Glück des Lebens-Heavenly Blue 28-

 家を出る直前にウーヴェに結んで貰ったネクタイのノットを手で触り、先日ここに立った時と比べれば妙な緊張を覚えていたリオンは、玄関ポーチでのやり取りを思い出し、無意識に右手薬指の誓いのリングを指で確かめるように撫でる。
 『お前はお前にしか出来ない事を今までやってきた。それはこれからも同じだ。今までのように顔を上げろ、胸を張れ。これまでのお前があるから今ここにいるんだ、リーオ』
 優しさと強さが同居する声に胸を温められ背中を押され、うんと頷きつつ目の前の痩躯に腕を回すと、総てを理解し受け入れてくれる腕が背中を優しく撫でてくれる。
 その強さに礼を言い、行ってくると伝えながら同じ指輪が填まる右手の甲にキスをすると、今まではこの街に暮らす人や俺を守っていたが、今日からは俺の大切な人もその中に加えてくれと囁き同じように手の甲にキスをしたウーヴェをもう一度抱きしめたリオンは、今日からお前も診察が始まるが、緊張するのは最初だけ、お前なら今まで以上に患者に対し親身になってその悩みを、不調を解消出来るから頑張って来いと、先程の己が受けた強さを分け与えるようにこめかみにキスをする。
 『・・・仕事終わったら連絡するな』
 『ああ。クリニックで待っている』
 再就職を果たし初めての出勤日、流石に緊張を覚えているリオンの様子を前夜から感付いていたウーヴェが安心させるようにその手を握っていたのだが、リオンが働き始める日はウーヴェ自身もクリニックを再開させる日であり、約8ヶ月ぶりにクリニックのあの診察室で患者を受け入れる事になっていた。
 その緊張を今度はリオンが感じ取ると、刑事の時のように仕事が終わればクリニックに向かう、だから精一杯頑張ろうと互いを励まし合う。
 『頑張ろうぜ、オーヴェ』
 『うん』
 先日、レオポルドやギュンター・ノルベルト、誘いを受けて急遽帰国したアリーセ・エリザベス夫婦らとヴィーズンで飲んで歌って大騒ぎをし、その翌日には良き友人として付き合いだしたリアとカスパル、そんな二人を微笑ましくも隙あらばリアと付き合いたい思いを隠さないマンフリートとミヒャエルを尻目に、ウーヴェと一緒に飲みに来ることが出来るのが本当に嬉しいと喜んでくれるマウリッツらともテントで昨日以上の大騒ぎを繰り広げた。
その翌日はドイツでの商談を終えて駆けつけ、ウーヴェの怪我を知って己の家族が被害に遭ったかのように怒り嘆きウーヴェを思って涙ぐんでくれたたメスィフとその友人のイマーム、そしてスペインからやって来たファウストらと少しビールを楽しんだ後、ゲートルートに移動して異文化コミュニケーションを満喫したのだが、今年は三回行けた、来年は四回行こうと笑うリオンにウーヴェは何も言えなかったが、祭りが明ければ二人とも約8ヶ月ぶりに社会生活に復帰する事になるため、その緊張感から酒の量が少しだけ増えていた。
 久しぶりの勤務に心身共に耐えられるのか、事件現場にもなってしまったクリニックにリオンと一緒に出向いたり、再開に向けてカフェの仕事をセーブしてウーヴェの手伝いに来てくれるようになったリアとともに準備をしてきたものの、心身の疲労時に誘拐事件を思い出して辛くならないかとの不安はどうしてもぬぐい去れずにウーヴェの心の中で息づいていた。
 『じゃあ、オーヴェ。また後でな』
 『ああ。────行ってこい、リオン』
 そうして互いに勇気を与え合い、背中を撫でることで安堵も与え合った二人は、リオンの初出勤とウーヴェのクリニック再開の朝を送ったのだった。
 ウーヴェの言葉と声とキスを思い出し、さぁ、行くぞと口元には自信に満ちた笑みを浮かべたリオンは、目の前の自動ドアを潜り、指示されているようにエレベーターに乗り込んで前回面接に訪れた会議室では無く、ウーヴェと一緒に初めて訪れた会長室へと向かう。
 エレベーターの中で数人が乗り込んでは出ていくが、その皆が見慣れない顔だなと言いたげに様子を窺っている事に気付きつつも黙殺したリオンが最上階まで残っていると、もう一人残っていた女性、ヴィルマが前回に見た時と同じように仕事の出来る美人上司の顔でリオンの肩を叩く。
