前夜、くしゃみが出るからチョコが食べたいと、己にしか分からない理屈を並べ立てて呆れる恋人にホットチョコを作らせることに成功したリオンは、寒い寒いと言いながらも傍目には元気よく己の職場へと出勤していた。
いつまでも寒いのは遠慮したい、早く暖かくなってくれないかなー、そうすれば名実ともにあの心優しい恋人と伴侶になれるのにーと鼻歌交じりに呟けば、何度も何度も聞かされているそれに同僚がはいはいと呆れた返事をする。
二人で様々な出来事を乗り越え、密かに抱いていた家族になりたいという願いが重なり、公的にも認められた関係になろうとようやく二人が決めたのは、ウーヴェが長年抱え続けてきた過去から解放されて間もなくだった。
同棲生活も長くなり、このままでも特に何かが変わるわけでは無かったが、リオンが長年思い続けた家族の形を完成させたいとの強い意志から、適当な頃合いを見て結婚式を挙げることを決めたのだ。
ウーヴェの仕事は比較的自由の利くものだったし、内科医のように風邪が流行っている冬は忙しい等はあまりないが、何しろリオンの仕事が刑事で、殺人事件や重大な犯罪は日時を選ばないため、市役所の担当者と結婚式の段取りについての話し合いすらゆっくりする暇が無かった。
リオンが教会付設の孤児院出身のためか、マザー・カタリーナや職場の人達ですら教会で式を挙げ、市役所に届け出ると思われていたが、宗教とは距離を置いているウーヴェに教会で式を挙げさせるのは無理強いになるとの理由で、市役所でのみ結婚式を挙げることにするとリオンが当たり前のように言ったため、自分たちの教会でリオンの式を執り行えると密かに喜んでいたマザー・カタリーナの肩を落とさせてもいた。
周囲の人達に安心と不安と歓喜と落胆を同時に味わわせていた二人だったが、それでも式を挙げることには前向きで、結婚に関わる煩雑な手続きや書類などは主にウーヴェが行い、五月の初旬に挙げることにした式を市役所で当日どのように行うか、二人に向けた祝辞をどのようなものにするのかを決めるために担当者と二人の出会いから様々な出来事を乗り越えてきた事実を時には冗談交じりに話し合っていたのだ。
そんな多忙な日々を過ごしていたリオンだったが、いつものように職場の己の席に腰を下ろし、今日は午前中に突発的な殺人未遂事件があったがそれも無事に犯人を逮捕出来たと、素早い解決を自慢するような鼻歌を垂れ流して周囲の同僚達を呆れかえらせていたが、必要不可欠な書類と向き合っていた時に上司から呼ばれていることに気付き、ヒンケルの部屋のドアをノックする。
「真面目に仕事をしていたのに、ボスが邪魔をするから一気にやる気が無くなったでしょー」
「馬鹿者、どうしてお前は一言多いんだ」
戯けた挨拶で入室するリオンに呆れた顔で言葉を投げかけたヒンケルだったが、一言多いのはどっちだと嘯かれてリオンを睨み上げる。
「何か言ったか」
「何でもありません。それよりもどうしたんですか」
ヒンケルのデスク前に丸いすを運んで腰を下ろしたリオンは、これでも敬愛している上司の顔が一気に苦み走ったものになったことから何か重大な事件が発生したことを察し、くるくるといつものように回ろうとしていた椅子を止めてデスクに手をつく。
「ボス、何かあったんですか?」
「・・・これを見ろ」
己とリオンの間のデスクにバサリと投げ出された報告書に目を落とし、読むのが面倒臭いと嘯こうとしたリオンの口が開いたまま動きを止めただけではなく、半ば浮かせていた腰もそのままで石化したかのように動きを止めてしまう。
「・・・・・・ジル、ですか」
「ああ。去年の秋だったか、ジルベルトをフィレンツェで見つけたと報告があったが、あれ以来まったく姿を見せなかった」
