Das Heim-8-

Über das glückliche Leben(UGL) -Lion & Uwe -

 老朽化が進んでいるアパートの屋上のフェンスに座り、煙草の煙をぼんやりと見送っている少年と青年の端境期にいるような彼に声を掛けつつ近寄ったのは、背中の半ばまで伸びた髪を手で押さえているゾフィーだった。
 『リオン、こんな所で何をしてるの?』
 『あぁ?……何もしてねぇよ』
 いちいちうるさいなと肩越しに振り返って煩わしげに吐き捨てた少年、リオンは、ゾフィーが隣に腕を着いてフェンスに寄り掛かったためにバランスを少しだけ崩すが、アパートの屋上から落下する恐怖も感じていない顔でゾフィーの頭を見下ろす。
 『…んだよ、ゾフィー。何か用でもあんのか?』
 『今日はユーリアがお母さんの所に帰る日だからって言ってたでしょ?どうしていなかったの?』
 『知るかよ』
 短くなった煙草を屋上から地上へと投げ捨て、間髪入れずにもう一本を取りだして火をつけたリオンは、何かを口の中で呟いてゾフィーの目を見開かせるが、彼女が身体を起こした時にはその蒼い瞳には暗い光が浮かんでいた。
 『幸せになるのに俺が顔を出す必要なんてねぇだろうが』
 生みの親と一緒に過ごせる幸せを手に入れたのだから、例えホームでもっとも懐いていた少女だったとしてももう兄妹のまねごとをしなくても良いのだから気分がすっきりしたと青く澄んだ空を見上げて呟くものの、その胸中に渦巻いている思いは真逆のものであることをフェンスを握りしめる手に籠もった力から察したゾフィーは、そんなリオンの為にきつく目を閉じた後に頭を一つ振って長い髪を揺らす。
 『……リオン、もしもあんたの親が見つかったらどうするの?』
 『は?何言ってんだよ、ゾフィー』
 俺には迎えに来るような親はいないはずだからその仮定は不毛なだけだと冷たく笑うリオンに尚もゾフィーがどうするつもりだと問い掛けるとさすがに苛立ったのか、背後に身体を滑らせると器用に回転して屋上に降り立つ。
 『ユーリアのように迎えに来る親はいねぇって言ってんだろうが。そんな仮定の話をしてどうなるってんだ?』
 『もしかしたら来るかも知れないじゃない』
 『今頃になって迎えに来るってのか?』
 来るはずがねぇと、16歳とは到底思えない大人びた顔でゾフィーを見下ろしたリオンは、そんな己の眼光に負けないように胸を張って見上げてくる彼女に目を細め、お前はどうなんだと逆に低く問い掛ける。
 『え?』
 『お前はどうなんだよ、ゾフィー。もしも親が見つかったらどうするつもりだ?』
 『それは……分からないわ』
 先程の問いがまさか己に返ってくるとは思っていなかったゾフィーが目を丸くするが、程なくしてどうするか分からないと呟くと、リオンの口が冷たい笑みに彩られる。
 『てめぇでも分かってねぇのに人に聞くなよ、ゾフィー』
 『うるさいわねぇ。その時にならないと分からないって言ってるのよ』
 あんたみたいに捻くれた考えをしていないのだから人をバカにしたようなことを言うなと笑うと、リオンの青い目に危険な光が宿るが、相手がゾフィーである為に実力行使に出ることはなかった。
 その代わり頭一つ分小さくなってしまった彼女に背後から抱きつき、長い髪に顔を寄せて小さく鼻を啜る。
 幼い頃から当たり前のようにこうして抱きつかれていた彼女だったが、いつの頃からかその行為が意味を持つものに変貌してしまい、その結果僅かに身体を強張らせて鼓動を早めてしまうものの、当然リオンにそれが伝わるはずもなく、ゾフィーの肩に頬を押し当てながら高く澄んだ青空に中指を立てて彼女の耳の傍でこの世のすべてに毒を吐く。
