Schluessel zum Himmel-11-

Über das glückliche Leben(UGL) -Lion & Uwe -

 どうしても会話が途切れてしまう空気が満ちたパトカーでウーヴェが恋人と友人が待っている病院へ駆けつけたのは、約束の時間を5分程過ぎた頃だった。
 5分過ぎたことできっとリオンは帰ってしまっただろうと胸が暗くなるような思いを抱きつつも、顔を曇らせるコニーに交通事情はどうしようもないと肩を竦めてパトカーを降り立つと、玄関の壁に凭れて煙草をの煙を退屈そうに空に向けて吹き付けるリオンの姿を発見し、ひとまず胸を撫で下ろして足早に駆け寄る。
 「リオン、遅れて悪かった」
 「………5分遅刻」
 「ああ。悪かった」
 開口一番謝罪をするウーヴェをじろりと冷たい目で見つめたリオンは、靴の裏で煙草を揉み消すと、灰皿目掛けて吸い殻を投げ入れ、思惑通りに灰皿に入ったことを確かめもせずに人差し指の爪を親指でカリカリと引っ掻き始める。
 その動作からリオンの心の中で蟠っている何かを感じ取って口を開こうとした時、不満そうな溜息が二人の間にこぼれ落ち、次いで不満そのものの声が流れ出す。
 「お前が来るのを5分待った。もう良いんだろ?早く帰ろう」
 流れ出す言葉に一瞬絶句したウーヴェだったが、まだ医者からの話を聞いていないと苦笑すると腕を掴まれ引き寄せられ、そのままリオンが凭れていた壁に背中をぶつけられてしまい痛みに顔を顰めてしまう。
 「麻酔もせずに5針縫われたけど、頭は異常なし」
 それで良いだろう、まだ何か知りたいことがあるのかと顔の横に腕をついて頭を囲われるような形で少し見下ろされてしまい、腿の横で拳を握って腹に力を込めたウーヴェは、医者に直接話を聞いて安心したいと小さな声で告げるが、今までウーヴェに向けて発せられたことがない冷たい笑いが吹きかけられて目を細める。
 「怪我をした俺が直接聞いたから間違ってねぇのにさ…。そんなに俺が信用できねぇ?」
 「……お前が信用できる出来ないの問題じゃない」
 「じゃあ何だよ」
 至近距離で睨み合いながら低い声で言葉を交わす二人を少し離れた場所で見守っていたコニーは、若い同僚が見せた横顔が初めて見るものである事に驚きを隠せずにいたが、この様子ならば二人とも担当医の元に辿り着くまでにかなりの時間を要するだろうと判断を下し、二人の意識を奪わないように静かに自動ドアを潜っていく。
 リオンの同僚が一足先に病院に入った事にも気付かなかったのか、ウーヴェがもう一度溜息を零してリオンの冷たく光る青い眼を真っ直ぐに見つめると、さすがにその視線に耐えられないのかリオンの目が軽く左右に泳ぎ始める。
 「頭の傷は今すぐに症状が出るとは限らない。半日後、一日後に出る事もある。もしもそうなってしまえばどう対処をするのが一番なのか、それを医師から聞いておきたい」
 「お前も医者なんだろ?分かってるんじゃねぇの?」
 リオンがここに運ばれる前にも告げられた言葉を再び聞かされたウーヴェの胸がぎしりと軋むが、その痛みを拳の中で握りつぶしながら自嘲の笑みを浮かべ、さっきも言ったが専門外の事だと告げて、逃げをうつように揺れる蒼い瞳を捉える為に名前を呼んで向き合わさせる。
 「お前はこんな傷はすぐに治ると思っているだろうが…本当に、その通りなんだろうが……」
 先程取調室の中にいたときに脳裏に浮かんでいた光景が現実のものになるなど考えたくないと告げ、そうならないようにする為ならば例えお前自身を怒らせようがどうしようが思いを貫き通すだけだと小さな声ながらも決して覆せない決意であることを伝えると、リオンの身体から驚いたような気配が滲み出し、目の前にある唇が軽く噛み締められる。
