クリニックを閉めた後、マウリッツの運転するボルボでスーパーに立ち寄り、二人で食べる為のものと飲み物を買っていたが、自宅のパントリーの一角に空き瓶が幅をきかせていることをウーヴェが思い出して些かげんなりした表情になる。
それを目聡く見つけたマウリッツが目を細め、ビールの空き瓶が転がっているのかと、あまり欠点らしい欠点が無いと思われているウーヴェの目に見えての悪癖を知っている者特有の声で笑うと、ウーヴェの頬が僅かに赤くなり、恥ずかしいところを見られた時の顔になって反らされる。
「スーパーに行くときにリオンに頼んでリサイクルに出すんだけどな・・・」
それ以上にどうやら飲んでいるようだと咳払いをするウーヴェにマウリッツがうんと頷きながら大きなカートにビールのボトルを無造作に放り込んでいき、驚くウーヴェに片目を閉じる。
「僕も一緒に飲むから今日は大丈夫だ」
「そうだな」
二人が一緒にいれば目の保養になると笑っていた事だから、これも笑って許して貰おうと、リオンが耳にすれば目を吊り上げかねないことを呟いたウーヴェの手がもう一本とビールを追加する。
「そう言えば、飲むときにいつも作ってくれたサーモンのオープンサンドがあったな」
「スモーブローだよね。ジェシカが良く作ってくれたからね」
学生時代、二人だけの時や今はもう言葉を交わすことも叶わなくなった人参色の髪の友人を交えて飲んでいたとき、軽く食べることの出来るものなどをそれぞれが作っていたのだが、マウリッツは常に他の二人を感動させ喜ばせるお摘まみを作ってくれていたのだ。
それがスモーブローだとウーヴェが知ったのは、クリニックにリアが勤務し始めたある日のランチでウーヴェの分も持参してくれた時だったが、それがまた食べたいと無意識に呟き、マウリッツがそれを丁寧に拾ったため、カートの中には焼きたてとはほど遠いパンとサーモン、ピクルスなどが入れられる。
「おじさんおばさんは元気なのか?」
「ああ、あの二人はいつも元気だよ。最近は皆とまた会うようになった事を言ったら喜んでいたかな」
マウリッツの両親が経営している小児科専門の病院で両親と一緒に働いているものの、医者になった年に家を出ているため、職場であり両親の家である病院以外では会うことも少なくなっていた。
そんな息子に二人は一体いつになれば独身宣言を撤回するのかと、何かの折に触れては伝えていたものの、一時期のマウリッツの不可解な落ち込みを通り越して命の危機が迫っているかも知れないと疑わせるその様子に気を揉んでいたが、今は病院と自宅の往復以外にも外出するようになった事に安堵していると、不安を与えていた事に気付いた息子が肩を竦めると、その友人が目を軽く伏せて小さく頷く。
「・・・俺は、ルッツとまたこうして飲めることが、嬉しい」
世間との接触を断つようになった原因を知っている-どころか結果的にその一端を担ってしまっていた-ウーヴェが少しの不安を交えて呟くと、その真意を察したマウリッツの目も伏せられるが、唇の端をほんの少しだけ痙攣させながらも笑みを浮かべる。
「ウーヴェ・・・ありがとう。僕も、うん、嬉しいよ」
こうしてまた飲めるようになった事は本当に嬉しいと、それは嘘ではないと言葉と笑顔で伝えるものの、ウーヴェが眼鏡の下で双眸を光らせたことに気付いたマウリッツが話題を切り替えるようにチョコが並ぶ棚へと顔を向ける。
友人のその態度から、外出できるようにはなったが、心に負った傷が癒えていないことに気付くと同時に、誰かいないのかとの疑問も芽生えてくる。
悲喜こもごもの出来事の中で心に傷を負うことがあった時、己には掛け替えのない太陽のような存在のリオンがいるのだと改めて気付き、そんな存在がこの友人にはいないのかと思ってしまうが、それを口に出すことは出来なかった。
マウリッツが友人達との接触をも断った理由が、今はいなくなった人参色の髪の友人の死である事を知った今、その話題を己が口に出してはいけないとの思いが強くあったのだ。