 「おはよう、リオン」
 「あー、おはよう、ヴィルマ」
 ドアが開いて彼女を先にエレベーターから下ろすと、ドアの横の壁に腕を組んでもたれ掛かっているスーツ姿の男を発見し、ヴィルマが声を掛ける。
 「おはよう、ヘクター。来たわよ」
 「・・・ああ、おはよう」
 廊下で三人が顔を合わせて挨拶を済ませると、ヘクターが己が寄りかかっていた壁側のドアを開け、会長室の手前の部屋に新しく用意されたデスクへとリオンを案内する。
 「ここがお前のデスクだ」
 「・・・面接の時にも聞いたけどさ、書類仕事とかねぇよな?」
 「大丈夫よ、あなたに書類を回したりしないわ」
 何しろあなたは会長専属のボディガードなのだからと妖艶な笑みを浮かべるヴィルマだったが、ボディガードは肉体が資本で頭脳に関しては誰も期待していないと言われている気がするとリオンが返すと、たっぷりと塗った口紅を確かめるためにデスクからコンパクトを取りだした彼女が鏡の中でにやりと笑う。
 「バカだからまあ仕方ねぇけど、バカにされるのは好きじゃねぇなぁ」
 「大丈夫、バカになんてしてないわ」
 「・・・今まで俺と二人だったからお前が来て喜んでいるんだ」
 だから彼女の言葉を額面通りに受け取るなとヘクターが忠告し、歓喜の証拠に同僚になったばかりの人を馬鹿にするってどんな性格だよとリオンが嘆くように天井を見上げるが、あなたの事は会長や社長の次に好きだから安心しなさいと笑われるが、毒蛇に睨まれたカエルの気持ちが良く分かると肩を竦め、まあ何はともあれ今日からよろしくと二人に挨拶をすると、流石にこの時ばかりはヴィルマも真面目な顔でよろしくと鷹揚に頷く。
 新しい職場の新しい同僚に挨拶を終えた時、ドアが開く音が聞こえるが、その瞬間、ヴィルマのふざけたような表情がきりりとしたものに一変し、ヘクターも有能な秘書の顔になる。
 瞬間的なその切り替えに感心していたリオンだったが、己も変えなければならないのか、いや、自分は自分だ、今までのようにやれば良いとウーヴェも言っていたと、これもまた驚くほどの早さで思案し、ドアを開けて入って来る人物に向けて太い自信に満ちた笑みを見せつける。
 「おはようございます、会長」
 「ああ、おはよう」
 「おはようございます。副社長から会議の時間が変更になった旨、連絡がありました」
 「おはよう・・・後で教えてくれ」
 ヘクターの挨拶に頷きヴィルマの報告にも頷いたレオポルドは、二人の間で所在なげな割には大きな態度で立っているリオンを見上げると、にやりと笑みを浮かべて来たかと短く問いかける。
 「Ja.来ました」
 「そうか。ヘクター、ヴィルマ、俺がここにいる間はヒマだろうからどんな仕事でもさせろ」
 「Ja」
 「げー、書類仕事なんて出来ません」
 「お前、勤務初日から出来ないとはどういうことだ」
 リオンの嘆きにレオポルドが眉を寄せるが、本気で怒っているわけではない事をしっかり見抜いたリオンがにやりと笑い、向き不向き、適材適所という言葉を知っているかと返すと、流石にそれにはヴィルマもヘクターも呆気に取られてしまう。
 「口答えをするな」
 呆然とする有能な秘書など滅多に見られるものではないためにレオポルドも同じように驚いてしまうが、リオンの頭にそっと手を載せた後、その手で青い石のピアスが一つだけ光る耳朶を思いっきり引っ張ると、騒々しい悲鳴が室内に響き渡る。
 「ぎゃー!!」
 「うるさいぞ、リオン!こっちに来い!」
 「痛い痛いっ!耳がちぎれるっ!!」
 「おー、そうか。ならウーヴェに頼んで腕の良い外科医を紹介して貰ってくっつけて貰え」
 「暴力反対ー!出勤初日にパワハラを受けたって訴えてやるー!」
 リオンの耳を引っ張りつつ己の執務室のドアを開けたレオポルドは、有能な秘書が事態の推移についていけないのか、ぼんやりと見送るのを尻目ににやりと笑い、ぎゃあぎゃあと騒ぐリオンを室内に引き入れると、後ろ手でドアを閉める。
 目の前で閉まるドアを呆然と見ていた二人は、背後のドアが開いたことに気付かずにいて、デスクに何かが置かれる音が聞こえたことで顔を振り向け、意外そうな顔でこちらを見つめるギュンター・ノルベルトを発見して我に返っておはようございますと唱和する。
