オイゲンが四人で飲み会をするという連絡を受け取ったのは、カスパルとリオンが病院で再会したその日の午後-カスパルが出席した学会が終了した直後-だった。
可能ならばすぐにでも飲みに行きたいというカスパルの思いが文面から読みとれるようないつもとは違って内容のみを伝えるメールだった為、仕事の合間を縫って返事をしようと考えつつも、リオンとウーヴェが揃って顔を出す場所に出向きたくないと言う思いが強くあり、その日の内に返事をする事が出来ずにいた。
ギムナジウムをともに過ごしその後の大学生活でも面白おかしく、時には辛い事を乗り越えながら一緒に医師の道を歩んできたウーヴェに対する思いが、彼の恋人を紹介された時から抑えきれなくなりつつあったのだ。
ギムナジウムで初めて出会ったときに陰のある奴だと決めつけて近寄ることは無かったが、同じクラスになり交流を深めていくにつれ、その陰の原因の一端を教えて貰った事から、気が付けば何故か一人にすることに不安を抱くようになっていた。
当初は友人として傍にいた彼だが、時を経てウーヴェの事をゆっくりと知るようになってから、心の中で彼にも予想が出来なかった反応が起こりだしていた。
その予想外の科学反応的なそれが更に長い時間を掛けて反応を続けた結果を先日の夜に目に見える形として突きつけられてしまったのだ。
心の中に存在する感情として仄かに認識していた彼への思いだが、その彼が年下の同性の恋人を紹介した事で一気に腹の底で弾けて熱を帯びたのだ。
明確に意識していなかった彼への思いを突きつけられてしまい、居たたまれなくなった時に職場からの呼び出しを受けて逃げるように彼のそばを離れたのだ。
今まで彼が付き合ってきた女性達に対しては嫉妬することもなかったのに、得体の知れない目つきをする青年を恋人だと紹介されただけで目の前が真っ赤に染まるような嫉妬を感じてしまったのかと己の中で言葉を転がしてみるものの、出てきた答えはただひとつ、その青年が気にくわないという言葉だけだった。
前回は仕事の呼び出しがあった為にその場から離れることが出来たが、さすがに今度はそうもいかないと気付くと、さまざまな感情が入り混じって暗澹とした思いとなって腹の底に蓄積され、次に顔を合わせた時には誰かを激しく傷付けてしまう事も予測できてしまう。
傷付けてしまう相手がカスパルならば後日酒の一杯でも奢って仲直りすることは出来るが、先日の様子とカスパルのメールを読んだ今、己のこの過激な思いが向かう先はただ一人で、その結果としてウーヴェが最も傷付く事になりかねなかった。
彼を傷付けてしまうことだけは避けたいオイゲンは、思わず自嘲しつつ額に拳を宛がってデスクに肘をつく。
カスパルとウーヴェと一緒に酒を飲んで美味しい食事をして楽しく笑って過ごせる時間は彼にとって破綻し掛かっている結婚生活の中で一筋の救いのようなものだったが、そこに自分の知らない存在が入り込み、自分以外の友人達がその存在を認めている事にどうしても訳の分からない怒りを感じてしまう。
その怒りの根源を見据えれば、腹の底に蓄積している嫉妬と言う名のどろりとした感情と同じ顔をしている事に気付くが、怒りの炎に遮られて本質にまで目を向けることが出来ないでいる彼は、ただ次にリオンと顔を合わせた時に己の感情をコントロール出来る自信もなかった。
妻が若い医師と不倫をしている事を上司に告げられた時でさえも嫉妬に怒り狂う顔など見せなかったが、ウーヴェが年下の男と付き合っていると知ったときの衝撃を思い返すだけで手当たり次第にデスクの上のものを投げつけたくなってくる。
何故己ではないのかと、冷静に考えれば何を言っていると誰もが思うような言葉が脳裏に浮かび、学生の頃から傍でずっと見守り続けてきた自分ではなく、自分たちの知らないどんな人生を歩んできたのかも知らない男とどうして付き合っているとの疑問が浮かび、直接ウーヴェの口からその話を聞いたことがない事も思い出す。
次に四人で飲みに行くのも良いが、その前に何故リオンと付き合いだしたのかを聞かせて貰おうと、何かの救いをその言葉にだけ込めた様に頷いたオイゲンは、カスパルに近いうちに日程調整をしてくれとだけ返し、やや躊躇った後にウーヴェの番号を呼び出して携帯を耳に宛がう。