 「俺に出来る事ならば何でもする。でも…外科的な事は…専門外なんだ」
 負傷したお前の治療をしてやることすら出来ない情けない医者だと笑いながら前髪を掻き上げ、本当に情けないともう一度笑ったその時、頬が暖かな何かに包まれた事に気付いて顔を上げ、打って変わった優しい眼差しで見つめるリオンに気付いて息を飲む。
 「リオン?」
 「ごめん、オーヴェ」
 「……やっと名前を呼んだな」
 「………ごめん」
 リオンの雰囲気が変わったことを素早く察して安堵に目を細めたウーヴェは、コツンと額に額が重なったことに安心し、頭の傷の痛みはどうだと問いかけて今は薬を飲んだから平気だと告げられて更に胸を撫で下ろす。
 「話を聞きに行こう」
 「…さっきコニーがいたよな?」
 「ああ」
 「…ボスに報告してくるからさ、詳しい話はオーヴェが聞いてくれよ」
 いくら専門外だと言っても医者になるまでの間に勉強しているだろうから自分よりも詳しいはずだし、別の視点から話を聞くことも出来るだろうと肩を竦められてその言葉に納得し、壁から背中を剥がすように身体を起こすと、リオンが一度だけウーヴェの身体をきつく抱きしめる。
 「………頼むな、オーヴェ」
 その言葉を残し、呼び止める為に口を開いたウーヴェの顔を両手で固定してキスを残し、ウーヴェが呼びかけるよりも早く踵を返して病院から出て行ってしまう。
 走る背中を見つめてやるせない溜息を零し、本当に自分は専門以外は何も出来ない情けない医者だともう一度自嘲した時、自動ドアから髪を掻きむしりながら旧友が姿を見せた為、名を呼んで手を挙げて合図を送る。
 「カール」
 「ウーヴェ……お前…いや、…リオンはどうした?」
 珍しく歯切れの悪い友人の言葉に小さく首を傾げながらも、どうしても早く病院から帰りたかったらしく、さっさと警察に帰っていったと肩を竦めると、安堵と不安の入り交じった溜息がカスパルの口からこぼれ落ちる。
 「どうしたんだ?」
 「さっきまでリオンと一緒にいたがな……あいつ、お前にはあんな顔を見せていないのか?」
 カスパルがげっそりしながら呟く言葉から連想する顔を脳裏にピンで押し止め、どんな顔なんだと囁くように問いかけると、友人が苛立ちの中に恐怖を混ぜた顔で髪を掻きむしって呻き声を上げる。
 「お前が来るから待っていろって言葉だけであいつを押し止めるのはなかなか骨の折れることだったぞ」
 「それは悪かった。────カール、リオンの何を見たんだ?」
 お前が見たものを総て教えてくれと促したウーヴェに躊躇いを振り切ったカスパルが重い口を開く。
 「世界中で一人きり、そんな顔をしていたぞ」
 病院が嫌いだから早く帰りたい、ただその一心で不機嫌になっているのかと思っていたウーヴェは、恋人の心の軌跡を友人の言葉から辿っていこうとするものの、先程見せつけられた冷たい顔が脳裏にこびり付いていて、ウーヴェの思考の旅の邪魔をしてしまう。
 「それは…待っている間の事か?」
 「いや、約束の時間を過ぎたと分かった瞬間だな」
 「……そうか。ありがとう、カール」
 「あいつの頭の傷に関しては、ただの擦り傷と打撲だけだ。脳波にもCTにも異常は無かった」
 白衣のポケットに手を突っ込んですっかりと暮れた空を見上げたカスパルは、溜息に総ての思いを込めて体内から吐き出すと、気分を切り替えるように唇の両端を持ち上げてウーヴェを見つめる。
 「今度暇な時につきあえよ、ウーヴェ」
 「何に付き合って欲しいんだ?」
 友人のたっての願いならば聞き入れましょうと肩を竦めるウーヴェにカスパルが笑みを深め、久しぶりにテニスかスカッシュはどうだと返して少しの沈黙の後に頷かれる。