 「ああ、おはよう。二人がぼんやりしているなど珍しいな」
 朝から何かあったのかと苦笑しつつギュンター・ノルベルトが問いかけると、二人が顔を見合わせ、たった今目の前で繰り広げられたある種の惨劇を報告するべきかどうかを珍しく躊躇してしまうのだった。
 広い会長室でぎゃあぎゃあと叫んでいたリオンだったが、レオポルドが咳払いをすると同時にぴたりとそれを止め、肩幅に足を開いて腰の上で手を組むとウーヴェが撫でて力をくれた背筋をぴんと伸ばす。
 「────おはようございます」
 「ああ、おはよう」
 先日終わってしまったヴィーズンでは本当に楽しく酒を飲めて嬉しかったです、ありがとうございますと、仕事とは直接関係は無いが始業前に礼を言っておきたいとリオンが生真面目に告げると、レオポルドが微苦笑を浮かべるだけでそれについては何も言わず、口に出したのは良く出勤してきてくれたとの一言で、リオンが本当に己の専属ボディガードとして働く事になるのか、都合の良い夢ではないかと一抹の不安を抱えていた事を苦笑に混ぜ込んだレオポルドにリオンの蒼い目が丸くなるが、次いで真正面から伴侶の父であり今日から己の仕事上のボスになる尊敬する男の顔を見つめる。
 「俺のダーリンは誰かさんとよく似ていて、俺が本気で思ったことに対しては心から応援してくれます」
 だから今日も行ってこいと、刑事の時と同じように俺に力を分け与えてくれる儀式を二人きりで済ませましたと笑うと、口ひげを指で撫でながらレオポルドが鼻息で返事をする。
 だが、ふと表情を変えたかと思うと、リオンに向けて手を差し出したため、その手をまじまじと見つめつつリオンが何だと問うと、良いから手を出せと命じられてしまう。
 「────今日から頼むぞ、リオン」
 俺の息子専属のボディガードから異動になったが、お前の働きに期待しているとレオポルドが頷くと、リオンの顔にじわじわと笑みが浮かぶが、それを引き締めて一つ頷き、了解です、ボスと自信に満ちた声で返事をする。
 「何だ、ボスと呼ぶのか?」
 「親父と本当は呼びたいんですけどね、流石に出勤初日からそれをすると、色眼鏡で見てくる人に話題を与える事になるでしょう。それに・・・親父の専属なら俺のボスはただ一人だ」
 公私混同はあなたの息子が最も嫌うことだし、創業者一族の伴侶という身分で会社に入り込んだと思われるのも不愉快だから当分はボスと呼ぶが、俺は親父専属のボディガードだからボスでも良いと笑うリオンにレオポルドが頷き、リオンの手をしっかりと握りしめてボスと呼ぶ許可を与えるが、お前の扱いについてはヒンケル警部から詳しく聞いている、だからキリキリと働けと笑うと、たった今握手していた手が振り解かれてしまう。
 「ボスが出ていかなければここにいて良いんだよな、俺」
 じゃあ出ていかなければ良いのになーと、頭の後ろで手を組んで鼻歌など歌い出すリオンに、ヒンケルからとっておきの情報も入手している、最悪の場合ウーヴェに連絡を入れるだけだと言い放ってリオンの鼻歌を止めさせた伴侶の父であり唯一の上司は、ドアが開いて呆れ顔のギュンター・ノルベルトとヘクターやヴィルマが入って来た事に気付き、今日も一日大企業の会長として忙しく働くぞと気合いを入れ、そんなレオポルドの横顔から自然とリオンも気分を切り替え、今日からはバルツァーの会長専属のボディガードとして働き出すのだった。

 

 リオンが己の父のボディガードとして働き始めた頃、ウーヴェもバスと電車を使ってクリニックに到着していた。
 クリニックの両開きのドアを緊張しつつ開けると、待合室のデスクでリアが診察の準備に取りかかっている姿が見え、これを見るのも約8ヶ月ぶりだと気付くと、事件に巻き込まれたが二人とも命があり、またこうして働く事が出来る様になって本当に良かったと感慨深い思いが芽生えてくる。
 「おはよう、ウーヴェ」
 「ああ、おはよう、リア」
 待合室の絨毯はリアの記憶を刺激したくないことから新しいものへと取り替えたため、クリニックを開院した時のような新鮮さがあり、壁際の本棚やカウチソファの前のコーヒーテーブルの上に飾られた一輪の花も懐かしさと新鮮さを同時にもたらしてくれる。
