなりに手加減をしてくれていたのだと、再度髪を掴まれるだけではなくそのままボートの向こうへと引きずられてしまい、髪が全て抜けてしまうような痛みと恐怖に震えながら気づく。
彼氏のそばに突き飛ばされて座り込んだ少女を見下ろし、もう一度聞くがボートの操縦をしていたのは誰だと二人の顔を交互に見るが、蚊の鳴くような声で告げられたのはエーリカという名前だった。
「ふぅん、分かった」
こんな最低男を彼氏にしたお前には同情するが、それとこれとは関係ないと笑ったリオンは、つい先ほどまで腕を組んで仲睦まじくしていた彼氏を親の敵のように睨む少女の腕をつかんで立ち上がらせると、エーリカの抵抗など意に介することなく湖にまで連れて行く。
「ちょっと、何をするのよ、離してよ!」
「んー?何をするって?」
俺の大切な、命よりも大切な人と同じ目に遭ってもらうだけだと嘯き、疑問を浮かべるエーリカに口元だけで笑みを浮かべると、静かな波が打ち寄せる岸まで進んで彼女を湖に向けて再度突き飛ばす。
「きゃああ!」
突き飛ばされて湖に倒れ込んで起きあがったエーリカだが、三度髪を掴まれたことに気付いて顔中に恐怖を貼り付ける。
「やめて…っ!」
「俺の大切な人がさ、やーっとボートに乗ってくれて楽しいって笑ってくれてたのにさぁ」
どうして規則を破ったお前たちのボートが立てた波のせいで湖に沈まなければならなかったんだと、これは一体誰のせいだと呟きながら機械的に手を動かし、髪を掴んだエーリカの顔を水の中に押しつける。
「!!…やめ、…っ!」
「自分たちが楽しければ周りにどれだけ迷惑をかけても気にしないし構わない、そんなお前らのせいであいつは死にかけたんだよなぁ」
まあ死んでいないのがせめてもの救いだが、たとえ皆が許せといっても許せるものじゃないと、ようやくこの時になって己の怒りを顔と言葉に表したリオンは、背後でがたがた震えつつ地面を這ってピックアップの向こうに姿を消そうとしている青年に冷笑を送り、お前の彼氏は本当に最低だな、お前を残して逃げていったぞと笑う。
「…お、じいちゃんに…言いつけてやる…!おじいちゃんに言えば、あんたなんか…!」
リオンの手からわずかに力が抜けたために何とか顔を上げて肩で息をしたあと金切り声で怒鳴ったエーリカは、生涯初の経験を再度リオンによってさせられてしまう。
その言葉は常套句で、エーリカが気にくわないことなどがあればこの一言ですべてが己の思うように動いていたのだが、指を突きつけられたリオンが取ったのは煙草に火をつけたあと、その煙をエーリカに向けてゆっくりと吹き付けることだった。
常套句を無視されるのも初めてならば、煙草の煙を顔に吹きかけられるのも初めてで、あまりの出来事に呆然と目を見張る彼女は、サングラスを外さないで煙草を銜えたリオンが気怠そうにそれがどうしたと呟いたことにも咄嗟に気づけないほどだった。
「じじいが議員?それがどうした」
お前の祖父が偉大だとしてもそれは祖父であってお前じゃない、お前のその呪文は暴力の前では無力だと鼻で笑ったリオンは、言いたいことはそれだけかと問いかけ、返事も出来ない彼女の顎を強い力で掴むとサングラスを通しても分かる強い眼光で彼女を見据える。
「偉いのはお前のじじいであってお前じゃない」
大切なことだから二度言うぞーと、陽気なはずなのにエーリカの全身ががくがくと震えてしまうような恐怖を感じさせながら笑うリオンにそれでも彼女は精一杯の意地からか抵抗をしようとする。
「大人しくしてればもう苦しまなくて済んだんだけどなー」
まるでオペラか何かのように歌いながらエーリカの頭に手をかけたリオンは、制止するように藻掻く手を難なく封じ込め、再び湖に顔を押しつける。
「あー、今日はマジでいい天気だよなぁ。本当ならオーヴェとボートに乗って、美味いチーズを食ってのんびり昼寝をしてるはずだったのになぁ」
その計画を壊すだけではなく、大切な人の命を危機に陥れたのだから、お前にはそれ相応の責任を取ってもらおうと告げ、頃合いを見計らって顔を上げさせる。
激しく咳き込み、湖の水とともに涙と鼻水を流しながらごめんなさいとようやく謝罪をするエーリカだったが、聞こえないという言葉とともにまた水の中に顔を押しつけられてしまう。
