ブライデマンという意外な人物の来訪を受けたリオンは、ロスラーの調書を穴が開きそうなほど読み込んでいたが、写真を見て文字でロスラーが体験した光景を思い描くうちに、ここまで手酷く痛めつけたのはやはりジルベルトではないという結論に至ってしまう。
ジルベルトの性格は暴力的だったが、それはあくまでも女性に向けられていて、男に対してここまで狂気的な暴行を加えるとは思えなかった。
二年前の事件でジルベルトが直接拷問を加えたのはゾフィーだけで、そのゾフィーをレイプしていた二人の男については、無駄なものを処分する気軽さでもって射殺しているのだ。
そして、先程ヒンケルやブライデマンにも伝えたように、ロスラーの傷の中から見つかった祈りの一節が書かれたメモの存在が、リオンの中で描かれるジルベルトという人物像からかけ離れているように思えるのだ。
ロスラーの検死写真は見るに堪えないものだったが、その傷の一つ一つが何かを教えてくれている気がし、吐き気を覚えそうな写真をじっと見つめる。
「どうした、リオン?」
「なーコニー、これってさ、恨みだと思うか?」
「は?」
リオンが考え込む姿が珍しいことから声をかけたコニーは、見せられた写真がロスラーの遺体写真だったことから一瞬息を飲み、深呼吸をした後に恨みよりも拷問自体を楽しんでいる気がすると答える。
「そう思うか?」
「ああ。人の悲鳴を聞くのが好きな奴が起こした事件みたいだな」
ただ痛めつけるだけならばナイフで皮膚だけを切った後に火で焙ったりしないだろうと、吐き気を抑えるために口元を手で押さえながら呟くと、周囲にいた仲間達もやってくるが、リオンの持つ写真を見た瞬間、コニー同様の顔色になってしまう。
「これ、ロスラー?」
「ああ。・・・こんなひでぇ死に方しなきゃならねぇぐらい恨まれてたのかなーって」
いくら犯罪者であってもこんな無残な最期を迎えなければならないのかと、やるせない溜息をついたリオンに組織を裏切るとこうなるという見せしめの意味もあるだろうとコニーがようやく人心地ついた顔で呟き、確かに見せしめならここまでされてもおかしくはないと皆が一様に溜息をつく。
リオンの周りに集まって皆が話をしていると、ブライデマンとヒンケルが姿を見せ、仕事が終わればブライデマンと飲みに行くがどうすると部下の顔を見渡したため、リオンが行きたいが先にこれをウーヴェに見てもらうから遅れて合流すると答え、マクシミリアンとヴェルナーが行くと諸手を挙げる。
「コニーとダニエラはどうする?」
「私は無理です。もし警部がまだこちらにいらっしゃるのなら、明日のランチをご一緒したいです」
紅一点のダニエラが今夜は先約があるから明日のランチはどうだと提案すると、自分と一緒に酒を飲みに行ってくれるだろうかと言う不安を覗かせていたブライデマンの顔に嬉しそうな色が浮かび、二度ほどしっかりと頷く。
「俺は少し調べ物をしたいので残念ですがパスします」
「分かった。もし時間があればいつも皆で行くクナイペにいるから来い」
「Ja」
二年前の事件当時、ここにいる刑事達に当初は快く思われていなかったブライデマンだったが、事件が終わりを迎える頃にはその誤解も解消し、自分たちと同じ仕事熱心な刑事だということが分かった為、当初のような蟠りはなくなっていた。
だが、その確証が得られない不安をブライデマンが抱えていたのだが、今のそれぞれの一言で受け入れられていることに気付くが、リオンが発した一言が気になって肩越しに手元の写真を覗き込む。
「その写真をあの時のドクに見せるのか?」
「Ja.もう診察は終わってる頃だし・・・・・・あ、今夜は飲みに行くって言ってたっけ」
今朝のウーヴェとの会話を思い出したリオンは、飲みに行く前にさすがにこんな写真を見せるのも何だかなぁと肩を竦め、書類をデスクの引き出しにしまい込む。
「んー、思い出したら会いたくなったから、オーヴェのクリニックに顔を出してから店に行きます」
「付き合いだしたばかりの高校生か、お前は」
「もう奥さんからキスしてもらえなくなったからって僻まなくても良いのにねー」
用事が無くなったのに顔を見たくなったから会いに行くと嘯くリオンに呆気に取られたブライデマンだったが、リオンの思考回路の突拍子も無さに慣れている-慣らされている-ヒンケルがティーンエイジャーかと笑うと、自分は奥さんにキスすらしてもらえなくなったからって僻まないで欲しいなぁと更に嘯かれてギロリと部下を睨み付ける。
