Glück des Lebens-Heavenly Blue  27-

 バスと電車を乗り継いでクリニックの最寄り駅へと到着したウーヴェは、地上の広場へ出たときに一つ安堵の溜息を零す。
 最寄り駅への到着が近付くにつれ鼓動が早くなるなどの不調は感じられなかったが、クリニックが入居するアパートに向けて歩いている時、ドアの間近でブロンドの青年を見かけて足が止まってしまう。
 あの日、いつものカフェにコーヒーを買いに出かけて気分転換を図ろうとしていたウーヴェは、アパートを出てすぐにアロイスのデンタルクリニックを探すルクレツィオに声を掛けられて案内するためにアパートに一緒に戻ったのだが、その時にスタンガンで自由を奪われ誘拐されたのだ。
 その一連の行動を否が応でも連想させるブロンドの青年が前を歩く姿に身体が強ばってしまうが、ルクレツィオと共通しているのがブロンドだけで、身なりも顔立ちもまったく違う事に気付き、胡乱な目で見つめながら通り過ぎる青年に震える呼気を零したウーヴェは、アパートに入ると階段横を通ってエレベーターに乗り込んで溜息を吐く。
 誘拐されたのは階段横でそのまま地下駐車場へと連れて行かれたが、そちらにはまた後で行く事を決め、クリニックのあるフロアに到着するとやけに長く感じる廊下を何かを確かめるように一歩ずつ歩いて行く。
 両開きのドアにぶら下げられている休診中のプレートを手に取り、早くこれが診察中に変化するように祈りつつ鍵を開けてドアを開ける。
 新婚旅行から戻ったウーヴェは、翌日から気持ちを診察へと向けるようにここにリオンと毎日時間を決めて来ていたが、今日は一人でやって来た事から、ドアノブを掴んだまま先に進めなくなっていたが、背後から呼びかけられて身体に籠もっていた不要な力が抜けていく。
 「ウーヴェ?おはよう」
 「あ、ああ、おはよう、リア」
 今日はリオンが面接に行くので一人でクリニックに行く、良かったら来てくれないかと声を掛けたのは昨日の夜だったが、ウーヴェの招集に応じるようにリアが後ろに立っていて、二人を巻き込んだ事件の前とは少し違う笑みを浮かべる彼女に笑いかける。
 「急に来てくれと言って悪かった」
 「大丈夫よ。ウーヴェから来てくれと言われたらそちらを優先するって最初から言ってあるから」
 だから弟が雇われ店長をしているカフェを休んでも平気と笑う彼女に頷き、リアを招き入れるようにドアを押さえて合図すると、リアが隠しきれない緊張感を体中から滲ませながらウーヴェが押さえるドアを潜る。
 「・・・少し、緊張するわね」
 「そう、だな」
 彼女の緊張の原因が分かっている為に短く返し、ドアを閉めて二人同時に溜息を吐いてしまうが、ちらりと視線だけを重ねると、示し合わせたように深呼吸をし、もう一度溜息を吐くが、今度は先程と比べて何かしらの意志が籠もったものだった。
 「リア、まだ再開まで時間がある、目にして辛くなるものがあるかどうか教えて欲しい」
 残念ながら構造的なものは変えようがないが、それでも可能な限り変えてみたと、ステッキで床の絨毯を一つ突いたウーヴェは、トイレがどうなっているのか問われて無言で頷き、彼女を待たせてトイレのドアを開ける。
 事件当時、ジルベルトにトイレに監禁され足を刺されたリアだったが、まさにその現場は内装を変える程度の事しか出来ずに申し訳ないと詫びつつウーヴェがリアを招くが、頷いた彼女の足が動こうとしない事に気付いてウーヴェがゆっくりとリアの前に戻ると、片手でそっと彼女の肩を抱き寄せる。
 「リア、事件の時は怖い思いをさせた。俺がいない間もずっと不安だったと思う」