 「今日の診察リストは・・・」
 「はい、こちらに用意してあります」
 その仕事っぷりも前と何ら変わることはなかったため、彼女の働きに応えられるように頑張ろうと決意を新たにしたウーヴェは、診察室のドアを開けて小部屋のドアも開け、クリーニングに出していた診察時に着用するジャケットに着替えると、以前とはこれだけが変わっている、ステッキをつきながら診察室から顔を出す。
 「フラウ・オルガ、時間になれば受付をお願いする」
 「はい」
 自然と以前のようにドクターと事務を一手に引き受けてくれる事務員との関係になり、デスクに腰を下ろして表面を撫でたウーヴェは、本当に診察を再開できるようになったのかと自問するが、その回答はドアがノックされてリアが診察リストを持って来てくれた事から得られ、いつまでも疑うのではなく目の前の現実を信じてやっていこうと腹を括り、再開後初めての患者が来るのを、同じ緊張感を持ってリアと一緒に待っているのだった。

 

 「────先生、先生が診察を再開して下さって良かったですわ」
 「ありがとうございます、夫人」
 「先生は、わたくし達夫婦にとってお守りのようなものですから。ねぇ、ダン」
 「ああ、そうだな、ラウラ」
 昨今では中々考えにくい家庭の事情で結婚したラウラ・ブランケンハイムとその夫のダニエルは、診察を再開したウーヴェに感謝の言葉を伝え、先生がここにいるというだけで安心するし不安も軽くなると夫婦で顔を見合わせて頷き合う。
 デスクの上で癖のように万年筆を回していたウーヴェがその言葉に笑みを浮かべ、ありがとうございますともう一度礼を言うと、相変わらずナイフとフォークよりも重いものを持ったことがない白いたおやかな手が口元に宛がわれる。
 「わたくしのお友達も、先生が戻って来られたと知って喜んでおりました」
 「皆さんにはご迷惑をおかけしました」
 詳しい事情は知らないが、それでも診察の再開が嬉しい、今日はその挨拶に来たと優雅に微笑まれて頷いたウーヴェは、ご夫婦の仲も前以上に良さそうで安心しましたと本心を伝え、二人の頬を僅かに赤らめさせる。
 そのことから、夫婦間の秘め事がまた増えた事に気付くが、藪を突いて蛇を出したくない為にそれ以上は何も言わず、またご友人にもお伝え下さいとだけ伝えると、仲の良さを示す様に二人の頭が同時に上下する。
 「今日はありがとうございました、先生」
 「いえ。お気を付けてお帰り下さい。こちらを受付でフラウ・オルガにお渡し下さい」
 新たな薬の処方も何も書き加えられていないカルテを差し出し、ステッキをついて立ち上がったウーヴェに夫妻の顔が曇ってしまうが、あなた方のように私にも支えてくれる人がおりますと右手薬指を控え目に見せると、曇り空から覗く晴れ間のような笑みが二人の顔に浮かび上がる。
 「それは良かった。先生が教えてくれたように、あれから外出する時はずっと手を繋いでおりますの」
 彼女の診察の時、手を繋ぐだけでも、顔を見て笑いかけるだけでも支えることになると伝えた事を思い出し、己の身に置き換えられるようになった今、己の言葉が誰かの支えになり不安の解消に繋がっている実感も得られ、小さな自信がウーヴェの心に芽生えてくる。
 「・・・これからも是非そうして下さい」
 「はい」
 立ち上がって見送るウーヴェに少女のような笑みを浮かべた夫人と、そんな妻をしっかりと守り支えるように夫が腕を回して肩を抱き、もう一度礼を言って出ていく二人を笑顔で見送るが、程なくして書類ケースを手にしたリアが入って来る。
 「お疲れ様です、先生」
 「ああ、フラウ・オルガもお疲れ様」
 「今日の診察はブランケンハイム夫人で最後です。先生に目を通して欲しい書類を纏めておきました。後で指示をお願いします」
 「ああ、ありがとう」
 再開初日が無事に終了したことに二人同時に笑みを浮かべて胸を撫で下ろすが、デスクにリアが書類を置き、お茶の用意をするが何が良いと聞いてくれたため、甘さ控え目のココアが良いと伝え、己が思っていた以上に疲労していることに気付く。
 「今日はレモンタルトを作ってきたわ」
 「楽しみだな」