「早く終わらないかなー」
リオンの鼻歌に呆れかえった面々だったが、今日は何事も無く終われそうだと皆が胸を撫で下ろし、それぞれ帰宅の準備を始めると、コニーが先程のロスラーの検死報告書を見せてくれとリオンに声をかける。
「どうした?」
「いや、何か色々気になるから調べたい」
調べ物とはそのことだったのかとリオンが同僚の生真面目さに呆れそうになるが、この生真面目さが事件を解決へと何度も導いていることを思い出し、尊敬の念を抱きながら書類を差し出す。
「ジル、戻って来てるみたいだからな」
出来る事ならこの手で逮捕をしたい、いやその前にあの綺麗な顔を一発ぶん殴ってやりたいとリオンが掌に拳を打ち付けると、刑事が殴れば職権乱用で問題になるから止めておけと暢気な声がコニーの席から上がる。
「ちぇ。────じゃあコニー、後頼んだ」
「おー。あまりブライデマンを苛めるなよ」
「苛めねぇよ」
どちらかと言えば苛められるのは俺だと肩を竦め、一足先に帰り始めた同僚の後を追ってリオンも職場を後にする。
今日はウーヴェの帰りが遅くなることからリオンは年季の入った愛車で出勤したのだが、飲みに行くのならば自転車は置いて帰ろうと決め、店に向かって歩き出した面々にまた後でと手を挙げて皆とは別方向へと歩き出す。
ウーヴェのクリニックはリオンが勤務する警察署とは比較的近い場所にあり、クリニックが入居するアパート前の広場を横切るが、クリニックの窓はまだ明るくて診察室にウーヴェがいる事を教えてくれたため、軽い足取りでアパートのドアを開ける。
クリニックが入居するフロアに辿り着き、両開きのドアをいつものように見たリオンは、診察終了の札が裏返っていることに気付いてドアノブを握るが、ドアは難なく押し開いて中に招き入れてくれたため、リア、札が裏返っていたぞと声をかけて待合室を見回すが、人の気配を感じることが出来なかった。
「ん?リア?オーヴェ?」
待合室でウーヴェが何かをしていることはそれが彼自身の仕事が終わりを迎えた合図だったが、いつも座ってクロスワードをしているカウチにも、口では何だかんだと言いながらもリオンが好きだからと言う理由でチョコを入れてくれている小さな冷蔵庫があるキッチンスペースにも人の気配がなかった。
怒鳴られる覚悟で診察室のドアをノックするが返事は無く、そっとドアノブを握ると何の抵抗もなくドアが開いたことから、恐る恐る今度は顔を突っ込んでみる。
「ハロ、オーヴェ・・・・・・?」
いつものように声をかけて室内を見回すが、ウーヴェが考え事をするときに座っているお気に入りのチェアも、診察の時に座って患者と向かい合う、今は書類が山積みになっているデスクも無人で、部屋に響くのはリオンの声と立てる物音だけだった。
デスクの書類の山の横、書き物を中断した時のようにウーヴェ愛用の万年筆がそのまま置かれてあり、メモ帳や付箋が用意されているだけではなく、立ち上がった時のままと思われる形で椅子が横を向いていた。
それが不意にリオンの中の根深い感情を刺激したようで、自然と身体を震わせると同時に大声でウーヴェを呼ぶ。
「オーヴェ!どこだ!?」
幼い子どもの頃夜半に目覚めてしまい、一人きりであることに不安を抱いた時のように大声で何度もウーヴェを呼ぶがクリニックのどこからも返事は無く、リアはどうしたと思いながら診察室の開け放ったままのドアから待合室に出ると、コートを着た肩を激しく上下させる男に気付いて目を丸くする。
「あれ、アニキ?」
「お?ああ、リオンか。ウーヴェを見なかったか?」
肩で息を整えているのはウーヴェの大学時代の友人のカスパルで、今夜の飲み会について何度も電話をかけているが繋がらないし、クリニックに電話を入れても誰も出ないと舌打ちをし、前髪を掻き上げながらウーヴェを見なかったかと再度問いかけると、リオンがブルゾンのポケットから携帯を取りだしてリダイヤルの一番上にある番号に電話をかける。
