初夏の太陽が堂々と顔を出してもおかしくない時間だったが、その日は一日中太陽は分厚い雲の向こうに隠れていた。
その為、雨が降りそうで降らないスッキリとしない天気が続き、晴れるか雨が降るかどちらかにして欲しいと人々は空を見上げて諦めの溜息を吐いていた。
そんな人達の中を、一際暗い顔で視線を下げたリオンが足取りも重く歩いていた。
前日、己の姉のような女性から任意で事情聴取をした後に感じ取った不安を払拭する為に彼女がいる孤児院に戻ったリオンは、払拭するどころかその不安が確実なものとなって形を得てしまい、やるせなさと苛立ちから孤児院を飛び出した後、連絡をくれと言われていたウーヴェにも何も告げずに自宅に戻ったのだ。
幼い頃から一緒に育った自分にも話せないのであれば、己が信頼している同僚や上司に直接話をしろと言い残したのだが、彼女を信じる気持ちともしも己との約束を反故にされたらどうするという相反する思いが胸の中に腰を下ろしてしまった為、一睡も出来ずにただベッドの中でごろごろしながら時が過ぎるのを待っていた。
遊び歩く以外で一睡も出来ないなど今まで経験した事の無かったリオンは、心が昂ぶっている為に眠気を感じる事は無く、奇妙に熱っぽい身体をもてあまし気味に出勤したが、出勤直後に自らのデスクに後ろ向きに腰を下ろし、ぼんやりと室内を見回す。
後ろ向きに腰を下ろして世界を見つめていると、ここで働く人たちにもそれぞれ信頼できる人がいて、また信頼を寄せてくれる人がいるのだろうという思いが芽生え、昨夜のやるせない会話を思い出してしまって無意識に舌打ちをする。
昨夜、姉とも思っているゾフィーに事情を話せと詰め寄ったリオンは刑事として言葉を選んだつもりはなく、姉弟のように育ってきた自分たちだからこそ話せることがあるとの思いからゾフィーに語りかけていたのだが、その思いが通じていない筈はないのに、彼女の口から流れ出すのはごめんなさいと言えないの言葉で、最後に彼女が苦痛に顔を歪めながら自分にだけは言えないと叫んだ姿を思い出し、自分は彼女の信頼を得ていなかったのかと自嘲してしまう。
幼い頃から同じ物を食べて同じ水を飲んで育った自分たちだが、そんなある意味濃密な関係を身体の中に持っているにも関わらずに信頼されていなかった事実に気付くと、いつものように陽気な顔でいることも、その顔を上げることも難しくなってしまう。
嫌味な刑事や同僚達にも言えないのならば自分を信じて話して欲しかっただけなのに、それすらも彼女は言葉と態度で拒絶をしてしまったのだ。
そうなってしまえばリオンに出来るのは、強制的に彼女をここに連れてくるか、昨夜ホームを飛び出す前に伝えたように、今日彼女がここにやって来るのをじっと待つことだけだった。
もしも彼女が己を信頼していなかったとしても、彼女に告げた約束を自ら破るわけにもいかないし、またゾフィーならば最後には分かってくれるとの思いが心の中にあった為、今日が長い一日になろうともやって来るのを待つと胸の裡で呟いた時、ジーンズの尻ポケットに突っ込んであった携帯からきれいなピアノの音が流れ出す。
そのピアノ曲を聴いた瞬間、後ろ向きに座っていた椅子から飛び上がって周囲に少なからず驚愕を与えてしまうが、そんなことを気にする余裕はなく携帯を耳に宛って開口一番に謝罪をしてしまう。
「ごめん、オーヴェ!!」
『……どうして謝るのかを聞いても良いか?』
聞こえてきた声は朝一番に聞くと冬を連想させる冷たいものだったが、その冷たさの中にこれもまた真冬に感じる人の温もりのようなものが混ざっていて、昨夜話が終われば連絡を入れると約束したのにすっぽかしてしまったことをもう一度謝った後、室内にいた男女の視線が己に突き刺さっていることにも気付き、若干照れたような顔で取調室へと駆け込んでドアに背中を預ける。
「……ごめん、オーヴェ。昨日は…ちょっと電話出来なかった」
『何があったか教えてくれないか、リーオ』
