その日は朝から降っていたのは雪ではなく冷たい雨で、傘を差さなければ確実に風邪を引いてしまいそうな底冷えのする一日だったが、救いだったのは後二日頑張れば週末がやってくるという現実だった。
あと二日頑張れば休めるという思いは冷たい雨になるべく濡れないように気を配りながら足早に歩く人達の頭上に一筋の光のように差し込んでいるのか、学校や職場に着いた人達の間で今日の天気に対する毒が吐かれた後に薬のように後二日とも囁かれていた。
そんな囁きを聞くのではなく自らが発しているのは、くすんだ金髪に纏わり付く水滴を掌ではたき落としては同僚達から煙たがられているリオンだった。
よりによってこんな朝に傘を持って出てくるのを忘れた俺のバカと、濡れた髪を拭きながら一人呟くと、デスクの後ろ側と向かいからお前がバカなのは今に始まった訳ではないから気にするなと言う声と、ようやく認めたのかという安堵の声が流れ出し、その声の主に向かってリオンが指を勢いよく弾いて水滴も弾き飛ばす。
「冷たいだろうが」
「知るか」
朝の恒例の口論が始まったと、製粉会社のマスコットキャラクターが描かれたマグカップを傾けるコニーの言葉に、頬杖を付いて呆れた声を出したのは紅一点のダニエラだった。
「そろそろいい加減にしないと警部が来るわよ」
「お前らが殴られようが何をしようが関係ないが、こっちにとばっちりが来るのだけはごめんだぞ」
部屋の真ん中で始まった口論を尻目に自らだけが助かる方策を口にする面々に二人が同時に顔を振り向け、それでも仲間かと捲し立ててみるものの、お前達に何かあったときに助ける為の力を温存しているんだとさらりと言い放たれて絶句してしまう。
そんな、いつもと全く変わらない光景がいつものように出勤してきたヒンケルの険しい表情を見た瞬間に霧散し、優秀な刑事の顔へと一瞬にして切り替わる。
「グリュース・ゴット、ボス」
「ああ、おはよう。……出勤するまでに報告を受けた発砲事件の担当者は誰だ?」
「私とマックスです」
ヒンケルの声に立ち上がったのはダニエラで、その彼女が名指ししたマクシミリアンも緊張の面持ちで立ち上がってヒンケルの前に向かうと、被害者が入院している病院の名前がヒンケルに伝えられる。
「……被害者の怪我の程度はどうなんだ?」
「病院に搬送された時点では心肺停止状態でしたが、先程の情報では心肺の機能は戻ったものの意識は戻っていないと言う事でした」
「そうか……犯人はどうなった?」
ヒンケルが歩きながら問いかけ、そんな上司の後ろを追いかけながらマクシミリアンとダニエラが簡潔かつ適切な報告をしつつヒンケルの執務室に姿を消す。
「…発砲事件?」
「ああ。…犯人はすぐに確保されたんだがな…」
ジルベルトの苦笑混じりの言葉にリオンが首を傾げるが、その傾げた方のこめかみに人差し指を突き立ててくるりと手を回転させる。
「……弁護士の前で絶対にそれをするなよ?」
「それぐらい分かってるっての。────そういうことか?」
「ああ。犯人自身も軽い傷を負っているが、その手当てが終わればこちらに連行されることになっている」
リオンが言葉ではなく態度で示した犯人像を否定することなくただ苦笑したジルベルトは、マクシミリアンとダニエラが犯人とその弁護士に追われるだろうから自分たちも応援に駆り出されるはずだと予測をして小さな溜息を零すが、ヒンケルの執務室のドアが開いてマクシミリアンの金髪が姿を見せた事に瞬きをし、自分たちに向けて彼の手がひらひらと動いていることを確かめるとあからさまに溜息を零す。
「…行って来いよ、リオン」
「あぁ?呼ばれてるのはお前だろ、ジル」
「うるせぇ、お前だっての」
「どっちでも良いからお前が行って来いよ」
口論の熱が再燃しそうになった瞬間、リオンのデスクの電話がけたたましく鳴り響き、半ば飛び上がりながら受話器を取って耳に宛がうが、次の瞬間にそれを思い切りデスク目掛けて投げつける。