『Ja』
聞こえてきた声は耳に優しい穏やかなもので、今日の仕事が終わっている空気を伝えてきてくれた事に安堵し、オイゲンだと名乗ると携帯の向こうの空気がふっと柔らかさを増す。
『オイゲン?仕事は終わったのか?』
「ああ、俺はな。お前は?」
デスクに座って足を揺らしながら壁に掛かっている雄大な山の写真へと目を向けると、今日は少し難しい患者が続いたから疲れたと苦笑混じりの声が聞こえ、お疲れ様だなと心からの同意を示すと苦笑が深くなる。
「なあ、ウーヴェ」
『なんだ?』
「カールからメールが届いた。四人だけで飲みに行きたいって?」
『ああ…リオンを随分と気に入ったらしい』
だから今度はゆっくりと話が出来る四人でどうだと誘われたと告げられ、目を伏せながら確かにこのメンバーだとゆっくり話が出来ると笑うが、その笑いをすぐに納めて深呼吸をすると、その前に二人で会えないかと小さく誘いながら目を閉じる。
『うん?別に構わないけれど、どうかしたのか?』
オイゲンのその誘い方から何かを感じ取ったらしいウーヴェの口調が僅かに変化した事に気付き、ここの所苛々してしまっていて何も考えたくないから飲みたいと思っていることを若干慌てたように告げると小さな小さな笑い声が耳朶を擽る。
『この金曜なら遅くまで付き合えるな。どうだ?』
ウーヴェの少し悪戯っ気を込めた柔らかな声に誘われるようにもう何年も昔の光景が脳裏に浮かび、あの頃いつもオイゲンの部屋で夜更けまで二人で好きな本や写真を見ながら夢を膨らませてはその世界で生きる実感を得ようとしていたが、その頃と全く変わっていない声が週末の予定を確かめてきた為、振り返ってカレンダーを見ると、週末の予定は空白になっていた為、大丈夫だと頷いて片肘に掌を宛がう。
『何処で飲む?いつもの店にするか?』
「店も良いが、ああ、そうだ、この間の写真をプリントしたのもを渡したい」
先日マッターホルンから帰ってきたばかりで再会し、カメラのモニターで確認をした写真を現像したことを忘れていたと告げ、いつものように記念として持って帰ってきた石も渡したいから家に来ないかと笑うと、やや躊躇った後に奥さんの都合はどうなんだと問われて沈黙してしまう。
『オイゲン?』
「…妻のことは気にするな」
人の心の機微に関しては仲間内でも最も敏感なウーヴェに悟られないように気をつけつつも声に冷めたものが潜むのを止められなかったオイゲンは、短い沈黙の後にただ一言分かったと答えられて無意識に安堵の溜息を零し、当日仕事が終われば連絡をすると伝えて通話を終える。
マッターホルンで写したものや今までに撮りためてきたビデオなども一緒に見ようと決め、学生の頃のように適当なものを食べて酒を飲んで可能ならば一夜を明かそうとも決めると胸の裡で燻っていたものが何処かに消え去ったようで、久しぶりに胸が空いたような心地良さが溢れてくる。
その気持ちよさが溢れた心のままで帰路に就こうとデスクから立ち上がったとき、ドアがノックされて気軽に答えると、自分の好みではない化粧をした妻が立っていた。
その顔を見ると胸の奥に広がった晴れ間が一瞬にして曇ってしまうが、極力その苛立ちを顔に出ささないように拳にだけ力を込めて妻を見る。
「……何だ?」
「父に用があって病院に来たの。仕事が終わったのなら食事をして帰りましょう」
父の用事だと言っているが何処まで信用できるんだと、彼女の言葉に胸の裡で冷たく密かに笑ったオイゲンだったが、ふと耳の底にじわりと残っているウーヴェの声を思い出すと同時に、妻をも信じられなくなっている己が姿を消して学生の頃のような週末を過ごせる事がただ嬉しいと喜ぶ己が顔を出す。
その気持ちに胸を明け渡せば妻の化粧も身に着けているアクセサリーも、義父の用事と言う名の情事の疑惑も苦痛にはならず、何が食べたいと優しく問いかけて妻の目を見開かせてしまう。
「どうした?」
「何でも無いわ…ね、あなたの行きたい店は無い?」
まるで誘いになど乗ってこない事を前提に話していたかのように驚く妻に苦笑し、最近忙しくて二人で出かける事もなかったことを反省している表情で告げて妻の肩に腕を回すと、嬉しそうに妻の身体が寄り掛かってくる。