昨夜、何時になっても良いから連絡をくれと言ったが、待てど暮らせど連絡がなかったため、いつもお前が使っている枕に携帯を置いたまま眠ってしまい今朝は寝不足だと笑われて素直に謝罪をしたリオンは、人から信頼されていなかった事実を突き付けられるのは結構辛いものがあると自嘲すると、電話の向こうの気配が一瞬にして変化をする。
『誰がお前を信じていないんだ?』
昨夜あったことからそう感じてしまっているのならばそれは間違いだ、だから気にする必要はないとも告げられ、その言葉が持つ温もりに声が震えそうになる。
一つ屋根の下に暮らし、子どもの頃から成長を見守ってくれていた彼女に比べればまだまだ短い時間を共に過ごしてきた恋人は、人が本当に欲する言葉を何気なく伝えてくれることが多くて、今回もまたその予感を感じて唇を噛み締めると、彼だけが伝えられる優しい声が耳から心へと染み渡っていく。
『リーオ。いつかも言ったと思うが、もしも誰もがお前を信じなくなったとしても俺だけは信じている』
「…オーヴェ……」
『もしもお前が間違っていたとしても、その誤りを自ら正せる人だ。間違ったことから目を逸らすのを良しとしない真っ直ぐな人だ』
普段はどれ程ふざけていようがどうしようが、リオン・フーベルト・ケーニヒという人の頭から爪先を真っ直ぐに貫いているのは、お前が人を信じ、また信じられている思いだと伝えられ、愛する人からの静かな、だが萎えかけた心を奮い立たせてくれる言葉をしっかりと受け止めると、自然と口元に笑みが浮かび上がる。
「────ダンケ、ウーヴェ」
『ああ……昨日、シスター・ゾフィーと喧嘩でもしたのか?』
短く礼を言うリオンに更に短い言葉でウーヴェが返した後、やや躊躇ったように口籠もった彼が聞きにくいが聞かなければならない決意を秘めた声で囁いてくる。
「あー、うん。喧嘩って言うか…ゾフィーが俺を信じて話をしてくれねぇ」
今まで何でも話してくれたのにと、姉弟げんかをしたような顔でリオンが呟くと、小さな苦笑が聞こえた後で何について信じてくれなかったんだと問われて瞬きを繰り返す。
「へ?」
『お前が彼女の信頼を得ていないなんて考えられないが、もしかすると何か事情があるかも知れないだろう?』
「…うん、お前にだけは言えねぇって泣かれた」
『泣いた?』
「うん……俺にだけは絶対に言えねぇって言って…。久しぶりにゾフィーを泣かせちまったなぁって思った」
今関わっている事件の詳細を話すわけにもいかなかった為、彼女の様子を掻い摘んで話したリオンの耳にウーヴェの疑問が流れ込み、それを耳にしたリオンが何度も瞬きを繰り返して問われている言葉の真意を読み取ろうとする。
『お前にだけは言えないと言われたんだな?』
「……うん、そう」
『で、お前から見てどう思った?』
短い言葉で伝えようとする思いに気付いて無意識に拳を握ったリオンは、かなり切羽詰まっているような感じを受けたことを素直に告げ、とにかく自分にだけは言えないと泣く彼女の顔を思い出して舌打ちをしてしまう。
『リオン』
「………大切なことを隠してるって言ったよな、俺」
『うん?ああ、そう言っていたな』
「多分…いや、間違いなくゾフィーは今俺が追ってる事件に関係してる」
それどころか、姉妹の殺害に関係している可能性すらあることを告げると、さすがに伝えられた言葉の重みにウーヴェが口を閉ざしてしまい、二人の間に重苦しい沈黙が流れ出す。
「ゾフィーには今日もう一度署に顔を出せって言ったけど…」
本当に来るかどうかは分からないと呟いて溜息を吐くリオンにウーヴェが躊躇ったような気配を滲ませながら名を呼ぶ。
『リオン、何もそう先に決めつける必要はない。彼女がお前にだけは言いたくないと思っている理由は別のことかも知れないだろう?』
「ダン、オーヴェ。でも…」