いつもならばコールが5回ほどで穏やかな声が返事をしてくれるのに、今は10回を数えても無機質な呼び出し音が流れるだけだったため、何かあったのかと呟くが、カスパルが診察室横の小部屋のドアを開けて中が無人であることを確認し、コートはないが通勤で使っているカバンがあること、車のキーと家の鍵がついたキーホルダーもあることを口早に告げた時にはリオンの直感が恐ろしい言葉を呟いていた。
「・・・誘拐された?」
その言葉は刑事ならではの言葉で、通常、人がいなくなったときにまず考えるのはどこかに出かけているか、自発的な失踪だろうが、ウーヴェの過去を総て知るリオンにとっては自発的な失踪よりもごく自然と誘拐という言葉が思い浮かんで口に出してしまう。
肉体も精神も成長途上の思春期をとうの昔に通り過ぎたウーヴェが、子どものように説明できない突発的な理由から失踪するなど想像出来ない事だった。
それに、財布と携帯を持って行くことは当然としても、それよりも大切な家の鍵を置いたまま行方をくらませるのだろうか。
犯罪者が逃亡するときでもあるまいしと呟いた時、何かが脳味噌の奥で強く光るが、それが何であるかを認識するより先に掻き消すことの出来ない不安がリオンの中で鎌首を擡げ始め、リアが普段腰を下ろしているデスクに手をついて前髪を強く握りしめる。
「オーヴェ・・・・・・!」
その呟きが噛み締めた歯の間から零れ落ちた時、どれほど不安を感じていようが刑事としての感覚が捉えた物音-正確には気配-に気付き、診察室から出てきたカスパルに向けて掌を立てて静かにしてくれと態度で示し、脱いだブルゾンを腕に巻き付けることで万が一の防護にしたリオンは、気配がしたトイレのドアを勢いよく開け放って眼下に広がる光景に絶句する。
そこには、長く伸びていた髪を無残にも切り刻まれ、身につけていた衣類も髪と同じように切り裂かれただけではなく、左太ももに鈍く光るバタフライナイフを突き立てられてぐったりとしているリアがいたのだ。
「リア!!」
目の前の惨状がリオンの脳裏で二年前のあの事件を蘇らせてしまい、抑えることの出来ない震えが駆け抜けていく。
その震えが脳天を突き抜けた瞬間、リオンが弾かれたようにリアの傍に膝をつき、配管と繋がれている手を自由にするために何か無いかと探るが、リアの足に突き立てられたナイフを抜こうとし、リオンの背後からそれを見たカスパルが鋭く大きな声でリオンを制止する。
「ダメだ、抜くな!」
「アニキ・・・・・・?」
「ナイフを抜けば大量出血が起きるかも知れない。どこを刺されているのかを病院で調べるからそれまで絶対に抜くな!」
足に刺さったナイフを抜いた瞬間に栓が抜けるように血が噴き出す恐れがあった。そうなった場合、出血のショックで命の危機にさらされる恐れもあることを、医者の立場から強い口調で伝えるカスパルを呆然と見上げたリオンだったが、スカーフの結び目が比較的緩かったことに気付き、そちらを解くことにしてようやくリアをパイプから解放してやる。
「リア・・・、リア、聞こえるか?」
太もも以外には下腹部がうっすらと赤くなっているだけで目立った外傷がないことに胸を撫で下ろしたリオンだが、リアの頬を優しく叩いて意識を取り戻させようとするが、その間にカスパルが救急車の手配と警察への通報を済ませ、最後に友人達にメールでウーヴェに連絡がつかなくなったこと、リアが負傷していることを簡潔に伝え、今夜の飲み会は延期することも伝えて溜息をつく。
そんなカスパルの耳に微かな呻き声が聞こえた直後、悲鳴がトイレ中に響き渡る。
「イヤァアア!お願い・・・っ、やめて・・・っ!」
「リア!俺だ、リオンだ!もう大丈夫だから落ち着いてくれ」
リオンの腕の中で必死に身を捩り、意識を失う前まで経験していた恐怖から逃れようと悲鳴を上げるリアをぎゅっと抱きしめたリオンは、もう大丈夫だから落ち着いてくれと、パニックを起こして過呼吸すら発症しそうなリアの細い身体を抱きしめる。
根気強く大丈夫と繰り返したおかげか、リアの悲鳴が小さくなり、リオンなのかという疑問の声が上がったため、顔が見えるように距離を置くと、己を介抱しているのがリオンであることを認識出来たのか、リアの顔に安堵の色が浮かぶが、次の瞬間、まるで小さな子どものように大声を上げて泣き出してしまう。
「リオン、足が、痛・・っ!ウーヴェが、ウーヴェが・・・!」