 自分を産み捨てた両親が迎えに来ることなどない、物心ついた時に理解してしまったその現実と長年密かに向き合ってきたリオンにしてみれば、同じ孤児院で育った少女が実の親に引き取られる現実は、絶望の裡で独りである現実を突きつけられて理解し、泣きもしない暗い目で世界を見ている幼い己に否が応でも向き合わせる力を持っていた。
 考えるだけで気が狂いそうな孤独を長い時間を掛けて胸の裡に収め続けてきたリオンにしてみれば、パンドラの箱に沈めた狂気を顕すことなど出来ず、鬱陶しいから早く親と一緒に出て行けばいいと呟き、だから見送りにも行かなかったのにと、ゾフィーの肩越しに恨み言を吐き出すと、そっと上がった手がリオンの頭を撫でた後、腕の中で彼女がくるりと振り返る。
 『………ユーリアがリオンに食べて欲しいってパイを焼いてくれたわ。一緒に食べましょう』
 『………いらねぇ』
 『どんな人が持ってきてくれたものであっても食べ物に罪はない。そうでしょう?』
 日頃マザーにそう教わっているはずだと、笑ってリオンの額を指で軽く押したゾフィーは、反動で離れていく身体から感じた寂寥感と不安から咄嗟に手を伸ばし、驚くリオンの腕を掴んで唇を噛む。
 『ゾフィー?』
 『…………何でもないわ。早く戻りましょう。マザーが心配してたわ』
 訝る視線はまだ暗さを湛えていたがそれでも日頃の陽気さも見えるようになっていて、無意識に胸を撫で下ろした彼女は、久しぶりに腕を組んで歩こうと朗らかに言い放つと、イヤだから離せと腕を振るリオンの手を掴んで強引に腕を組み、孤児院でパイを食べるのを心待ちにしている皆の元に戻るまで腕を組んで行くのだった。

        

 マザー・カタリーナの言葉の意味を正確に把握したリオンとカインは、条件反射のようにゾフィーの俯いた顔を見つめるが、彼女は二人の視線に気付いて顔を背けてしまう。
 「フランクフルトで見つかったゾフィーのご両親ですが、母親は郊外の施設に、父親は病院に入院していたのです」
 「郊外の施設って何だ、マザー?」
 彼女の質問に苛立ちを感じたリオンが詳しく説明をしてくれと視線で促し、カインも黙ったままゾフィーを見つめるが、マザー・カタリーナではなくゾフィーの口から微かに震える声が流れ出す。
 「依存症の治療施設よ」
 「………酒かドラッグかどっちだ?」
 依存症と聞けば思い浮かぶのはアルコールかドラッグだった為に声を潜めたリオンが問い掛けつつ、テーブルの上に組んだ両手を下ろして自然な動作で親指を回転させ始める。
 「ドラッグよ。……会いに行ったときにはもうあたしのことが分からなかったわ」
 「小さい頃にここに来たんだろ?だったら分からなくても仕方がないんじゃないのか?」
 ゾフィーを見下ろしながら呟くカインに彼女が首を振り、ようやく頭を上げて自嘲の笑みを浮かべると、幼い頃の写真といつ何処で入手したのか全く分からないが、ここ数年に撮影した写真を持っていたと答えてカインを沈黙させてしまう。
 「写真は部屋に飾ってあった。でも…面会に行ったあたしがもう分からなかった」
 母親と何年ぶりかの再会を果たしたゾフィーだが、母が見ているのは幻覚の中の己の姿で、現実に今向き合っている彼女ではないことに呆然としてしまったことを肩を揺らしながら告げ、父親は末期がんに冒されていて、意識はあるもののロクに話すことも出来なかったと、今まで抱えていた荷物を下ろした時のような溜息を零し、そんな理由で頻繁にフランクフルトに通っていたと告げ、特徴的な赤とくすんだ金髪を持つ弟のような彼らへとゆっくりと顔を向けてどちらに対しても深い自嘲の笑みを浮かべる。
 「いくらあんた達でも言いたくないことがあるって…これで分かってくれた?」
 何処かにいていつか再会出来るかも知れないと思いを口に出すことはなくても密かに抱いていた両親が、ドラッグと末期がんで娘との再会を喜び-または罵りあうことすら出来ない状態だったために素直に言えなかったと前髪を掻き上げて顔を歪め、カインを見た後にリオンの蒼い瞳をじっと見つめる。
