キラキラと真夏の太陽が水面に降り注ぎ、波が立つたびにその煌めきが増しては消えを繰り返すのを濃い色合いのサングラスの下から見ているのは、真夏の水辺に相応しくない身形のウーヴェだった。
彼が今いるのは、彼らが暮らす街から車で2時間ぐらい南下した国内有数の保養地で、その中心となっている大きく澄んだ湖の畔だった。
その湖は観光地としても名が知られていて、国内一の透明度が自慢だったため、湖を巡る遊覧船も水質を悪化させないために電気で動くものか、もしくは人力で動かせるボートなどしかなかった。
だがそれでも観光地や保養地として名を馳せるため、真夏のバカンスをここで過ごそうとする人たちや、そんな人たちを目当てに商売をする人たちが多数見受けられていた。
この保養地にウーヴェが来ることになったのは、長くもあり短くもある恋人期間を過ぎ、二人何があっても一緒にいることを神と支えてくれる人たちの前で誓った伴侶が、皆が休むときに一緒に休みたいと激しく宣ったためだった。
ウーヴェにしてみれば初秋に長期休暇を取得する理由が無くなっても習慣になっていたために何も考えていなかったのだが、リオンの泣き落としとも言える抗議に遭ってしまえば考えない訳にもいかず、結果こうして例年に比べればひと月以上も早い夏期休暇をバカンス先で満喫しているのだった。
そして、今、ウーヴェはお気に入りのブランドのハーフパンツと夏物の割には襟ぐりがあまり開いていないアイボリーのサマーセーターを着込み、湖畔にいるにもかかわらずに両足は生成のデッキシューズだった。
そんなウーヴェが腰を下ろしているラウンドソファには握りがシルバーで本体との接合部分に特徴的な彫り物がされているステッキが立て掛けられていて、そのステッキを無意識に撫でながら真夏の太陽を振り仰いだウーヴェは、ここに来るまでのひと騒動を思い出してしまい、こっそりと溜息をついてしまう。
この別荘の所有者はウーヴェとリオンになっているが、そもそもはウーヴェの兄であるギュンター・ノルベルトが購入したものだった。
売買契約書のサインのインクが乾くか乾かないかの内に譲渡契約書と共にその書類がウーヴェに手渡され、以後どれ程弟が説得しようが表面だけの不機嫌さを表そうが兄はその書類の返却や破棄を受け付けることはなく、結局数日後ウーヴェの元に別荘の鍵が届けられたのだった。
そんな曰く付きの別荘だったが、到着早々リオンが探検気分ですべての部屋を見て回り、戻ってきた時にはげっそりとしているほどだった。
部屋数はリビングとダイニングを除いた5部屋だが、各部屋それぞれにバスタブ付のバスルームがあり、メインのベッドルームと思われる部屋はウーヴェの自宅のベッドルームとほぼ同じぐらいの広さがあった。
つまり、あの広すぎるアパートと同等規模の広さだったが、さすがリゾート地にある家だと思わせたのは、二階にあるメインのベッドルームの壁の三方がガラス張りで、開け放てば湖面を渡る風が部屋の中を通り抜けていく開放感があり、その部屋のバスルームも同じく上半分がガラス張りのため、バスタブの中からも湖が見下ろせるようになっていることだった。
こんな立派な別荘をプレゼントされても素直に受け取れるはずもなく、譲渡に関する書類一式を手渡されたウーヴェが覚えたのは激しい頭痛と目眩だったが、それを渡した人物は実に清々しい晴れがましい笑顔で、とりあえず10年間の税金や維持費については前払いしてあるから気にするなと笑ってウーヴェを撃沈させたのだ。
お前の家族はお前に甘すぎる。
リオンが折に触れ呆れた様であったり感心したように告げる言葉を脳裏に響かせ、知らず知らずのうちに溜息を零したウーヴェは、背後に人の気配を感じて顔を振り向け、他の家族から年々似てくると笑われる顔を見いだして苦笑する。