「くそー!やっぱりボスはクランプスだ!クランプスのくそったれ!!」
「さっさと来い、馬鹿者!!」
リオンの絶叫にヒンケルの怒声が重なり、室内にいたものが思わず首を竦める程のそれにマクシミリアンとダニエラが両耳を押さえて首を竦め、ただ一人馬鹿者と怒鳴られたリオンだけが涼しい顔をして小指を耳の穴に突っ込んでふて腐れたように口を尖らせながらヒンケルの執務室のドアをノックする。
「失礼しまーす!」
「馬鹿者!」
「そんなに誉めないで欲しいんですけどー」
顔を赤く染めるヒンケルのデスク前にマクシミリアンとダニエラが呆れた様な顔で並んでリオンを出迎えるが、ヒンケルが腹の底から発する馬鹿者という言葉がリオンの耳を通って脳味噌に入った瞬間に何故誉め言葉に変換されるのかを詳しく知りたいと思い、恐る恐るリオンを見れば、小指の先をじっと見つめつつ険しい表情を浮かべていた。
「……あ、やべ、血が出てる」
「リオン……制服警官に戻されたくなかったら二人の手伝いを今すぐしろ!」
「あー、ひでー!!パワハラだ!!」
リオンのその態度にさすがに堪えきれなかったのか、ヒンケルがデスクに勢いよく掌を叩き付けて僅かに顔を顰めると、それを見逃さなかったリオンが口笛を吹いて頭の後ろで手を組む。
「良いな、今日はマックスとダニエラと動け」
「Ja」
ヒンケルの表情や口調から何かを感じ取ったのかそれとも今までのふざけた態度がリオンなりの反抗なのかは不明だが、ヒンケルの命令にビシッと敬礼をしたリオンが二人の同僚が滅多に見る事のない真面目な顔で向き直り、この後自分が取る行動に必要な情報である事件の詳細を教えて欲しいと告げると、ダニエラが少しだけ呆気に取られた後で我に返り、ヒンケルに渡した報告書を借り受けてリオンの手に載せる。
「────病院に行って被疑者を連行すれば良いのか?」
「主治医に許可を貰わないといけないの。マックスと一緒に病院に行ってくれるかしら」
リオンが報告書に目を通しながら呟く言葉にダニエラがひとつ肩を竦めて答えると、マクシミリアンが重苦しい溜息を零す。
「どうしたんだ?」
「被疑者は要注意人物だぞ」
リオンの疑問に半分だけ答えたのはヒンケルで、その声の主へと顔を振り向けたリオンは、被疑者が要注意人物だとわざわざ告げる事を思えば余程注意を払わなければならないのだろうと察し、短くヤーとだけ答えて再度報告書を読み進めていく。
「さっきジルに聞いたけど、被疑者がヤバイって本当か、マックス?」
「ああ……ただそれが周囲を欺く為の態度なのか本当なのかが俺たちでは見抜けない。だから今病院で検査をして貰っているんだ」
「ふぅん……被害者はまだ意識が戻らないし面倒だな」
「私はこれから警部と今後の事と検事に説明をするから、マックスとリオンで被疑者に当たってちょうだい」
「分かった」
被疑者が入院している病院と被害者が入院してる病院を報告書から読み取り、自分たちが向かう病院が何処にあるのかを脳内に叩き込んだリオンは、報告書をヒンケルのデスクに置いたかと思うと、怖いほど真面目な表情を一瞬にして掻き消し、いつものように子どものような笑みを浮かべて大きく欠伸をする。
「リオン、マックスの指示に従えよ」
「そーですね、ボスの指示よりも的確だろうし、マックスだから安心して従えますねー」
ヒンケルが思わずこの野郎と舌打ちしたのに対し、鼻先でふふんと笑い飛ばしたリオンがもう一度欠伸をして片手を突き上げて伸びをする。
「マックス、ぶっ倒れるほどこき使ってやれ」
「…分かりました」
ヒンケルの命令に苦笑混じりに答えたマクシミリアンは、ダニエラと手短に今後のやり取りをすると、大あくびを繰り返すリオンの腰をひとつ平手で叩いてヒンケルの執務室を出て行った為、肩越しのヒンケルを振り返ったリオンが口ではどれほど悪態を吐こうがやはり上司であるヒンケルを信頼しているし、また彼もそんなリオンに苦労しつつも信頼している事を示す様に頷きあってダニエラにも笑顔を見せて執務室を出て行く。