不倫相手の若い男にも同じような顔を見せているのだろうと思う冷たい己はやはり完全には消え去っていないし不愉快極まりないが、妻の不倫を責めるつもりなど全く沸き起こってこないオイゲンは、数日前に妻の不倫現場の写真をわざわざ見せつけてきた部長を蹴り落として自身が出世する為に利用しようと醒めた目で妻を見るが、彼女は久しぶりに夫と二人で食事に出かけられることが嬉しいと純粋に喜んでいるようだった。
仕事と山以外には興味を持っていないような夫が嫌いで不倫をしている筈なのに、良くそんな顔で笑えるものだと誰にともなく胸の裡で冷たく笑ったオイゲンは、振り仰いでくる妻の唇に極力感情を込めながらキスをし、妻のリクエストに応える為に手早く片付けを済ませて二人肩を並べて病院を後にするのだった。
金曜の午後遅く、ウーヴェはいつもと変わらない時間にリアとお茶をし、週末の予定を少し話し合った後で労いの言葉を交わして本当にいつもと変わらない一日の終わりを迎えていた。
いつもと違う事があるとすれば、お茶の時間になれば高確率で診察室のドアが激しくノックされる音も聞こえてこず、今日は仕事で遅くなると言うメールも電話も受け取っていない事と、友人から自宅でのささやかなパーティの準備は整ったので仕事が終わり次第連絡をして欲しいとメールを受け取ったぐらいだった。
出勤準備で慌ただしい朝の時間、ウーヴェはここの所忙しいし朝も早いから自宅に戻っていたリオンにメールで今日の大まかな予定を伝える時、仕事が終わればオイゲンの家に行くことも伝えていたが、メールの返信よりも話す方が早いと笑ったリオンにその声のままで楽しんで来いと言われたことを思い出し、この時間になっても何の連絡もないことからするとかなり忙しいのだろうと肩を竦めた後、彼女に後を頼んで少し早めにクリニックを出て行く。
この時間だとまだ近くのショッピングセンターは開いている時間だった為、友人の家に持って行くワインやチーズ、そして結婚式以来顔を合わせていないオイゲンの妻に渡す花束を買えそうだった。
友人の妻とは結婚式とその後の披露宴の時に顔を合わせたものの、それ以降は滅多に顔を合わせることはなかったが、他の友人達は時々ホームパーティの誘いを受けているようだった。
ギムナジウムの頃からの付き合いであるウーヴェに声が掛からないのはおかしいと、カスパルが酔いが回った勢いでオイゲンに詰め寄ったことがあったが、オイゲンが口を開く前にウーヴェがその手のパーティは苦手なんだと苦笑でその話を打ち切らせた事があった。
実際、自分だけが呼ばれていないことに対してウーヴェは腹を立てる訳でも無ければ寂寥感を感じることもなく、オイゲンから今日のようにお誘いの連絡が入れば都合を付けて飲みに行ったり、登山の話をじっくりと聞かせて貰ったりするだけで満足していたのだ。
ただ今夜は少し勝手が違う事を何となく感じ取っていたため、ウーヴェは彼の妻のために花束とお菓子の用意をしていた。
ショッピングセンターからほど近い駅へと少しだけ足早に歩いていたウーヴェの耳に怒鳴り声が流れ込み、週末を迎えた嬉しさからくる喧騒だろうと決めつけていたが、彼の周囲にいた人達も驚いたようにその声がした方へと顔を向けて怒鳴り声を発する男を見た瞬間、自分たちも悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑いはじめる。
「?」
周囲の男女の動きに疑問を感じ、声がした方へと振り返ったウーヴェが見たのは、男が手首を翻すと同時に金属音をさせて警棒のようなものを伸ばしたところだった。
「!!」
男が興奮して喚く言葉に意味はなく、危険だと判断したウーヴェが地下鉄の入口である階段へと避難し、意味不明の言葉を喚く男に駆け寄ってくる二人とその更に向こうに制服警官の姿を階段から顔だけを出して確かめ、このまま取り押さえられると胸を撫で下ろした時だった。
聞き慣れた声が男に向けて武器を手放せと叫び、もう一人別のこちらも聞き慣れている声が大人しく従えと叫んだのだ。
その声に覚えがあったウーヴェが階段の壁から顔だけをだして様子を窺うと、警棒のようなものを振り回す男の向こうで額に汗を浮かべたヒンケルと、飄々としつつも蒼い瞳だけは恐ろしいぐらい真剣に光らせたリオンが身構えながら男を追い詰めようとしていた。