 その楽しみの為に書類整理を急いで仕上げようと笑ってデスクに座ったウーヴェは、文字通り書類整理を大急ぎでやり遂げ、リアがお茶の用意をトレイに載せて再度入って来た時にはある程度の書類は整理されているのだった。
 リアが作ってくれるタルトは相変わらず美味しくて、リオンの再就職が決まった時に祝いとして作って貰ったチーズケーキも、二人の結婚パーティの時のケーキも絶品だったがやはり美味しいと、ウーヴェにしては珍しく顔中を笑み崩れさせてそれを食べ、注文通りに甘さ控え目に作ってくれたココアにも満足の溜息をついていたウーヴェは、リアがニコニコしている事に気付いてどうしたと問いかけると、嬉しそうに美味しそうに食べてくれる人がいるって本当に幸せだと笑われ、確かにそうだと苦笑する。
 「今日は何事も無く診察が終わったわね、ウーヴェ」
 「ああ。でも、これからだな」
 「ええ、これからね」
 クリニックを再開すると言うことは、これから先以前と同じように患者の診察をすることで、己の体調不良になどかまけている余裕はなくなるだろう。
 二人の中に、忙しければ事件の影を忘れることが出来るからありがたいという思いが同時に芽生え、それを二人とも察したものの口に出さずにただこれからも頑張ろうと頷き合う。
 「・・・リオン、大丈夫かしら」
 「そう、だな。余計な事を言って父さん達を怒らせなければ良いんだけどな」
 何しろ、ああ言えばこう言う、素直に指示を聞かない癖のあるリオンの為、前職のボスであるヒンケルなどは頻繁にリオンを怒鳴っていたが、あいつはあいつなりに線引きをしているはずで、流石にふざけすぎるようなことは無いだろうと、希望的観測をウーヴェが口にするが、リアもそうであって欲しいと願望を口にする。
 その時、ウーヴェのスマホに着信があり、窓際のチェアから立ち上がってデスクに置いたスマホを手に取ると、たった今話題にしていたヒンケルからの着信だと知り、慌てて耳に宛がう。
 「警部?どうしました?」
 『ああ、ドク、今日から診察を再開したんだってな』
 聞こえてきた声が事件性を秘めているものとは思えなかったため、はい、今日から再開ですと笑顔で伝えると、先程あいつの新たなボスから連絡が入ったと苦笑されて眼鏡の下で目を瞠る。
 「え?父から、ですか?」
 『ああ。あまりに口答えが酷い時はどう対応していたか教えろと言われた』
 「・・・・・・」
 新旧の上司によってリオンの言動への対処方法が相談された事がおかしいやらなにやらで一瞬戸惑ってしまったウーヴェだったが、悪いと思いつつつい吹き出してしまう。
 『ドク?』
 「ああ、すみません。それで、なんと答えたのですか?」
 『クランプスが苦手だから、悪いことをすればクランプスを呼びつけるぞと脅せば良いと言っておいた』
 そんな子ども騙しが通用するとは思えないと返されたが、騙されたと思って実行してみろと伝えた事を教えられ、何とも言えない顔で首を左右に振ったウーヴェは、本題はそれではないと苦笑されて小首を傾げる。
 『近いうちにリオンの再就職とドクのクリニックの再開の祝いをしようと思っている。フラウ・オルガも一緒に参加してくれ』
 刑事を辞めたリオンの再就職とその伴侶の仕事の再開を祝う会を開いてくれる事に驚き、リオンが愉快な仲間達と称した意味を理解したウーヴェは、本当にありがとうございますと礼を言い、フラウ・オルガにも伝えておきますと返して通話を終えると、己の名前が出てきたことに緊張を覚えた顔でリアが見つめて来る。
 「今度、リオンの再就職とクリニックの再開の祝いをしてくれるそうだ。リアも来てくれと言っていた」
 刑事を辞めた仲間の再出発を祝ってくれるなど、本当に暖かな人達だなと、チェアに座りながら感心の声を上げたウーヴェにリアも同じ思いで頷き、どれだけリオンが刑事仲間から信頼され愛されていたかが分かると笑みを浮かべると、リオンを手放しで褒められたことと尊敬している人達から褒められている事を間接的に感じ取ったウーヴェも穏やかな顔になる。
 「そうだな。・・・あいつは本当に誰にとっても太陽なんだな」
 「そうね」