それは国内外でも名を馳せる企業の社長として日々忙しく精力的に働き、つい先年には世界的企業ランク100にも選ばれる業績を残す敏腕社長であるが、ウーヴェの前では敏腕社長の片鱗を一切見せることのない、ただひたすら弟に甘い顔を見せる兄、ギュンター・ノルベルトだった。
「どうした?」
喉が渇いたのならばよく冷えたシャンパンもワインもビールもあると笑い、ウーヴェの隣にあるソファに腰を下ろしたギュンター・ノルベルトは、溜息をつく弟に首を傾げてどうしたんだともう一度問い掛けると、ウーヴェが首を左右に振って何でもないと小さく笑う。
父や兄と和解をしたものの、長年口を利くことのない生活をしていたためにやはりまだ緊張を覚えてしまうことがあり、今もそれを無意識に感じ取っていたウーヴェがステッキをもう一度撫でると、ギュンター・ノルベルトの顔に笑みが浮かんで妙案が思い浮かんだと足を組む。
「ノル…?」
「いつもそのステッキを使っているね、フェリクス」
「え?あ、ああ、うん、気に入ってるからな」
「そうか…でも予備のステッキを持っていても良いなぁ」
その言葉を聞いた瞬間、今まで感じていた僅かな憂鬱感が一気に吹っ飛んでソファの中で思わず飛び上がったウーヴェは、もうこの一本で十分だ、だから予備のステッキを買う必要はないと慌てて告げるものの、ウーヴェの慌てる声はギュンター・ノルベルトの思考力を奪うほどではなかった。
「この間良さそうなものを見つけたんだ。必要ないかどうかは使ってみてから決めれば良い」
「いや、だから、ノル、俺は今使っているこれがあれば…」
十分なんだ、その言葉を告げた途端、自分と良く似た面立ちに影が生まれ、ステッキなど幾つ持っていても構わないだろうと言い訳を始められてしまって更に慌ててしまう。
良くリオンにからかわれることなのだが、ウーヴェの家族、特に兄-実際は父-であるギュンター・ノルベルトは殊の外ウーヴェに甘い顔を見せていた。
それが長年の不仲の反動であることは明白だったため、家族が誰も制止しないのを良いことに、出張先で見つけた変わった置物や知人を通して手に入れた年代物のワインやウィスキーなどをウーヴェに送りつけて来ていたのだ。
何の行事でもない日にも送られてくるプレゼントにげっそりしたウーヴェだが、昨年の誕生日とその翌日のクリスマスのプレゼントにはリオンと二人揃って開いた口がふさがらない衝撃を受けたほどだった。
半年前の出来事を思い出して慌てて制止をしたウーヴェだが、兄の気持ちを思えば無碍に断ることも出来ないが、このステッキも家族みんながくれたものだから大切にしたいと告げると、仕方がないと頭を振ってギュンター・ノルベルトが溜息をつく。
「……まーた兄貴がオーヴェを困らせてるのか?」
「弟を困らせるのもいい加減にすればどうだ、ギュンター」
兄と弟の間に何とも言えない空気が流れた時、ウーヴェにとっては救世主のような、ギュンター・ノルベルトにとっては邪魔者のようなリオンとヘクターが微苦笑を浮かべつつウッドデッキに姿を見せる。
「お帰り、リーオ。ヘクターもお疲れさま」
「ただーいま、オーヴェ。オーヴェの好きなチーズあったから買ってきた」
「それ以上に自分が好きなチーズを買ってたけどな」
「…………」
二人を出迎えたウーヴェがヘクターに笑顔で労いの言葉を掛け、リオンを手招きして頬にキスをすると、ウーヴェの真横が居場所だと決めているリオンがデッキに腰を下ろしてソファに肘を置く。
「げ、それを言わなくても良いじゃねぇか、ヘクター」
二人で買い物をしている際の出来事を暴露されて頬を膨らませるリオンの頭に手を載せ、言葉ではなく態度で機嫌を直せと伝えたウーヴェにギュンター・ノルベルトがひとつ溜息を吐くが、ヘクターが運んできたトレイに載っている数種類のチーズに顔を綻ばせる。