「…マックスとリオンで大丈夫でしょうか、ボス」
「いつもふざけていても仕事になれば真面目だからな」
法的な問題が発生してもマクシミリアンが対応するだろうし、突発的な暴力が発生してもリオンが対処するだろうと信頼感を込めて頷いたヒンケルは、彼らが連行してくる被疑者への対応と、事件を嗅ぎつけたマスコミへの対処などを署の上層部と話し合わなければならない事を確認し合うのだった。
リオンが同僚と一緒に市内にある私立病院へと車を向かわせた頃、彼が愛して止まない恋人であるウーヴェも同じ病院へとスパイダーでやってきていた。
ウーヴェが出向いたのは己の患者が以前ここの精神科に通院していた履歴があり、以前の診察について直接主治医に聞きたい事があるからだった。
彼が同業者に意見を求めることや相談をすることは滅多になく、アポイントメントを取ったときも名前だけは聞いていた彼からの電話に相手の医師も驚いていた程だった。
スパイダーを来客用のスペースに停めて降り立ったウーヴェは、市内でも有数の病床数を誇る病院のフロアに足を踏み入れ、受付でアポイントメントを取っている事を告げて医師の部屋を紹介して貰うが、その時、背後から肩を叩かれて振り返ると同時に小さく笑みを浮かべる。
「珍しいじゃねぇか、ウーヴェ」
「今日は手術は無いのか?」
ウーヴェの肩を叩いたのはこの病院でホープと噂されているカスパルで、ブルネットの髪を少しだけ整えているが、皺が寄っている白衣姿についウーヴェが苦笑する。
「手術は無いが、今日は昼から学会だ」
「何かと忙しいな」
この私立病院はカスパルが勤務する病院の為、訪れる事があれば顔を合わせる可能性もあるとは思っていたが、受付で出会うとは思わないでやや戸惑っているウーヴェを尻目に、事務員が案内を申し出てくれるのをカスパルが笑顔で断り、ウーヴェの行き先を聞き出して踵を返した為、ウーヴェも友人と肩を並べて歩き出す。
「精神科のドクター・ヒルマンなら別棟にいるぞ」
「…カール、案内してくれるのは嬉しいが良いのか?」
「この後刑事が来て昨日運ばれてきた患者の容態について説明をする事になってるが、呼び出してくれと言ってあるから大丈夫だ」
刑事と患者という単語をウーヴェが脳内で結びつけたとき、ごく自然にリオンの顔が浮かび、ついでにその仲間達の顔も浮かんでは消えていくが、それを口に出すことはせずに隣で何ごとかを捲し立てるように語る友人に相槌を打って別棟に続く渡り廊下を歩いていく。
「この間は楽しかったな。またリオンを誘って飲みに行こうぜ」
「気が合ったのか?」
「ああ、大いに楽しませて貰ったし、あの時はオイゲンが先に帰ってしまったからな。今度は俺とオイゲンだけで会ってみたいな」
肩を並べる友人の楽しそうな声にウーヴェがただ苦笑し、あの夜ウーヴェには理解することが出来なかった表情で抱き寄せた後で病院へと戻っていった友人の顔が脳裏を過ぎり、リオンと同席させても大丈夫だろうかと思案するが、何故起こってもいない事に対して悩んでいるんだと自嘲すると、どうしたんだと問われてしまって肩を竦める。
「何でもない」
「そうか…ああ、ここがドクター・ヒルマンの部屋だ」
「ありがとう、カール、助かった」
「ヒルマンと話が終わって時間がありそうならランチを一緒にどうだ?」
「そうだな……クリニックの近くのカフェでも良いか?」
「学会があるホテルもそっちの方が近いな。そうしようか」
友人との昼食の予定を取り決めた後、ネクタイのノットを指先で軽く撫でたウーヴェは、精神科特有の雰囲気に包まれているドアをノックし、返事が聞こえてきた為にカスパルに小さく頷いて入室していくが、そんな彼の背中を見送ったカスパルは、白衣のポケットに入れておいた院内専用の携帯が震えている事に気付いて耳に宛がう。