それが、先日ローマにいるのが発見されたと溜息交じりに教えられ、報告書に穴を開ける勢いで読み進めたリオンは、ローマでの足取りを追っていた関係者がオーストリアに入国したのを最後にまた姿を見失ってしまったことを知り、くそったれの無能刑事と報告書を作成した刑事の無能ぶりを陽気な声で罵るが、それはそれは悪かったと背後から不意に呼びかけられて瞬きをしつつ振り返る。
「・・・・・・なんだ、ジルを見失ったのはあんただったのか」
「相変わらずきみは上司に対する口の利き方を知らないようだな。警部、もう一度見習いから躾け治せばどうだ」
「小さなハンスが覚えなかったことは大きなハンスは決して覚えないと言うだろう?だから躾については諦めた」
リオンの呟きにやれやれと肩を竦めながら-またその仕草が嫌味なほど似合っていた-ヒンケルに部下の躾について苦情を告げたのは、二年ぶりに姿を見せたBKAのブライデマンだった。
「久しぶりだな、ブライデマン」
「ああ。警部も変わりないようで良かった。────リオン」
「・・・・・・へ!?」
デスク横に歩み寄る長身を呆然と見守っていたリオンは、握手をする上司達を同じ視線で見ていたが、不意にブライデマンから名を呼ばれて素っ頓狂な声を上げる。
「何だ、その声は」
「あ、いや、いきなりリオンなんて呼ぶから驚いたんですよ」
まさかあんたからファーストネームを呼ばれるとは思ってなかった、自分はあんたのような真面目な人からすれば受け入れられない存在だと思っていたと、己の驚愕の理由を口にすると、確かに受け入れられないが、だからといってきみの存在を否定するわけではないと口早に言い放たれて目を瞠った後、にやりと口元に太い笑みを浮かべる。
「俺も、あんたは嫌いだったけど否定はしませんよ」
「────久しぶりだな。元気に働いているようで安心した」
リオンの言葉に咳払いをしたブライデマンだったが、気持ちを切り替えたのか、きみのお姉さんの事件について、今でも当時のことを思えば反省すべきは反省するとも告げて手を出してきたため、素直にその言葉に礼を言う代わりにしっかりとブライデマンの手を握り、また会えて嬉しいですよと笑みを浮かべると、ブライデマンの顔に少しだけ安堵の色が浮かぶ。
「だからといってジルを見失ったことは許せませんけどねー」
「きっときみは口から生まれてきたんだろうな」
だからそれだけ減らず口を叩けるんだろうと呆れられてもにやりと笑ってやり過ごしたリオンは、それよりも今日はそれだけのために来たのかと気持ちを切り替えたことを教える口調で問いかけ、ブライデマンの為の椅子を部屋の隅から運んでくる。
「ああ、ありがとう。・・・四日前、フランクフルトで身元不詳の遺体が発見されたが、その身元が判明した」
「フランクフルトで身元不詳?」
ドイツ国内でも大都市に分類されるフランクフルト近郊で起きた事件だが、この街で日々起こる殺人や未遂事件に終われているため、他都市のことまで調べてられないと嘯きたくなるのをぐっと堪え、ヒンケルの疑問に返される言葉を待つが、聞かされたそれに思わず腰を浮かせてしまう。
「・・・ロスラーだった」
「!!」
「身元が分かるのに随分と時間が掛かったな」
ブライデマンの言葉にどうしてそんなにも日数が掛かったと、先日ニュースで事件について情報を求めるキャスターの声を聞いたことを思い出したリオンは、身元が分かりそうなものが一切なかったと教えられて眉を寄せる。
「一切?」
「ああ。─────両掌は焼かれていて指紋も掌紋も取れなかった」
「マフィアが絡んでるのか?」