例えお前が俺を信じる気持ちからそう言ってくれたのだとしても、ゾフィーが関係していると考えた方がしっくり来るのだと、この時ばかりは刑事の貌で呟いたリオンに、そうであったとしても思いこむのは危険だから彼女が来るのを待ち、彼女の口から話を聞いた方が良いと諭されて思わず冷たい笑いが込み上げる。
「俺にだけ話せって言ったんだぜ?なのにゾフィーは何も言わなかった。…今日ここで素直に話すとは思えねぇ」
『それでも、だ。リーオ。お前の家族を信じろ』
微かな焦りや必死さが伝わる言葉だったが、今のリオンに伝わるのはただの皮肉な思いだけで、めったに見せることのない皮肉な笑みを浮かべて家族と呟き返す。
『ああ。彼女は、シスター・ゾフィーは家族じゃないのか?』
静かな言葉にリオンの頭の中のスイッチが突如切り替わったようで、握りしめていた拳を壁に叩き付けて歯を噛み締める。
「家族じゃ…ねぇ…!!」
俺とゾフィーには血の繋がりはないし、戸籍上でも何の繋がりもないと嘲笑混じりに叫ぶリオンとは対照的に、電話の向こうのウーヴェはいつものように冷静だったが、溜息の後の問いにリオンの肩がびくりと揺れる。
『─────血が繋がっている、それだけで家族になると思っているのか?』
「……じゃあ家族って何なんだよ?血が繋がってるのが家族じゃねぇのか!?」
『なら、お前を産んで何処かに行ってしまった男と女をお前は親だと、お前の唯一の家族だと思えるのか?』
「────!!」
『顔を見たことも声を聞いたこともない、それどころか、一人では絶対に生きていけない生まれて間もないお前を一人残して何処かに行ったんだぞ。それでもお前は親だと、家族だと胸を張って言えるのか?』
例えどのような事情があろうとも生後間もないお前を産むだけ産んで行方を眩ませた人を親だから大切にしたい、どんなことがあっても守りたい家族だと思えるのだとすれば、近年稀に見る聖人だと冷酷な皮肉混じりに笑われ、このまま黙っていられるはずもなく壁に拳をぶつけて歯軋りをする。
「オーヴェには分からねぇよ…!」
生まれたときから物と愛情に溢れた世界で何不自由なく過ごし、自分とは違って温かく優しい人たちに守られて育ってきたお前には分からないと叫んだリオンだったが、その言葉に返されたのは先程以上に冷たい笑い声だった。
『そうか……ペットと同じように鎖で繋がれ、邪魔になれば処分するように殺されかけることは不自由じゃないと言うんだな?』
「!!」
『自分の存在が金を産み出す為だけだと身体と心に叩き込まれても、目の前でただ一人信じられる友を殺されても…俺は不自由なく過ごしてきた、そう言うことだな?』
「オーヴェ、違う、そうじゃねぇ!!」
聞こえてくる声に頭に上っていた血が一気に下がり、違うそうじゃないと叫んだリオンに届けられたのは、思わず耳を塞ぎたくなるような絶望感が滲んだ笑い声だった。
『…………お前が言う家族が、血の繋がりがあるというだけの家族が、子どもが金を産む卵だと分かると死なない程度に搾取する……そんな人たちであっても血が繋がっていれば家族なんだな。そんなことなら……生まれてきたくなどなかったな』
生後数時間の乳児であるお前を温かく迎え入れて大切に育て、どれ程手を焼いても決して手放すことなくいつも大きな愛で見守ってくれているマザー・カタリーナやその彼女の片腕として精一杯同じような境遇の子ども達の世話をしているシスター・ゾフィーのような人たちと血が繋がっていないと言うだけで家族ではないというのかと問われてリオンの足が立っていられないほど震え、自分が感情のあまりウーヴェにぶつけた言葉が最悪のものだったのだと思い知らされる。
幼馴染み以外は誰も知らないと言っていたウーヴェが過去に巻き込まれた事件だが、その事件のあらましをリオンはウーヴェの口から直接教えられていたのだ。
まだまだ語られない部分があったとしても辛い過去を教えてくれたのに、その事実を感情的になったという理由で忘れ去り、言ってはいけない言葉をぶつけてしまったことにリオンが拳を壁にもう一度叩き付け、そうじゃないから話を聞いてくれと叫ぶものの、携帯から聞こえるのは何もかもを諦めたような笑い声だった。