命の危機にさらされる暴力が己の身に降りかかってくることなど想像も出来ないことだった彼女は、とにかくこの人の形をした暴力から逃れるためには謝罪をするしかないと思ったのか、水の中でも顔を上げさせられた時でもごめんなさいと謝り続ける。
必死に、文字通り命がけで謝罪を続ける彼女の耳に、その時数人の足音と止めろと言う制止の声が流れ込むが、頭を押さえつけていた戒めが不意になくなったかと思うと、強い力で水の中から助け出される。
その力は水の中から岸にまで彼女を移動させてくれたため、咳き込み鼻水混じりの涙を流しながらも意地から顔を上げた彼女は、己を助けてくれた救世主が己が一瞬にして思い描いた彼氏などではなく、リオンと体格も年も変わらない青年であり、己を見下ろす目もリオンのサングラスの奥から感じていた冷たさをまとっていることに気付き、両腕で己の身体をかばうように身を丸める。
「……もういい…もう、いいんだ」
がたがたと震える彼女の前をステッキをついた、これもまた同年代の白髪の青年がリオンの方へと歩んでいくのを呆然と見送るが、そんな彼女の前でそのステッキが手から離れて地面に倒れる横で、ぼんやりと立っている-ように見える-リオンの首にしがみつくようにその青年が腕を回して抱きしめる。
「リーオ。もう…怒りを鎮めてくれ」
もう怒りから誰かを傷つける必要はないし、その結果お前自身が傷を負う必要はないと、その場にいる皆の心に不思議と自然にとけ込む声でリオンの動きを封じたのは、リオンが通話を終えた直後に病院を飛び出して探していたウーヴェだった。
ウーヴェが己を抱きしめている事実はリオンには当初のうちは上手く伝わっていないようだったが、エーリカが気持ち悪いと吐き捨てた瞬間にリオンの中のスイッチが入ったようで、笑みを浮かべたまま彼女に向けて一歩を踏み出すが、それを押しとどめるものがウーヴェであることに気付くと、呆然とその名を呼ぶ。
「オーヴェ……」
「ああ」
ようやく気付いてくれたかと安堵に声を和らげたウーヴェは、リオンの目を隠しているサングラスを取り上げると蒼い瞳を見つめながら、まるで呪文か何かのようにもう一度自分だけが出来る呼び方で生涯の伴侶の意識を向けさせる。
「リーオ」
「……検査の結果は?」
「お前が心配だったからノルを病院に残してきた」
だから異常なしという報告を兄が聞いてくれるはずだと笑い、リオンの前髪を掻き上げたウーヴェは、丸くなる蒼い目に笑いかけて額にキスをすると、その肩に額を軽く押し当てる。
「もう、許してやってくれ、リオン」
「……でもさ、自分には何の力もないのに、偉くて力を持っているのは自分のじじいなのに、勘違いをして偉そうにしてる奴ってさ、見てるだけで虫酸が走るし反吐が出るんだよ」
ウーヴェの説得にリオンが少しだけ声の力を抜いて返すが、虫酸が走っても反吐が出てもまだ自分と関係のないところにいるのならば構わない、だがあいつはお前の命を危険に曝した。それだけは許せないと告げるとウーヴェが彼女を振り返るが、ゆっくりと首を左右に振る。
「それでも、だ。リーオ、もう許してやろう」
「どうして許せるんだ?」
「…もう彼女はお前によって十分な制裁を受けた。それに…」
あそこに立っている彼は彼女の恋人だろうが、あの様子からすると破局は免れないだろう、それも十分な制裁になっていると苦笑するとリオンが納得できないと言いたげに二人を睨み付ける。
「ああいった勘違い野郎を野放しにしてると後々迷惑になるんだよな」
だからここらでそれを思い知るべきだとも告げるリオンに一度頷いたウーヴェは、リオンの髪を撫でて気持ちを鎮めてくれと願いながら目を閉じる。
「ああ。確かに迷惑になる。でも、だからといってお前が手を下す必要はないだろう?」
本当に手を下す必要があるのはこの村の警察であり彼女の祖父や親であることを伝えてリオンから離れたウーヴェは、倒れているステッキを起こして彼女の前に歩いていくと、力のない目でぼんやりと見つめられて小さくため息をこぼす。
伝え聞いた話ではシュタイナー学校に通っているそうだが、ということは化粧や水着のせいで年上に見えるが実際は15歳前後だろう。
ウーヴェからしてみればまだまだ子どもに思える15歳の少女の前にしゃがみ込み、よほど怖い目に遭ったのかと問いかけるとエーリカが泣きそうになるのをぐっとこらえて顔を背ける。