 「都合の悪い日を教えてくれ。俺も日程を調整する」
 「分かった。家に戻ったら連絡をする」
 カスパルの言葉にウーヴェが小さく笑みを浮かべて頷き、自宅に戻って手帳を見てみると告げてもう一度頷く。
 「どうする?担当医から直接話を聞くか?」
 「いや……俺よりもあいつの同僚に説明してやってくれないか?」
 「それもそうか。まあ暫くの間傷口の消毒だけは欠かさずにやれば問題ないな」
 「分かった────カール」
 リオンの傷の様子について脳の内部が損傷を受けていない事実を同業者でもある友人の口から聞かされてようやく安堵に胸を撫で下ろしたウーヴェは、小さな溜息をひとつ零して脳内に浮かんで消えることのないひとつの顔に目を伏せ、友人には感謝の言葉をそっと告げる。
 「ありがとう」
 「……俺が気になるのは、さっきあいつが見せた顔だ」
 「この世に一人きり、か?」
 「ああ。お前が選んだ相手だとは分かっているが…本当にどうして付き合っているんだ?」
 最初はお互いに良い印象を抱かなかったが、仕事の関係で何度も言葉を交わし、その合間に互いのプライベートの顔を見せ合っていたが、仕事を終えた夜や休日に一緒に行動し、同じものを見て同じ感想を抱ける嬉しさを微かに感じ取っていた。
 そして気が付けば、付き合って欲しいと懇願するリオンに根負けした-と羞恥から吐き捨てるように告げているが、実際は最早目を逸らすこともその存在を消し去ってしまう事も出来ない程リオンに惹かれていた-結果、付き合うと答えていた過去を思いだし、付き合っている理由がリオンの過去を知っての庇護欲や同情ではないし当然ながら憐憫でもないと答えると、溜息ひとつでウーヴェの言葉にカスパルが理解を示そうとしてくれる。
 「……なら、いい」
 「本当にありがとう、カール」
 「ああ」
 もう気にしなくて良いと手を挙げる友人に苦笑し、中にリオンの同僚がいるはずだから説明をしておいてくれと告げて自身も手を挙げたウーヴェは、さすがに帰りもパトカーに乗せてくれとは言い出せない事に気付いて苦笑し、病院の前で待機しているタクシーに行き先を告げて乗り込むのだった。

 

 自宅に帰ったウーヴェは、体内に一気に溢れかえった疲労感から足を引きずりながらリビングに向かい、カウチソファに身を投げ出すように横たえる。
 あれから職場に戻ったのか、それともそのまま自宅に戻ったのかは不明だが、病院で頼むと言い残したリオンからは何の連絡もなく、こちらから連絡をしようと何度も考えていたが、その度に初めて己に向けられた冷たく光る蒼い瞳が脳裏に浮かんでウーヴェの手を止めさせていた。
 子どもではないのだから自宅に帰るだろうし、実家の孤児院もあるのだから、冬を迎えるこの季節に路頭で寝起きするような事にはならないと己に言い聞かせてみるものの、冷めた瞳の奥に一人になる事を極端に怖れているリオンの顔が見え隠れし、額に腕を押し当てて溜息を零せば、ウーヴェの動きに合わせて異様な大きさを誇るテディベアがウーヴェにのし掛かるように倒れてくる。
 その巨体を慌てて受け止めて柔らかな毛並みに鼻先を押しつけていると不意に鼻腔の奥にリオンの匂いが生まれ、それを逃がさない為に少しだけ強く顔を押しつけると左足の爪先がじわりと温かくなる。
 左足の爪先辺りに存在するリザードのことを思い出し、リオンに再び冷たい目で見られようがどうしようが今一番辛い思いをしている恋人の横顔に決意を込めたように頷いて名前を呼ぶ。