 悪かった。それを乗り越えてくれてまたここに来てくれた事は本当に感謝している、ありがとうと謝罪と礼を、以前と同じように伸びた髪を掻き分けて耳に囁きかけると、リアの大きく震える腕がウーヴェの背中に回されてきつく抱きしめる。
 背中の傷が痛みを覚えるのを堪え、リアの震えが少しでも納まるように願いつつ本当にありがとうともう一度伝えた時、ウーヴェの肩口辺りから堪えようとしている嗚咽が流れ出す。
 事件の時、リアにとって最も頼りになる友人であり上司でもあるウーヴェが誘拐され、自身も足を刺されて髪を切られてしまうという、心身への加虐を受けて病院で日々沈み込んでいたが、事件解決に向けて仲間と共に必死に動いていたリオンが病院へと顔を出してくれた時、もうこの事件のことで泣かないと決めたのだが、今までの関係に同じ事件の被害者という関係も加わったウーヴェの声に自然と涙が止まらなくなってしまったのだ。
 それを詫びようとするが声が言葉として出てくれず、何を伝えたいのかも分からないままただ止めることの出来ない涙に彼女自身も狼狽してしまうが、それを見抜いているウーヴェが彼女の背中を撫でて好きにすれば良いと囁いた為、身体の好きにさせようと決める。
 腕の中で聞こえる小さな嗚咽に眉を寄せ、本当に怖い目に遭わせてしまった、心配も掛けたしクリニックを再開するのかという不安も抱かせてしまっていたが、例年通りにヴィーズンが終わればクリニックを再開する、その準備を仕上げたいから手伝って欲しいと囁くと、リアの長い髪が何度も揺れる。
 「・・・ごめん、なさい。あなたの声をここで聞いたら・・・」
 安心してしまって涙が止まらないと、手の甲で涙を拭おうとするのを遮り、サマーセーターの袖でぐいと目元を拭いてやるとリアの目が丸くなるが、笑みの形に変化すると同時にぽろりと涙がこぼれ落ちる。
 無言でその涙も拭いたウーヴェは、彼女がようやく落ち着いた頃を見計らい、トイレの内装を変えて貰ったが、大丈夫かと再度問いかけると、リアが緊張の面持ちで頷きつつ恐る恐るトイレに向かうが、開け放たれているそこを覗き込み、一歩を踏み出して暫くトイレ内に留まっていたが、ウーヴェが不安に感じるほどの時間が経過した頃、何かを吹っ切ったようにすっきりとした顔でリアが姿を見せる。
 「・・・リア」
 「・・・大丈夫、ウーヴェ。何かの時には思い出すかも知れないけど、でも・・・大丈夫」
 事件現場となったここでまた以前のように働けるか不安だったが、大丈夫と、ウーヴェと己に言い聞かせるように呟いた彼女は、左足の傷の辺りに手を宛がい深呼吸をすると、ウーヴェに向けて強さと優しさがない交ぜになった笑みを見せる。
 「クリニックを再開したら、またよろしくお願いします、ドクター」
 「・・・ああ、こちらこそ、宜しく頼む」
 きみがいないと事務が滞って仕方が無いと苦笑するウーヴェに頷いたリアは、今日はこの後何か仕事をするつもりかと問われ、リアが使っていたデスクの表面を撫でたウーヴェは、今日はここに来て不調を覚えないか確かめたかっただけだと伝えると、一瞬驚いた様に彼女の目が丸くなるが、それも必要なことだと納得したように頷いてデスクを回り込み、左足を刺された事を感じさせない様子で椅子を引いて腰を下ろす。
 「・・・半年ほど前なのに、随分と久しぶりに感じてしまうわね」
 「そうだな・・・確かにまだ半年ほどしか経ってないな」
 真冬の灰色の雲が空を覆っていたあの日からまだ半年ほどしか経過していないが、二人にとっては何年も経過しているような感慨を抱かせてしまう空気がクリニックの中に満ちていて、不思議だなと苦笑するウーヴェにリアも同じ顔で頷く。
 「クリニックを再開するけど、患者はどうなの、ウーヴェ」