告げられたおぞましい言葉に背筋に嫌な汗が流れ落ち、不快感に眉を寄せたヒンケルがそれだけかと、出来れば聞きたくないがと断りながら問いかけると、丸裸で川岸に流れ着いていたが、両足の腱が切られ、掌だけではなく体中の残されていた皮膚にやけどの痕があったこと、内臓にまで達する打撲やナイフの傷などから、フランクフルトでもマフィアのリンチを疑ったそうだが、発見される数日前に元同僚と一緒に警察に行く約束をしていたが姿を見せなかったことなどから、ただのリンチではなく警察との間で何らかの取引があることを嗅ぎ付けた仲間達の報復と身元の確認を遅らせる目的もあるとの見方で調べた結果、日数が掛かったものの、ずっと追いかけていたロスラーである事が判明したと、重苦しい空気の中で教えられてリオンが舌打ちする。
「警察に行くってことは、司法取引で話がついていた?」
「おそらくそうだろうな」
身の安全の確保を依頼する代わりに知っている情報を流す、そんな所だろうと嘆息するブライデマンにリオンが悔しそうに舌打ちをした後、デスクを軽く拳で叩く。
「ロスラーは組織についてどんな情報を持っていたんだろうな」
「昨年秋からずっとイタリアで組織について調べさせているが、ロスラーはフランクフルトのFKKの運営を任されていたようだ。だから組織のトップと繋がっているとみていたんだが・・・・・・」
組織の人間に先を越されてしまったことを悔いても悔やみきれないが、BKAが持っている情報では組織のトップがジルベルトの幼馴染みで、随分と顔の綺麗な男だということだけだと腕を組んで嘆息する。
「じゃあジルも組織の中では重要な立場にいた?」
「そうだろうな」
もしかすると幼馴染み二人が協力し合って組織を大きくしていたのかも知れないと、BKAやフランクフルトの刑事達と話し合っていたことを伝え、そもそも組織を作り上げた人物はかなりの高齢になっていて、ここ数年は組織に関わっていないようだったと伝えると、リオンがあの日聞いた、ジジイが危篤だとの言葉を思い出す。
「祖父はいなかったが、あいつの言うジジイってそいつのことなのかもな」
「ああ。それにしてもそんな無残な殺され方をするなんてな」
組織の中で下っ端だと思っていたが、実はフランクフルトの責任者の一人だったロスラーだが、そんなむごい最期を迎えなければならなかったのかとヒンケルが溜息混じりに呟くと、死体の脇腹にあった深さ三センチほどの傷の中からメモが発見されたと教えられて目を見張る。
「メモ?」
「ああ。これがそのメモだ」
血と唾液にまみれた紙に殴り書きされた文字があるが、それを写したものを見せられ、ヒンケルとリオンが身を乗り出してそれを覗き込むが、そこに書かれているものを見たとき、咄嗟に意味が分からずにヒンケルを見ると、上司も同じ思いだったのか、イタリア語なのかと自信なさげに小さく呟く。
「ああ。アヴェ・マリアの祈りの言葉らしい」
「アヴェ・マリア?・・・adesso e nell'ora della nostra morte. Amen.って、ああ、最後の言葉か、これ」
「聞いたことがあるのか?」
「Ja.マザーやゾフィーが良く唱えてました。Bitte für uns Sünder jetzt und in der Stunde unseres Todes.ってなるのかな」
この命が終わりを迎えるときも聖母マリアの祈りを求める一節をリオンにしてみればごく自然と何気なく発したのだが、ロスラーが死体で発見されたこととゾフィーの最期の姿が重なり、三人が同時に顔を見合わせ、互いの目に映り込むものが同じものである事に気付く。
「・・・ジルがロスラーを殺した」
「そう考えるのが正しいな」
ゾフィーの無残な最後とロスラーのそれが共通している部分が多々有り、逃亡しているジルベルトが手を下したと考えるべきだろうと嘆息混じりに告げると、ブライデマンも重々しく頷く。