 いつだったか、親が見つかればどうすると話した事があったが、現実に見つかって再会を果たした彼女が直面したのは、密かに思い描いていたいくつかの未来から掛け離れたものだった。
 ドラッグの影響で血の気が失せ髪も肌もボロボロなのに、ドラッグを求める双眸だけが黄色く炯々と光っていたのだ。
 ドラッグ中毒の人間を幾人か見てきた彼女でさえも直視できない己の母の姿に、施設を案内してくれた女性に無言で頭を下げてその場から逃げるように立ち去ることしか出来なかった。
 母が見つかってから間もなく父も同じフランクフルト市内にいる事が分かったが、父は病院のベッドで点滴の管を繋がれてただ機械的に生かされているだけだった。
 骨と皮だけのような父を見て彼女が思ったのは、こんなことならば親など見つからない方が良かったという、心の底から冷めている思いだった。
 こんな思いをするのならば親など迎えに来ない方が良い、見つからない方が良いと喉元まで出かかっていたが、何とかそれを飲み込んで視線をぶつけてくるリオンに肩を竦め、会いに行ってみたら最悪だったわと吐き捨てると、マザー・カタリーナが痛ましそうな目で彼女を見つめる。
 「じゃあフランクフルトに行ってたのは親の面会か?」
 「そうね。面会と住んでた家をどうするかって弁護士と話をしたり色々よ」
 だから当然ながらシスターの衣装を脱いでいったと告げた彼女の口調はサバサバとしたものだったが、まだ視線を据えてくるリオンに鼓動が早くなってしまう。
 「何よ、何かまだ聞きたい事があるの?」
 「………いや、フランクフルトにいた理由が分かったから良い」
 親指を回転させつつそれ以上は問わないと言われるものの、それ以降口を開かなくなってしまい、その沈黙が彼女に警戒感と不気味さを与えてしまうが、ドアがノックされた後に少し慌ただしく開け放たれてその場にいた全員が驚きに肩を揺らしてしまう。
 「マザー、こちらでしたか」
 「アーベル?どうかしたのですか?」
 ノックの後に返事も聞かずに入って来たのはブラザー・アーベルで、彼に四人の視線が集中すると、さすがにブラザー・アーベルも居心地悪く感じたのか、話し中に申し訳ないと軽く頭を下げる。
 「ではわたくしは席を外しますね。カイン、いつもお花をありがとう。リオン、今日は泊まって帰るかどうかまた後で教えて下さいね」
 立ち上がりながらカインとリオンに礼を言い、最後にとっておきの笑顔を浮かべたマザー・カタリーナは、不安な色を浮かべて見上げてくるゾフィーに一つ頷き、あなたが作ってくれたドーナツの評判がすごく良いので、今度作り方を教えてあげて下さいと告げてブラザー・アーベルについて部屋を出て行く。
 彼女の背中がドアの向こうに消えたのと同時に、三人が何故か溜息を吐いて椅子に寄り掛かり、リオンとカインがほぼ同時に煙草を取り出す。
 「俺も、そろそろ帰るか」
 咥え煙草で立ち上がったカインが煙を吐き出し、二人の顔を見下ろして無言で手を挙げると、特に言葉を残すこともなく部屋から出て行ってしまう。
 唐突に二人きりになってしまったリオンは、斜め前に座るゾフィーの動きをぼんやりと見つめているが、大切なことを失念していたことに気付き、椅子を軋ませ頭の後ろで手を組んでさり気ない口調で彼女を呼ぶ。
 「なー、ゾフィー」
 「なに?まだドーナツが食べたいのなら残念だけど今日はもう終わりよ」
 「お前のドーナツ美味いもんなぁ。いつでも腹一杯になるまで食ってたいけどな」
 言葉を句切って椅子をギシギシと軋ませながら天井を見上げたリオンは、煙と共にやるせなさを吐き出して反動をつけて椅子を戻す。
 「親と再会出来ても…嬉しくねぇ場合もあるんだな」
 「………そうね、その通りね」