 病院で彼が初めて見るような冷めた目つきと笑みを浮かべていた恋人は、ウーヴェの友人であり医者でもあるカスパルにはまるで世界に一人きりだと言いたげな顔を見せていたらしいが、そんな考えに囚われる必要はない、お前は一人ではないんだと伝えたかった。
 自分が苦手とする病院で些細な怪我の治療を受ける事実だけでもきっと恋人にとっては心的負担が大きかっただろう。それに加えて約束の時間に交通事情とは言え遅れてしまったウーヴェを待っている間はどれほど不安を感じていたのだろうかと思った時、ふと脳裏に友人の心配そうな顔が思い浮かぶ。
 リオンの過去を知っての庇護欲ではないと伝えていたが、今己が思い浮かべたものは百歩譲っても過保護な思いでしかなかった。
 ついつい甘くなってしまう事を改めて反省しながら苦笑したウーヴェは、ソファから起き上がって背もたれにもたれ掛かって白い髪を仰け反らせる。
 苦手な場所にいる苛立ちと約束の時間になっても来ないウーヴェを待つリオンの焦燥感がどれほどのものであったのかを脳裏で消えることのない冷たい瞳から教えられ、やるせない溜息を零して首を傾げたとき、ソファに転がってしまっていた携帯が着信を伝えてくる。
 「……Ja」
 ディスプレイを見ることなく通話ボタンを押して耳に宛がったウーヴェは、聞こえてきた声に目を瞠ると同時に立ち上がり、暖炉の前に歩いて行く。
 『ウーヴェか?今話をしていて大丈夫なのか?』
 こちらの様子を窺う声が聞こえ、溜息混じりに大丈夫だと答えたウーヴェは、視線を暖炉の上に並んだ石や写真に向けつつ前髪を掻き上げ、今夜そちらに行けなくなってしまって悪いと謝罪をする。
 『どうしたんだ?今までこんな風に約束を破ったことはないだろう?』
 友人の声に僅かに非難の色が滲んだことを感じ取り、もう一度溜息を零して悪かったと謝罪をするが、その言葉はもう聞いたから理由を話せと語気を荒くされてしまい、ぎゅっと肘を掴んで息を吸う。
 「クリニックを出てすぐに事件があった…その事件の聴取で警察に行っていた」
 『事件に巻き込まれた?怪我はしていないのか!?』
 「…俺は、な」
 オイゲンの口調に苦い思いを込め、自分は無傷だったがリオンが負傷した事を伝えるとオイゲンが口を閉ざしてしまったようで、携帯の向こうが急に静まりかえる。
 「警察で事情を説明して、カールの病院にリオンが運ばれたから様子を見に行った」
 『…………カールの病院?』
 「ああ…主治医は別の医者だったが、カールが様子を見てくれていた」
 だから聴取を受けた後で病院に駆けつけたがすべて終わっていて、本人も出血の多さの割には元気だった事を安堵の気持ちで伝えたウーヴェは、次いで聞かされた言葉に一瞬耳を疑い、次いで目を瞠って額に手を宛う。
 『元気だった?だったらカールに任せておいて家に来れば良いだろう?』
 「……オイゲン…?」
 それはどういう意味だと無意識に声を潜めるウーヴェにそのままの意味だと少し上擦ったような声が返され、驚きに言葉を無くしてしまったウーヴェに信じられないような友人の言葉が更に続けられてぎゅっと唇を噛み締める。
 『カールの病院だったら電話をすれば様子を教えてくれるし、入院するほどの怪我でもないのなら、後で連絡をすれば済む話じゃないか』
 どうして来ないんだと、今度は強い口調で間違えることなく非難されてしまい、咄嗟にどんな言葉も返せなかったウーヴェは、前髪を掻き上げながら呆然と目を瞠り、心配だったし警察に出向いた精神的疲労がひどくて今日は楽しめるような気持ちになれないとだけようやく返すと、お前と久しぶりに飲んで山の話で盛り上がろうと思っていたのにとんだ邪魔が入ったと、ウーヴェではなく別の誰かを非難する口振りで吐き捨てるように告げられてきつく目を閉じる。