 「ああ。再開する案内をリオンに手伝って貰って出した。何人かは連絡をくれたけど、しばらくの間は患者が少ないだろうな」
 デスクに尻を乗せて手の爪を見つめつつぼんやり呟くウーヴェにリアが仕方が無いわと慰めの言葉を掛けるが、また以前のように丁寧に診察をしていれば必ず患者は戻ってくる事を信じているとも伝え、振り返るウーヴェが不安を感じないように笑顔で頷く。
 「ありがとう、リア」
 「どういたしまして」
 患者が以前のように来てくれる事を信じて診察を続けましょうと笑うリアにウーヴェもようやく愁眉を開いて頷き、今日は一人で来てみて良かったと満足そうに溜息をつく。
 その時、ウーヴェのスマホが以前と同じだが少しだけアレンジの違う映画音楽-今やそれはリオンのテーマ曲のように感じていた-が流れ出し、ウーヴェの顔に自然と嬉しそうな色が浮かび上がる。
 「・・・ハロ」
 『ハロ、オーヴェ』
 「ああ。面接は終わったのか?」
 『ああ、うん。終わった。今からそっちに向かおうと思ってるけど大丈夫か?』
 問われる言葉に思案することなく大丈夫だと返すが、何かを思い出したのか、こちらについたら地下の駐車場から電話をくれ、その連絡を受けて駐車場に向かうと伝えると、そんなことをしなくてもクリニックに上がるのにとリオンが不満そうに訴えるが、確かめたいんだと短く返すウーヴェの言葉から何かに気付いたのか、同じく短い言葉で分かったと返されて安堵に溜息をつくが、リアの前でも気にすることはないと己に言い訳をしてスマホにキスをする。
 『オーヴェ?』
 「何でも無い。待っているから気をつけて来い、リーオ」
 『うん』
 ウーヴェからのスマホへのキスが珍しいと思いながらも嬉しさに顔を綻ばせている姿を如実に想像させる声にウーヴェが苦笑し、気をつけて来いと再度伝えて通話を終えると、デスクの上から不気味な気配が漂ってくる。
 「・・・リア?」
 「・・・すてきな恋人が欲しい、結婚したいって思ってる女の前でいちゃいちゃっぷりを見せつける男って、本当にデリカシーがないわよね」
 誰かさんに言いつけて少し懲らしめて貰おうかしらと、恐る恐る振り返るウーヴェを睨み上げたリアは、私も恋人が欲しいと嘆き、ウーヴェの腰を指で突く。
 「・・・・・・っ!」
 痛みよりもくすぐったさを感じさせるそれにウーヴェが過敏に反応し、誰かさんとは誰だと聞きたくないことを聞いてしまうが、どうしましょう、ねぇ、誰かさんの弟と目を細められて誰を指しているのかを察すると、いつものカフェのレモンタルトと呟いて恨みがましい気配を霧散させる。
 「楽しみだわ」
 「・・・・・・」
 「・・・それはともかく、ねえ、ウーヴェ、カスパルとね、少しお付き合いをしてみたの」
 リアの纏う空気が一気に変化し、安心しつつ振り返ったウーヴェに彼女が伏し目がちに告げたのは、共通の友人であるカスパル-今回の事件ではウーヴェもリアも随分と世話になった-とお試し期間的な感じで付き合った事だったが、何を言わんとするのかが理解出来ずに眼鏡の下で目を瞬かせると、リアの肩が軽く上下する。
 「結論、パートナーとして付き合うことは出来ないけれど、友人としてこれからも付き合っていきましょうって」
 「・・・そう、か」
 「ええ。────だからこれからもあなた達の飲み会に時々参加させてね」
 「もちろん」
 今回の事件でもしかすると恋人関係に発展するかも知れなかった二人だったが、互いを罵ったり悲しい別れを回避する付き合い方よりも、気楽な友人でいようと決めた事にウーヴェが二人の意見を尊重したいと頷く。
 「・・・リア」
 「なに?」