「だから今日ここに来た」
「・・・そっか、あいつ、戻ってきてるのか」
そうかそうか、ならば一刻も早く発見してあの綺麗な顔をぶん殴ってやりたいと、ジルベルトからのメッセージが写された写真を手にリオンが歌うように呟くが、眉を顰めて小首を傾げる。
「なーんか、引っかかるんですけどね」
「何だ?」
リオンの直感について一目置いているヒンケルがその言葉に先を促すと、ジルベルトの日頃の言動から宗教のにおいを一切感じ取ることが出来なかったと呟かれ、ヒンケルとブライデマンが顔を見合わせる。
「マックスは日曜礼拝にも可能な限り通うし、バッグには聖書が入ってる。規律に厳しいのもその辺が由来してますよね。ジルは・・・俺と似ていてどんな類いの宗教にも無頓着に思えました。そんなあいつがアヴェ・マリアの祈りを書いたメモを残すなんて不自然な気がする」
「共犯者がいるのか?」
「そう考えるのが妥当でしょうね。リンチを加えて殺害したとはいえロスラーをバラバラにしたわけじゃない。死んだ人の重さを二人とも知らないわけじゃないでしょう」
俺よりも人生経験も刑事としての経験もあるあんた達が気付かないはずがないと肩を竦め、誰かがロスラーを川に捨てに行った、そのことからも最低でも二人の人間が絡んでいること、ジルベルトのことだからそれ以外に人がいたとしても、あの時に殺された二人のように少人数で動いているはずだと親指同士をくるくると回転させながら話すリオンを真剣な顔で見つめた二人は、ほぼ同時に溜息を零した後、ジルベルトが戻ってきている事実とロスラーの殺害についての情報を仲間内で共有した方が良いと話し合い、リオンも賛成と手を上げる。
「ロスラーの検死報告書は持ってますか?」
何かが気になるのか、ロスラーの検死時の報告書があるかと問いかけるリオンにブライデマンが軽く驚きつつ頷き、書類ケースからクリップで留められた数枚の書類を差し出す。
「これだ」
「ダンケ。────何か、なぁ」
「どうした?」
「んー、まだ少し整理できていないので、纏まったら報告します」
上司の言葉に上の空の様子で返事をしたリオンは、この書類を借りていくことを伝えてヒンケルやブライデマンの返事を待たずに部屋を出て行こうとするが、そんなリオンにブライデマンが呼びかける。
「リオン」
「はい?」
「暫くこちらにいる事になったから、ジルベルトについて知っている事を教えてくれ」
ドアノブに手をかけたまま振り返るリオンだったが、ブライデマンの頼み事の形をした命令にはにやりと笑みを浮かべ、見返りの量によって教える情報を考えますよと、刑事にあるまじき発言をする。
以前のブライデマンならば、何とふざけた男なのだと目を吊り上げただろうが、あの時から時は流れて少しはリオンという男の性情を理解したからか、早く仕事に戻れと溜息一つでそれを受け入れる。
だがそれだけで済ませることは出来なかったのか、ヒンケルのデスクに片手をついてあいつの再度の躾を要求すると伝えると、顎の下で手を組んだヒンケルが重々しく溜息を一つ零すのだった。
リオンが思いがけない人との再会を職場で果たしていた頃、ウーヴェは本日最後の患者の診察を終えて安堵の溜息をついていた。
最後の診察と言ってもまだ午後も早いうちで、今夜久しぶりに大学の友人達との飲み会があり、時間ぎりぎりまで診察して疲れた顔で皆に会いたくないとの思いから、早々に診察を切り上げて書類整理の時間を取ることにしたのだ。