「おじいちゃんに…言いつけてやる、んだから…っ!」
彼女が顔を背けた先には所在なげに佇む元恋人がいたが、その背後には悲鳴を聞きつけて集まってきた村の人たちや観光客の顔がいくつも見えていた。
衆人環視に曝される恥ずかしさ、リオンが与える恐怖、恋人が己を守ることも庇うこともなく我先に逃げ出したと言う現実が彼女にのし掛かり、おじいちゃんに言いつけるという魔法の言葉をただ流し出すだけになったが、苦笑したウーヴェがその言葉で今まで思い通りにやってきたんだなと呟いたため、背けていた顔を戻して今度はウーヴェを睨み付ける。
「みんな見てるんだから…!あいつを警察に捕まえてもらうんだから!」
「だったら君も逮捕されるべきだな」
「あたしは逮捕なんてされない!」
少女の顔に血色が戻りだしたのを見計らったウーヴェが、リオンのものと比べられないほど冷たい顔で笑ってエーリカの目を見張らせる。
「おじいちゃんがいるから自分は逮捕されない、か。リオンとは比べられないが、俺もそうした特権意識は大嫌いなんだ」
だからこのまま黙っていようと思ったが、きみの態度で気が変わったと立ち上がるながら告げると、すぐさまリオンが駆け寄ってウーヴェを支えるように背後に立つ。
「怖い目に遭っても好きな人に庇って貰えない、周囲で見ている人の誰からも手を差し伸べられない、そんな寂しい思いをするのが特権意識なら俺は遠慮したいね」
今のままならきみはきっと心の底から愛する人に出会うことも無ければ、例え出会ったとしてもその人から同じように愛されることはないと断言したウーヴェは、物腰の柔らかさとは対照的な鋭さと冷たさを彼女にぶつけ、まだ少女と呼べるエーリカを見下ろしながらターコイズ色の双眸を冷たく光らせる。
「何よ、偉そうに言わないで!」
「今はいいが、きみの祖父はいつまでも生きている訳じゃない」
「……っ!」
それにすら本当に気付いていないのならば、きみはシュタイナー学校どころか幼稚園からもう一度やり直して人生の基礎を徹底的に叩き込んで貰った方が良いと告げると、最早ウーヴェの興味も関心も彼女の上からは消え去り、己を支えるように背後に立っている伴侶へと向けられる。
「リーオ、こんな子どもにもうお前が手を挙げる必要はない。手を挙げるだけ無駄だ」
「…………うん」
「だからもう帰ろう。せっかく楽しみにしていたバカンスなんだ。こんなことで楽しみを奪われるなんて耐えられない」
ウーヴェの素直な感想にリオンが無言で頷くが、背後のリオンの表情や心の在処を正確に読み取ったウーヴェは、背後に向けて手を伸ばし、くすんだ金髪を撫でて帰ろうともう一度告げて体重を少しだけ背後に掛けると、しっかりと支えられて満足げに小さく頷く。
今までことの成り行きを静かに見守っていたヘクターだったが、エーリカが身体を震わせつつ拳を握って見物人に文句を言おうとしていることに気付き、彼女の行動を制するように前に立つと、顔だけをウーヴェに向けて目を細める。
「ウーヴェ、ここは俺に任せてくれ」
「…………ダンケ、ヘクター。頼む」
こういった暴力沙汰は慣れていないために上手く対処出来ないことを詫び後は任せると告げたウーヴェにヘクターが安心させるようにしっかりと頷き、やや項垂れているリオンにも後の事は任せろと告げるが、表情を切り替えてにやりと笑みを浮かべる。
「別荘にもう会長が来ていると思うが、そちらの相手は任せたぞ、リオン」
「げ!親父が来てるのか!?」
「当たり前だろう?ああ、そうだ、そろそろギュンターも病院から帰ってくるんじゃないのかな」
俺はまだ戻れないから二人の相手を任せたと笑われ、いっそこちらに残って事後処理をした方がマシだろうかとリオンが呟くものの、ウーヴェに軽く腕を引っ張られて頭を振る。
「ヘクター、頼む」
「ああ」
ギュンター・ノルベルトの秘書として長年彼の手となり足となっているヘクターに後を任せれば安心だと頷くウーヴェは、ここから別荘まで乗って来た車が建物のすぐ傍にあることも教えられて頷き、ステッキを突きながらゆったりとした足取りでエーリカと蒼白になっている彼氏の前を通り過ぎ、見物人の好奇の視線を受けて無敵の笑みを浮かべながら騒々しくさせたことを詫び、停めてあった車に一足先に乗り込んだリオンに頷きつつ助手席のドアを開けるのだった。
2014/08/17