『先生、警察の方が昨夜の患者について話を伺いたいそうです』
「あーああ、分かった。すぐに戻る」
白い扉の中で専門を同じくする医師が何やら話し合っている光景を想像し、ウーヴェの事だから相手が誰であろうと上手く話を纏めるだろうと苦笑したカスパルは、警察を待たせている事を思い出し、大股に渡り廊下を歩いて己の部屋に向かうのだった。
こちらにどうぞと通された小さな会議室の椅子に背筋を伸ばして腰掛けたマクシミリアンと、その横でだらしないと眉を顰められかねない態度で腰掛けているリオンは、ノックの後に遅くなって申し訳ないと言いながら入ってきた医者を見るなり、驚きに青い目を瞠ってしまう。
やって来たのは少しだけ息を弾ませたカスパルで、彼は彼でやる気のない顔で椅子に腰掛けているリオンを見た瞬間にあんぐりと口を開けてしまう。
「アニキ!?」
「噂をしていると…と言うところか」
「へ?」
お互いに顔見知りだったことがマクシミリアンにとっては驚きだったが、当人同士にとってこんな所で再会するとはという驚きに彩られた顔を突き付けてしまう。
「警察とは聞いていたが…まさかお前が来るとはなぁ」
「あー、そう言えば外科医って言ってたっけ、アニキ」
二人が呆然と会話を交わす横で一人話題に入れないマクシミリアンが居心地の悪そうな咳払いをした為、二人も我に返って苦笑し、カスパルが手を差し出しながら名乗る。
「遅れて申し訳ない。バイヤーです」
「忙しいところをありがとうございます。電話で問い合わせていた患者の件についてですが、率直にお聞かせ下さい」
マクシミリアンの四角四面の対応にカスパルも少しだけ戸惑いを感じたようだったが、相手への対応をどのように取るべきかを瞬時に見極め、微かに笑みを浮かべて鷹揚に頷きながら二人と向き合うように腰を下ろす。
「彼を警察に連行することについてはどうですか」
「そうだな…怪我と言っても5針ほど縫っただけだし、内臓は負傷していないから問題はない、が…」
カスパルが言葉を切ってリオンとマクシミリアンの顔を暫く見つめた後、小さく溜息を零してブルネットの髪を掻き上げる。
「─────頭に問題がアリって?」
「リオン」
リオンがカスパルの言葉を補うように呟くと同時に、マクシミリアンの緊張した声が窘める色を纏ってリオンを呼んだため、ひょいと肩を竦めてデスクに上体を乗り出すように座り直す。
「精神に問題有り?」
「…と、昨日は思っていたが、今朝精神科のドクターに診て貰った所、詐称の疑いが濃くなった」
「では…署に連行して通常の取り調べで何ら問題はないのですね?」
「そうだな…主治医としては、縫った患部の消毒さえ定期的に行われていれば、取り調べを受けようが法廷に出廷しようが大丈夫だというところだな」
手を組んで太い笑みを浮かべるカスパルにリオンが口笛を吹き、マクシミリアンが安堵に目を細めた為、足を組み替えて昨夜運ばれてきてから今朝までの様子を伝えていくと、マクシミリアンが取りだした手帳に几帳面な字で記していき、リオンが何やらぶつぶつと口の中で言葉を繰り返す。
「精神疾患があるように装っていた事は間違いない?」
「そうだな…専門医が一発で見抜いたぐらいだからな」
専門医が言うのだから間違いはないと思うと断言されて胸を撫で下ろしたマクシミリアンは、この後所定の手続きを経て彼を署に連行しますと告げてようやく自分たちの前に置かれてあるコーヒーに手を付け、リオンも同じようにそれを飲もうとするが、何気なく窓の外へと目を向けた直後に椅子を背後に倒す勢いで立ち上がる。
「あいつが逃げる!」
「何だって!?」