痛みを訴える声に混じってリオンとウーヴェの名を繰り返す彼女にリオンが目を瞠るが、救急車のサイレンの音が徐々に大きくなってきたことから、カスパルの通報によって救急隊員と制服警官が駆けつけてくれたことを知り、カウチに移動させるためにリアを抱き上げる。
「リア、もうすぐ救急隊が来る。もう大丈夫だからな」
リオンの肩越しにリアに声をかけたカスパルだったが、何事かに気付いて慌ててコートを脱いだかと思うと、ナイフには極力触れないように気をつけつつリアの身体にコートを掛けてやる。
リオンの胸に顔を押し当てて恐怖を忘れたい一心で大声で泣き続けるリアの切られてしまった髪を撫で、もう大丈夫だと落ち着かせるようにカスパルが声をかけ続け、リオンがその細い身体をカウチソファに寝かせたとき、救急隊員と制服警官が駆け込んでくる。
「けが人はどこですか?」
「ここだ」
救急隊員にリアを指し示したカスパルは、駆けつけたのが顔見知りの隊員であることに気付いて手短に事情を説明すると、先生がいてくれて良かったと安堵するが、泣きじゃくる彼女から話を聞き出すことは不可能そうだと気付き、とにかくナイフの処置をするために病院に運ぶが、彼女の家族に連絡をして欲しいと隊員がカスパルに指示をする。
駆けつけた制服警官はリオンも知っている男女で、どういうことだと問われてカスパルと同様手短に説明をするが、泣きながらもリアがいくつかの言葉を口にした瞬間、シャイセと吐き捨てる。
「リオン?」
「・・・リア、今の言葉、もう一度言ってくれないか」
救急隊員がリアを搬送する病院とやり取りしているのを聞きながらリアの横に膝をついたリオンは、二年前に世話になったとアポもなく見たことが無い男が入って来たとリアが泣きじゃくりながらも必死に教えてくれた言葉を脳裏に刻み込み、床を拳で一つ殴る。
「────ジルだ」
「?」
その呟きの重大さを知るものは誰もおらず、誰の事だとカスパルが呟くがそれに対する返事はなく、リオンは皆の視線を集めながら携帯を取りだしてヒンケルに電話をかけ、クナイペの楽しそうな雰囲気をBGMにヒンケルが仕事中とは違う明るい声で返事をする。
『どうしたリオン。まだ来ないのか?』
「・・・ボス・・・ジルがこの街に現れました」
『何だと!?』
「リアが、フラウ・オルガがナイフで足を刺されています」
感情を抑えて淡々と語るリオンの横顔は刑事のもので、あまりの真剣さにカスパルも声をかけるのを憚るほどだったが、リオンの片手がリアの頭を優しく何度も撫でていることに軽く驚いてしまう。
『フラウ・オルガの容態は!?』
「太ももを刺されているだけで他に外傷は見当たりませんが、結構な時間トイレに監禁されていたようで、今救急隊員の処置を受けています。それと・・・オーヴェの姿が見当たりません」
カバンと車や家の鍵があることから、ジルが連れて行ったかも知れませんと告げた時、リオンの肩が感情の波に大きく上下するが、深呼吸でそれを押し殺しつつヒンケルに早く来てくれと声を震わせる。
「────ボス!!」
『今から向かう。現場の保全、フラウ・オルガの容態の確認しておけ』
日頃どれほど悪態を吐こうとも刑事として尊敬しているヒンケルに助けを求めるように名を呼んだリオンだったが、聞こえてくる声がいつもと変わらない冷静なものだった事から己の感情の高ぶりに気付き、深呼吸を繰り返す。
『良いな、リオン』
「Ja.分かりました」
ヒンケルの厳命に素直に頷いたリオンは、通話を終えた携帯を尻ポケットに戻し、カスパルを見ると一つ溜息をつく。
「今からボスが来る・・・アニキ、良ければリアに付き添ってやってくれないか?」
自分も病院に行きたいが、これから捜査が始まる為に無理だと小さく頭を下げ、不安そうに見つめて来るリアの額にキスをすると、もう大丈夫、皆が来てくれるから大丈夫と、リアよりも己に言い聞かせるように何度もその言葉を呟くのだった。
リアを乗せた救急車が、後から駆けつけたパトカーの回転灯を反射させながら病院に向けて発車する。
それを、ウーヴェがいつも座っていたお気に入りのチェアの背もたれに手をつきぼんやりと見送ったリオンは、あの後、皆と一緒に駆けつけてくれたヒンケルに感謝の言葉を告げ、初動捜査の為に制服警官や鑑識の刑事達がクリニックの内外に犯人の手がかりが残っていないかを探るために調べ始めるのを横目に、ヒンケルとブライデマンに詳細を話し始める。