 自分たちを捨てていった親なのだ、何年経とうが捨てた方の気持ちが変化していない場合もあることを無意識に考えないようにしてきた二人は、ゾフィーが直面した現実に思いを馳せて重苦しい溜息を吐くが、それが終わると同時にリオンが今度はテーブルに腕をついて上体を乗り出すように彼女に問いかける。
 「な、あの村の教会に行ってた本当の理由は何だ?」
 「…今日警察で言ったでしょう?それがすべてよ」
 「残念。俺は直接お前から聞いてねぇし、俺が本当に知りたいのはあの教会で何をしていたかじゃねぇよ」
 二つの殺人事件に関連する、もしくはその事件の鍵となる教会で何をしていたのかは刑事として確かに知りたいが、それ以上にお前と長い間ここで一緒に暮らしていた俺が本当に知りたいのはあの教会に通うようになった理由だと、いつものリオンらしくない真面目な声で問いかけるとゾフィーが何度か視線を彷徨わせて口籠もるが、今目の前にいるのが刑事ではなく、幼い頃から毎日一緒にいて嬉しい事は一緒に、悲しい事にはそれぞれ肩を寄せてその悲しみを乗り越えて来た男である事を思い出し、手を組んで深く溜息を吐く。
 「俺がオーヴェと一緒にいる理由と同じだって言ったよな?……お前も欲しかったってのか?」
 俺が、俺たちが長い間ずっと口に出すことなく欲しいと願っている家族、その家族を象徴する家が欲しかったのかと問われ、伏し目がちに頷くとリオンの口から深い溜息がこぼれ落ちる。
 「…そうね。いつも何処かで思ってた。あんたもそうでしょう?」
 「ここは俺たちにとっては仮の家ってこと、か?」
 「……本当の家じゃない、そう思ってたわ」
 自分を捨てた親だが、いつか必ず迎えに来てくれるかもしれない、もし来られなくてもいつか親子の再会を果たせるかも知れないという思いは常に何処かにあり、その思いがこの居心地の良い孤児院は自分たちにとって仮の家になってしまっていたのだ。
 たとえどれ程マザー・カタリーナやシスター達が寝食の世話をし、家族のように接してくれていたとしても、いつも何処かにその思いは存在していた。
 「あの教会がお前の家だ、そう思ったってのか、ゾフィー?」
 本当に家族が欲しいと言うのならば何故教会に行ったと眼光を強くしたリオンは、ゾフィーが肩を揺らしたことに目を細め、本当に家族が欲しいのならば教会に行くよりも同年代の男女が良く集まる場所であったり、同級生達との集まりに顔を出す方がその可能性は高くなると告げるが、今までずっと教会でマザー・カタリーナの手伝いをしてきたからか、どうしても教会から離れる事が出来ないと自嘲されて肩を竦める。
 「あの教会、どうやって見つけたんだ?」
 「………あの教会の関係者とフランクフルトで知り合ったのよ」
 「お前の親父か母親の施設でか?」
 「そう。その時に知り合って…教会に案内されて…」
 何度か母親の施設に通っていた時に知り合った人が連れて行ってくれた教会は、こことそんなに変わらない規模で何だか居心地が良かった為、遊びに来ても良い許可を貰い、定期的に通うようになっていた事、そうしている裡にその人が不慮の事故で亡くなったが、居心地が良いあの教会に通うのを止められなかったとぽつぽつと呟くゾフィーだったが、肺の中を空にするような溜息を吐いて自嘲気味に前髪を掻き上げる。
 「マザーにあわせる顔がないわね……」
 今まで散々世話になりこれほどまで可愛がってくれた恩人なのに、本当の家族が欲しかった、ここは本当の家じゃないと思っていたと知れば心優しい彼女がどれ程傷付くだろうと苦痛を堪える声で呟き、顔を上げた彼女が見たのは同じ苦しみを瞳にだけ浮かべているリオンの顔だった。
 「親が見つかった時、マザーに話をしたんだろ?」
 「もちろんよ。……一緒に病院に来てもらったこともあったわ」