リオンの声にマクシミリアンが血相を変えて立ち上がり、そんな二人の様子に驚いたカスパルも窓際へと駆け寄ると、入院患者だと一目で分かる服装の男が渡り廊下を横切って裏庭を突っ切るように走っていく姿が見え、大声で呼び止めようとするがその声に紛れるほど小さな声が間に合わねぇと呟いたかと思うと、リオンが開け放った窓枠に足を掛けて肩越しにマクシミリアンを振り返る。
「マックス、応援頼む!」
「リオン!?」
「おい!!」
ここを何階だと思っているとカスパルが目を丸くするよりも早く、リオンがまるで階段を二段ほど飛び降りた時のような身軽さで窓枠を蹴って裏庭へと飛び降りる。
「リオン!!」
二階の窓から飛び降りたリオンの様子が心配でカスパルが窓から身を乗り出すのを尻目に、マクシミリアンは部屋を飛び出して病院関係者から咎められながらも廊下を駆け抜けて裏庭に回って男の後を追いかけるが、そんな彼の先には既に男に追いついたリオンの背中が見えていた。
「リオン!」
「マックス、ボスに連絡してくれ!」
「分かった!」
暴れる男の襟首を掴んで引き倒し、尚も暴れる男の手を捻り上げて膝を肩に乗せて地面に押しつけて手錠を手早く男に嵌めた時、ヒンケルに報告を入れて応援の要請をしたマクシミリアンが駆け寄ってくる。
「大丈夫か!?」
「……逃げる気力も判断力もあるって事は、アニキが言っていたことは間違ってなかったって事だよな」
「そうだな…」
男の背中から足を下ろして手錠をぐいと引っ張って男を立たせたリオンは、マクシミリアンが男に逃げた理由と昨夜の発砲事件に関連する事を詳しく聞かせて貰うと淡々と告げるのを聞いていたが、カスパルが血相を変えて駆け寄って来る姿が衆目を浴びてしまい、裏庭や渡り廊下から遠巻きに何が起きたのかと見物する人々の山が出来ている事に気付く。
「車に連れて行った方が良くねぇか?」
「そうしようか」
ここまで注目を浴びていると仕事がやりにくいと舌打ちしたリオンに言葉で同意を示すマクシミリアンに苦笑し、こんな被疑者に上着を貸すなんて嫌だ嫌だと言いながらもブルゾンを脱いで男の頭に無造作に被せると、車を停めてある建物の入り口に向けて歩き出す。
「逃げ切れるって思ってるのならさ、舐められたモンだよなぁ、俺たちも」
「……取り調べで分かるだろうな」
マクシミリアンが当然ながら取り調べのメインになるだろうが、自分が無理ならば警部にも応援を要請すると告げると、リオンが己のブルゾンを被せて顔を隠させている被疑者に向けて口笛を吹いてクランプスの取り調べは怖いぞーと暢気な声を上げたその時、渡り廊下の先から驚愕に満ちた声が挙がる。
「リオン!?」
「……オーヴェ?」
その声に反応して顔を振り向けたリオンは、視線の先で驚きに顔を彩りながらも眼鏡の下の瞳を少しだけ輝かせているウーヴェに気付いて目を瞠り、マクシミリアンに目で合図を送ってウーヴェの前へと駆け寄る。
「事件か?」
「ああ、マックスのヘルパーさん」
「何だそれは」
「ボスに命じられたからさ…それよりも、オーヴェはどうしたんだ?」
「ここの先生に聞きたいことがあったんだ」
だからこんな所で再会したんだと苦笑するウーヴェにリオンが目を細めて小さく頷き、仕事お疲れさまです、ドク、と、戯けたように敬礼をした為にウーヴェが苦笑を深めて目を伏せる。
「リオン!ウーヴェ!」
そんな二人に更に声が掛かり、声の主を二人同時に見れば、カスパルが小走りに駆け寄ってくる。
「オーヴェ、悪ぃ、マックス一人だから戻るな」
「………マックスにもよろしく伝えておいてくれ」
ウーヴェの労いの言葉をしっかりと胸に刻み込んだリオンは、カスパルが見ている前でもあるし、何よりも仕事中だという事を己に思い出させるために恋人の前でも素っ気ない態度で頷くが、意外なところで恋人と遇えた喜びを伝えたくて、ごく自然な動作で自らの右手薬指を口元に近付けて小さくキスをする。
「ダン、オーヴェ」
「……行ってこい」