友人に言わせると開業医だからこそ出来ることらしいが、書類の整理も重要だと反論したウーヴェに、お前の所には超が付くほど優秀な事務員がいるだろうと更に怒られてしまったため、そのことについては何も言わないでいたのだが、その優秀な事務員がファイリングしたカルテや業者からのダイレクトメールなど、ウーヴェが必ず目を通さなければならないものを運んでくる。
「結構溜まっていたんだな」
「そうね・・・広告のメールは処分しておきました。後は私では判断出来ないものばかりです」
だから処分するか保管するか決めてくれとデスクにそれらを下ろしながら苦笑したリアに、ウーヴェがやるせない溜息を一つついたかと思うと、気分転換をしてきても良いかと問いかける。
「どこに行くの?」
「広場の向こうのカフェで何か甘いものとコーヒーを買ってくる」
いつもならばリアが手作りのクッキーやタルトを用意してくれているのだが、今日に限って何の準備も出来なかったと出勤早々に謝罪をされていたことを思い出し、書類仕事の後に甘いものが欲しくなるのは仕方が無いとウーヴェが肩を竦めると、リアも同意するように頷く。
「なるべく早く戻ってきて下さいね」
「分かった」
気分転換を認められて安堵に胸を撫で下ろしたウーヴェは、コートを着込み財布と携帯だけを持ってクリニックを出て行く。
デスクに山積みになった書類を見下ろして溜息をついたリアは、二重窓の向こうに広がる空が俄に灰色になったことから雪が降るかも知れないと更に重苦しい気分に陥るが、コーヒーと美味しいビスケットを楽しみにしている、それともベリーのタルトかしらと、一仕事終えた後のお楽しみに思いを馳せながら己が出来る事を片付けてしまおうと診察室を出るのだった。
リアに許可を貰って気分転換に出かけたウーヴェは、クリニックが入居するアパートの階段をわざとゆっくりと時間をかけて下り、コーヒーと甘いものは何が良いだろうかと思案しながらドアを開ける。
途端に肌に感じるまだまだ冷たい風に顔を顰め、コートの襟を立てて白い息を吐くと、今朝リオンに今夜友人達との飲み会に参加することを伝えると、学生時代の友人は貴重だから行ってこいとの言葉と、飲み過ぎるな、なるべく早く帰って来いという定番の不満も聞かされたことも思い出す。
楽しい席だとついつい飲み過ぎてしまうウーヴェの癖を熟知するリオンの言葉に逆らわないように気をつけているが、そのリオンが言うように学生時代の友人との時間は本当に楽しい為、気がつけば普段の倍近くの酒量になるのだ。
これは本当に気をつけなければならないと何度も反省するが、友人達がそんなウーヴェの様子を見ては面白いからと次々に酒を勧めてくるため、断る切っ掛けを失ってしまうことが多々あった。
今夜もまたそうなるのかなと、期待半分不安半分で広場を横切ろうとしたその時、恐る恐る呼びかけられて足を止める。
「・・・あの・・・」
「はい?」
誰か知り合いだろうか、それとも道に迷った人だろうかと思いつつ振り返ったウーヴェは、すみません、この辺りにあるクリニックを探しているのですがご存じないでしょうかと丁寧に問われ、どこのクリニックですかと問い返すが、不安そうにメモを片手に問いかけてくる青年の美貌から目を離せなくなってしまう。
今まで様々な年齢や人種の男女と知己を得てきているウーヴェだったが、今目の前にいる青年のように一目見れば忘れられないほどの美形とは出会った事がなかった。
金髪碧眼という欧州に暮らす人たちを端的に表す言葉をここまで見事に体現している人物とそうそう出会ったことがないと呆気に取られそうになってしまうが、あの、と申し訳なさそうに問われて我に返る。
「ああ、失礼しました。どちらのクリニックですか?」
メモを覗き込む青年に優しく問いかけて返事を待つ間も、碧の瞳に吸い込まれそうになってしまう。