「いつかのように強盗ではないな?」
「Ja.隣の小部屋の貴重品入れも受付にある金庫も全く手が付けられていませんでした」
それらのことから、今回の事件が強盗や営利目的の誘拐ではないと判断したリオンに頷いたヒンケルは、デスクに並べられているウーヴェの私物へと目をやり、財布と携帯がないのはコーヒーを買いに出かけたためかと腕を組む。
「Ja.今日は書類整理に時間を少し取るので、気分転換を兼ねてカフェにコーヒーを買いに行くと出ていったそうです」
その後三十分も経たないうちに経験した痛ましく恐ろしい事件を、泣きながらリオンに告げたリアの言葉をなるべく感情を込めずにそのまま報告したリオンは、まだそれほど遠くに行っていないのではないかとブライデマンが周囲を見回すように顔を巡らせるが、それは午後の早い時間で、二時間以上は経過していることをリオンが付け足すと、悔しそうに唇を噛む。
「今から緊急配備を敷いても間に合わないか」
「多分」
二時間あれば、アウトバーンを利用すれば200キロ以上離れた場所にまで行ってしまえることを、脳内の地図を頼りにヴェルナーが呟く。
「とにかく情報を集めろ。コニーがまだ署に残っているだろうから連絡を取れ。ドクの誘拐とフラウ・オルガへの暴行、殺人未遂で捜査を始める」
ヒンケルが飲みに行くときとはまったく違う顔で部下達に命令を飛ばし、ブライデマンも携帯でどこかに連絡を取っているが、その様子をどこか遠い世界の様に感じていたリオンは、ヒンケルの何度目かの呼びかけに我に返り、部屋の隅に呼ばれてついていく。
「ボス?」
「・・・今日はドクの友人達と飲み会だと言っていたな」
その友人達はウーヴェと連絡がつかないのかと問いかけ、先程までここにいたカスパルも午後からずっと電話をしているが連絡がつかない、クリニックの電話も出なかったから駆けつけたと言っていた事を伝え、その時間が即ちウーヴェが誘拐された時間だと頷き合うが、一人の制服警官が地下駐車場に降りる階段で発見したウーヴェの眼鏡を袋に入れて持ってくる。
「ドクの眼鏡だな」
「Ja.間違いありません」
眼鏡は視力矯正のために掛けているわけではないが、過去に向き合うためにウーヴェが必要としたそれを、いくら昨秋に過去に関する蟠りが全て解けたからといって手放せるはずがなかった。
その眼鏡が階段に落ちていることから導き出されるのは、強制的な身体の拘束を受けた事実で、ぐっと拳を握ったリオンが誘拐の目的と呟いたとき、心配そうに目を伏せる一人の女性の顔が脳裏に浮かび、電流が流れたときのように身体を小さく跳ねさせてしまう。
「どうした?」
「・・・親父への報告はどうしますか、ボス」
「親父?・・・バルツァーの会長か」
「Ja」
もしかするとバルツァーの会社絡みの誘拐ではないかと最悪の事態をなるべく想像したくない思いからリオンが口にするが、ウーヴェは会社の株をいくらか保有しているだけで直接経営に関わっていないこと、会社とは距離を置いていることを誰よりもリオンは知っていたため、気休めから出た言葉を自ら否定する。
「そんな訳ねぇか」
「その線も念のため調べておいた方が良いな。リオン、コニーと一緒に会長の家に行ってこい」
「・・・でも」
ウーヴェが誘拐されたことはこの街に暮らす一人の一般市民の命が危機にさらされていることでもある、それが刑事の家族であっても一市民であることに変わりは無いと、リオンが危惧している悩みに思いを馳せてその顔を見上げると、だからコニーと一緒に行ってこいと繰り返す。
「・・・ありがとうございます、ボス」
「ああ」
一礼したリオンがクリニックを飛び出して行く背中を見送ったヒンケルは、二年前のように最悪の状況を想定し、そうならないようにするにはどうすれば良いのかを相談するためにブライデマンの傍に向かうと、事の次第によってはリオンを捜査から外すことを苦渋の思いで伝える。
「・・・家族が絡む事件の捜査には加わらせられないからな」
「ああ」
あの時、姉を失ったショックからリオンを救い出したのはウーヴェだったが、そのウーヴェが今あの事件の犯人-なんと不愉快な言葉だろう-に連れ去られてしまったことから、暴発したリオンを抑えられる人がいないことに気付き、苛立たしそうに髪をかき乱して舌打ちをする。