 実の親との再会の現場に育ての親であるマザー・カタリーナにも来てもらったが、自分がこんなことを考えているとは思いもしないだろうし、告げたとしても彼女をひどく傷付ける事になると唇を噛んだゾフィーは、リオンが小さな声で同意を示したことに釣られて小さく頷く。
 「あの教会に通ってた理由、分かった?」
 「分かった。今日の聴取でBKAにかなりキツイことを言われたんだろ?」
 ゾフィーが気分を切り替えるように告げた言葉にリオンも肩を竦めて頷くが、BKAの刑事が言ったことなど気にするなと告げて煙草に火をつける。
 「そうよ。何なのよあの刑事。人を犯罪者みたいに扱って…!」
 本当に気にくわないと爪に歯を立てて悔しさをかみ殺すゾフィーにもう一度肩を竦めたリオンは、仲が良かったあの姉妹が殺されたのは本当に気の毒だよなと呟き、ゾフィーが爪に歯を立てるほどの悔しさのままその通りよと激しい口調で同意をし、ロザリオがどうこう言っていたが、全く何様のつもりかしらと憤る。
 その姿に、ゾフィーが余程気にくわないことをブライデマンに言われたのだろうと思っていたが、ロザリオという言葉を聞いた瞬間、リオンの胸よりも脳味噌が一気に凍り付いたような錯覚に陥る。
 異国で命を落とした姉妹は本当に気の毒だったが、姉の死体の傍に落ちていたロザリオには姉の名前ではなく本来の持ち主と思われる妹の名前が記されていた。
 姉自身のロザリオは発見されていない為、おそらくは妹から預かったか何かしたもので、今日の段階でも何故姉が妹のロザリオを持っていたのかは分かっていなかったが、妹が死ぬ前に姉に託したものだとすれば不自然はなかった。
 だが、それ以上にリオンに冷静さを取り戻させたのは、そのロザリオと己が持っているそれが酷似していること、そしてゾフィーが訪れていた教会で知り合った子どもが持っていたロザリオも似通っている事実を思い出したからだった。
 この三点を繋ぐものがゾフィーであることは最早疑いようが無い為、リオンが微かに震える手で煙草を揉み消して手を組み、考える時の癖になっている指をくるくると回転させ始める。
 ゾフィーが作ったロザリオがフランクフルトで死んだ妹ではなくこの街で死んでいた姉の傍に落ちていたのかを聞き出したかったが、上手く話を引き出せる自信はなかったし、その結果が自らが最も怖れている事実を引きずり出す可能性が高いとなるとつい尻込みしてしまいそうになる。
 このまま黙っていて見過ごせば良いと何処かで誰かが囁き、その声に思わず従いそうになったリオンは、その声が消える寸前に聞こえてきた声に目を瞠り、大きくはなくても不思議と心の中に入り込んでくる声がお前にならば出来ると囁いた為に深呼吸を一つし、苦笑を浮かべて頬杖を着く。
 「そう怒るなって、ゾフィー。あんまり怒ると皺が増えるぜ」
 「ちょっと!まだ皺なんて無いわよ!!」
 「だーかーら、そうがなり立てるなって言ってるんだ。なあ、ゾフィー、俺がここを出る時にくれたロザリオあっただろ?」
 「え?ええ、それがどうかしたの?まさか無くしたとか言うんじゃないでしょうね?」
 リオンの言葉に彼女が少し冷静さを取り戻すが、問われた言葉から連想した思いを表現するように目を吊り上げる。
 「無くしてねぇよ。ちゃんと持ってる。そのお陰で、ダーシャのロザリオが分かったんだからな」
 ひょいと肩を竦めていつものように少しふざけている声音で彼女の言葉を否定したリオンは、己の思いを確かめるように問いかけた言葉にゾフィーがどのような表情を浮かべるかを蒼い瞳で静かに観察するが、その口調はいつもと全く変わらない明るくて少しふざけているような声音だったために、彼女も髪を掻き上げながらごく自然に答えてしまう。
 「ダーシャの…?ヴェラにはロザリオを渡したけれど、ダーシャには渡してないわ。どんなロザリオだったの?」
 「………ダーシャが持ってたロザリオ、やっぱりゾフィーが作ったものだったんだな」