『……生みの親に、もう殺してくれと思ってしまうほどひどいことをされても、血が繋がっているだけで家族か。その家族があるから俺にお前の気持ちは分からない、そうなんだな?世の中上手くいかないものだな、リオン』
「オーヴェ、話を聞けって!」
『………そろそろ患者が来る。お前も仕事に戻ればどうだ?』
「オーヴェ!」
『じゃあな』
リオンの怒鳴り声に短く一言返した後、普段ではあり得ないことにウーヴェから通話が切れてしまい、不通を知らせる音を呆然と聞いていたリオンは、己への苛立ちを爪先に込めて力任せに壁を蹴り付ける。
「シャイセ!!」
一度蹴り付けただけでは怒りが納まるはずもなく、怒りにまかせて何度も壁を蹴り付けていたその時、ドアが開いてブライデマンが顔を出す。
「…何を暴れているんだ?」
「あぁ!?あんたに関係ねぇだろうが!!」
余所者は引っ込んでいろ顔を出すなと叫んでブライデマンを睨み付けたリオンは、相手の顔が引きつりながらも威厳を保とうとするのを認め、階級で言えば自分は君よりも遙かに上なんだがと肩書きをひけらかすような発言をした為、それはそれは申し訳ありませんでした、懲罰でも何でも好きにすればいいから今すぐ俺の前から消えろと部屋の外にまで響く声で怒鳴ったため、蒼白な顔色になったブライデマンの肩越しに同僚達が集まってくるのが見え、舌打ちをして前髪を掻き上げる。
「何を騒いでいるんだ、リオン!」
ブライデマンの背後で人垣が出来上がりつつあったが、その垣根が割れて小柄だがブライデマンとはまた違う威厳を持つヒンケルが怒鳴りつつ姿を見せると、リオンが口を開く前にその前に歩み寄った直後、リオンの胸倉を掴んで頭ひとつ以上も小さな身体で激昂している部下を叱咤する。
「お前は何をやっているんだ!」
「………ちっ…!」
ヒンケルの怒声にも全く怯むことのないリオンが鋭い舌打ちをして顔を背けると、ブライデマンが一歩を踏み出そうとすることに気付き、ヒンケルの頭越しに青白くなった顔を睨み付ける。
「いい加減にしろ、リオン!」
ヒンケルのいつもの言葉が拳と共にリオンの頭上に落ちた瞬間、リオンが己の頭を抱え込んでその場にしゃがみ込み、今までの激昂がまるで嘘のような情けない声を挙げる。
「いてぇ!!ボス、暴力反対!!」
「馬鹿者!お前こそ目上のものに何という態度を取るんだ!」
「えー、俺じゃなくてブライデマン警部が悪いんですよ」
ヒンケルが腰に手を宛がいながら怒鳴り、その怒鳴り声にも負けない声でリオンがしゃがんだまま顔だけを上げて反論するが、その反論を拳で封じたヒンケルが何か言ったかと声を凄ませた為、痛いから手を離して欲しいと涙混じりの声でリオンが懇願し、ようやく自由になると同時に立ち上がり、ボスのくそったれ、今すぐクランプスの正装をして子ども達にトラウマを植え付けてこいと叫び、ブライデマンを一瞥することなく部屋を飛び出していく。
そんなリオンの背中を見送ったヒンケルは、プライドを手酷く傷付けられたブライデマンの憤慨を聞かなければならない事に気付いてげっそりとした顔で天井を見上げ、部屋を飛び出していった部下を頭の中でギリギリと締め上げて悲鳴を上げさせることでこの後間もなく訪れる苦痛の時間を凌ごうとするのだった。
上司の拳を頭に受けて痛いとやや大げさに訴えた後、部屋を飛び出して廊下の隅で煙草に火をつけたリオンは、ブライデマンの蒼白な表情を思い出すと同時に肩を揺らして笑ってしまうが、ウーヴェの冷たく暗い声が脳内で響き渡った瞬間、その笑顔が消え失せてしまい、煙草のフィルターを強く噛みながら握った拳を壁に叩き付ける。
あの時リオンがウーヴェに吐き捨ててしまったのは、形は違っていても家族との問題を抱えているウーヴェに言ってはいけない言葉だったと脳内の声に教えられてしまい、フィルターを噛みちぎってしまいそうになるが、聞こえてきた足音に顔を振り向けたときにはそんな激昂している様子など一切窺えない表情になっていた。