ここにジルベルトが来た確たる証拠、特に物証を探せと制服警官や鑑識に命じたヒンケルの脳裏に今日の午後見たロスラーの検死報告書の写真が思い出され、身体を自然と震わせてしまう。
態度は横柄だし上司を上司とも思っていない言動を平気で繰り広げるリオンだが、それでもヒンケルにとっては大切な部下だった。
その部下が最も愛する人があのような無残な姿で発見されたとすればと、恐ろしい想像を止めることが出来なかったヒンケルだが、何とかそれを押しとどめて大丈夫だと己に言い聞かせるように呟くと、ブライデマンの訝る視線に険しい顔で頷く。
「ブライデマン、BKAで得ている組織についての情報を全部教えろ」
「ああ」
厳つい顔を更に険しくさせたヒンケルにブライデマンも頷き、ここは部下達に任せて一度署に戻ろうと歩き出す。
その後を追うように足を踏み出したヒンケルは、リアの治療に当たっている病院へ誰か向かってくれと命じるが、既に制服警官を派遣していることをマクシミリアンが返し、後を頼むと告げ、物々しい雰囲気に包まれたアパートを出て行くのだった。
ヒンケルらよりも先に署に戻ったリオンは、ヴェルナーからの連絡を受けていたコニーが出かける準備をしていたために手短に事情を説明するが、黙って頷かれた後、感情が邪魔をして言葉に出来ない思いを伝えるように肩に手を置かれたため、ヒンケルと同様掻き消すことの出来ない不安を一瞬だけ忘れる事に成功する。
「・・・・・・悪ぃ、一緒に行ってくれねぇか」
「もちろんだ」
俺が運転するから助手席で警部やブライデマンと今後の事について話をしろと請け負ってくれたため、本当にこの同僚には様々な面で助けられてきたが、大きな存在だと改めて気付かされる。
「・・・・・・ダンケ、コニー」
「ほらほら、いくぞー」
暢気さを装っていることを本能的に見抜いているからか、リオンも一つ肩を竦めて夜のドライブだー、楽しくないなーと軽口を叩いてコニーの後についていく。
ヒンケルと一緒に乗ることが多い覆面パトカーに乗り込んだ後、すぐさま携帯を取りだしたリオンは、突然の来訪で必要以上に驚かせたくないとの理由から、レオポルドの携帯に電話をかけるが、すぐさまどうした、ウーヴェと喧嘩でもして家を追い出されたのかと、リオンをからかう声が聞こえてきて、咄嗟に返事に詰まってしまう。
『リオン?』
「・・・親父、ちょっと聞きたいんですけど、オーヴェそっちに行ってないですよね」
『なんだ、家を出たのはお前じゃなくてあの子か』
ケンカをして飛び出したウーヴェの行き先を今調べているのかと笑われるが、さすがにそれに笑い返す余裕がなかったリオンの耳に沈黙が流れた後、何があった、ウーヴェがいなくなったのかと、事態の核心を突く言葉が流れ込む。
「・・・詳しい話をしたいので、今そちらに向かってます」
『お前一人か?』
「いえ。同僚と一緒です」
その一言からレオポルドが何かを察したのか、耳が痛くなるような沈黙を産んだ後、分かったとだけ答え、とにかく気をつけて来いとリオンを気遣う言葉を残して通話を終えてしまう。
「大丈夫か、リオン」
「・・・さすがに親父は勘が鋭いよなぁ」
いなくなったのかと言い当てられてしまったと肩を竦めたリオンは、とにかくこれからヒンケルよりも厳つい男に会わなければならないのだからと気を引き締め、その緊張からどちらも口を開くことがなく、小一時間も掛からずにバルツァーの屋敷に着くと、リオンの来訪を伝えられていたからか、ヘッドライトが門の中を照らして間もなく門扉が静かに開いていく。
去年の秋に二週間ほどウーヴェが実家に滞在し、そのうちの半数をリオンも一緒に滞在したこの屋敷だが、ウーヴェがいない時に来るのは三回目だった。
前にレオポルドの護衛をする事になり訪れたのだが、仕事で来るのはそれ以来だと何となく考えていたとき、噴水を回り込んで玄関に上がる為の階段下にコニーが些か乱暴に車を止めると、背の高いドアが開いてナイトガウンを身に纏ったレオポルドが姿を見せる。
「どういうことだ、リオン」
こちらに理解出来る様に説明をしろと低く告げるレオポルドにコニーが夜分遅くに申し訳ないと謝罪をし、リオンの同僚だと自己紹介をすると、鷹揚に頷いたレオポルドが二人を中に招き入れる。