「美味しそうだな」
「シャンパンとワインだとどちらが良い?」
ヘクターが差し出すトレイからチーズを摘み、ウーヴェとの間にあるテーブルにトレイを置くとすかさずリオンが手を出す。
「オーヴェ、これ食ったらボートに乗らないか?」
「……そう、だな」
「行って来ればどうだ、フェリクス。その間にランチの用意をしておこう」
リオンの何気ない問いかけに一瞬の間を置いて返したウーヴェは、ラウンドソファに顎を引っ掛けて一緒に乗ろうと再度誘ってくるリオンに少し目を伏せる。
「ボートぐらい平気だって」
泳ぐなんて言って無いし、座っているだけだから大丈夫だろうと言い募り、ウーヴェの左足を撫でたリオンは、それでも表情を明るくしないウーヴェの頬に伸び上がってキスをする。
「ダーリン。俺がいるだろ?」
その一言がウーヴェの心を傾かせることに成功したようで、じゃあ用意をするから待っていてくれと笑われ、頭上で輝く太陽のような笑みを浮かべる。
「このセーターも暑いから着替えて来いよ」
「………………」
笑顔で告げられたそれにまたもすぐさま返答できなかったウーヴェだったが、隣から伸びてきた手に前髪をそっと掻き上げられて額を撫でられた為、片目を閉じてその行為を受け止める。
「フェリクス、俺たちの宝。お前の傷は恥ずかしいものでも何でも無い」
だから左足や身体に残った傷を見せることを躊躇う必要はないと優しく諭され、照れ隠しのように顔を背けたウーヴェは、見上げてくる蒼い瞳を曇らせないと誓ったことを思い出して期待に応えるように頷くが、ワガママをひとつ聞いてくれるのならばと注文を付ける。
「良いぜ?……あ、ワインとかは……!」
「シャンパン1本でどうだ?」
ワイン1本などはダメだと言い掛けたリオンの口を封じるように満面の笑みで頷いたウーヴェは、兄と友人のヘクターが呆気に取られたように見つめてくる事に気付いて片目を閉じる。
「うぅ……。くそー。シャンパン1本だったら俺はボートとチーズだ!」
ランチはヘクターに任せるがディナーにはチーズ料理が食べたいと小さく吼えると、悔しさを晴らす為にもう一度伸び上がってウーヴェの悪戯な笑みを浮かべている唇にキスをする。
「じゃあ用意しようぜ、オーヴェ」
「そうだな」
ウーヴェの頷きに合わせて立ち上がり、ステッキを渡すのではなく腕を差し出したリオンにウーヴェも躊躇わずに手を掛けて立ち上がり、その手をステッキ代わりに室内に戻っていく。
「仲が良いのは見ていても安心出来るな」
「………………ふん」
以前のように笑って話せるようになってから教えられた二人の出逢いを脳裏に描きつつ、二人が乗り越えて来た様々な出来事も思い出したギュンター・ノルベルトだったが、ヘクターの言葉には素直に頷かずに面白くなさそうな顔になると、頬杖をついて湖へと顔を向ける。
湖面は夏の風にさわりと揺れ、遠くには観光客が乗った遊覧船がのんびりと湖を行き交っていて、訪れた人達が夏のバカンスを満喫しているにしては長閑な空気が流れていた。
「今日の夜はチーズ料理になりそうだな」
先程リオンがやけくそ気味に言い放ったのは己の好物料理で、口で何を言ったとしてもリオンの言葉に重きを置くウーヴェが他の料理を作るとも思えず、どんな料理を食べさせてくれるんだろうなと楽しみを口に出したヘクターにギュンター・ノルベルトが憮然とした顔のまま腕を組むが、ウーヴェが作ってくれるのならば楽しみだと気分を切り替えたように笑い、それを見たヘクターも仕事中は滅多に変えることのない表情を笑みにしてウーヴェが立ったソファに座り、友と同じように湖へと目をやる。
このバカンスに付き合うことになり当初は躊躇いを感じていたのだが、こんなにも穏やかな空の下で同じく穏やかに笑みを浮かべる年上の友人が見られた事でその躊躇いが解消されていく。