「…こんな所で拗ねてるのか?」
「誰も拗ねてねぇよ」
高級そうなスーツの埃を手で少し払ってスラックスのポケットに手を入れながらやって来たのは、リオンが拗ねているだろうからからかってくると他の同僚達に言い残して部屋を出て来たジルベルトだった。
二人で廊下の壁に並んで背中を預け、一人は天井を、一人は手入れが行き届いている己の爪を見つめていたが、ジルベルトの言葉にリオンが見上げていた天井から視線を足下へと落とす。
「どうした」
「んー……オーヴェを怒らせちまったなぁって」
「……どうせ余計なことを言ったんじゃねぇのか?」
「うるせぇ」
ジルベルトが少し思案したように言葉を句切ったが、その後告げられた言葉が的を射ていて、うぅと情けない声を出したリオンが恨めしそうにジルベルトを睨め付け、睨まれた方はひょいと肩を竦めて湿り気を帯びている怒りを受け流す。
「こんな所で拗ねてねぇでドクの所に行けばどうだ?」
いつものお前ならば警部やコニーが何を言ったとしても飛び出して最愛のオーヴェの所に向かうだろうと笑われ、それが出来ればとっくにそうしていると返したリオンは、意外そうな顔で見つめてくるジルベルトに肩を竦めて新たな煙草を取りだして火をつける。
「どうしたんだ?」
「……今日はここを離れる訳にはいかねぇ」
「何かあったか?」
「ああ────ゾフィーと約束をした」
昨日参考人聴取を受けたゾフィーだが、隠していることを話せと約束をした為、今日は外に出て行けないと煙と共に呟くリオンにジルベルトが一瞬目を細めるが、ゾフィーが来れば連絡をしてやるから行けばいいのにと肩を竦める。
「んー、俺にだけは言えねぇって言ってたけど、裏を返せば俺にだけ聞いて欲しいんじゃねぇのかって…」
昨日、まんじりとも出来ない時を過ごしながら考えていたのは、泣きながら自分にだけは言えないと悲痛な心を打ち明けたゾフィーの本心だった。
リオンにだけは言えないと叫ばれたが、己に置き換えた場合、ウーヴェにだけは聞かれたくない過去があると同時に、何もかも洗い浚いぶちまけた上でありのままの己を受け入れて欲しいと言う思いもあり、もしかするとゾフィーもその葛藤に苦しんでいるのではないのかと気付いたのは、白々とした空が見え始めた頃だった。
もしもそうならば、自分を頼りにやってくるゾフィーを一人に、ましてやあのブライデマンなどに預ける訳にはいかないことを姉を心配する弟の顔で呟いたリオンにジルベルトも納得の頷きをし、同じくキャメルを取りだして火をつける。
「そーいうことなら、いた方が良いな」
「だろ?」
「ああ。────まあドクには電話で謝っておくんだな」
「あー、さっきその電話で怒らせちまったってのに、電話はしたくねぇ」
ジルベルトの言葉にウーヴェの冷たい声が脳裏で重なり、苛立たしそうに髪を掻きむしったリオンは、それでも恋人を怒らせ-もしかすると落ち込ませたことへの謝罪と許しを得なければならないと呟き、やるせない溜息を零す。
「ガンバレ若造」
「うるせぇ!誰が若造だ、ジジイ!」
「誰がジジイだ!」
ジルベルトの彼なりの慰めの言葉にありがとうと殊勝にも告げようとしていたリオンだったが、若造と言われて脳味噌の中で何かが切れる音を聞き、条件反射のように口を突いた言葉からその切れたものが堪忍袋の緒だったことに気付くと、せっかく慰めてくれているはずのジルベルトにいつものようにジジイと怒鳴り返してしまい、更にそれに彼が返すキャッチボールが始まってしまう。
廊下とは言え二人の声は次第にヒートアップしていき、声に驚いた他の同僚達が刑事部屋から顔を出しては、いつもの二人が言い争いをしている事を知ると各々溜息を零したり舌打ちをしたりして何処かに行ってしまうが、コニーがマグカップ片手にのんびりとした足取りでやってきて、額をぶつけ合う距離で怒鳴りあう二人の横に立つと、足取りと同じ口調で警部が季節外れの本物のクランプスになって悪い刑事を地獄に突き落とすそうだ、どちらが悪いか決めて警部の前に出頭しろと告げると、醜い言い争いをしていた二人がぴたりと口を閉ざす。