 ウーヴェの言葉に小首を傾げる彼女に、異性であれ同性であれきみの短所ですら受け入れてくれる人が現れるだろうから焦ることは無いと目を細めると、リアの頬がほんのり赤く染まる。
 「・・・他の人が言えば嫌味かしらって皮肉を言いたくなるけど、あなたの言葉はそうは思わないわ」
 だからあなたの言うとおり、短所ですら玉に瑕と言ってくれる人を探すと笑う彼女に頷くと、急に呼び出しておいて悪いがリオンの面接が終わったそうだから今日は帰ると告げると、リアも頷いて立ち上がる。
 「ウーヴェ、再開までに準備をする事があれば遠慮無く言ってね」
 「ああ、助かる。また急に連絡するかも知れないけど、来てもらえると嬉しい」
 今日の目的の一つを達成した二人が安堵に顔を綻ばせ、準備を含めてまた再開する暁にはよろしくお願いしますとリアが頭を下げ、ウーヴェもしっかりとそれに頷くと、気をつけて帰ってくれと彼女の身を案じる言葉を伝えて頬にキスをする。
 「ありがとう。気をつけて帰るわ」
 「ああ」
 再開された日の朝、今までのようにおはようと笑って言えるようにしましょうと、再開時の約束をしたリアは、ウーヴェの頬に同じようにキスを返した後、入ってきた時とはまったく違う明るさの増した顔で両開きのドアを開けて出ていくのだった。
 颯爽とした背中に心から安堵した顔で彼女を見送ったウーヴェは、一人きりになったクリニックを見回し、念のためにドアの鍵を内側から掛けてステッキを彼女が腰を下ろしていたデスクに置くと、痛めた左足を引き摺りながら診察室のプレートが掲げられたドアを開く。
 一人掛けのソファやウーヴェのデスク、窓際の来客用のチェアなどには埃よけの布が被せられていて、次に彼女が来てくれた時にはそれらを外して軽く掃除をしようと決め、デスクの布に手をつくと自然と溜息が零れ落ちてしまう。
 待合室から診察室へと以前ならば何の苦労も無く行き来できていたが、ステッキが無ければ酷く疲れる作業になってしまった事に微苦笑し、仕方がない事だと天井を見上げるが、自分たちを不幸のどん底に陥れるだけでは無く命まで奪ったお前に楽などさせるものかと、端正な見た目とは裏腹な冷酷な声が過去の扉の隙間から嘲笑してくる。
 「────!!」
 入院している時に見舞いに来てくれたアイヒェンドルフが、犯人達の幸せを奪ったわけでは無いと諭してくれたのを糧に、不幸のどん底に陥れたのは俺では無い、お前達自身の行為の結果だとどこかで響く声に強く返したウーヴェは、ぴたりと声が止まった事に気付いて深呼吸を一つする。
 「俺が、幸せを奪ったんじゃ、ない。もともと、それは・・・お前達の幸せじゃ、無かったんだ」
 病院でも言ったように、太陽が、あいつが選んでくれたのは俺とこれから生きていく道だとも告げて頭を一つ振ると、だからどれほど文句を言われても絶対に譲るつもりは無いと強く呟き、右手薬指でひっそりと煌めくリングを指で撫でる。
 それを境に聞こえていた声が小さくなり、もう大丈夫と溜息をついたウーヴェは、リオンがここに到着するまでにもう少し時間が掛かるだろうと予測すると、一人掛けのソファの布を取り払って腰を下ろして頬杖をつき、二重窓の向こうに広がる初秋の空をぼんやりと何も考える事無く見つめ続けるのだった。

 

 どのくらいソファでぼんやりしていたのかは分からないが、外界との接触を断つなと言うように響く映画音楽のおかげでで我に返り、慌ててスマホを取り出す。
 『・・・本でも読んでたのかよ、オーヴェ?』
 「あ、ああ、いや、そうじゃない・・・」
 聞こえてくる声の低さから何度も電話を掛けていた事に気付き、少しぼんやりしていたことを伝えて待たせた事を詫びたウーヴェは、今から駐車場に向かうからそこで待っていてくれと伝え、本当に迎えに行かなくて良いのかと問われて己の決意を示すように力強く頷く。