「レオ・・・」
「リッド、一緒に話を聞くか?」
リオンからの電話に心なしか浮かれた声で対応していたレオポルドだったが、声の調子が急変したことから良くないことが起きたと察したイングリッドは、一人では聞けないが夫とならばどんな話でも聞くと頷き、二人と一緒にリビングに入っていく。
「親父・・・、オーヴェが・・・いなくなった」
夕方に発覚した事件についてどう説明すれば良いのかを悩みながら何とか伝えようとしたリオンは、いなくなったとはどういうことだと問われ、その声に自然と背筋を伸ばしてしまうが、答えたのはリオンではなくコニーだった。
「今日の午後、ドク・・・ご子息が気分転換を兼ねてコーヒーを買いに行くとフラウ・オルガに伝えてクリニックを出ましたが、それから連絡がつかなくなりました」
「!!」
コニーの言葉にイングリッドが一瞬で血の気を失い、夫の肩に寄りかかるように身を寄せると、レオポルドも無意識に妻の身体を支えるように腕を回す。
「おそらくそれと同じ頃だと思いますが、フラウ・オルガが何者かに襲われ、足を刺される事件があり、先程病院へ搬送されました」
「どういうことだ!」
「リオンとドクの同級生が偶然クリニックに出向いたときに、フラウ・オルガの負傷とドクがいなくなったことに気付きました。それが、今から1時間前のことです」
その後、初動捜査の結果、クリニックが入居するアパートの駐車場に止まっていたスパイダーの傍でタバコの吸い殻と、上の階段でウーヴェの眼鏡を発見したことを伝え、深呼吸をする。
「そのことから・・・ドクが誘拐されたと判断し、捜査本部を立ち上げることにしました」
「誘拐・・・おお、ウーヴェ、ウーヴェ!」
リオンが淡々と告げる言葉にイングリッドの身体が小刻みに震え、顔を両手で覆って悲嘆の声で息子の名を呼び、レオポルドも呆然と目を瞠っているが、誘拐の目的はなんだ、犯人からの脅迫などはないと声を震わせる。
「おそらく、誘拐の目的は、ドクへの復讐です」
「復讐だと?あの子が誘拐されるほど誰かに恨まれていたとでも言うのか!?」
俄には信じられない、親の欲目を差し引いてもあの子は人との距離を大切にし、恨まれるような行為を自ら取るはずがないと断言した時、リオンが顔を上げているのが限界だというように足の間に頭を押し込んで身体を丸めてしまう。
「リオン?」
「・・・俺の、せいです」
「おい?」
リオンが身体を小さくしながら自分のせいだと繰り返す様にさすがに尋常ではない何かを感じ取ったレオポルドがコニーに事情を説明してくれと目を細めるが、中々言い出さないことにじれて先を促すと、コニーも腹を括ったように腿の上でぎゅっと拳を握る。
「ドクを、ご子息を誘拐したのは・・・私たちの元同僚の男だと思われます」
「元同僚?・・・あの人身売買事件か!」
「はい。数日前にフランクフルトで同じく事件に関係していた元刑事が死体で発見されたこと、負傷したフラウ・オルガが、二年前の恩返しだと男が話したと言っていることから、・・・人身売買組織の一員のジルベルトの犯行だと判断をしました」
「!!」
その言葉からリオンの尋常ならざる様子もコニーが重い口を開いても歯切れの悪い調子で告げる理由も理解出来たレオポルドは、大きな手で額を押さえて復讐と呟くが、イングリッドが、何故ウーヴェが復讐されるのだという尤もな疑問を口にする。
「あの子が、その元同僚の方に直接恨まれるようなことをしたのですか?」
警察関係者でもない一介の精神科医が何をしたのだと、涙を堪えつつコニーをまっすぐに見据えながら問いかけるイングリッドに答えたのはリオンで、あの時、事件を解決へと導いた手帳があったが、その手帳を持ってきたのがウーヴェだったと告げて掌で顔を拭う。
「その手帳にはFKKにいつどれだけの少女らが運び込まれたのか、どこから来たのかが書かれていて、フランクフルトの責任者だった刑事の連絡先も書かれていました。それをオーヴェに預けたのは・・・俺の、姉、です」
あの時、リオンを護りたい一心で彼女がウーヴェに手帳を送り、事件を解決へと導いてくれたのだが、まさかこんな形で報復されるとは思わなかったと、蒼白な顔色でイングリッドの目をまっすぐに見つめたリオンは、だから今回オーヴェがジルに誘拐されたのは俺のせいですと、握った拳を腿に押しつけつつ歯ぎしりの奥から伝えるが、覆い被さるように投げかけられた声に呆然と目を見張ってしまう。