「…お前が行けよ、ジル」
「何を言ってるんだ、クランプスと言えばお前だろう?」
どちらかが怒り狂っているヒンケルの前にその身を捧げて犠牲になるかで言い合いを始めた二人にコニーが盛大な溜息を零し、どちらも嫌だと言っていますがどうしますか警部と背後に声を掛けると、廊下の端にまで聞こえる大声が耳を掴んででも引っ張ってこいと叫んだ為、二人同時に首を竦めて顔を見合わせるが、どちらからともなく駆け出すとヒンケルの部屋に駆け込むのだった。
昨日、本人にも告げたように一晩中電話を待っていたウーヴェは、空が白くなり出した頃に軽く睡眠を取っただけで実は寝不足気味などという可愛いものではない状態だった。
そんな状態でもやはり電話をかけてこなかった恋人が心配で、こちらから電話をするのも何だか違うと思いつつ電話をかけた結果、昨夜のことについては納得出来たが別のことで口論になってしまうと言う、何をしているんだと通話を終えた後に頭を抱えたくなるような事態を招いてしまっていた。
売り言葉に買い言葉なのかも知れなかったが、どうしてもリオンが放った一言に心を動かされてしまったのだ。
血の繋がりがある者でも見捨てかねない行動を取ってきたであろうリオンを、大きな愛で見守り育ててきたマザー・カタリーナと血が繋がっていない事実だけで家族ではないと言い放ったリオンにやるせない苛立ちを感じてしまったのだ。
血が繋がっている家族であっても、容易く見捨てるような親や兄妹が多い中、言ってしまえば赤の他人、しかも生後数時間の乳児を育ててくれた女性は、リオンを産んだ女より余程母として相応しいとウーヴェは常々思っていたのだ。
なのに、血の繋がりがないからと、その女性やシスター・ゾフィーらでさえも家族ではないとどうして言い切れるのかが理解出来ず、通話を終えた携帯をデスクに置き、椅子の背もたれを限界まで反らせて天井を見上げる。
感情のあまり過去の一端を口走ってしまったが、その言葉に引きずられて事件の影がウーヴェの脳裏に手を掛けてしまい、それに気付いた瞬間、天井から一気に暗闇が降ってくる。
「─────!!」
その闇に囚われてしまえば現実に戻って来られない、その恐怖に目を瞠ったウーヴェは、無意識のうちに椅子の肘置きを手が白くなるほど力を込めて握りしめるが、闇に包まれそうになったと同時に、左足薬指に今ではすっかり馴染んでいる感触を思い出して息を吐く。
吐いた息が闇を押し戻したわけではないが、呼吸一つを取り戻したお陰で次の呼吸が出来、新鮮な空気が肺の中を満たすと徐々に意識が現実に戻ってくる。
目を瞠った為に何度も瞬きをして涙で眼球を潤し、その痛みを感じて目頭を押さえた時、闇が天井へと戻っていったことに気付き、肺の中を満たしていた空気をすべて吐ききってもう一度新鮮な空気を取り込むと、ようやく全身に籠もっていた力を抜いて椅子の背もたれに深くもたれ掛かる。
リオンには皮肉な声で告げてしまったが、ウーヴェ自身も家族について問題を抱えていた。
その問題の根本にあるのはリオンと同じ自らが望んだ訳ではなく不可抗力の結果なのだが、事件に巻き込まれた後は家族と距離を置かなければならない状況に追い込まれてしまい、その中で長い間密かに苦しみ続けてきているのだ。
その一端だけでもリオンには伝えていたのに、あのようなことを言われてしまえばただただ悲しくて、己が思い伝えてきたことは何も伝わってなかったのかという絶望的な気持ちすら芽生えてくる。
誰よりも分かり合える存在になれるとは思っているが、それが単なる願望であって実際には自分たちは互いの表面だけしか分かっていないのではないかと自嘲しかけたとき、ドアがノックされて書類ケースを持ったリアが入ってくる。
「…午前の診察予約を入れているヘル・シュルツのカルテです」