 自分にとって掛け替えのない存在のリオンが軽いとはいえ負傷する様を目撃してしまったショックはやはり大きく、どうしてもその光景が脳裏にちらついてしまい、そんな気持ちのまま友人の家で酒を飲む事などほぼ不可能だった。
 それを電話越しに伝えようと口を開いたウーヴェだったが、零れ出すのは言葉にならない音だけで、喉元と胸元に芽生えた痛みに拳を押しつける。
 ギムナジウムの頃からの付き合いであるオイゲンならば分かってくれる、そう高を括っていた自分が悪いのだろうか。
 こんな風に友人を怒らせてしまった事など未だかつて無いウーヴェは、とにかく悪かったと途切れながらも謝罪をするが、長い長い沈黙の後、膝が震えるような言葉を投げ掛けられてしまう。
 『…どうしてあんなヤツと付き合ってるんだ?』
 「オイゲン…?どういう意味、だ…?」
 『お前にはもっと相応しい女がいくらでもいる。なのに、どうして、あんな得体の知れないガキと付き合ってるんだ?』
 友人の言葉に一瞬して血の気を無くしたウーヴェは、立っているだけでも精一杯だったのか、暖炉に手を付いて何とか身体を支えながらリオンは得体の知れないガキじゃないと返すものの、嘲笑が返ってきて無意識に拳を握る。
 『俺にとっては得体の知れない、気に食わないガキだね』
 「…っ!!」
 友人達の中で優劣を付けるわけではないが、それでも最も付き合いの長いオイゲンの口から一番聞きたくない類の言葉を聞かされ、ただ悔しさに拳を額に押し当てる。
 リオンの人となりは一見するだけでは絶対に理解されない、そう断言できるものを持っていて、言葉を交わし共に行動する事でようやく見えてくるものだったが、初めて顔を合わせてろくに口も利かなかったオイゲンに気に食わないガキだと断言されるのをウーヴェが黙っていられるはずもなかった。
だから額に当てた拳を暖炉に押しつけてさまざまな思いから震える声で問い掛けると、お前が男と付き合うなんて絶対に認めないと強い口調で返されて眉を寄せる。
 「……イェニー……どうして、そんなことを…言うんだ…?」
 カールやルッツよりも誰よりもお前ならば理解してくれると思っていたのにと、心の底から振り絞ったような声で問い掛けたウーヴェは、重く長い沈黙の後にもう一度同じ言葉を繰り返されてしまい、握った拳を暖炉に叩き付ける。
 『…俺は認めない。絶対に認めないぞ!』
 「イェニー!!」
 ウーヴェが悲鳴じみた声で友の名を呼んでも返事はなく、携帯からは通話が切れた無機質な音だけが流れていて、のろのろと携帯のボタンを押して暖炉の上に置いたウーヴェは、友人が吐き捨てた言葉を脳内で反芻しながらキッチンへと向かい、冷蔵庫のドアを開けてビールを取り出すと勢いよくドアを閉める。
 オイゲンとリオンが初めて顔を合わせた時にウーヴェが密かに感じ取っていた不安が現実のものとなっただけなのだが、まさかこんなにも激しい拒絶の言葉を聞かされるとは想像も出来なかった。
 予想外の出来事に混乱したウーヴェは、出したビールにも手を付けずにそのままリビングのソファに戻ると力無く腰を落とし、オイゲンがどんな思いで今夜の再会を楽しみにしていたのか、それを破り自ら連絡もしなかったウーヴェにどれだけ腹を立てていたのかに思いを巡らせるが、それ以上にやはりリオンに対する憎悪とも取れる感情が引っかかってしまい、握った拳を額に当てて上体を折り曲げる。
 あの夜、カスパルやマウリッツなどはリオンと打ち解けたように話をし、カスパルなどは別の機会に少人数で飲みに行こうとまで言ってくれるようになっていたのだ。なのに、真っ先に席を外したオイゲンからあのような言葉を聞かされるとは思ってもおらず、告げられた内容もそうだが、オイゲンに拒絶されてしまった事への衝撃から肩を揺らしたウーヴェは、反動を付けて身体を起こすともたれ掛かってくるテディベアの毛並みを確かめるように抱き寄せる。