右手薬指へのキスが何を表すのかをしっかりと理解しているウーヴェが双眸に強い信頼を湛えて頷き、訝る視線を投げ掛ける友人に小さく笑みを浮かべると、足早に同僚の元に戻っていくリオンの背中を見送るが、そんなウーヴェとリオンをカスパルが驚きの表情で見つめているのだった。
急遽一緒にランチをとる事になったカスパルを連れていつものカフェに出向いたウーヴェは、顔馴染みの店員にいつもの席へと案内されると、いつもはリアが座る席を指し示す。
「今日は学会だから食ったらすぐに行かなきゃならないのが残念だな」
せっかく久しぶりのランチなのに、本当に残念だと項垂れるカスパルを苦笑混じりに見たウーヴェは、顔馴染みの店員に料理を注文し、被疑者を連行していったリオンが最後に見せた表情と右手薬指へのキスを思い出し、左足で息を潜めているリザードの存在を確かめるように指を曲げる。
「しかし…あいつがあんな顔をするなんて意外だったな」
「カール?」
カスパルの呟きの主が誰であるのかが分からずに首を傾げたウーヴェを意味ありげな視線で見つめたカスパルは、リオンだと答えて驚いたような顔で見つめられてしまう。
「お前とばったり出会ったのなら、もっと大騒ぎするかと思ったんだがな」
初めて一緒に飲んだ時の夜を思い浮かべながら呟かれる言葉にウーヴェは何も返さずにいたが、友人の沈黙など慣れているのか、先程の事件で垣間見た刑事の顔のリオンに抱いた印象について説明し始める。
その説明が終わると同時に料理が運ばれてきた為、暫くの間食べる事に忙しくなったが、カスパルは食べる事と話すことを同時に出来るらしく、一人で何やら捲し立てるように話し、ウーヴェは学生の頃からの付き合いでよく知っているからか、全く気にすることなく食べ続ける。
「…ウーヴェ、食ってないで話を聞けよ」
「聞いているから安心しろ。それよりも早く食べないと時間がないんじゃないのか?」
学会に遅刻して権威と呼ばれるお偉方から睨まれたらどうするんだと、友人の出世を心配する声で告げたウーヴェは、リオンならば仕事中だろうが何だろうがお前と出会ったら絶対にはしゃぎまくると思っていたと頷かれてしまい、またその話かと苦笑する。
「あの飲み会の時に思ったのは、ガキっぽい、騒々しい、大げさ…は無いが、年相応には見えないし一見するだけで職業も分からないし、かなり得体の知れないヤツという印象だったからな」
「……そうか?」
「ああ。ウーヴェが困ったとしても場所も弁えずにハグしてキスするタイプに見えたんだけどな」
意外と違っていた事に対する驚きを肩を竦めつつ口にすると、ウーヴェも肩を竦める。
「…外見からはあいつの性格などほんの少ししか見えないな」
「お前でも分からなかったか?」
「言動とは裏腹な考えをしている事に気付いたのは、出会って半年ほど経ってからだな」
「裏腹?」
「ああ。笑顔を浮かべているし声も明るくて楽しそうだが、その声が明るければ明るいほど心の中は暗く沈んでいる。────それに気付いたのは付き合いだして初めて二人で誕生日を迎えた頃だ」
それからはまるで己が感じた思いを証明する機会を与えてくれたように色々な出来事を二人で乗り越え、それが間違いではない事を確信するようになってきたからこそ見えるようになった恋人の横顔を思い出し、常に心の何処かで感じている思いがぽろりと口からこぼれ落ちる。
「あの子供っぽさや陽気さは……ある種の擬態だ」
「………あんな風にしなきゃならない理由があったってことか」
ウーヴェの伏し目がちの言葉から何かを察したカスパルがしんみりとした声で告げ、そっと頷かれて天井を振り仰ぐ。
「あいつ自身、それを分かってるのか?」
「幼い頃に覚えた処世術だとは言っていたが…最近は少しずつその擬態も失われてきている」
二人で一緒にいるときなどは確かに笑顔も多いし賑やかを通り越した騒々しさを振りまくことがあるが、二人でリビングのソファで寛いでいる時や何かの折に見せる横顔からは笑みが消え、恐らくリオン自身も意識していない素顔が見える事が多くなったと伝えると、カスパルがじっとウーヴェを見つめてくる。