男女を問わずこんな風に感じたのはリオン以外にいないと思った時、ベンカーという名が聞こえてきて瞬きを繰り返す。
「ベンカーですか」
「はい。・・・知人の紹介で来たのですが・・・」
この辺りだと教わったのだが、方向音痴で迷ってしまったと心底不安そうに笑う青年に頷いたウーヴェは、視線の先にあるアパートを指し示し、このアパートにお探しのクリニックがあると伝えると、どこでしょうかとウーヴェに身を寄せて同じ場所を見上げるようと顔を上げる。
「あそこですよ」
己のクリニックの上の階を指で示しながらアパートのドアの中へと青年を誘導するようにウーヴェが歩いたとき、ああ、ありがとうございますと感極まったような声が聞こえてくる。
「中にまで案内してくれるなんて、本当にありがとうございます────バルツァー先生」
「?」
感激のあまり僅かに顔を紅潮させている青年の言葉に違和感を覚えたウーヴェが眼鏡の下で目を細めたその時だった。
いつどこから現れたのかがまったく分からないが、黒髪の男がウーヴェの背後に立っていたのだ。
前後を見知らぬ男二人に挟まれ、一瞬で肌を粟立たせたウーヴェは、足に力を込めて何とか逃げ出せないかと隙を探るが、背後の男が耳元に顔を寄せて囁いた言葉の意味を理解すると同時に全身から力が抜けそうになる。
「久しぶりだなぁ、ドク。あの時は随分と世話になった」
恩を受けたままでいるのは俺の性分に合わないから、二年分の恩返しを是非させてくれと囁かれた瞬間、放電したときのような音が小さく聞こえ、腰に激痛が走ってその場に膝をつきそうになる。
膝から崩れ落ちそうなウーヴェを背後から支えた黒髪の男、ジルベルトは、項垂れるウーヴェを冷淡な目で見下ろし、今度は背中にスタンガンを押しつける。
「────っ!!」
スタンガンが押し当てられた箇所を中心に流れる電流にウーヴェの身体がジルベルトの手を振り解いて跳ね上がり、痛みを声で訴えようと口を開くが、ウーヴェの前にいた不安そうな青年を装っていたルクレツィオが素早く手を伸ばして声が漏れないようにウーヴェの口を掌で覆ってしまう。
痛みに身体を痙攣させながらその場に倒れ込んだウーヴェの背中に膝をついたルクレツィオが結束バンドを使ってウーヴェの両手首を腰の上で括り付け、地下の駐車場から上がってくることが出来る階段で待機させていた部下を呼び寄せて黒い布をウーヴェの顔に被せて視界を奪うと、部下がウーヴェを担ぎ上げて階段を降りていく。
その一連の動作は手慣れたもので、アパートのドア付近にも関わらずに誰にも見られる事がなかった。
ルクレツィオが一足先にあの家に戻っているから後は頼むと告げたため、ようやくお待ちかねの時間だ、心ゆくまでショータイムを満喫しようと笑ってルクレツィオの頭を革の手袋で包んだ手で抱き寄せる。
「いよいよだな」
「ああ────その前にもう一仕事終えてくる。ルーク、先に戻っていてくれ」
「ああ」
祝杯の準備をして待っていると笑って手を上げるルクレツィオの頬にキスを残したジルベルトだが、駐車場で待たせていたバンに乗り込んでアパートを出て行くのを、ウーヴェのスパイダーに寄りかかってタバコに火を付けながら見送り、ちょうど五分後、タバコの吸い殻をその場に投げ捨て、手袋をきゅっと填め直すとエレベーターに乗り込む。
「さあ、あと一仕事だ」
これが終わればショータイムが始まる、それに間に合うように帰らなければと歌うように囁きながらエレベーターを降りたジルベルトは、今日の診察は終了しましたとの看板がぶら下がっている両開きの扉の前に立つと、この後のことを思ってついつい興奮しそうになるのを深呼吸で抑え、そっと扉を開けて初診の患者のような不安な態度で室内の様子を窺い、キッチンスペースらしき所から出てきた女性に呼びかける。