 今夜の約束を破るようなことをした上に連絡すらしなかったのは完全にウーヴェの落ち度ではあったが、オイゲンの怒りの真意を正確に察することはこの時のウーヴェには当然ながら出来なかった。
 だから自らの行為の結果で友人を怒らせた事だけはもう一度謝罪をしておきたいと、抱えたテディベアをそっと手放して携帯を手に取り、返事がないことを覚悟の上で謝罪の言葉と今度ゆっくり話がしたいという内容のメールを送り、どうか思いの一端だけでも伝わりますようにと願いながら前髪を掻き上げ、少しだけ痛みを覚えた頭を宥めるために水を飲もうとキッチンに再度向かい、眠れない夜になりそうな予感にやるせない溜息を零すのだった。

  

 叩き付けるように子機をソファに置いたオイゲンは、語気も荒く言い放った言葉が濃売りで木霊するのを忌々しげに舌打ちすると、テーブルに並んだささやかながらも二人で食べるには十分の料理を一瞥し、開けた赤ワインのボトルに直接口を付けて残りを飲み干す。
 ウーヴェの仕事が終わりそうな時間になっても一向に連絡が入らず、こちらから電話をしようかと悩んだオイゲンだったが、患者の診察が長引いているのかも知れないと思い直し、彼が来た時の為に見る写真やビデオのチェックを済ませていた。
 妻は今夜は同級生と言う名の不倫相手と一緒に一泊するらしかったが、久しぶりにウーヴェと二人、自宅で酒を飲んで夜を明かせる期待に比べれば、妻の不倫旅行など何ら痛痒を感じる事でもなかった。
 それだけオイゲンと妻の間には目には見えない溝が存在していたが、どちらもその溝の存在を理解していても口には出さず、ただ悪い噂が立たないようにというその理由だけのために腕を組んで職場から帰ってきたりもしていたのだ。
 自分たち夫婦がいつから仮面夫婦と呼ばれる冷めた関係になったのかは定かではないが、気が付いたときにはオイゲンは山ばかりに目を向け、妻はそんな夫に不満を漏らす代わりに若い男と付き合うようになっていたのだ。
 仮面夫婦を続けている事は予想外の疲労感を彼にもたらしていたが、間もなくやってくるウーヴェがその疲労感も仲の良い夫婦を装う必要性も吹き飛ばしてくれる。
 そう思ってオイゲンはウーヴェからの連絡を待っていたのだが、一時間過ぎても連絡が無かった為、ワインを一杯飲んでからウーヴェに連絡をしようとしたのだが、そんな時に限って妻からの電話が入り、声だけは優しいものを出して同級生との旅行はどうだと問いかける。
 そんな、今のオイゲンにとっては限りなく労力の無駄と思える妻との会話を終えたのは、結局ウーヴェに電話をしようと決めてから30分後だった。
 妻の長電話癖に舌打ちをし、苛立ちを納める為にワインをグラスに注いで一気に飲み干してようやく友人に電話をかけることが出来たのだが、その頃にはすでに約束の時間を2時間近く過ぎていた。
 電話に出たウーヴェの様子から良くない何かがあったことを察するものの、その出来事はウーヴェ自身にではなく、彼の恋人の身の上に降りかかった事を聞き出した瞬間、アルコールが回っていた脳味噌が思考を停止し、次いで瞬間的に浮かんだ顔に毒突こうとした時、負傷した恋人が元気だったと聞かされた刹那、抑えきれない本音がこぼれ落ちたのだ。
 その言葉を告げることでウーヴェがどれほど傷付くのかを予測出来た筈なのに、この時のオイゲンは己の心ながら制御できない感情に支配されてしまい、また一度溢れた本音は押し止める事も出来なかった。