 リオンの問いに答えたゾフィーだったが、更に返された言葉によって、己の意識しない呟きの結果を突き付けられて一気に顔中の血の気を喪ったように蒼白になるが、そんな彼女の様子に動じることなくリオンがじっとゾフィーの顔を見つめながら、ダーシャとヴェラの二人を知っているんだなと更に問い掛ける。
 「…………そ、れは……っ」
 「どうして知ってるんだ?」
 自分たちの間で今までにチェコ出身の姉妹の名前が話題に出たことはない筈だと告げたリオンの表情は彼女が今まで見た事もない程の強い光を双眸に湛えたもので、その眼光の強さに息を飲んで彼女が膝の上で拳を握る。
 「ダーシャとヴェラが姉妹だってボスかコニーから聞かされたかも知れねぇけど、ロザリオの入手経路が分かってなかった。あの村のクリスに渡したみたいにヴェラに渡したんだな?」
 自分のようにこのホームを巣立っていく子ども達の平穏無事を願って手渡されるロザリオだが、そのロザリオをフランクフルトで死んだ少女に渡したのかと、静かに、だが逆らうことが難しい声で問い掛けたリオンは、彼女の頭が項垂れて表情が見えなくなったため、何処でどうして渡したんだと、今度は刑事の貌よりも幼い頃からずっと一緒にいる家族に対する声で問い掛ける。
 「な、ゾフィー。BKAにもボスやコニーには言いにくいかも知れねぇけどさ…」
 さっきも言ったが、ずっと一緒に育ってきた姉弟のような自分たちの間で隠し事をされるのは寂しいし、急に手を離されたときのように不安になると肩を竦めながら本音を告げると、彼女の髪が左右に揺れた後、膝の上で拳を握って小さな小さな声で謝罪をする。
 「………ごめん……なさい…っ」
 「理由も教えられないで謝られるってのは嫌いだ。だから理由を言えよ」
 「…………………」
 「ゾフィー」
 さすがに苛立ちを感じ始めたリオンが少し声を荒げると彼女の肩がびくりと揺れるが、それでも言葉が流れ出すことはなく、仕方がないと溜息を吐いたリオンが足を組み替えてテーブルの上で手を組み、考え事をしている証として親指を回し始める。
 姉のようなゾフィーが事件に関係しているとは思いたくなかったが、特徴的なロザリオを本来の持ち主である妹に渡したことを告白したため、関係がないと言い張られても信じることなど出来なかった。
 ヴェラにいつ何処でロザリオを手渡したのかと言う疑問が次に芽生え、それを聞き出そうと口を開いた時、本能的に何かを察しているのかリオンの喉が蓋をされたように声を発せられなくなる。
 このまま己の疑問をゾフィーにぶつけると、予想もしない恐ろしい事実が突き付けられるのではないかという思いがリオンの口を塞いでしまうが、だからといってたった今気付いたそれから目を逸らすことなど出来るはずもなく、いつも取り調べをしているときには感じることのない、内臓を徐々に締め付けられているような痛みを感じつつ、ぎゅっと手を組んで伏し目がちにテーブルを見る。
 「今日署に来たとき、あの姉思いの優しい少女ってヴェラのことを言ってたよな」
 「…………言った、かしら…?」
 「言った。今日聞いたことを忘れるほどボケてねぇよ」
 彼女の聴取をしている最中、怒りのあまり部屋を飛び出してきたお前が俺の前で呟いた言葉を思い出せと肩を竦めたリオンは、脳内で出来上がりつつある構図を確かめるように小さく頷いて手を組み替える。
 「ヴェラのロザリオが何故ダーシャの傍に落ちてたのかは分からない。ヴェラが姉に手渡したのか、それとも誰かが渡したのか……そうか」
 己の呟きから気付いていなかった事実を見出した顔で目を光らせたリオンは、ダーシャが持っていたメモと呟いて顎に手を宛う。
 「ダーシャとあの教会で会ったんだな、ゾフィー?」
 「…っ…!!」
 「あの教会でダーシャに会ってヴェラのロザリオを渡したのか?」