だからマウリッツからのアクションを待っていたウーヴェだが、こうしてそのアクションをされた後、どのような態度で言葉を返せば良いのかが分からなくなって口を閉ざしてしまう。
仕事となれば驚くほど饒舌になるのに、己の感情を表すときには話す事を覚えたばかりの子ども以下のような己に自嘲してしまう。
「・・・ウーヴェ、・・・上手く言えないけど、僕は嫌いな人とはプライベートを一緒に過ごしたいと思わないよ」
だから、今ここにいるのは紛れもなく己の意思だからと、決して他者に侵されることのない強い意志を秘めた目を細め、ステッキの握りをぎゅっと掴むウーヴェに笑いかけたマウリッツは、今日の飲み会を許してくれたリオンにチョコを買っていかないかと更に笑いかけ、ウーヴェに無意識の溜息を吐かせる。
「そう、だな」
「なんだ、ウーヴェも結局リオンには甘いんだ」
「・・・拗ねるとうるさいんだ」
「確かに拗ねられるとうるさいだろうね」
何しろ機嫌が良くても悪くても騒々しいと言われるリオンなのだ、拗ねると確かに存在が煩くなると笑うマウリッツにウーヴェも同意をするが、得体の知れない感覚が心の奥底で大きくなっていくのを振り払おうと頭を一つ振る。
「ウーヴェ?」
「何でもない。スモーブロー、楽しみだな」
「そうだね。ジェシカ直伝だから絶対に美味しいよ」
学生の頃バイトで入っていたカフェで覚えたそれだからと笑う友人に頷き、必要なものは全てカートに入っている、後は支払いを済ませて家に帰るだけだと重荷を下ろした顔で呟き、早く帰ろうと少し浮かれたような声で返されて再度頷くのだった。
最近の独身男は料理が出来なくても生きていけるが、自分の好きなものを好きなだけ食べたい故に自炊することを覚えたと笑いながらスーパーで買った材料で手際よくスモーブローを作ったマウリッツは、酒の用意をリビングのテーブルに並べているウーヴェに笑顔でそれを差し出すと、ウーヴェの顔にも笑みが浮かぶ。
「うん、これだ。久しぶりに食べられるんだな」
「僕も久しぶりに作ったよ」
そうだ、カール達にも二人で飲んでいる写真を送りつけてやろうと笑う友人に同意し、ビールをグラスに注いでテーブルセッティングをすると、マウリッツがスマホで写真を撮り始め、ウーヴェの横に来たかと思うと、二人が料理と一緒に写っている写真を撮って片目を閉じる。
「羨ましがられる?」
「だろうな」
屈託のない少し悪戯っ気を込めた笑顔のマウリッツにウーヴェも同じような顔になり、さあ、食べて飲もうと笑うと、マウリッツも嬉しそうに頷き、グラスを手に取る。
「乾杯」
「乾杯」
二人での家飲みは本当に久しぶりだとどちらからともなく笑うと、ほぼ一息でグラスを空ける。
テレビでニュースを流すと職業柄気になってしまうことが耳から入ってくるため、静かに本を読みたい時などに利用している、リオン曰く、睡眠薬代わりの教養番組にチャンネルを合わせるとマウリッツがビールを飲みながら変わってないと笑う。
「そうか?」
「そう。学生の頃もそうだったよね」
三人でいる時も本を読んでいるかテレビを見ても教養番組しか見ていなかったと笑われ、確かにそうかも知れないと苦笑すると、だから色々な事を知っているのだろうと頷かれる。
「知らないことも一杯ある」
「そう?」
「うん。ルッツが最近は何をしているかは知らない」
学生時代にはほぼ一緒に行動していたし、誰かから近況についての話は入ってきたが、今はその話がカスパルや他の友人を通じても入ってこないと上目遣いに友人を見ると、申し訳なさそうな顔で肩を竦められる。
「・・・反省してます」
「反省だけなら誰でも出来るな、ルッツ」
マウリッツの殊勝な態度にウーヴェが珍しく上段から言葉を投げかけると、反省の証に今度身体を動かさないかと問われて眼鏡の下で目を瞬かせる。
「・・・足が・・」
「その言葉は他の人ならともかく、きみからは聞きたくないし聞かないよ、ウーヴェ」