 電話の向こうで傷付いているウーヴェの顔を想像するだけで心が痛みを覚えるが、それ以上にリオンに対する言い表せない感情が強く出てしまい、他の誰もが認めたとしても自分は認めないと怒鳴ってしまう。
 ギムナジウムの頃から常に傍にいて、大学を卒業して各々の夢であった医師への道を歩み出してからも、専門は違っても同じ職種に就く者が共有する悩みを相談し合ってきたウーヴェとの時間を潰させたリオンに対する思いはどうしようもなかった。
 冷静になれば、自分の約束よりも恋人を優先するよくあることで、自分も過去にウーヴェに対して同じ行動をとった事もあるのに、今夜のオイゲンにはそれを許せる余裕が全く無く、このところずっと感じていたもやもやの総てを脳裏に存在するリオンにぶつけるように舌打ちをした時、携帯にメールが届く。
 見なくても送ってきた相手が誰であるのかを察するものの、今すぐ返事をする気持ちになれずに立ち上がり、テーブルの上はそのままに自室に戻ると、登山の相棒でもあり幼い頃から何かと面倒を見てくれている叔父に今から行く事だけを伝えて家を出て行くのだった。

  

 ウーヴェが自宅で眠れない夜を迎えていた頃、その原因の一端を作ったリオンもまた眠れない夜を過ごしていた。
 頭に巻いた包帯はただ鬱陶しいだけで、今すぐ取り払ってしまいたかったが、包帯に手が伸びるたびにウーヴェの心配そうな顔が脳裏に浮かび、その手を止めさせていたのだ。
 怪我とも言えない怪我だから心配をするなといつものように笑って言いたかったのだが、あの時病院という生理的に苦手な場所で待たされる言い知れない恐怖はリオンの心から日頃の闊達さなどを奪い取ったようで、ウーヴェがただ5分遅れたというだけで目の前が真っ暗になるほどに落ち込んでしまったのだ。
 何故そこまで落ち込んでしまうのか、己の事ながらリオンには理解出来ずに自嘲し、煙草に火を付けて煙を吐き出すと僅かに眩暈を感じてしまうものの、程なくして訪れた痛みに顔を顰めて今度は懐かしさに肩を揺らしてしまう。
 学生の頃、毎日のように誰かを傷付け、また傷付けられる日々を過ごしていたが、その当時日常的に感じていた痛みで、どんな作用からかは分からないが、傷を負った後で煙草を吸うとその傷口が疼くように痛むのだ。
 有る意味懐かしい痛みだと笑いながら煙草を吸っていたリオンだったが、やはり脳裏にウーヴェの顔が浮かんだ瞬間、苛立ちを隠しもしない手付きで煙草を灰皿に押しつけてしまう。
 「……シャイセ」
 誰に何に対する苛立ちの言葉なのか、ウーヴェが聞けば眉を顰める言葉を吐き捨ててみても心が晴れるはずもなく、シングルベッドを軋ませながら仰向けに寝転がったリオンは、今度は頭を抱えるように身体を丸める。
 たかが5分の遅刻でさえも許せないほど腹が立った理由は、そこが病院だったという理由が大きなものだったが、その大樹の陰では別の思いが顔を出していた。
 その思いが不意に脳裏に浮かび、苛立たしそうに舌打ちをして起き上がったリオンは、脳裏で反芻する声と顔に目を伏せ、悪いことをしたという呟きをシーツに落とす。
 今夜は友人の家に遊びに行くと聞かされていたのに、自分が負傷したことによってウーヴェを引き留めてしまい、挙げ句には病院にまで呼び出してしまったのだ。
 学生の頃からの友人がどれ程貴重なものかを良く知っているリオンは、救急車が出発する前に本心を押し殺して友人の家に行けと告げたが、出来るので有ればあの時あのまま一緒に病院に来て欲しかった。
 だが、その時も同じように考えたが、己は一体何処のガキだという思いが再び芽生え、堪えなければならないところは堪えるべきだろうという声に自嘲し、もう一本煙草に火を付けると、今度は壁に凭れながら天井を見上げる。