 「ああ。待っていてくれ」
 『分かった』
 心配してくれてありがとうと、キスとともに礼を伝えたあと、小さなキスが返ってくる。
 それを受け取ったスマホをポケットに戻し、ソファに再度布を被せて診察室を後にする。
 ステッキを供に戸締まりの確認をしたウーヴェは、両開きのドアにぶら下がっている休診中の札を撫でて鍵を掛けると、エレベーターに乗るために廊下を進む。
 地下駐車場まで直接行けるエレベーターだったが、一階で止めて降り立つと、アパートの入口を肩越しに振り返った後決意を新たに拳を握ると、あの時、激痛の中で担ぎ上げられて運ばれた階段へと足を進める。
 スタンガンで一時的に身体の自由を奪われ、ルカと呼ばれていた男に担ぎ上げられて階段を駐車場へと下っていったが、今は違う、己の意志で降りていくのだと強く思っているが、いざそこに足を下ろした途端、ステッキを握る手にじわりと汗が浮かび、しっかり支えられているはずの足が膝から震えだし、それが身体全体へと伝わっていく。
 「・・・っ!!」
 がくがくと震える足をステッキで支えることが難しく、階段の手摺りを掴んで何とか身体を支え、大丈夫だ、もう事件は解決したのだと己に強く言い聞かせる。
 だが、一度覚えた恐怖を解消するにはその声は弱々しくて、顔中に汗を浮かべて荒い息を吐きながら手摺りに寄りかかっていると、脳裏に約束と、小さくても力強さを持つ声が響き、徐々に大きくなると同時に、身体の震えが少しずつ納まってくる。
 「・・・やく、そく・・・」
 脳裏に響く言葉を口に出し、心だけでは無く身体にも響かせようと何度も呟いたウーヴェは、いつの間にか膝の震えが小刻みになり、手摺りに縋るように身を寄せる必要が無くなった事に気付くと、肺の中を空にするような呼吸を繰り返し、手摺りでは無く壁に寄りかかって階段裏を見上げる。
 事件後、入院していたウーヴェに文字通り四六時中付き添っていたリオンが、まだ誘拐され監禁されているのではとウーヴェの心が不安に囚われて現実よりも過去を大きく感じている時、もうあいつらの言葉に耳を貸す必要は無い、俺だけの声を聞いていれば良いのだと何度も約束という言葉で教えてくれていたが、その言葉を思い出し、過去の事件を閉じ込めている心の扉をしっかりと閉ざしたウーヴェは、もう一度大きく溜息を吐いて顔中に浮いた脂汗を先程はリアの涙を拭いたセーターの袖口で拭い、眼鏡をかけ直してステッキを握りしめる。
 「────もう、大丈夫」
 約束という言葉がもたらす強さと、その先にいる太陽のような存在が傍にいるから大丈夫と誰に伝えるでも無く口にしたウーヴェは、ゆっくりゆっくりステッキをついて時間を掛けて階段を下っていくのだった。
 階段手摺りに身を寄せている時、駐車場から階段へと上がるドアへと目を向けていればそこに心配そうに見上げるリオンがいる事に気付いたのだが、己の恐怖と対面することに必死だったウーヴェはそれに気付かないのだった。

 

 クリニックに到着した事を伝え、待っていろと言われて渋々車内で待機していたリオンは、確かめたいことがあると言われたことに首を傾げていたが、確かめたい事とは何かと思いを巡らせる。
 新婚旅行から帰ってからはリオンと一緒に毎日のように何時間かはクリニックに来ていたウーヴェだったが、昨日自ら言ったように一人では来たことが無かった。
 だから一人で来ると宣言した理由に、クリニックを再開する時に不調を感じれば診察どころでは無くなるだろうし、青の楽園と名付けられたホテルで自ら口にしたように、リオンがいなければ何も出来ない男に思われたくないとの思いがあることは疑う余地の無いことだった。