こんな街の中心部で仕事中のリオンを見るなど滅多にないと、この場の緊迫感からすれば場違いな事をウーヴェが考えたその時、調子の外れた男の怒声とヒンケルがリオンを呼ぶ声と何かが激しくぶつかる音が響き、少し遅れて周囲から男女の悲鳴が上がる。
遠巻きに見守っていた男女の悲鳴から誰かが負傷した可能性に気付いて階段を駆け上がると、石畳に倒れるリオンの姿とその横で座り込んで男を睨み付けているヒンケルの姿が目に入り、ウーヴェの脳味噌が一瞬にして真っ白になる。
「リオン!!」
警棒を振り上げたまま二人を見下ろしている男がウーヴェの声に反応して正気を失った目を向けると同時に手にしていたワインボトルを男目掛けて投げつけ、それを避ける為に腕を上げた男にヒンケルが飛びかかって石畳に押し倒して動きを封じる。
ヒンケルが男を倒すまでの間はほんの僅かの時間で、制服警官の応援を受けて男の身柄を拘束したヒンケルは、倒れたままのリオンの傍に膝をついて身体を揺さぶろうとするが、駆け寄ってきたウーヴェに気付いて驚きに目を瞠る。
「ドクだったのか」
「警部、一体どうし…!?」
駆け寄って今日一日降っていた雪の為に濡れる石畳を気にせずに膝をついたウーヴェが口早にヒンケルに事情を問いかけようとするが、リオンのくすんだ金髪の間から赤い蛇のように血が流れている事に気付いて息を飲む。
「リオン!おい、リオン!!」
ウーヴェが気付くと同時にヒンケルも気付いた様で、慌てて身体を揺さぶろうとするのをウーヴェが制止し、救急車の手配をお願いしますと告げて俯せになったままのリオンの身体を抱き起こしてその顔を覗き込む。
「……リオン、リオン、聞こえるか?」
泥と流れ落ちた血に汚れる頬を微かに震える手で拭きながら何度も何度も名を呼べば、長い睫毛が微かに震え、茫洋とした蒼い双眸がゆっくりと姿を見せる。
「リオン…!」
「……痛ぇ……あいつはどうなりました、ボス…?」
頭の痛みと頭を庇うように挙げた腕の痛みに顔を顰め、警棒を振り回していた男はどうなったとヒンケルに問いかけたリオンは、己が誰かに支えられている事に気付いて振り仰ぎ、そこにいるはずのないウーヴェの顔を見つけて目を瞠る。
「オーヴェ…?どうしたんだ?」
リオンからすれば当然の問いにウーヴェが答えを躊躇うように口を開閉させると、パトカーのサイレンの音や救急車が近づいてきている音が聞こえ始め、このまま救急車で病院に行って怪我の治療をして貰ってこいとそっと囁く。
「救急車…?……嫌だ、乗りたくねぇ」
「頭から出血しているんだぞ!?」
その言葉に激しく反応したのはヒンケルで、自分を庇って男が振り上げた警棒で殴られて頭から出血しているのだから病院に行って来いと怒鳴るが、顔を顰めたリオンに医者ならここにいるから平気だと言い放たれて一瞬言葉を無くすが、気を取り直したようにここにいるドクは専門外だろうがと怒鳴り返すとうるさげに顔を背けられる。
「リオン!」
「……リオン、俺が出来るのなら治療をしている。でも俺は…外科的な事は一通りの事は出来ても専門外だ。だから専門の治療が出来る病院で診て貰え」
ヒンケルの顔や言葉からそっぽを向いたリオンを諭すように微かに震える声で囁いたウーヴェは、本当に自分が何でも出来る医者ならば今すぐここで治療をしてやれるが、残念ながら俺に出来る事は限られているんだと悔しさを滲ませながらもう一度囁き、リオンの目を瞠らせてしまう。
「オーヴェ…」
「救急車が嫌いだとか…こんな傷はすぐに治るとか、そんな事を考えずに、病院に、行って…こい、リオン」
途切れ途切れになり始める言葉にリオンが深呼吸をしウーヴェを見上げると、無表情に見える顔の中に不安と心配とが徐々に浮上してくる事に気付いてそっと手を挙げるが、ここが何処であるのかを思い出して吐息だけでウーヴェの名を呼ぶ。
「……警部、救急車が到着しました。リオンを運びましょう」
ストレッチャーが石畳の上を移動する音が響き救急隊員が負傷者の確認の声を挙げた為、ヒンケルが振り返って合図を送り、制服警官に事後処理を命じ始める。
「……オーヴェも……」