足が悪くなった、確かにそれは不幸なことだが、身体を動かさない理由にはなり得ないとビールグラスをずいと胸元に押しつけられて思わず仰け反ったウーヴェは、学生時代はカスパルなどと一緒にテニスをしていたが、ウーヴェがやりたいと思えば車椅子でテニスをする方法もある、スカッシュを楽しむことも出来る。楽しく身体を動かす方法はいくらでもあると笑われて目を瞠るが、車椅子でのテニスもスカッシュもやってみたいなと心から思った為、小さな笑みを浮かべて勝負をしないかと持ちかける。
己の下手な励ましに乗ってくれる友人が嬉しくてマウリッツも同じような笑顔で頷くと、先日知り合った車椅子テニスの有名なプレイヤーがいるから彼に紹介して貰う事を約束し、近いうちに皆で集まってテニスを楽しもうと笑う。
「皆で勝負をするのも久しぶりだなぁ。楽しみだな」
「そうだな」
今はまだ不安の方が大きいが、きっとこの友人達ならばウーヴェの足の障害を必要以上に気に掛けずに付き合ってくれるだろうとの確信を長い付き合いから抱き、楽しみだと笑うマウリッツのグラスにビールを注ぐ。
「・・・ウーヴェ、ありがとう」
「どうした?」
「うん・・・まだ時々、外に出ることが億劫になる事がある」
だから今日もそんな自分が嫌できみのクリニックに来たんだと、今日の来訪の真意を伏し目がちに伝えるマウリッツにウーヴェも少しだけ時間を掛けてその隣に並んで座り直すと、うんと小さな声で返事をする。
テレビの中では科学者が生真面目な顔で訪れるかも知れない小惑星との衝突の確率を解説しているが、今隣で伏し目がちに己の思いを口にした友人の心が晴れやかになる確率を導き出す式を教えろと内心で毒突き、好きなものと友人を掛け合わせれば晴れるのではないかと気付くが、隣から聞き取りにくい声で小さな呟きが聞こえた瞬間、その思考が霧散する。
「・・・ここに、あいつがいれば、って・・・」
今でも何かの折りにそれを考えてしまう事があり、そう考えるだけで全ての時が止まってしまい何も出来なくなると続けて聞かされたウーヴェは、高い天井を仰いできつく目を閉じる。
大学の頃から、顔を見て声を聞く事も出来なくなった今でも二人の間にいる、もう一人の友人の存在。
二人の関係を一時期ぎくしゃくさせた彼の存在だが、マウリッツの中では途轍もなく大きなものだったと改めて教えられたウーヴェは、無意識に拳を握り、心の中でのみ会話が出来る友人に文句を言いたくなる。
「・・・ごめん」
暗い雰囲気になるから外出を避けていたが、やはり来ない方が良かったとマウリッツが呟いた瞬間、ウーヴェが己でも驚くほどの強さでそれを否定する。
「謝るな、ルッツ。俺はお前とまたこうして飲めることが嬉しいと言ったんだ」
だから雰囲気が暗いとしても驚くほど陽気だったとしてもそんなことは関係ない。
初めて見たかもしれないウーヴェの怒りにも似た感情表現に飲まれそうになったマウリッツだったが、唇を噛んでプラチナブロンドを何度も左右に振った後、ビールを飲み干してテーブルに大きな音を立てて置く。
「そんなきみだから、あいつも好きになったんだろうな」
いつまでも過去に囚われてウジウジしている自分とは違い、どんなに辛いことがあっても前を向いて生きている、そんなきみだからこそあいつも惹かれたんだと、己の額に拳を充てて昏い顔で笑うマウリッツにウーヴェは特に何も言わずにソファの上で友人に正対するように向き直る。
「暗くなるし、こんなことは好きじゃないから思いたくなかった。でも・・・」
ウーヴェに聞かせているようで己自身に呟いている事がウーヴェには理解出来たため、まるで患者に臨むような表情を浮かべてしまうが、隣で苦しんでいるのが友人である事を思い出し、頭を一つ振って気分を切り替えるように細く息を吐く。
「・・・ルッツ」
「きみが、羨ましかった・・・!」