「……フェリクス達が戻って来るまでにランチの用意をしないといけないな」
「そうだな……パスタで良いか?」
「もちろん。俺に異論はないよ」
お前が作ってくれるパスタなら文句はないと笑うギュンター・ノルベルトにヘクターも頷くが、ただ食べるだけではリオンのことを悪く言えないと笑うと、笑みを掻き消したギュンター・ノルベルトが顎を上げる。
「リオンと一緒にするな」
「じゃあ手伝ってくれ」
笑うヘクターの腕を軽く叩いて立ち上がったギュンター・ノルベルトの視界にボートを湖に押し出すリオンの姿が見え、そのボートにハーフパンツと薄手のパーカーに着替えたウーヴェが乗っているのを確かめると、ヘクターに料理に掛かる前にシャンパンを飲みたいと笑いかけるが、あの二人はチーズを食べてから出掛けると言っていたことを思い出す。
食べたら行くと言っていたのに随分と気の早いことだと苦笑するギュンター・ノルベルトにヘクターが心配するなと笑い、指で背後のテーブルを指し示すが、そのテーブルでは大半のチーズが姿を消していて、一体いつの間に食べたんだと感心すればいいのか呆れればいいのか分からなくなるのだった。
機械の動力が起こす波ではなく、人の手によって起こされる波に揺れるボートから手を湖面に降ろしたウーヴェは、手に触れる水の心地良さに自然と笑みを浮かべてしまう。
「気持ちイイか?」
「ああ、気持ち良いな」
ボートを漕ぐ手を止めたリオンが嬉しそうに笑い、そんなリオンを見たウーヴェの顔に浮かんだ笑みも深くなり、リオンが腰を浮かせて顔を寄せてきたことに小首を傾げるが、笑みが浮かぶ唇にキスがされてくすぐったそうに笑い声を挙げる。
「どうした?」
「ん?オーヴェが楽しそうで嬉しそうなのが嬉しいだけ」
「そうか」
「そう」
場所が変わろうが何をしていようが、こうして二人でいて互いの思いを伝えられることは掛け替えのないことだと知っている二人は、新婚だという理由を差し引いても仲の良さを自然と見せ、ウーヴェがボートの縁に寄り掛かり、さっきよりも深く手を水の中に入れる。
「本当に気持ちが良いな」
「この時期のバカンスは人が多いけど気持ちイイもんだな」
これならば今年だけではなく来年以降もこの時期にクリニックを休もうとリオンが提案するとウーヴェが苦笑するが、その顔は満更でもないものだったため、今年は南にある湖に来たから来年は北海なんてどうだと提案をするが、いっその事義兄の家があるフィンランドも良いかもしれないと声を弾ませる。
「そうだな、少し長めに休みを取ってミカの森の家に遊びに行くのも良いな」
フィンランドの都市部に住む人達は大抵森や湖のある地方に別荘を持っていると聞いた事があり、ウーヴェの義兄であるミカも当然ながら森の家と呼ぶ別荘を持っていた。
その別荘に泊まって湖で遊んで森で狩りをし、サウナに入って汗を流すのも良いなとウーヴェが笑った為、リオンが更に声を弾ませる。
「絶対に行こうぜ、オーヴェ」
「……ミカに相談しておこうか」
「ダンケオーヴェ愛してる!」
ボートを漕ぎながらご機嫌の証でもある鼻歌を歌い出したリオンにウーヴェが笑い、まだ今年のバカンスが始まったばかりなのに来年の話をするのは些か早急だと苦笑をした時、別荘のウッドデッキに姿を見せたヘクターが戻ってこいと身振りで示していることに気付いてリオンがあからさまに落胆の色を浮かべる。
「もう戻ってこいってさ」
もっとボートに乗っていたかったのにと嘆くリオンに苦笑し、まだバカンスは始まったばかりでボートに乗る機会はまだまだあるとリオンを宥めるように笑みを浮かべたウーヴェは、くすんだ金髪を撫でてその顔を覗き込み、納得してくれたことに笑みを深める。
「戻るか」