「リオン?」
救急隊員がリオンの傷の確認をてきぱきと始めた為、少し慌てた素振りでウーヴェを呼んだリオンだったが、ウーヴェが首を傾げると同時に何かを思い出したように顔を強張らせた後、拳を握りしめて何でも無いと微かに笑う。
「何でもねぇ…」
「……ちゃんと、診て貰うんだぞ?」
「分かってるって。────オーヴェ、オイゲンの家に行くんだったよな…?」
リオンの言葉に我に返ったウーヴェだったが、負傷したリオンを残して友人の家に行く気持ちになどなれるはずもなく、今日はもう家に帰ると伝えるとリオンの唇がぎゅっと噛み締められるが、何かを諦めたような笑みを浮かべて行ってこいと笑われてしまって息を飲む。
「俺は大丈夫だから、オーヴェ」
「…………」
リオンの言葉が本心であるのかどうかを無言で探るウーヴェと、己の本心を悟られないように全神経を集中させて笑みを浮かべたリオンとの間に無言のせめぎ合いが生まれるが、どちらからともなく溜息を吐いてそれを霧散させる。
ストレッチャーの上で拳を握って声をかみ殺すリオンの本音は、あまり好きではない病院で治療を受ける為に大嫌いな救急車に乗り込む間、ウーヴェに傍にいて欲しいという一言だった。
だが仕事中にそんな甘えた顔を見せる訳にもいかないし、たかが数針縫う程度の怪我でウーヴェの友人との大切な時間を潰させる事など出来ないと、リオンの中の何処かから厳然とした声が響き、その声に突き動かされて拳を握りしめるものの、だけど負傷した今だからこそ傍にいて欲しいとの思いが消えなかった為、泥と血に汚れる右手を握りしめたまま口元に寄せて目を閉じる。
ストレッチャーで運ばれていくリオンの姿を見送ったウーヴェは、何事かを言いたげに見つめてくるヒンケルに無表情に頷いてコートの裾を払って立ち上がる。
「ドク、ワインを無駄にさせちまったな」
「……ワインぐらい構いません。それよりも警部、リオンが病院から抜け出さないように気をつけて下さい」
救急車が大嫌いでその車が到着する先である病院も嫌いだと考えているリオンならば傷の手当てが終われば医師の判断を無視して家に帰ると言いかねない事を伝えると、溜息混じりにヒンケルが自分もそう思っていたと呟いた為、ひとつ苦笑して目を伏せる。
本当ならばたった今走り出した救急車に自分も乗り込み、傷の手当てを受けているリオンの傍にいたかったが、リオンの上司であるヒンケルがいて、同僚や仲間達である制服警官の姿もある中ではどうしてもその思いを口に出すことが出来なかった。
血を流して倒れる姿が脳裏に浮かび、蒼い瞳に珍しい程の不安を浮かべたリオンの顔も浮かんでは消えていき、治療が終わった後の連絡を自宅で待っていようと決めてみるが、一人になりれば血を流して倒れているリオンの後ろで蠢く何かが顔を出すことは明白で、その恐怖をねじ込むようにコートのポケットに手を突っ込んだ時、ヒンケルが申し訳なさそうな顔でこの後事情聴取に協力してくれないかと伝えてきた為、うっかりしていた事を反省しつつ神妙な面持ちで頷く。
「コニーがこちらに向かっている。奴が来たら事情を説明してくれないか、ドク」
「分かりました」
この際暫く一人きりにならずにいられるのならば警察署でも何処ででも良いと目を細め、現場で陣頭指揮を執り始めたヒンケルをぼんやりと見つめながら白い息を夜空目掛けて吹き付ける。
頭の傷はどうしても出血量が多くなってしまうが、ウーヴェの脳裏で横たわるリオンの身体の下から流れ出たものとは異質の何かがじわりじわりと流れ出す光景を止めることが出来ず、白い髪をひとつ激しく振る事で過去から送り込まれる映像を掻き消そうとするが、恋人が血を流して倒れている光景を目の当たりにした今、過去へと続く扉の閉め方を思い出そうとしても思うようにはいかず、その苛立ちとどうあっても抱いてしまう恐怖心から蒼白な顔で立ち尽くしていたウーヴェは、コニーが息を切らして駆け寄ってきて名を呼んだ事にも気付かずにいた。
「…ドク?」
「………あ、ああ、コニー?」