学生の頃からずっとずっと羨ましかったと哄笑の中で告げられたウーヴェは、友人の初めて聞くような笑い声の中に悲痛な思いを感じ、羨ましいと思いながらも嫉妬という暗い感情を抱かずにいてくれた事にも気付くと、無意識に手を伸ばして俯く金髪を胸元に抱え込んでしまう。
「・・・っ!」
「独りで、苦しかったな、ルッツ。気付いてやれなくて・・・辛い思いを、させた」
もう一人の友人、オイゲンへの思いに気付いてやれず、己の鈍感さから今まで幾度も辛い思いをさせてきて悪かったと、過去の己を殴りつけたい苛立ちを抑えつつ、今は友人の為だけに謝罪をしたウーヴェの胸に悲痛な思いがぶつけられる。
「どうして、僕じゃな・・・っ!どう、して・・・っ!」
今は亡き友人が愛したのはどうして己ではなく、己が最も大事にしている友人なんだと、本人も人に見せるのは初めてかも知れない激情を、羨ましいと告白したばかりのウーヴェの胸にぶつけたマウリッツは、感情の堤防が決壊した今、それを押し止める方法が分からない子どもに戻ったようで、どうしてなんだと繰り返すことしか出来なかった。
「どうして、僕じゃなかった・・・っ!!」
「・・・ああ。どうしてルッツじゃなかったんだろうな」
こんなにも想っていたお前ではなく、その思いにすら気付けなかった己がどうして彼から愛されていたんだろう、恋愛の神とやらがいるのなら底なしに意地が悪いと、己の友人を想って想像上の神に毒突いたウーヴェは、胸に何度もぶつけられる悲痛な思いを受け止めながら、頭の片隅では己が巻き込まれた誘拐事件の後、病室で恩師に告げた言葉を思い出していた。
想っている人に想われている、それだけで己は幸せなのだと、あの時病室のベッドの上でアイヒェンドルフに告げたその言葉の重みが降りかかり、目の前で激情をぶつけてくる友人の存在とによって押しつぶされそうになったウーヴェだったが、顔を上げて今は己の思うように動かすことが出来なくなった左足に以前のように意識を向ける。
最早そこには存在しない、壊されてしまったリザードから力を分け与えて貰っていた時の様に無意識に左足を動かそうとするが、ぴくりとも動かなかった為、情けないと自嘲しそうになるのをぐっと堪え、それならばと右手薬指に嵌まっているマリッジリングに意識を向ける。
どうか力を貸してくれと祈ったのは、神でも恩師でもなく今夜の飲み会を認めてくれたリオンで、頼むと口の中で呟いたウーヴェは、己の胸元を掴んでただどうしてと繰り返すマウリッツの背中をしっかりと抱きしめ、震える髪に顔を寄せる。
「本当に、どうして、だろうな」
感情に身体を震わせる友人が最も望んでいるであろう言葉も理解出来ず、余りの情けなさに自嘲してしまいそうになるのを必死に堪え、激情をぶつけてくるマウリッツをただ抱きしめることしかウーヴェには出来ないのだった。
一時の激情が去ったのか、マウリッツが何度かしゃくり上げるような呼吸を繰り返したかと思うと、己を抱きしめているのがウーヴェだと思いだして瞬間的に羞恥を覚えるが、激情の嵐の外側から聞こえてきた声もウーヴェのものだと気付くと、震える腕をそっと痩躯に回して弱々しいハグをし、その動きにウーヴェの背中がぴくりと揺れるが、まったく変わらない強さで背中を抱き返し、頭に頬を宛がいながら口を開く。
「・・・少し落ち着いたか、ルッツ?」
「・・・情けない所、見せた。ごめん・・・」
いい年をした男が子どもみたいに泣き喚くなんて恥ずかしいしみっともない事だと自嘲に肩を揺らすマウリッツが見えなくても気にしないで頭を振って否定をしたウーヴェだったが、生真面目に返事をすれば友人がもっと羞恥を感じてしまうとの思いから少しだけ意地の悪い声で笑いかける。
「ルッツのこんな姿、今まで誰も見たことが無いだろうな」
「・・・あるわけないよっ」
ウーヴェの声に勢いよく顔を上げ、泣き腫らした目を羞恥に細めながら珍しく声を荒げるマウリッツにウーヴェがとっておきの笑顔で頷き、うん、ないよなともう一度頷くと、マウリッツが袖で目元をぐいと拭う。