 生理的嫌悪感を抱く場所に出向く時には一緒にいて、大丈夫だ何も怖いことなど無いと小さな子どもを宥めるように言って欲しかったのだと改めて気付くと同時に、恋人の友人関係を壊してしまったかも知れないと言う後ろめたい思いが、苦いものを伴って湧き上がってくる。
 その後ろめたさと嫌悪感とが綯い交ぜになり、結果として数分遅刻しながらも駆けつけてくれたウーヴェに対して冷めた表情を見せ、感情のままに口論になった結果、彼に自嘲の笑みを浮かべさせてしまったのだ。
 本当に情けないのは自分だとの思いを煙と共に天井に吐き出し、嗤いながら肯定する声だけを受け取ると、もう一度長いままの煙草を灰皿に押しつけながら携帯を手に取る。
 もう寝ているかも知れなかった。病院での己の態度に呆れて電話に出てくれないかも知れなかった。
 だがそんな恐怖よりもやはり友人関係にヒビを入れたかも知れない危惧と、病院での態度について謝りたいという思いからすっかり覚えた番号を呼び出すが、やはりウーヴェを傷付けた思いから電話をかけることが出来ず、携帯をベッドに投げ出して自らもその横に倒れ込むものの、常に総ての感情を凌駕する逢いたいという思いが首を擡げ、のろのろとリオンの手を携帯へと移動させる。
 そうしていつもに比べれば遙かに鈍重な動きでかけ慣れた番号へとダイヤルし、携帯を横臥している耳に宛がうと、いつもより少しだけ長く呼び出し音が流れた後、いつもと同じ声が聞こえてくる。
 『リオン?……今、何処にいるんだ?』
 「………オーヴェ…今からそっち行っても良いか…?」
 ウーヴェの途切れる質問に口の中が乾ききっていて咄嗟に返事が出来なかったリオンは、辛うじてその一言だけを呟くときつく目を閉じながら聞こえてくる言葉を待つが、聞こえてきた声に目玉が転がり落ちそうなほど目を瞠って動きを止めてしまう。
 『いつでも帰って来いと言っただろう?もう忘れてしまったのか?』
 いついかなる時でも構わない、ここに、俺の傍に帰って来いと言っただろうと、穏やかな茶目っ気すら込められている声に非難されて目を瞬かせ、思わず素直に頷いてしまう。
 「……そうだったな」
 『ああ。今度忘れたら豚の貯金箱に5ユーロ貯金していこうか。なあ、リーオ』
 「5ユーロはひでぇ」
 せめて2ユーロにしてと情けない声で懇願するリオンだったが、携帯越しに伝わるウーヴェの優しさから力をもらい、ベッドから飛び降りてジーンズに足を突っ込むと、投げ出したままのブルゾンと財布だけを掴んで空いた手で自転車を担いで家を飛び出す。
 『迎えに行こうか?』
 「ちょっと時間掛かるかも知れねぇけど、そっち着いたらまた連絡する」
 『分かった。気を付けて来い』
 「うん」
 いつになく素直な気持ちで頷いたリオンは、なるべく早くそっちに向かうという思いだけを込めて、早く帰ると呟くと、その思いをしっかりと酌み取ったらしいウーヴェが耳にも心にも優しい声で名前を呼ぶ。
 『逃げないし隠れもしないから、気を付けて来い、リオン』
 「うん」
 自転車で移動する間、頭の傷を増やすようなことだけはしないでくれと密かに懇願され、それだけは絶対にないと力強く頷きながら自転車に跨り、安全運転の為に一度通話を切ると告げてキスをし、携帯を尻ポケットに突っ込むと、勢いを付けてペダルを踏むのだった。

 

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2012/05/20


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