何度目かの呼びかけだったのだろうか、コニーの顔が不安そうに歪んでいるのを発見し、我に返ったウーヴェが苦笑しつつ前髪を掻き上げると、警部から聞いていると思うが事情聴取に協力してくれと丁寧に依頼され、素っ気ない態度で頷くとあからさまに安心したような顔で頷かれ、そんなに不安感を抱かせる顔をしていたのかと己を振り返って僅かに反省したウーヴェは、コニーが案内するパトカーへ乗り込み、仕事以外では訪れる事のない警察署に出向く。
パトカーを運転するコニーの話に相づちを打ちながらも、ウーヴェの脳裏には血を流して倒れているリオンの姿が浮かび、その身体の下に隠れるように得体の知れない闇が蹲っているのだった。
コニーと一緒に警察署に向かい、一度過去に取り調べを受けたことのある部屋に通されたウーヴェは、初めてリオンと出会った時もここで事情聴取を受けた事を思い出し、それからあっという間に過ぎた日々を思い返してしまって背筋を震わせる。
自分がここに来たのはリオンとの日々を思い出す為ではなく、今夜傷の治療を終えたと言う連絡を貰って彼を迎えに行くまでの時間を過ごす為なのだと己に強く言い聞かせ、あまり座り心地の良くない椅子に腰を下ろして足を組めば、気の毒そうな顔をしたマクシミリアンがコーヒーを運んできてくれる。
「これをどうぞ」
「ありがとう、マックス」
差し出される紙コップを受け取り、マクシミリアンの目を見ながら礼を言ったウーヴェは、コニーの準備が整ったことに気付き一口だけコーヒーを飲んで紙コップに両手を添える。
「ドク、まずは事件現場の事を聞かせて下さい」
「ああ、そうだな……今日は友人と約束をしていて、クリニックをいつもの時間よりも少し早く出た」
クリニックを出たウーヴェは、徒歩で行けるショッピングセンターに出向き、友人と一緒に飲もうと思っていたワインやチーズ、友人の妻へのプレゼントである花束とお菓子を買ってショッピングセンターを後にし、駅に歩いて向かっている時、背後から意味の分からない男のわめき声が聞こえたんだと言葉を続け、溜息をひとつ零して己の言葉を脳内で反芻する。
「意味の分からない声?」
「ああ。悲鳴とも呻き声ともとれるような…言葉としての意味は成さない声に聞こえた。気になったので振り返ったら、男の向こうに警部と…リオンの顔が見えた」
小一時間も経っていない前の話なのに、何処か遠い世界の出来事のように感じてしまい、己の体と心が乖離していくような錯覚を感じたウーヴェは、知らず知らずのうちに紙コップに添えた両手に力を込めそうになる。
「リオンが武器を手放せと言い、警部が大人しく従えと言ったが、男はそのまま警棒を振り回していた」
「…その後、リオンが殴られた?」
「だと思う。リオンと警部を確認して階段に隠れたからはっきりと見ていない。何かがぶつかるような音と男の声とそれを見ていた人達の悲鳴が聞こえたから、きっと誰かが負傷したんだろうと思った」
それを確かめる為にもう一度階段から顔を出したらリオンが石畳に倒れていて、その横でヒンケルが座り込んでいたと告げ、震える手で紙コップを口元に運んでもう一口コーヒーを飲むが、己の言葉で状況説明をするとどうしても脳裏にあの光景が蘇ってしまい、きつく目を閉じる事で封印しようとする。
「警部が……殴られそうだった、から……持っていたワインを投げた」
「………ああ、警部が言っていたのはその事だったんですね」
ドクに悪い事をしたと言っていたが、ワインを無駄にさせてしまった事かと安堵にも似た溜息を零したコニーは、その後の事情は制服警官とヒンケルが持ってくる情報を突きつければ大丈夫だと頷いて自分のコーヒーを持ってくる為に取調室を出て行く。
「コニー、リオンが頭を殴られてボケたって?」
「頭を殴られたのは事実だが、まだボケてないと思いたいな」
どうやら他の事件で出掛けていたらしいジルベルトが慌てたようにコニーに駆け寄って彼なりの言葉でリオンの怪我のことを問えば、コニーがひょいと肩を竦めてまだ使い物になるだろうと片目を閉じ、煮詰まり始めたコーヒーをマグカップに注いでウーヴェを待たせている取調室に戻ろうとする。
「…あれ、ドクか?」
「ああ。偶々現場に居合わせたんだ」
取調室の外で中の様子を窺っていたジルベルトの言葉にコニーがもう一度肩を竦め、とにかく今は警部が後始末をしていると告げてジルベルトの肩をひとつ叩くと、俺は俺の後始末を着けないとなぁと暢気な声を挙げて自他共に認める男前は己のデスクに戻って書類仕事に取り掛かる。