 もしもゾフィーとあの教会でダーシャが会っていたのならば、縁もゆかりもない他国の少女が、人がいなくなった教会の住所が書かれたメモを持っていた理由も理解できると独り言のように呟くと、彼女の首が力なく左右に揺れる。
 「……私は…ダーシャに妹が亡くなったことを伝えただけ…」
 だからあのロザリオを何故姉が持っていたのかは本当に分からないと、まるでこの世から消えてしまいそうな小さな小さな声で告白されて無言で頷いたリオンは、教会で姉に会ったのかどうかを再度問いかけ、確かに彼女の口から妹を亡くした可哀想な少女と会って話をしたと教えられて天井を振り仰いで溜息を吐き出す。
 「なー、ゾフィー。フランクフルトで任意聴取を受けてる男がいるってBKAが言ってただろ?」
 「………ええ」
 「その男と…本当は面識があったんじゃねぇのか?」
 フランクフルトに出向いていた理由は両親の様子を見る為だったかも知れないが、その際、何処かでその男と接点を持ったんじゃないのかと呟くと、今度は黙ったままゾフィーの頭が上下に揺れ、もう一度リオンが天井を仰いで今度は唇を噛み締める。
 今日聴取を受けていた時に何故その事実を伝えてくれなかったのか。たとえBKAが嫌いであっても己の上司や同僚には伝えてくれても良かったのにとの思いがリオンの胸中に芽生えるが、それをしなかった彼女の理由は何だと何処かで声が聞こえた為、顔を戻して俯いて肩を震わせているゾフィーを真正面から見つめる。
 フランクフルトで死んだ少女とこの街で殺されたその姉について、ブライデマンやヒンケル達はゾフィーに存在を知っていたかと確かめただろうが、その時何と返事をしたのだろうか。
 その返答次第ではこの後ゾフィーへの対応が自然と厳しくなってしまうことが簡単に予測できたリオンは、他の誰でもない俺の頼みだから聞いてくれと声に必死さを滲ませて身を乗り出すように彼女へと近づける。
 「ゾフィー、本当のことを教えてくれ」
 「………それは…出来ないわ…」
 「どうしてだ?俺にも言えねぇことかよ、ゾフィー!」
 今日、ゾフィーを署で見かけてからずっと胸にもやもやしたものを抱えていたリオンだったが、以前の彼ならばもっと早い段階で声を荒げて彼女を己の職場に再度連れて行き、上司に頼んですべてを白状させただろうが、彼女には彼女の理由があるかも知れない、その理由を話してくれるかも知れないと言う期待を胸に抱いてじりじりとした焦燥感の中に身を置いていたのだが、ついに限界を超えたようで、テーブルに拳を叩き付けて彼女の身体を竦み上がらせてしまう。
 「このまま黙ってたらBKAが言ったようにお前がヴェラやダーシャを殺したって言われるんだぜ?あの少女を殺す訳がないって言ったのはお前だろうが!」
 ここまでの大声を張り上げてゾフィーに本当のことを言えと促すリオンだったが、勢いよく上がったゾフィーの顔が蒼白ながらも何かを強く決意している表情だった為、眼光で殺すかのように彼女を睨み付ける。
 「…言えない…っ!!あんたには……あんたにだけは…言えないっ!!」
 涙を浮かべ顔色を完全に無くして拳を握ったゾフィーが歯軋りの奥からようやくその言葉を吐き出すと、リオンが苛立たしそうに前髪を掻き上げてその手をテーブルに叩き付ける。
 「何で俺には言えない!?俺には言えないってんならBKAに直接言えるのか!?」
 「嫌よ!あんな最低な刑事に言いたくないわ!!」
 「だったら今ここで吐いてしまえば良いじゃねぇか!」
 BKAが最低だから言いたくないと言うのならば、二人きりの今話してしまえば良いだろうとゾフィーを睨むと、全く同じ力で睨み返されて互いに奥歯を噛み締める。
 ゾフィーが何を頑なに拒んでいるのかをリオンは本能的に察していたが、心がそれを認めたくないと強く思っていた為、本能が察して冷静な脳味噌が一つの答えを用意して待ち構えているのを何とか押し止めていた。