ウーヴェの声に頷いたリオンは、ボートの向きを変えてゆっくりと別荘に戻ろうとするが、その時、この湖ではあり得ない筈のエンジン音が聞こえ、二人で顔を見合わせた直後、これもまたあり得ないことなのだが、手漕ぎのボートを横波が襲い、波の勢いと水飛沫にリオンが顔を顰めウーヴェも同じように顔を顰め、水飛沫の向こうに走り去ろうとする小型ボート-しかもそれは禁止されているはずのガソリンを使用するエンジンを積んでいた-を見るが、第一波の後に続く波がボートの横っ腹を叩き持ち上げてしまう。
「!!」
その瞬間はあっという間に二人に襲いかかり、リオンがオールを手放してウーヴェに手を伸ばすよりも先に、大量の水がボートを満たしたためにその勢いに負けて透明度の高い湖にウーヴェの身体が飲み込まれてしまう。
「オーヴェ!」
咄嗟の出来事には強いと思っていたリオンだが、目の前でウーヴェの身体が湖に沈む様を目撃して呆然とするものの、別荘のウッドデッキにいたヘクターにも届く大声でウーヴェを呼ぶと、転覆したボートを蹴って湖に潜っていく。
リオンとウーヴェが乗ったボートが転覆したのを別荘から見ていたヘクターは、ウッドデッキに出てきたギュンター・ノルベルトに事情を手短に説明し、ボートを転覆させた小型ボートの特徴を伝えると、ギュンター・ノルベルトがウーヴェには絶対に見せることのない冷徹な顔で室内に戻って何処かに電話をかけ始める。
「ギュンター?」
「……ヴィルマ、少し調べて欲しいことが出来た」
電話の相手がギュンター・ノルベルトが己の次に信頼している秘書だと知り、何を調べさせるのかに注意を払っていたヘクターは、この別荘の周辺で政財界に名を連ねる人物が別荘を持っているか調べて欲しいとの言葉を聞き、ギュンター・ノルベルトの思惑を悟る。
州の法律で禁止されている湖での機械を動力とするボートの操縦、それを平然と行うことから罪を犯したとしても揉み消せると思っていることは疑いようが無かった。
そしてそれを出来ると思っている-また悔しい事にそれが罷り通ってしまうのだ-のは、政財界に力を持つ人種であることも疑う余地がなかった。
だからギュンター・ノルベルトは秘書に小型ボートの特徴を伝え、たった今知らされた事故についても、ヘクターでさえも背筋が凍りそうなほどの声音で秘書に告げる。
「良いな、ヴィルマ。そのボートの持ち主を特定しろ。分かれば連絡を頼む。会長には私から連絡をする」
その声に電話の向こうの秘書が慌てたように返事をし、通話を終えたギュンター・ノルベルトは、汗を浮かべるヘクターに素っ気なく頷き、二人を迎えに行くボートを出した方が良いと告げて今度は警察と救急車の手配、そして家にいる父へ連絡を入れてウーヴェが溺れたと言う一報を伝え、その横ではヘクターが二人を迎えに行くためにボートを出す準備をするのだった。
ギュンター・ノルベルトとヘクターが小型ボートの特定を急いでいる時、ボートから投げ出されて湖に沈んだウーヴェは、衣服を着けたままの泳ぎ方を習えば良かったとぼんやりと思案し、じっとしていれば浮力によって身体が浮かぶことを思い出すが、服の重みに浮力が負けてしまうのではないかとの危惧から焦りを感じ、つい手足をばたつかせてしまう。
手足をばたつかせることで水の中での素早い動きを妨げる服が腕や足に絡んで自由を奪い始め、日頃冷静なウーヴェからそれをも奪い取ってしまう。
「────っ!!」
慌てることで自然と口が開き、あまり多く無い酸素が一気に体外に吐き出されてしまう。
己の頭上に沸き上がる酸素の泡に更にパニックに陥ったウーヴェは、水面に向けて腕を伸ばし、透明度が高いために認識できる湖面に向けて泳ごうとするが、その時、左足に鋭い痛みを感じて咄嗟に身体を丸めてしまう。
「……っ!!」