 誘拐監禁事件の被害者となってしまったウーヴェだったが、皆死亡した犯人達のように死ぬわけにはいかず、生を終えるその時まで生きなければならないのだ。
 犯罪被害者の生活を以前の水準に戻す事はかなりの時間を要するのをリオンは刑事という前職の頃から良く知っていて、だからこそマザー・カタリーナのような慈善団体や同じ経験を持つ人達の手助けが必要になる事も良く知っていたが、それよりも何よりも、最も身近にいる人達の理解が何よりも大切だと思っていた。
 だから今も待っていてくれといわれたものの心配で仕方が無く、エンジンを切ったスパイダーから降りたって階段に続くドアを開けたリオンは、視線の先にウーヴェの姿を発見して最初嬉しそうに顔を綻ばせるが、手摺りにすがりついているような様子に眉を寄せ、やはり傍にいて支えなければと一歩を踏み出しかけるが、ウーヴェの様子が変化していくことに気付き、渾身の力でその場に踏みとどまる。
 リオンが見上げる階段の上では、汗を浮かべ蒼白な色の顔で手摺りに縋り付いているウーヴェが、顔を上げて深呼吸をしているように胸を大きく上下させ、その姿から己の伴侶の心の動きを感じ取る。
 それは、ホテルでも二人で暮らす家ででも幾度となく目にした、過去からの声をあるべき場所に止め、これから先へと歩いて行くために一人で行う儀式のようなものだった。
 それを今ここで目にした意味を考え、この階段の辺りでウーヴェの眼鏡を発見した事も思い出すと、誘拐事件の現場に訪れてももう大丈夫だとの確信を抱きたいが為に一人でここに立ち、過去を本当に過去のものにするために通り過ぎようとしているのだと気付くと、静かにウーヴェに気付かれないようにドアを開けてスパイダーに戻ろうとするが、駐車場で待っていろと言われたが車内にいろと言われていないと言い訳をし、スパイダーに寄りかかりながら腕を組み、目の前のドアが早く開いて自慢すべき男がやってこないかと、足でリズムを取るようにつま先でコンクリの床を叩く。
 ご機嫌の証の鼻歌が流れ出し、得意のそれが一巡した頃、ドアが静かに開いてステッキの音を小さく響かせながらウーヴェが姿を見せる。
 俯き加減の為にリオンが待っている事に気付いていないようだったが、その顔には何か途轍もなく大きなものをやり遂げた達成感が紅潮として浮かんでいて、己が思案したことが間違いでは無く、また伴侶となったウーヴェが以前と変わらないしなやかな強さを思い出してくれたことが嬉しくて、小さく鼻を鳴らしたリオンは、満面の笑みでウーヴェに呼びかける。
 「ハロ、オーヴェ!」
 「・・・ああ、うん。お疲れ様、リーオ」
 面接はどうだったと、穏やかな笑みで問いかけてくるウーヴェの前に一歩を踏み出して近寄ったリオンは、面白い話があるから後でちゃんと話す、今は俺のしたいことをさせてくれと捲し立ててウーヴェの笑みの質を変えさせると、驚くウーヴェを勢いよく抱き上げてその顔を見上げると、太陽を直視した時のように眩しさに目を細める。
 「リオン?」
 「へへ。オーヴェもお疲れ様。一人でクリニックに来てみてどうだった?」
 いきなり抱き上げられて驚きに目を丸くするウーヴェに笑いかけたリオンは、お前の思うとおりにしてみた結果はどうだったと問いかけ、ウーヴェの目が細められた後にリオンの頭にキスをし、下ろしてくれと囁いた事からそっと立たせると、リオンの腰に腕を回してウーヴェが抱きついてくる。
 「・・・お前がいないことで、お前の大きさが・・・良く分かった」
 「・・・そっか」
 「うん。でも・・・」