 出来るならば今己が考えた事を否定して欲しい思いが強く、それなのに何も答えてくれないゾフィーに腹の底から怒りがこみ上げてくる。
 「お前が二人の被害者を知っていたが隠していた、フランクフルトで取り調べを受けている男とも面識があったことを俺が話しても良いんだな?」
 「……………っ………止めて…っ」
 「じゃあどうしろって言うんだ!?俺には言えない、俺が話すのはダメだって…事件に関係する事を俺が黙ってられると思うのかよ!」
 「思わないわよ!でも…っ…リオン…、あんたにだけは……っ…!」
 リオンに負けず劣らずの声で怒鳴るゾフィーだったが、目尻に溜まっていた涙が色を無くした頬を伝ってテーブルに落ちていく。
 ゾフィーを泣かせたのは何年ぶりだろうと、やけに冷静な己が呟きを発するが、たとえ姉のようなゾフィーであっても事件に関係しているとなれば感情を差し挟む余地はなかった。
 「……分かった。俺に言いたくないんだったら、明日もう一度署に来い、ゾフィー」
 「……………」
 「ボスとコニーにだけ話しておく。BKAには二人から話をしてくれと頼んでおく。だから明日、絶対に署に来い」
 本当ならば今ここで全てを話して欲しかったが、それが出来ないのならば明日自ら署に出向いてヒンケルやコニーに話をしろと、力の抜けた声でぼそぼそと呟いたリオンは、ゾフィーが再度俯いて肩を震わせたのを何処か遠い世界の出来事のように見つめ、無意識に煙草に手を伸ばして火をつける。
 「…どうしたのですか、二人とも?」
 そんな二人の間にどうしようもない重苦しい空気が立ちこめた時、ドアが開いて心配顔のマザー・カタリーナが駆け寄ってきた為、リオンが髪を掻きむしって火をつけたばかりの煙草を灰皿に乱暴に押しつけて立ち上がる。
 「良いな、ゾフィー。俺との約束を…破るなよ」
 「………………」
 言葉でも仕草でも返事をしないゾフィーに舌打ちをし、心配顔で見つめてくるマザー・カタリーナの小さな身体をハグしてその耳にゾフィーを頼むと囁いたリオンは、彼女が何かを告げる前に足音高く部屋を出て行き、ドアが外れてしまうような勢いで閉めてホームを後にするのだった。
 事情が全く掴めないがリオンが常にないほど感情を高ぶらせ、またゾフィーの様子も尋常じゃないことだけは理解出来たマザー・カタリーナは、彼女の横に腰を下ろして握りしめられている拳にそっと手を重ねる。
 「……マザー…っ…!!」
 「どうしたのですか、ゾフィー?」
 マザー・カタリーナがゾフィーの顔を覗き込みながら問いかけるが、彼女は頭を何度も左右に振りながら涙を流すだけで、さすがに困惑しつつも娘のようなゾフィーの手をそっと両手で包んで労るように撫で続ける。
 その優しい温もりにすら応えられないゾフィーが肩を揺らして俯き、まるで小さな子どものようにごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返し呟き続ける。
 「ゾフィー、どうしたのです?」
 「ごめん……なさい…っ…!」
 ただ謝り続けるゾフィーを優しく受け止めるマザー・カタリーナや、先程怒りのあまりテーブルに拳を叩き付けながらも最後まで自分を信じて疑わないリオンに真実を伝えられない苦しさと、こんなにも優しい人達に時を置かずに降り注ぐ災いの元を己が作り出している罪悪感から涙と謝罪を止められず、マザー・カタリーナの腕を払いのけて部屋を飛び出してしまうのだった。

 

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2013/01/20


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