「顔、洗ってくるか?」
「・・・うん。────ウーヴェ」
「ん?」
ウーヴェの言葉に促されるように立ち上がり、背中を向けて小さな声で名を呼ぶマウリッツにどうしたと苦笑しつつ問いかけると、肩越しに振り返った端正な顔に雲の切れ間から差し込む光を見たときのように眩しい笑みが浮かび上がる。
「恥ずかしい所見せたけど、きみだから良いか。────ダンケ、ウーヴェ」
「どういたしまして。・・・・・・ルッツ、スモーブローもほとんど食べてない。ビールもまだまだ残ってる」
だからどうだろう、二人で酔いつぶれるまで飲もうと笑うウーヴェにくるりと振り返ったマウリッツが、きっと心の底から浮かべている事を思わせる笑みを顔中に広げ、小さく親指を立てる。
「リオンに怒られないかな?」
「大丈夫だ」
リオンの扱いならば任せておけと笑うウーヴェにマウリッツも肩を揺らし、それならば心強い、顔を洗ってくるから飲み直しだと笑って顔を洗うためにキッチンへと小走りに向かうが、ウーヴェの口からは無意識の安堵の溜息が零れ落ちるのだった。
久しぶりにマザー・カタリーナのオバツタを満足するまで食べ、またカインと文字通りの下世話な話題で盛り上がり、ブラザー・アーベルに呆れた様に何度も首を横に振られながらも家とはまた違う安堵感故にのんびりとしすぎた事に気付いたリオンは、ウーヴェが心配していないかと思いつつ電話を掛けてみるものの、コールが10を越えても穏やかな、今は旧友との時間を楽しんでいるだろうウーヴェの声は聞こえてこなかった。
電話に気付けないほど盛り上がっているのかと苦笑しつつ帰ることをマザー・カタリーナに伝えると、二人で一緒に食べなさいと、いつの間にか用意していたドーナツを袋に入れて手渡してくれる。
そんな母の頬にキスをし、ブラザー・アーベルの肩を叩いた手でカインの腹に拳を宛がうと、同じように腹に拳が押しつけられる。
「吐くから押しつけるな」
「お前もだろうが」
玄関先でも学生時代と何ら変わらないやり取りをする二人をマザー・カタリーナがにこにこと笑顔で見守っているが、早く帰らないとウーヴェに心配を掛けますよと伝えると、リオンの頭が一つ上下に揺れる。
「おい」
「ん?なんだ?」
カインの呼びかけに首を巡らせたリオンは、自宅で飲んでいるウーヴェの友人、お前がさっき考え込んでいた違和感は何だとタバコに火を点けつつ問われて目を瞬かせるが、ウーヴェはどれだけ辛い事があったとしても前を向こうとするが、その友人は前よりは後ろを見ているような感じがすると返し、あぁ、それが違和感かと己の言葉に納得してしまう。
「似ていると思ったけど、決定的な違いはそれだな」
「後ろ向き?」
「上手く言えねぇけどな、オーヴェは俺ほどじゃねぇけど、考え方はどちらかと言えばポジティブだ。人に前を向けと言うときは自分でもそうしようと思っているし実際そうしている。でもそいつは言葉では前を向くと言いながらも実際は出来てねぇ」
「ネガティブって事か?」
「オーヴェのダチだから本当にネガティブなヤツはいねぇと思うけど、どちらかと言えばネガティブ寄りな感じだな」
そういう所が良いと思う人もいるだろうから、そんなパートナーなり友人なりがいれば幸せなのにと、マウリッツの幸せをウーヴェの友人というフィルターを通して願ったリオンは、カインがぽつりと呟いた言葉に目を瞠ってしまう。
「ウーヴェがいるから大丈夫じゃないのか?」
お前の話を聞いたり、また回数は少ないが食事だったり酒の席だったりで一緒になったウーヴェの言動を見ていると、お前が思い描く幸せはその友人のすぐ傍にあるんじゃ無いのかと、珍しくカインが人を褒めたことに咄嗟に気付けなくて呆然としたリオンだったが、切れ長の目元がうっすらと赤くなったことに何故かリオンも顔を赤らめそうになる。
「・・・早く帰れっ」
「うるせぇっ。言われなくても帰るってーの!」