そんな同僚をちらりと見つめたコニーだったが、ジルベルトのリオンに対する口の悪さはいつもの事だと苦笑し、取調室に戻って俯き加減に椅子を引いて腰を下ろす。
その為、ウーヴェの表情の変化に気付くことは無かったのだが、マグカップを傾けてウーヴェ自身は怪我をしなかったのか、リオンの負傷の程度はどうなんだと問いかけても返事がないことに首を傾げて顔を上げたコニーは、ウーヴェの顔から表情が消えている事と紙コップが無残にも握りつぶされている事に目を瞠り、紙コップから溢れたコーヒーがウーヴェの手やシャツの袖口を濡らしている事にも気付いて立ち上がる。
「ドク!」
コニーの声にのろのろと顔を上げたウーヴェは、何をそんなに険しい顔をしているんだと問いかけ、己の手の中で握りつぶされている紙コップと、そこから溢れ出したコーヒーに気付いても意味が理解出来ないと言いたげな顔で首を傾げる。
「ダニエラ、冷やしたタオルを持ってきてくれ!」
取調室から足音荒く飛び出しては同僚にタオルと叫んだコニーに室内にいた同僚達が驚きに顔を見合わせるが、早く用意をしてくれと急かされて慌てて立ち上がり、濡らしたタオルの用意をしてコニーと一緒に取調室に入って言葉を無くす。
「ドクター!」
「……どうした?」
「どうしたじゃありません!」
ウーヴェの声が己に起きた事を認識していないような平然としたものだった為、ダニエラが無意識に身体を震わせた後、熱いコーヒーを被ってしまって赤くなっているウーヴェの両手にタオルをそっと押し当てて冷やし、デスクはコニーがタオルで拭いていく。
二人がかりのその行為をぼんやりと見下ろしていたウーヴェは、どうしてここにリオンがいないんだろうと呟いて二人の手を一瞬にして止めさせてしまうが、ダニエラの恐る恐るの問いかけに脳内にかかっていた靄が晴れたような顔で二人の顔を凝視する。
「大丈夫ですか、ドク?」
「………あ、ああ……大丈夫だ」
まだ心なしか遠くの世界を見ているようなウーヴェの声に不安を隠さないで顔を見合わせた二人だったが、ウーヴェに何と声を掛けるべきかと言い倦ねていたその時、気まずい空気を救うような軽快な映画音楽が流れ出す。
その音に誰よりも真っ先に反応したのは当然ながらその携帯の持ち主であるウーヴェで、携帯が壊れてしまうのではないかと思う程勢いよく携帯を取りだして耳に宛がい、きつく目を閉じながら声を発する。
「リオン…!」
どうしてお前がここにいないんだ、何故あの暗くて恐怖しか与えない部屋で倒れているんだと口早に叫ぶと、ダニエラとコニーがもう一度顔を見合わせてどういうことだと事情を探るように声を潜める。
『……ウーヴェ?』
ウーヴェの叫びに答えたのはリオンではなく聞き慣れた友人の声に似ていた為、眉を顰めながら友人の名を疑問の形で呼べば、あからさまに安堵した声が聞こえてくる。
「……カール…?」
『ああ、良かった。リオンの治療がある程度終わったんだが…』
リオンの携帯を使って電話を掛けてきたのは大学の友人であるカスパルで、さすがに友人の声を聞いて現実に引き戻されたウーヴェは、珍しく言葉を濁すカスパルに瞬きをしてどうしたと問いかけるが、カスパルの声が聞こえるよりも先に何かを殴りつけたような金属音が響き、咄嗟に携帯を耳から離してしまう。
「カール!?」
『…早く迎えに来い、ウーヴェ!』
カスパルの切羽詰まった声など数える程しか聞いた事のないウーヴェが驚きのあまり椅子を倒して立ち上がり、その音に驚いたコニーとダニエラがもう一度顔を見合わせ、リオンに何かあったのかと顔色を変えてウーヴェの横に駆け寄る。
『少し休んでいろと言ったが全く言う事を聞かない。何とかならないのか!?』
カスパルの怒鳴り声にもう一度金属音が聞こえたかと思うと、ウーヴェでさえも背筋が凍り付きそうな声が何が楽しいのか、ゲラゲラ笑いながら今から帰ると伝えてくる。
「リオン!」
その声が表すリオンの心境を正確に把握したのは当然ながらウーヴェだけで、真っ青な顔でリオンを呼んだウーヴェだったが、何だオーヴェかと明るい声で返されて口を閉ざすが、横にいるコニーにタクシーを呼んで欲しい事を伝えて深呼吸をひとつして動揺を鎮めようとする。