「幼馴染みや姉からは過保護すぎると言われているが、その顔を見てしまえば、な」
「……どうしてお前が男と付き合ってるのか、それも年下の得体の知れないヤツと、とはっきり言って初めて見た時は驚いた」
「そう、だろうな」
自分でも時折何故付き合っているのかを誰かに教えて欲しくなると苦笑し、食後のコーヒーをオーダーしたウーヴェは、カスパルが真剣な顔で手を組んでいる事に首を傾げ、何か不安になる様な事でもあるのかとひっそりと問いかける。
「お前が今まで付き合ってきたのは物静かな女が多かっただろう?だから意外だったけど…保護欲を掻き立てられているからじゃないだろうな?」
友人の言葉に意外そうに目を瞠り、マグカップのカフェオレにさざ波を立たせてしまったウーヴェは、己の心の中でリオンを護らなければならない存在だと感じているのかと問いを発するが、即座にそんなことはないと穏やかな声が否定をする。
「…それは、無い。それに、護られているのは…俺だ」
マグカップを再度手に取って伏し目がちに小さく笑ったウーヴェは、今度はカスパルが驚くような穏やかな笑みを浮かべ、護られているのは俺だともう一度ゆっくりと繰り返す。
「ウーヴェ…」
己の言葉が友人に与えた衝撃の大きに気付いたウーヴェが無言で肩を竦め、過保護になってしまうのはあいつの過去を少しだけ知っているからだと付け加えてカフェオレで口を潤すと、カスパルが盛大な溜息を吐いて椅子の背もたれに寄り掛かる。
「お前がそんな顔をするなんてなぁ……」
「……うるさい」
カスパルの溜息混じりの言葉にウーヴェが目尻を微かに赤く染めてうるさいと言い放ち、この話はもう打ちきりだとターコイズ色の瞳を光らせて宣言する。
「刑事としても優秀なんだろうな」
二階の窓から飛び降りて逃走した犯人を追いかけていける体力には驚かされるが、刑事としての能力はかなり高いのではないかと、コーヒーに砂糖を入れながら片目を閉じたカスパルにウーヴェが同意を示すように苦笑する。
「病院でも言ったけど、オイゲンと俺とお前達の四人で飲みに行こうぜ」
「そんなにリオンが気に入ったのか?」
貴重なランチの時間の話題にするだけではなく、プライベートでも飲みに行こうと誘ってくる友人に呆気に取られるが、己の恋人が大学時代の最も仲の良い友人に認められ受け入れられている事実はウーヴェにとっても嫌なものではないらしく、あいつの仕事の都合もあるだろうからまた伝えておくと約束をすると、カスパルの顔が嬉しそうに歪む。
「楽しみだな」
「…カール、そろそろ時間じゃないのか?」
「お、もうそんな時間か」
学会で発表される症例に関しては激しく興味があり、その症例を列記した資料などは喉から手が出るほど欲しいものだが、その症例を手に入れる代わりに医師同士の人間関係の渦に飛び込まなければならないのだ。
これから人間関係という海へ飛び込む決意をした顔でカスパルが伸びをして立ち上がり、ウーヴェも会計を済ませて立ち上がると、二人肩を並べて店を出る。
朝から降っていた雨がいつしか雪になっていたようで、天空から舞い降りる白い冬の使者に気付いて僅かに顔を顰めた二人だったが、カスパルがこのまま会場まで歩いて行く事を告げるとウーヴェが手を挙げて寝るんじゃないぞと忠告をし、興味があることだから殊更眠くなってしまうと減らず口をたたく友人に肩を竦め、オイゲンに連絡をしておくから四人で飲みに行こうと笑って踵を返すカスパルを見送る。
カスパルの背中が人混みに紛れて見えなくなったのを見届けると、自らも午後の診察に間に合うように少しだけ足早になって広場を横切り、クリニックが入居しているアパートへと小走りに向かうのだった。
朝から降っていた雨は昼を過ぎる頃には雪になり、太陽がベッドに潜り込む頃には姿を消していて、道路の彼方此方にその名残りを見せる程度になっていた。