 自分一人の太陽だと思っていたが、独り占めしてはいけないものかも知れないと苦笑したウーヴェは、それでもあいつが選んだのは俺だと胸の奥で小さな矜持が声を上げたことに気付き、その通りだと目を伏せて頷くと、羞恥を誤魔化すように二重窓の外へと顔を向ける。
 「・・・仕事が終われば連絡をすると言っていたが、何時頃になるだろうな」
 「そうね、バルツァーの会長は忙しいでしょうし」
 今までのようにはいかないでしょうと、ココアを飲みながらウーヴェと同じように窓の外へと顔を向けたリアだったが、今日は診察も終わったことだしそろそろ閉めようかとの言葉に顔を戻して頷き、明日の診察リストを作ってあるので確認しておいて下さいと、仕事の顔でウーヴェに向き合うと、ウーヴェも優秀な事務員に全幅の信頼を置いている事を教えるようにフラウ・オルガが用意してくれているのなら大丈夫と目を伏せる。
 「今日も一日お疲れ様でした」
 「ああ、フラウ・オルガもお疲れ様。明日またよろしく」
 約8ヶ月ぶりに交わすその挨拶に二人が面映ゆいと言いたげな顔になるが、習慣になっていることを今更止める事も出来ずにやり終えると、リアがコーヒーテーブルの上を片付けてくれる。
 それを見守りつつゆっくり立ち上がったウーヴェは、ステッキをついてデスクに向かうと、尻をデスクに乗せて足をゆらゆらさせながら二重窓の外へと再度顔を向ける。
 秋の色が上空から急速に街を駆け抜けていったおかげで街路樹は色づき始め、広場の周辺にあるカフェで出されるものも、夏の涼しさを連想させるものから実りの秋を教えてくれる色合いのものへと変化していた。
 レモンタルトも美味しかったがそろそろ栗が出回り始めるかと想像し、これからも以前のように食べられるデザートに自然と顔がほころんでしまうが、奇妙な淋しさも秋は引き連れてくることを知っていて、無意識に右手薬指のリングを触りながら溜息を吐く。
 今日が初出勤のリオンは、父に定時で帰るつもりがあればそこから小一時間程で帰ってくるだろうが、会議だの出張だのがあれば当然帰宅の時間は遅くなるだろう。
 ウーヴェが幼い頃は父がまだ社長で日々忙しく働いていた筈だったが、夕食の時間には必ず家にいた記憶があり、いつも父と母の三人で食事をしていた事を思い出すが、そこに時折早く帰ってきたギュンター・ノルベルトやアリーセ・エリザベスも加わる時は本当に嬉しくて楽しかったことも思い出す。
 その時間、必ず父が家にいたと言う事は、定時になれば仕事を終えて帰宅していたことになるのだが、今もその習慣はあるのだろうかとぼんやりと思案していると、デスクに置いたスマホから映画音楽が流れ出す。
 「ハロ」
 『ハロ、オーヴェ。もう診察は終わったか?』
 「ああ、今日はもう閉めた」
 聞こえてくる声にウーヴェの目元が和らぎ、リアや友人達が見ればへそを曲げかねないほどの甘さに染まるが、幸いなことに今診察室にいるのはウーヴェだけで、誰に見られる事もない安堵感からもう仕事は終わったのかと優しく問いかける。
 『ああ、うん、終わった。今そっちに向かってる』
 「分かった。こっちに着いたらクリニックにまで来てくれるか?」
 『もちろん。もうちょっと待っててくれよ、ダーリン』
 クリニック再開前には確認したい事があるからと、駐車場で待っていてくれと伝えていたが、それを乗り越えた今は素直に来て欲しいと伝え、スマホの向こうでもちろんという絶対の信頼を置ける声が聞こえてくる。
 お前が来るのを待っている、気をつけて来てくれと伝えてキスも送ると、キスだけが返ってくるが、スマホを片手に再度ぼんやりと窓の外を見ていると、そのスマホが着信音を三度鳴らし、画面を見て驚きに目を瞠る。
 電話を掛けてきているのが父であることに驚きながらも耳に当て、少しだけ緊張した声で返事をする。
 「は、い・・・」
 『おお、ウーヴェ、今は電話に出られるのか?』
 「え?あ、ああ、うん、大丈夫だけど・・・」
 どうしたんだと戸惑いつつ問いかけたウーヴェに父が苦笑した気配が伝わってくるが、あいつと一日一緒にいると本当に退屈しないなと笑われ、誰の事なのかを気付いて微苦笑する。
 「そう、かな?」