「リオン、怪我の治療はもう終わったのか?」
『あー、うん、終わったぜ。だから帰るって言ってるのにさぁ…』
アニキがまだ帰るなってうるさいんだ。何とか言ってくれよオーヴェと子どもがお菓子を強請るような声で懇願され、カールは医者だからその言葉に従えと囁くと、言葉ではなく何かを蹴り飛ばしたような音が響き、小さく鋭い制止の声も聞こえてくる。
「リオン、どうしたんだ?何をそんなに怒っているんだ?」
頼むから周りのものを傷付けて結果的にお前も傷を負うような事は止めて、言葉で説明をしてくれと願いつつ根気よくどうしたんだと問いかけると、何度目かの問いの後に盛大な溜息を零したリオンがようやく自分の言葉で胸の裡に溢れる思いを伝えてくる。
『…早く帰りてぇんだよ、オーヴェ…病院なんて…いたくねぇ』
「ああ、そうだな。治療は終わったんだろう?頭の傷はどうだったんだ?」
『んー?5針ほど縫ったけど、異常なしって言われた。だから早く帰りたいんだって言ってるのにさぁ…』
ここにいる医者が帰してくれねぇと吐き捨て、ソファか椅子に座ったような音を響かせたリオンの気配に、内心の焦りを額に汗を浮かべて表しているウーヴェが小さな声で良かったと伝え、30分だけ待っていてくれと伝えると怪訝な気配が伝わってくる。
「30分だ、リオン。今からそちらに向かう。俺が行くまでそこで待っていてくれるな?」
『………オーヴェ…』
「ああ。30分で行く。だからそれまではカールの言葉に従ってくれ」
ここからリオンが搬送された病院までは30分では難しいかも知れないが、リオンを思う心から伝えてしまい、ウーヴェの様子と会話の内容からリオンが何を言っているのかを察したコニーがダニエラに何やら相談し、彼女が急いで取調室を出て行く。
『…30分な。ちょっとでも過ぎたらすぐに帰るからな』
「ああ、分かった。なあ、リオン、カールと代わってくれないか?」
『へ?分かった。………後29分!』
「もう1分経ったのか?早すぎるぞ、それは」
リオンの怒りも少しは治まったようで、いつもの我が儘な子どもの声に戻った事に胸を撫で下ろし、時間がもったいないから早くカールに代わってくれともう一度伝えると、渋々代わったことを窺わせる気配を滲ませながらカスパルが声を潜める。
『ウーヴェ……』
「手間を掛けさせて悪かったな、カール」
『…とにかく、頭を殴られているのにあの暴れ方だからな、異常はないと思うが今夜一晩は様子を見た方が良い』
「そうだな…なるべく早くそちらに行く。もし30分経たないうちに出て行こうとしたら何とか引き留めてくれ」
ウーヴェが顔に焦りを滲ませながらカスパルに頼むと伝えたときコニーが横合いからメモを差し出し、それを読んだウーヴェが目を細めて彼を見ると総てを了解している顔で頷かれ、その顔につられるように微かに笑みを浮かべて小さく頷く。
『…分かった。努力はしてみよう』
「頼む、カール。……今度一杯奢る」
『楽しみだな』
その一言で許してくれる旧友に心から感謝をし、通話を終えたウーヴェは背後で様子を窺っているコニーと戻ってきたダニエラに無言で肩を竦めるが、リオンが病院で暴れているそうだと苦笑混じりに伝えて絶句されてしまう。
「あいつ、そんなに病院が嫌いなのか?」
「そのようだな……30分以内に来なければ帰る、だそうだ」
「またそんな子どもみたいな我が儘を言って…」
ダニエラとコニーの困惑気味の顔にもう一度肩を竦めたウーヴェは、コニーがタクシーではなくパトカーを出すと申し出てくれた事を有り難く受け止め、ヒンケル警部にもリオンの様子を見てきて欲しいと言われた事も教えられて苦笑を深める。
「悪いが乗せていって貰えるだろうか」
「もちろん。ダニエラ、後は頼む」
「分かったわ」
コニーの後について取調室を出たウーヴェは、こちらに背中を向けていたが顔だけを振り向けたジルベルトに軽く目礼をしただけで足早に刑事部屋を出て行き、コニーが乗り込んだパトカーに乗り込むのだった。
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2012/03/31