「ああ、ありがとう。そこに置いてくれ」
無表情にカルテを差し出すリアにいつもならば感じない苛立ちを覚え、つい棘のある口調で言い放って溜息を吐いたウーヴェは、書類を置いてもその場を動かない彼女に気付き、組んだ手で顎を支えながらどうしたと問い掛ける。
その声がウーヴェ自身が想像するよりも冷たく暗いものだった為か、仕事中には珍しく心配そうな顔でリアがウーヴェを見つめ、この後の診察は大丈夫かと口を開いた直後、ウーヴェが組んでいた手を解いて椅子を軽く軋ませながら冷たく笑う。
「診察できるかどうかをきみに判断して貰わなければならないのか?」
「………失礼しました」
ウーヴェのその一言にはさすがのリアもムッとした表情を浮かべるものの、グッと堪えたことが分かる顔で目を伏せて出過ぎた真似をしましたと謝罪をし、この後すぐやって来る患者に対応するために踵を返す。
その背中を見送ったウーヴェだったが、一つ溜息を零した時、まるで憑き物が落ちたかのように目を瞠り、つい今し方己が吐いた言葉が八つ当たり以外の何物でもないことに気付くと、前髪を掻き上げた手で磨かれているデスクを叩く。
リオンならばシャイセだのくそったれだのと口汚く己自身を罵るだろうが、ウーヴェはその手の類の言葉を口にしたことはないため、苛立たしそうに舌打ちをして手の甲でもう一度デスクを叩く。
自分の顔色が悪い為に心配して声を掛けてくれた彼女に何故あんな物言いをしてしまったのかと考え、やはり先程のリオンとの口論が尾を引いていることに気付いたウーヴェは、重苦しい溜息を吐いてやりきれなさと彼女への申し訳なさを吐き出すが、このままでは駄目だと己を叱咤して立ち上がると同時にドアが開いていつものように無表情のリアが疲れ切った顔の患者を案内してくる。
「……おはようございます。そちらのソファにおかけ下さい」
今は己の後悔よりも患者の苦しみを少しでも軽減する方が先だと腹の中で呟いたウーヴェは、不安そうに見つめてくる患者に精一杯の笑みを浮かべ、どうしましたかといつものように診察を始めるのだった。
今日の患者すべての診察を何とか終えたウーヴェは、デスクに腰を下ろしたまま二重窓の外を見つめていたが、ノックの後にリアがお茶の用意を運んできてくれたことを知り、デスクの上で身体ごと振り返って彼女の動きをじっと見つめる。
お茶を用意する横顔から伺えるのは、一日の疲れを一緒に労いつつ軽く仕事の話もした後にプライベートの話題でコミュニケーションを取ろうとする思いだけで、仕事始まりの直前に傷付けたことへの怒りや苛立ちは見えなかった。
だからといってその話題に触れないでおくことはウーヴェには出来ない為、リアがお茶の用意をコーヒーテーブルに置き終わると同時に名を呼び、彼女の視線を受けて眼鏡の下で目を泳がせてしまう。
「どうしたの?」
「……いや……今朝はすまなかった」
直前にリオンと口論になってしまい、ついきみに八つ当たりをしてしまったと、覚悟を決めたようにリアを真正面から見つめて謝罪をすると、リアの目が軽く見開かれた後、手にしていたトレイを胸に抱えて目を伏せる。
「少し驚いたわ。いつものあなたらしくなかったから」
「ああ。悪かった」
リアのその言葉にもう一度謝罪をしたウーヴェは、手招きされてデスクから降り立ち、お気に入りのチェアに腰を下ろすとリアが胸を撫で下ろしたような溜息を零す。
「聞いても良いかしら…?」
「………リオンと口論した原因か?」
「ええ。無理にとは言わないわ。ただ、あなた達が口論するなんて珍しいと思ったから」
いつものようにウーヴェがリオンを怒鳴りつけたりするのは不思議ではないが、ウーヴェがあのような言動を取ってしまうような口論は珍しいし気になってしまうと素直な思いを告げたリアにウーヴェが苦笑し、売り言葉に買い言葉だと呟きながら肩を竦める。
「あいつが…マザー・カタリーナを家族じゃないと言ったから、だな」