 『ああ。ヒンケル警部から聞いていたが、まさかあそこまで子どもっぽいとは思わなかったな』
 そう笑う父の声に籠もるのは好意的な感情だった為にあいつらしいだろうと笑み混じりに返すと、確かにあいつらしいが、副社長や他の重役に紹介したが、俺と重役への接し方がかなり違っていて面白かったと笑われ、ウーヴェも驚きつつ問い返すと、あいつなりに軽口を叩ける相手とそうではない相手を見抜いているらしいと笑う父にウーヴェが溜息を吐く。
 「確かに、あいつは人を見て話し方を選ぶ事が、ある」
 リオンと初めてここで出会った時、ウーヴェが皮肉な態度を取れば、己は鏡だと言いたげに同じく冷たい皮肉な態度で返してきたが、笑顔で接すれば同じく笑顔で接していたことを伝えると、ならばあいつの軽口は認められている証拠と思って良いのかと父が半ば本気で心配しているように呟いたため、ウーヴェがデスクから降りたって窓に手をつき広場を見下ろしながらうんと頷く。
 「リオンは、今まで尊敬する人がいなかったと言ってた。だから・・・父さんが尊敬出来る人だと知った時、すごく嬉しそうだった」
 ただ、嬉しいからと言ってそれを子犬のように正直に表現するような男ではないと苦笑し、だからそんな心配をしないで良いと伝えると、満足そうな溜息が返ってくる。
 『もうすぐあいつがそっちに行くだろう。今日は疲れているかも知れないから、美味いものでも食わせてやれ、ウーヴェ』
 口では悪く言おうともやはりリオンが可愛いのか、その身体を気遣う言葉を父から伝えられてもう一度素直に頷いたウーヴェは、家にチョコを用意してあること、今日はこれからベルトランの店で食事をして帰る事を伝えると、安堵の溜息がまた聞こえてくる。
 「今日は、ムリだけど・・・近いうちに四人で店に行こう、父、さん」
 『おお、そうだな、俺の夜の予定ならリオンが分かるから便利だな』
 ウーヴェの誘いに父が一瞬だけ遅れて返事をするが、誘いが嬉しいと言うように声を少しだけ高くし、リッドにも伝えておく、楽しみにしていると伝えると通話を終える。
 父とこうして話が出来るようになったのもリオンのおかげだったが、先程リアに告げた様に、本当にあいつは俺の太陽だと再度呟くと、その太陽の輝きが己の元に帰ってくるのも間もなくだとの思いを抱きながら、秋の空を見上げるのだった。

 

 どれぐらい外を見ていただろうか、診察室のドアがノックされた音に気付いて振り返りつつ声を掛けると、いつもとは違って静かにドアを開けたリオンが立っていて、以前ならばノックと呼べないそれをドアにぶつけていたはずなのにと苦笑すると、一つ肩を竦めて同じく苦笑するが、ウーヴェの前に大股でやって来きてその痩躯に腕を回して首筋に顔を押しつけるように身を寄せる。
 「リーオ?」
 「・・・やっぱり、さ、オーヴェにはこの部屋が似合ってるなぁって」
 クリニックの腕の良いドクターとしてここで患者に接している時が、それを簡単に想像させる姿が見られて本当に嬉しいと囁かれてリオンの背中に腕を回すと、再開おめでとうと祝福の声が耳に流れ込む。
 「・・・うん、ありがとう、リーオ」
 「俺も頑張ったけどオーヴェも頑張ったよな」
 お互い今日が再出発の日だが、どちらも頑張ったよなと、額と額を重ねて子どものように笑うリオンに唇を一度だけ噛み締めたウーヴェだったが、頭を抱えるように腕を回し、背中を優しく抱きしめられた安堵に小さく吐息を零す。
 リオンの言葉通りに再出発を上手く行えたが、どんな言葉でも上手く伝えられない気がし、何があっても支えてくれるリオンにしがみつくように腕に力を込めると、背中の傷を労りながらも力を込めて同じように抱き返される。
 「────お疲れ様、お帰り、リーオ」
 「うん。オーヴェもお疲れ」
 以前と同じように同じ言葉を少しだけ違う気持ちで伝えあった二人は、労いのキスをして小さく笑い合い、この後はゲートルートで美味いものを食べよう、ベルトランと気の良いスタッフが待ってくれているとウーヴェがリオンに告げ、リオンの口から歓喜の鼻歌が流れ出す。
 「クリニックを閉めるから、少し待ってくれ」
 「うん、大丈夫」
 リオンに待って貰いながら鍵を掛けて一息ついたウーヴェは、さあ帰ろうとリオンを振り返ると、後ろからそっと抱きしめられて苦笑する。