 入院している時に折に触れ伝えてくれた約束の言葉、それがあるおかげで一人でここに来る事が出来たと、リオンの肩に額を宛がいながら籠もった声で告白するウーヴェの背中を優しく抱きしめ、それは嬉しいなぁと素直な思いを伝えると、ウーヴェの髪が小さく上下する。
 「確認したい事はもう終わったか?」
 「ああ」
 「じゃあさ、帰ろうぜ」
 俺達の家に帰ろう、そして、クリニックの再開までの残り少ない休暇を満喫しようと笑い、ウーヴェの頬にキスをしたリオンは、同じようにウーヴェが笑ったことが嬉しくて、もう一度抱き上げてウーヴェに叱られてしまう。
 「こらっ!」
 「もー、俺の陛下は照れ屋さんなんだからー」
 ウーヴェの声にリオンが不満タラタラに返すが、お互い満更でもない事は嬉しそうに上がった口角を見れば分かる事だった。
 だが、クリニックの駐車場で仲良くするのであれば、先程リオンが言ったように自宅のお気に入りのソファだったりベッドだったりで仲良くしたいと二人も思っていたため、ウーヴェを助手席に乗せて運転席に遅れて乗り込んだリオンは、鼻歌を歌いながらシフト操作をして車を走らせるが、あの時自力で立ち上がろうとするウーヴェに声を掛けなかった結果、さっきのように達成感に満ちた自慢すら滲んだ顔を見ることが出来たのだと気付くと、ついつい浮かれ気分でアクセルを踏み込んでしまう。
 助手席から安全運転という一言が飛んでくるが、最大限注意を払いますと、それが口先だけのものだと教えるような表情で言い放ち、ウーヴェに呆れた様な溜息を貰ってしまうが、そんなことは気にならないほど気分が高揚し、俺のダーリンはマジで世界一と、スパイダーの幌を上げて大声で叫びたい衝動を必死に堪え、運転するリオンがそんな不埒な事を考えているとは思いも寄らないウーヴェが、とにかく安全運転をしてくれと溜息交じりに告げるのだった。

 

 晩夏の太陽は、夏の名残をまだまだ感じさせるもので、夕食を終える時間を過ぎてもまだ空は明るかった。
 昨日に引き続きバルコニーでデリバリーしたピッツァを夕食にした二人だったが、食後の飲み物としてリオンが選んだのはビールをレモネードで割ったラドラーで、ウーヴェは昨日ギュンター・ノルベルトが持参したバーボンをちびちびと楽しみながら飲んでいた。
 テーブルを挟んで肩を並べてバルコニーから外を見ていた二人だったが、ウーヴェが今日の面接はどうだったと問いかけると、うん、面白いことがあったと言葉短くリオンが返すだけだった。
 何が面白いんだと重ねて問いかけると、面接が終わった時に面接をした担当者と少し話をしながら部屋を出たが、担当者がドアを開けると同時に複数人の足音がドアの向こうから聞こえ、担当者と顔を見合わせたこと、その足音は総てがバタバタと慌ただしいものだったが、一組だけ悠然と堂々とした足音だったため、この会社でそんな足音を立てられる人物など一人しかいないと笑うと、リオンの言葉を読み取ったウーヴェが身体を僅かに起こしてリオンの横顔を見つめる。
 「・・・父さん?」
 「ビンゴ。正確には、親父、兄貴、ヘクター、後はヴィルマって女の人」
 つまりは会長と社長付の秘書の二人が、リオンの面接の様子を伺いに来ていて、己の秘書の様子に二人もついつい気になってしまって面接が行われている会議室の様子を窺っていたと言うのが正解らしく、リオンがそれに気付いた時のことを思い出して肩を揺らして笑ってしまう。
 「面接の担当者がさ、きみの採用は最早決定的だ、だから本来は必要無いだろうが、形式として必要だから採用通知を書面で送るって頭が痛いのを堪えてるような顔で言ってた」
 「・・・・・・」