何故か照れ合う二人にクスクスと笑い声を零しながらマザー・カタリーナが今度はウーヴェと一緒にいらっしゃいとリオンに声を掛け、リオンもダンケマザー、おやすみと再度頬にキスをし、いつもと変わらない優しい態度で見送ってくれる家族同然の男女に手を上げて出て行くが、車に乗り込んで冷えてきた事を車内の温度で知る。
「うー、寒くなってきたなぁ」
こんな夜は早く帰ってウーヴェに抱きついて暖を取ろうと、タバコに火を点けつつ暢気な声を上げるリオンだったが、自宅に帰ってリビングを見ればそんな思いが一瞬で掻き消えることなど当然今のリオンに分かるはずもなく、早く帰ろうと自作の帰宅ソングを歌いながらステアリングをノックするのだった。
来客用のスペースにマウリッツのものらしいSUVが停まっているのを確かめたリオンは、今夜はマウリッツが泊まっていくことを思い出し、キーホルダーを指に引っかけてくるくると回転させながらエレベーターに乗り込むと、どんな感じで飲んでいるのだろうかと想像する。
ウーヴェと似ているようで決定的な違いを持つマウリッツだが、大人しそうに見えて実は己の意志をしっかりと持っている男である事は、ウーヴェが大学時代から付き合っている事からも理解出来るが、先程カインに指摘されたようにネガティブな所もあるように思えていた。
ネガティブな考えは人それぞれで悪いとも良いとも言えないが、リオンがそれをマウリッツの性格として捉えたときに感じた微妙な感覚のずれが何なのかを思案していると、エレベーターが自宅フロアのある最上階に到着する。
鼻歌交じりにたった一つのドアを開け、今帰ったぞーと歌うように呟きながら廊下を進んで明かりが漏れているリビングのドアを開けたリオンは、目の前の光景に絶句し、ドアに手を掛けたまま石化したように硬直してしまう。
たっぷり50まで数えられそうな時間、同じ姿で微動だにできなかったが、ソファの上からウーヴェの小さな苦痛の声と右手が震えながら持ち上がった事から我に返り、ソファを回り込んだリオンが発見したのは、真っ赤な顔で眠りこけながらウーヴェを羽交い締めにしているマウリッツと、そんな友人からの強烈なハグに顔面蒼白になって苦悶の表情を浮かべて助けを求めているウーヴェの姿だった。
「・・・オーヴェ・・・?そんな趣味あったっけ・・・?」
「誰も、好きでこんなことをしてるんじゃない・・・・・・っ!!」
蒼白になって珍しく慌てふためくウーヴェにリオンがぽかんとするが、事情を察した途端、込み上げてくる笑いを抑えることが出来ずに肩を揺らしてしまう。
「・・・笑っていないで助けろっ!」
「あ、ああ、うん、でもさ・・・」
これはきっとカスパルなどが見れば抱腹絶倒か茫然自失ものだと笑い、ウーヴェの救難信号を無視して己のスマホを取りだしたリオンは、何をする気だと驚くウーヴェに笑えと無理難題を吹っかけながら写真を撮る。
「・・・アニキに送ってやろうっと」
「・・・人が苦しんでいるのを尻目に良い度胸だな、リオン・フーベルト」
リオンの浮かれ気分を吹き飛ばす様な氷河期からの声がリビングに低く響いた瞬間、スマホをソファに投げ捨てたリオンが、今までの態度などウソだと教えるように素早くマウリッツの腕を取ってウーヴェを拘束から救出するが、己の頭上に落ちた拳に悲鳴を上げる。
「イタイイタイ痛いっ!」
「う・る・さ・い!」
「ぎゃー!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、お願い許してオーヴェ!!」
くすんだ金髪に拳をぐりぐりと押しつけながら鼻息荒くうるさいと言い放ったウーヴェの手を掴んで必死に防御しようとするリオンだったが、今回は己の言動が完全に反省しなければならないものだと理解したのか、ごめんなさいとその場に膝を折って座り、ウーヴェに対して殊勝な姿を見せる。
「・・・まったく」