 「どうした?」
 「うん。何もねぇんだけどな、急にハグしたくなった」
 「そうか。じゃあ俺は────」
 急にキスしたくなったと笑い、リオンの腕の中で振り返ったウーヴェは、驚く蒼い双眸を間近に捉えながら薄く開く唇にそっと唇を重ねるが、意味を察したリオンの目に光が宿った事に気付き、もう一度キスをする。
 「────ん」
 欲よりも情を感じさせるキスを交わし、満足した頃には少しだけ息が上がっていたが、ゲートルートに行こうとリオンが囁いて互いの腰に腕を回すと、クリニックの入口のドアを閉めて鍵を掛ける。
 「今日の仕事はどうだった?」
 「んー、やっぱりバルツァーというかボスはすげぇなぁって」
 「ボス?」
 リオンの口から出た言葉にウーヴェが小首を傾げるが、専属のボディガードで他にも仕事がない事から、俺の上司は親父一人、つまりボスとは親父の事だと教えられて苦笑する。
 「前のようにおやつを奪い取ったりするなよ?」
 「あ、そう言えばさ、三時になったらおやつが出てくるんだよ。親父って結構甘いもの食うんだな」
 あれ、ムッティは知ってるのかと笑いながら告げるリオンにウーヴェがさぁ、どうだろうと、ウーヴェ自身も忘れていた事を思い出そうとするが、エレベーターに乗り込もうとするが、ウーヴェが足を止めてクリニックを振り返り、リオンもそれに気付いて同じように振り返る。
 「・・・帰ってこられたんだな」
 「・・・そうだな。帰ってきて、前のように診察が出来るようになった」
 復讐が目的の誘拐監禁事件を乗り越え、また以前と同じようにここで診察が出来るようになった感慨を口にしたウーヴェの頭に口を寄せたリオンは、お前も俺もあの事件で人生を大きく変えられたが、その先でもこうして一緒にいて笑っていられるんだと笑みを浮かべると、ウーヴェがリオンの肩に寄りかかるように頭を傾げて身を寄せる。
 「・・・ああ」
 「だから、これからも前以上に一緒にいて笑おうぜ、オーヴェ」
 辛い事や悲しいことは今までと同じように日々自分たちの周囲で起こるだろうし、それに巻き込まれる事も多々あるだろう、でもその中でも二人一緒なら笑っていられる、通り過ぎた嵐を振り返りながら笑うことが出来るのだと、今も笑顔で告げるリオンに無言で頷いたウーヴェは、腰に回していた腕を離す代わりにリオンの左手に右手を重ねてゆっくりと手を組む。
 こうすることで互いを支えているのだと今日久しぶりにここに来た患者に伝えたが、いつも支えてくれてありがとう、これからもよろしくと言葉にせずに蒼い目を見つめると、そんなに見つめられたら恥ずかしいと目元を赤らめたリオンがウーヴェの頬にキスをする。
 「メシ食って帰ろうぜ、オーヴェ」
 「ああ」
 二人で暮らすあの家に、美味しいものを食べて満腹になった身体で帰ろう、そして明日に続く今日の終わりをベッドの中で迎えようと笑い合い、エレベーターに乗り込むのだった。

 

 約8ヶ月前、ここを現場としたウーヴェの誘拐とリアの傷害事件が発生したが、時間を掛けてそれを乗り越え、以前のようにウーヴェはクリニックで診察をし、そんなウーヴェを助けるようにリアが手助けをする以前と同じような日々を送り出し、事件を切っ掛けに刑事を辞めたリオンはレオポルドの専属ボディガードとして働き出してその記念すべき一日目を無事に終えた二人だったが、事件が遺したウーヴェの足の傷を気遣いながら以前よりも絆を深め、乗り越えたとしても時折気配を感じさせる事件の影を寄り添いながら乗り越え、お互いが望む笑顔を忘れずに、繋いだ手を離さないで事件後の人生を今までと同じように二人肩を並べてともに歩んでいくのだった。

 初秋の空がそんな二人を静かに見守るように、今日も高く澄んで晴れ渡っているのだった。

 

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2017.09.12
リオンとウーヴェ、前とはまた違う日常を取り戻しました。


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