左足の痛みは水中での動きを文字通り制限する足枷で、左足を抱えるように腕を伸ばしたウーヴェは、酸欠による意識の薄れを感じ、身体が求める酸素を得る為に何とか泳ごうとするが、左足に生まれた痛みは徐々に強さを増すだけではなく、あり得ない筈の光景をウーヴェの網膜に焼き付けてしまう。
忘れたくても忘れられない端正な顔をした青年が、お前もこちらに来いとウーヴェの左足を水底に引きずり込むように引っ張っていたのだ。
その光景は酸素が薄れた脳味噌が見せた幻なのだが、命の危機に瀕したウーヴェにそれを理解する余裕はなく、悲鳴じみた声を湖の中で発してしまう。
「あぁああああ!!」
その悲鳴と共に肺の中の空気も全て吐き出されてしまい、痛みと溺れる恐怖とそれを遙かに上回る恐怖から叫び声を水中で上げ続けたウーヴェの身体に大量の水が流れ込み、その苦しさに意識を手放してしまう。
透明度が高いはずなのに何故か深海のような闇に包まれたウーヴェは、完全に意識を失う寸前に太陽を直視したような眩しさと熱を認知するが、酸欠と恐怖から朦朧とする意識が見せた幻覚なのかそれとも現実なのかの区別をつけることは出来ないのだった。
目の前で身体を丸めて湖の底に沈んでいくウーヴェに手を伸ばしたリオンは、ぐったりとするウーヴェの身体に背後から片手を回し、有りっ丈の力で光が差す水面目指して泳いでいく。
水難救助の訓練は何度か経験していたリオンだが、さすがにウーヴェを片手で抱えて泳ぐことは厳しかった。
だが諦めてしまえばウーヴェが死んでしまう事実がリオンにいつも以上に力を発揮させ、何とか水面に顔を出したリオンは、まずは自らの呼吸を整え、転覆して船底を見せているボートに腕をかけると、渾身の力でウーヴェの上半身をボートの船底に押し上げる。
「オーヴェ、オーヴェ!」
名を呼び身体を揺さぶっても返事は無く、それどころか呼吸をしていないことに目を瞠ったリオンは、こちらに向かってくる手漕ぎのボートを漕いでいるのがヘクターだと気付くと早く来いと腕を振る。
「リオン!」
近くまでやってきたボートからヘクターが身を乗り出しながらウーヴェの身体を引き寄せ、リオンがその背中を押してウーヴェをボートに押し上げると、自らも器用にボートに這い上がる。
「ヘクター、救急車を呼んでくれ」
救急車の手配と警察への通報を頼まれたヘクターは、恐ろしいほど無表情なリオンにさっきとはまた違う戦慄を覚えるが、ウーヴェの顎を軽く持ち上げると躊躇うことなく鼻を塞いで人工呼吸を始めたことに驚いてしまう。
規則正しく繰り返されるそれだがウーヴェの胸は上下せず、リオンが手を組んでウーヴェの胸を力強くマッサージし始める。
教科書に採用されるような完璧な心肺蘇生法を淡々と行うリオンの横顔は無表情で、この非常時に冷静さを喪わないことに感心すると同時に、日頃の騒々しい賑やかな顔が擬態だといつか教えられたことを思い出したヘクターは、揺れるボートの上では満足に心肺蘇生が出来ない事に気付いて全力でもってボートを漕いで別荘に戻っていく。
戻ってくるボートを見て慌てて出迎えるギュンター・ノルベルトに救急車と警察への通報を頼むと叫ぶが、どちらも手配済みだと知って硬い表情のままボートをデッキに横付けすると、まだ意識が戻らないウーヴェをウッドデッキに下ろすが早いか、今度は安定した床の上だと言う理由からさっきとは比べられない程の力を込めてリオンがウーヴェの薄い胸を圧迫し、戻ってこい、逝くなと呟きながら何度も心臓マッサージを行う。
その様は鬼気迫るものがあり、ヘクターも迂闊に声を掛けられないが、すぐ傍に膝を着いたギュンター・ノルベルトの身体が小刻みに震え始めたことに気付いて慌ててその腿に手を載せる。
「ギュンター、ウーヴェは大丈夫だ。リオンに任せよう」
ヘクターの声にリオンが頷くが、救急車のサイレンが微かに聞こえだした頃、ウーヴェの胸が自力で上下し始める。
「オーヴェ!」