 リオンが面接時に不適切な言動を取らないか心配だったのだろうが、その心配の仕方に呆れかえって何も言えなかったウーヴェだったが、とにかく面接はお疲れ様とリオンを労うように伸ばした手でくすんだ金髪を撫で付ける。
 「へへ。ダンケ、オーヴェ」
 「ああ。じゃあ採用は決定なんだな?」
 「そうみたいだぜ」
 互いに小さく笑い合った時にようやくテーブルを挟んで向かい合い、頬杖をついて笑うウーヴェにリオンも嬉しさを隠さないで笑い、あの様子だと採用は決定だろうが、初出勤日については何も教えられなかったと思案するように空を見上げるが、採用通知書に書いてあるだろうからそれを待っていれば良いと教えられて頷き、テーブルに突っ伏すように腕を伸ばして顎をつける。
 「・・・オーヴェ」
 「どうした?」
 「うん。親父の専属ボディガードだから、スーツとネクタイ着用だって。だから仕事の時は毎日ネクタイ結んでくれよ」
 何度か言ったことがあると思うが、お前にネクタイを結んで貰うと背筋が伸びるのだと笑い、お願いダーリンと強請ってみたリオンは、ウーヴェの手が変わらずに優しく髪を撫でてくれる事に目を閉じ、気持ち良いと呟いてしまう。
 「クリニックの再開とお前の初出勤までまだもう少し休みがあるな」
 「うん。だからヴィーズンに行こうぜ」
 「そうだな・・・メスィフとファウストからそれぞれメールが届いていた」
 「マジ?別々にヴィーズンに行けるなら嬉しいなぁ」
 「何回行く気だ」
 リオンの言葉にウーヴェが呆れた様に返し、でも行きたいだろうと笑われてしまえば無碍にも出来ず、考えておこうかと返すのが精一杯だったが、しっかりそれを見抜いているリオンが予定を立て始め、本格的に仕事に戻るまで大忙しだと笑って起き上がると、ウーヴェの手を取って立ち上がらせ、己の腿に座らせる。
 もうすぐ二人とも以前と同じように働き出し、こうして四六時中一緒にいられなくなる為、離れがたい気持ちがむくむくと沸き起こってくる。
 それを言葉にする代わりにウーヴェはリオンの髪を撫で額にキスをし、リオンの大きな手を掴んで掌にキスをするが、それを受けたリオンもウーヴェの首筋にリオンだけが出来るキスをする。
 「・・・欲しい?」
 「そう、だな。誰かさんが欲しがってるようだからな」
 「まーた素直じゃねぇこと言うだろ?」
 欲しいのなら欲しいと素直に言いなさいとウーヴェを見上げたリオンは、眼鏡の下のターコイズが誘ってきていることに気付き、俺の部屋かベッドルームのどこが良いと囁きかけると、ウーヴェの腕がリオンの首に回されてピアスが填まる耳朶を舐められる。
 「前にも言っただろう?俺が望むのは、俺だけのお前の蒼だ、と」
 だからそれが見えるのならば、ベッドルームだろうがリビングだろうがどこでも良いと囁かれてキスで返事をしたリオンは、ウーヴェをホテルの時と同じように抱き上げて陛下の望むままにと鄭重な口調で囁き笑みを浮かべ、ウーヴェの指が散らかり放題のリオンの部屋を指し示した事に頷いて家の中に入るのだった。
 寝るまでの間、リオンの家が古いアパートにあった時と同じように、ベッドの上と下に座り、ウーヴェが入院している間にリオンが置いたテレビを二人で見ながら他愛も無い話をし、ビールを飲んでリオンの好物のチョコを食べたりしていたが、ベッドルームにあるバスルームで二人一緒にシャワーを浴び、リオンの部屋に戻った後は特に話をする事も無くただベッドの上で時間を忘れたように抱き合うのだった。

 

 Back | Glück des Lebens -Heavenly Blue- | Next


2017.09/10
またクリニックで診察が出来るようで良かったね、ウーヴェ。


Page Top