「ふざけるな。お前の姉が預けたからと言って何故お前のせいになる。お前と姉は別の人間だろうが」
「─────!!」
家族が犯した罪が係累に及ぶというのなら、お前が育った孤児院の子ども達も皆犯罪者になる、そんな愚かなことにも気付かないのかと怒鳴られてしまい、驚きにただレオポルドを見たリオンは、あの事件ではお前も被害者だったはずだと、打って変わった優しい声で労られてしまい、奥歯が砕けそうなほど歯を噛み締め、こみ上げる感情を押し殺す。
「会長、ご子息・・・ドクの行方を全力で我々も追います。この後、警察の発表があると思いますが、今回の誘拐は営利目的ではないので、会社に脅迫状が届いたりすることはないと思います。ただ、マスコミが取材に来る可能性はあります」
「ああ、分かっている。その辺は顧問弁護士と話をしておく。・・・コニーと言ったな」
「はい」
「・・・・・・あの子を、ウーヴェを、どうか一日も早く見つけてくれ」
そして、リオンと一緒に二人で自分たちの前に顔を見せられるように全力で捜査に当たってくれ、こちらも協力は惜しまないと子どもを思う親の顔で頭を下げたレオポルドにコニーの背筋が再度伸び、全力を尽くしますとだけ答えると、リオンも気合いを入れるように己の頬を両手で叩く。
「・・・親父、ムッティ、心配を掛けさせるけど、俺たちも頑張るから」
親父の言うように一日でも早くウーヴェを発見するから、どうか待っていてくれと告げると、レオポルドの大きな手がリオンの頭に載せられる。
「────頼んだぞ、リオン」
その一言に込められた膨大な思いがリオンの肩にのし掛かるが、今まで何度もウーヴェに告げていた言葉を思い出して深呼吸を繰り返すと、レオポルドの言葉から力を分け与えられたと教えるような太い笑みを浮かべる。
「次にここに来るときは、オーヴェと一緒にくる。約束する」
「ああ」
その言葉を合図にリオンの中で何かが切り替わったのかコニーに合図を送ると、遅くに申し訳ないともう一度詫びつつコニーが立ち上がる。
「リオン」
長い廊下を沈黙したまま歩くコニーとリオンだったが、後をついてきていたイングリッドに玄関先で呼び止められ、振り返ると同時に柔らかな腕に包まれて目を見張る。
「ムッティ?」
「・・・神よ、どうかウーヴェを無事にリオンの元にお返し下さい」
抱き寄せながら告げられる祈りの言葉にリオンが拳を握った後、そっとそれを開いてイングリッドの震える背中を抱きしめる。
「ダンケ、ムッティ。オーヴェと一緒に帰ってくるからさ、またムッティの料理食わせて」
「ええ、ええ。好きなだけ食べなさい。チーズケーキとリンゴのタルトを用意して待っているので、二人で一緒に戻ってくるのですよ」
「うん」
あなたの息子と一緒に必ず戻ってくると約束をし、二人を見守るレオポルドにも頷いたリオンは、事件が動けば報告をすること、調べておいて欲しいことなどが出てくればまた連絡をすると残し、一足先に階段を降りていたコニーを追いかけるように一歩を踏み出す。
走り去るシルバーの覆面パトカーを見送ったレオポルドは、顔を覆うイングリッドの肩を抱き、必ず二人で戻ってくるから大丈夫だと自らにも聞かせるように強い口調で妻を宥めるが、家人に命じて長年の友人であり顧問弁護士を務めるウルリッヒに連絡を取らせ、テレビを付けて事件に関するニュースがないかをチェックしつつ携帯でギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスに事の事情を説明するために連絡を取る。
レオポルドの予想は当たり、ニュース番組の中で速報の扱いとしてウーヴェが誘拐されたことと事務員が負傷した事を淡々と報じていたため、明日の朝は嘆き悲しんでいる余裕はないと腹を括るのだった。
春を迎える直前の夜、ちらちらと降り始めた雪は事件に奔走する人達の身体だけではなく心までをも冷やすように世界を覆い始めるのだった。
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2017.06.18
頑張れ、リオン。