動き出した心臓に力を与えるように力強く胸を押さえていたリオンは、口元に耳を宛がい微かな呼吸がなされていることにも気付くと、大量に飲んだであろう水が逆流して気道を塞がないように己の腿でウーヴェの背中を支えるが、ウーヴェの身体が悪夢を見ているときのようにびくんと跳ねたかと思うと、咄嗟に耳を塞ぎたくなるような悲鳴が響き渡る。
「ア…ッぁあああ!!」
「オーヴェ!」
左足を抱えるように身を丸めながら俺のリザードがと悲鳴混じりの声で叫ぶウーヴェにリオンが覆い被さり、大丈夫だ、リザードは何処にも行かないから大丈夫だと声を掛け続けると、ようやく声が小さくなりだして救急車のサイレンが大きく聞こえる頃にはウーヴェの狂乱が落ち着き始める。
「オーヴェ、オーヴェ!俺が分かるか?」
「……リオ、ン…、リーオ…っ!足、が…っ!」
「ああ、分かってる。医者に行って診て貰おう」
たった今心肺蘇生で文字通り生き返ったウーヴェだったが、先に見てしまった幻が脳裏に焼き付いていて、その恐怖からリオンの腕にしがみついてがたがたと震え出す。
震えるウーヴェと支えるリオンを横から見守っていたギュンター・ノルベルトは、ヘクターが救急隊員を呼びに行ったことに気付き、詳しい説明を彼らにしてくれとリオンに告げて立ち上がるが、その腕を引っ張ったリオンが説明をする間ウーヴェを頼むとギュンター・ノルベルトの目を見上げる。
「兄貴にしか頼めねぇ。……頼む」
「……分かった」
こんなに脅えて震えるウーヴェを頼めるのはあんただけだとリオンが告げると、その思いに応えるようにギュンター・ノルベルトが再度膝を着き、濡れることも厭わないでウーヴェをしっかりと抱き締める。
「フェリクス、大丈夫だ。もう大丈夫だからな」
「…ノ、ル…っ!」
「ああ。苦しかったな。でももう大丈夫だ。これから病院に行ってちゃんと診て貰おう。足以外に痛いところはないか?胸は苦しくないか?」
溺れて呼吸が止まっていたのだから脳にも内臓にもダメージがあるかも知れない、だから医者に診て貰おうと幼い子どもに言い聞かせるように優しく言葉を掛けたギュンター・ノルベルトは、ウーヴェの身体の震えだけでも取ってやりたいとの一心でずっと肩や背中を撫で、もう大丈夫だと何度も何度も繰り返していると、救急隊員を従えたヘクターが戻ってくる。
「ギュンター!」
「リオン、説明をしてくれ」
救急隊員とその後に入ってきた制服警官にも説明をしてくれとリオンに告げたギュンター・ノルベルトは救急隊員にウーヴェを預けようとするが、服をしっかりと握る手が離れなかったため、その手を撫でて冷や汗が浮く額にそっとキスをする。
「大丈夫だ、フェリクス。俺たちも一緒に病院に行くからちゃんと先生に診て貰おう」
そして身体に異常がないことを確かめてからここに戻ってきてバカンスの続きを楽しもうと額を撫でると、ようやくウーヴェの手が離れて深呼吸を繰り返す。
救急隊員の問いに何とか受け答えをするウーヴェに一安心し、その場で立ち上がったギュンター・ノルベルトは、たった今ヴィルマから連絡が入り、小型ボートを所有している可能性が高い人物のリストをメールで送ったこと、会長が激怒しながらこちらに向かっていることをヘクターに教えられて無表情に頷くと、あのボートの持ち主の特定は警察に任せるが、警察の手に負えないときは実力行使に出ると静かに宣戦布告をする。
その傍ではヘクターも同じ意見だというように頷くが、そんな二人を横目で見ていたリオンは、言いたいことがあるがそれをぐっと堪えるような表情で警官の質問に答えているのだった。
2014/07/04
ひぃぃぃぃぃ。随分とお待たせしてしまってごごごごめんなさいぃぃぃ!(うるさい)
とんでもないところで続いている気がしますが、あと少しだけシリアスが続きます(おい)