「リオンにしてみれば育ててくれたけれど産んでくれた人じゃない。だから家族じゃないってこと?」
「そうみたいだな」
昔ならばいざ知らず、現代の多様化する家族の形を思えば、リオンを育てた女性は立派な母だと思うとウーヴェが告げるとリアも同意を示してくれるものの、それでもやはり生みの母の存在は大きなものなのだろうと小さく返す。
「そうなんだろうな、きっと」
俺には分からないが、きっとリオンにとっては大きな愛情で包むように育ててくれた彼女であっても母とは思えないのだろうと繰り返したウーヴェは、己の言葉にやるせなさを感じて溜息を吐く。
「私たちには分からないものがあるんでしょうね」
「そうだな…ただ……」
リアの言葉にウーヴェが苦笑混じりに返すが、言葉を切った後、足を組み直して膝の上で手を組んだウーヴェが真正面を見据えて呟いた言葉にリアが目を瞠って小さく息を飲む。
「分からないからと言って、分かろうとしていないとは思わないで欲しいな」
「ウーヴェ…?」
「俺には分からないそうだ」
何不自由なく育ってきた俺には分からない、そう言われたことを告げて肩を竦めたウーヴェだが、その言葉だけは受け入れることが出来ないとも告げてターコイズ色の双眸に深い悲しみを浮かべる。
「ベルトラン以外ではあいつだけが知っている筈なのにな」
「それは…あなたが巻き込まれた事件のこと?」
「ああ。────知っているリオンにだからこそ、言われたく無かった」
その悲しみと怒りとが混ざり合ってリオンと口論をしてしまったことを告げ、その結果がリアに八つ当たりをしてしまったとも呟くと、もう一度彼女の目を見つめて謝罪をする。
「そういう事情なら…許すわ」
「ありがとう、リア」
またいつか同じような事があるかも知れないが、その時も見捨てないでくれと、いつかの己の為に彼女に頭を下げたウーヴェは、こんな自分の為にもお茶を用意してくれるリアにいつも以上に感謝の思いを抱き、少し冷えてしまっているがそれでも美味しい紅茶が入っているマグカップを手に取る。
「許すけれど…傷付いたわ」
「………悪かった」
「そうね。言葉での謝罪はもう十分ね」
だから言葉ではなく態度で示せと彼女特有の茶目っ気を込めた目で見つめられて溜息を吐いたウーヴェは、何が良いだろうかと咳払いの後に問いかけると、今年の夏は暑いみたいだから冷たいデザートが食べたいと宣言されてもう一度溜息を吐く。
「いつも二人で行っているイタリアンレストランのジェラートはどうだ?」
「ステキ。レモンやオレンジを使ったジェラートが食べたいわ」
そのジェラートを買ってきてくれれば、今朝のあの出来事を綺麗さっぱり忘れて明日からの仕事も頑張れると笑ってくれた為、ジェラートの一つや二つで許してくれるリアに感謝しつつ紅茶を飲むウーヴェに、リアが微苦笑混じりに呟いて目を伏せる。
「…今日リオンが来たらどうするの?」
口論となった恋人がいつものようにやってくれば、ウーヴェとしてはやはり許せない一言を告げた時の真意を直接顔を見ながら教えて貰うつもりだったが、連絡があるかどうかも分からないと、この時は不安を隠さない顔で呟いて二重窓の外を見ると、さっきまで晴れていた空が俄に曇り始め、初夏の街に雨粒を落としそうになっていた。
「リオンと早く仲直り出来ると良いわね」
「ああ…そうだな」
たとえ口論をしたとしてもやはり己が愛する恋人とはいつも傍にいて笑っていたい為、早く仲直り出来れば良いと断言し、窓の外から視線を戻す。
今日明日とリオンがやってこなかったり連絡がなければ自ら電話をしてみようと決めたウーヴェは、お茶を飲み干して満足の溜息を吐き、明日の診察もよろしく頼むといつも通りにリアと労いの言葉を掛け合うのだった。
だがこの日も翌日も、ウーヴェの携帯が軽快な映画音楽を流すことはなく、ここクリニックのドアがノックとも思えない激しさで叩かれることも、自宅のドアベルが深夜に近い時間に鳴らされることもないのだった。
2013/03/09