「だってさ、帰ってきたらオーヴェがマウリッツから熱烈なハグされてるんだぜ?アニキに絶対に見せなきゃだめだろ?」
「見せなくて良いっ!」
リオンの上目遣いの言葉を勢いよく否定したウーヴェだったが、マウリッツが何事かを呟きながら寝返りを打ったため、二人でつい口の前に指を立ててアルコールによって赤くなった端正な顔を見下ろしてしまう。
「・・・どれだけ飲んだんだよ」
「・・・そのことについては、明日本人から言わせようかな」
「あ、逃げやがった。マウリッツがこれだけのビールを一人で飲むわけねぇだろ?」
また穏やかな寝息を立て始めたマウリッツに安堵の溜息を零した二人だったが、リオンがテーブルの上に並ぶビール瓶やワインボトルに呆れた様な目をウーヴェに向け、形勢が逆転したことを悟られないように顔を背けたウーヴェが聞き取りにくい声で呟くが、逃げやがったとリオンに呟かれて肩を揺らす。
「まったく。飲んでも良いとは言ったけどなー」
どこかの誰かさんは身体を心配して忠告している俺の言葉などまったくこれっぽっちも聞き入れてくれないんだからなーと、恨みがましい言葉を吐き出し始めたリオンにウーヴェが首を竦めるが、こんな時のために買って来ていたチョコを思い出し、立ち上がる事をリオンに伝えると、不満をブチブチ零しつつもウーヴェの手を取ってソファから立ち上がらせて己の腰に腕を回させる。
「ほら、オーヴェ。どこ行くんだ?」
「パントリー」
「パントリーにもリサイクルに出すビール瓶あったよなぁ?」
スーパーで買い物をしているときに危惧していた事を思い出したリオンの声にひっそりと溜息を零したウーヴェだったが、こうなれば仕方が無いと腹を括ったかと思うと、リオンの名をそっと呼んで蒼い双眸をこちらへと向けさせる。
「リーオ」
「ん?」
「・・・うん、いつもありがとう。お前が忠告してくれることが分かっているのに、ついつい甘えて飲み過ぎてしまう」
これからはその忠告を聞いて飲み過ぎないようにするから許してくれと、普段では見られない下手からの宣言にリオンの目がみるみる見開かれた後、ぶちゅっと頬にキスをされる。
「陛下は策士だ」
「そうか?」
「そう!そんな顔をされたら逆らえないってーの!」
まったくと、ぶつぶつ文句を言うリオンだったがその顔は満更でもないもので、ウーヴェも眼鏡の下で目を細めてお返しのキスを頬にする。
「パントリーにお前の好きなチョコがある」
「いやっほぅ」
浮かれながらも同じ歩幅でパントリーに歩いて行くリオンの腕をそっと撫でたウーヴェは、ダンケと小さな声で礼を言いリビングから出て行く。
その二人の後ろ姿を、頭を仰け反らせた逆さまの世界で見守っていたマウリッツは、二人の姿がリビングから消えると同時に寝返りを打って床に頬杖をつくと、羨むような、それでいて自慢しているような顔になる。
己を心配し、酔いつぶれても邪険にせずに最後まで面倒を見てくれる心優しい友人とそのパートナー。
二人の間にきっと己が知らない大小様々な出来事があり、それを今のように互いに寄り添いながら乗り越えて来た事を簡単に想像させる後ろ姿に、小さな溜息とともに思わず本音が零れ落ちる。
「・・・ぼくも、あんな関係を誰かと作りたい、な」
学生時代に好きになった人が友人を愛している事実を知った直後に独身宣言をしてしまい、それによって自縄自縛をしてきた人生だったが、それを撤回しても良いのならばしたかった。
誰もが羨むでは無く、自分たちだけの関係をしっかりと築ける相手と出会うことが出来れば、その時は独身宣言を撤回しようと納得の溜息を吐くと、組んだ腕に頬を載せて顔を伏せ目を閉じるが、その顔にはここに来るときに覆っていた暗い影の代わりに、リオンや見慣れているウーヴェですらも見た直後に思わず赤面してしまいそうな穏やかな笑みが浮かんでいるのだった。
2018.10.20
さすがはウーヴェのお友達。感情の起伏の激しいというか、噴火規模で感情を爆発させないで下さいっ(;´Д`)