今日もいつものように仕事を終えて自宅に戻っていたウーヴェは、コーヒーテーブルに置いた携帯が軽快な映画音楽を流したことに気付き、ソファから立ち上がりながら耳に宛がうと、一日の疲れを感じさせない明るい声が聞こえてくる。
友人と一緒にランチを食べていた時、声が明るければ明るいほど心は沈んでいると伝えたが、この明るさは心の闇を伝える明るさではなく、仕事から解放された者特有の声に感じ、笑みを浮かべてお疲れ様と労えばもっともっと労ってくれと我が儘な一言が返ってくる。
「労って欲しいのか?」
『もちろん!今日も一日頑張ったんだぜ?』
愛するお前に労って欲しいと思って何が悪いと陽気に告げられてただ苦笑し、今どこにいるんだと問えば、アパートのフロアにいると答えられて廊下を進んでいく。
程なくしてドアベルが短く鳴り響き、ドアを開けると携帯を耳に宛がって満面の笑みを浮かべたリオンが立っていて、携帯を戻しながらそっとリオンの髪を胸に抱き寄せる。
「ハロ、オーヴェ」
「ああ。お疲れ様────本当に、お疲れ様、リーオ」
こんな言葉で労いになっているのか分からない不安を抱えつつくすんだ金髪に口付けて仕事の疲れを労う言葉を掛けると、腕の中からじわりと歓喜の思いが滲んでくる。
「すげー力になる」
「そうか」
今日は意外なところで出会えたが、どちらも仕事だった為に今のようにハグしてキスをすることが出来なかった為、もっとハグして欲しいと素直に強請られて苦笑を深めたウーヴェだが、恋人の言葉が己の心を代弁してくれている事に気付き、冷えた頬を両手で挟んで視線を重ねると期待に薄く開く唇にいたずらっぽいキスをする。
本当は出会った場所が何処であれ、周囲に誰がいたとしてもこうしてハグしてキスをしたいはずなのに、いざというときにはそんな子供のような己を押し隠すことの出来る男だと告げて意味ありげに目を細め、目を瞠るリオンの唇にもう一度小さな音を立ててキスをする。
「仕事をしている時のお前は本当に見惚れてしまう程いい男だな」
「………ちょ、オーヴェ、そんな嬉しい言葉を言われたらガマンできねぇけどっ」
いつもならばベッドの中で快感に溺れさせない限りは伝えられないそれを聞かされ、ドキドキと鼓動を早めたリオンに艶然と笑みを浮かべたウーヴェは、今日は日中にガマンをしたのだからこれからはガマンをする必要はないと告げつつ人差し指でリオンの無精髭が生えている顎を撫でていく。
「……知らねぇぞ、オーヴェ」
この後どれだけ泣こうが喚こうが止められないと、欲に目を光らせる男の貌で囁かれてぞくりと背筋を震わせたウーヴェは、伝えておかなければならない事を思い出し、リビングやキッチンではなくベッドルームに連れて行こうとするリオンの腰に腕を回して少し高い位置にある目を見つめる。
「カールがオイゲンと俺たちの四人でまた飲みに行きたいそうだ」
「へ?四人だけ?」
「ああ。何だか随分とお前が気に入ったようだったな」
「ふぅん…オーヴェが良いのなら俺も行く」
「分かった。カールにまた伝えておく」
そう告げた時にはすでにベッドサイドに立たされていて、ウーヴェがさすがにシャワーを浴びたいと告げると溜息混じりに5分と怒鳴られる。
「10分だ」
5分でシャワーを浴びる事は出来ないときっぱりと伝えたウーヴェだが、二人の関係を更に深める時間を過ごすのを待ち望んでいるリオンの頬にキスをし、すぐに戻るから待っていてくれと告げてバスルームに姿を消すのだった。
ブラインドの細い隙間から差し込む月明かりが室内に模様を描きだし、熱の籠もった声と荒い呼気がその模様を揺らすように室内に舞い上がり、夜の色香で部屋を満たすのだった。
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2012/02/28