「あの・・・・・・」
「・・・もしかして、診察をご希望ですか?」
キッチンスペースから出てきたのはリアで、診察終了の札を出しているはずなのにと、少し前のことを思い出しながら入って来たジルベルトに問いかける。
「・・・いえ、こちらにバルツァー先生がいらっしゃると聞いたのですが・・・・・・」
「はい、バルツァーはうちのドクターです。どのようなご用件でしょうか」
室内に入って一度ぐるりと見回したジルベルトは、ここがウーヴェのクリニックで、リオンが暇を見つけては足繁く通っていた所かと胸の裡で呟きつつコートのポケットに突っ込んだ手でスタンガンの電源を入れる。
「いえ、二年前にバルツァー先生に大変お世話になった者で、こちらに来る用事がありましたので、先生に直接お目に掛かってお礼を述べたいと・・・」
恐ろしいほどの丁寧さで用意していた来訪の理由を告げたジルベルトは、申し訳ないが今彼は不在で、もうすぐ戻って来るとは思いますがと返す彼女に鷹揚に頷く。
「────そうだと良いな」
「え?」
「あいつはもう二度とここには戻ってこない」
丁寧な言葉使いが一変するだけではなく、女性の鼓動を早めそうな魅惑的な笑顔が言葉では言い表せない凶悪なものに変化したことにリアが気付いた瞬間、ジルベルトが間合いを詰めて彼女の細い身体に肩を押しつけ、素早く取りだしたスタンガンを先程のウーヴェと同じようにリアの身体に押し当て、小さな放電音が響いた直後、リアが悲鳴を上げてその場に倒れ込む。
スタンガンの出力は控え目にしているがそれでも痛みは強烈なもので、スタンガンが押し当てられたお腹を押さえながら身体を丸めるリアをウーヴェの時以上に冷淡な目で見下ろしたジルベルトは、扉の鍵を内側からかけて外部からの目を完全に遮断すると、痛みに身体を震わせるリアのスカートを無造作に掴んで力任せに引きずり下ろす。
「──イ、ヤ・・・、やめて・・・っ・・・・!!」
スタンガンを押しつけられた痛みと衣服を剥ぎ取られた恐怖から次に起こることを否が応でも想像してしまったリアは、痛みを堪えてジルベルトから逃げようと床の上を這いずるが、その細い足首を掴まれた恐怖に顔を引きつらせ、再度足首にスタンガンを押しつけられて甲高い悲鳴を放つ。
「アアアアアァ!!」
身体を激しく痙攣させて痛みにのたうつリアにうるさいと言い放ったジルベルトは、リアの首に巻かれているスカーフを乱雑に剥ぎ取ると、黙っていろと悲鳴を上げる口にスカーフを押し込む。
くぐもった悲鳴を耳にしつつぐるりと周囲を見回したジルベルトだったが、視界の隅で痙攣する身体に苛立ちを感じ、手入れがされている革靴でリアの下腹部を踏みつける。
「・・・っ、ぐっ・・・!」
高電圧のスタンガンを二度も食らって痙攣する身体を足で踏みつけられる痛みに失神しそうになったリアは、己を踏みつけた男がどこかに電話をしている姿をぼやける視界で認め、ルーク、一時間ほどで戻ると伝えているのを遠い世界の会話のように聞いていたが、纏めてアップしていた髪を解かれるだけではなく、まるで荷物を運ぶのに打って付けだというように髪を引っ張られて絨毯の上を引き摺られてしまう。
突然の、思いもよらない暴力に襲われた彼女はただ悲鳴を上げることしか出来なかったが、その悲鳴も己の口に突っ込まれたスカーフがほとんど吸い取ってしまっている為、彼女自身にしか聞こえないほどだった。
何故こんな暴力を受けなければならないのかまったく理解出来なかった彼女は、トイレの中に引き摺られていった後、荷物よろしく投げ捨てられてその場に蹲ってしまうが、カシャンという金属音が聞こえた瞬間、血の気を更に喪ってしまう。
蒼白な顔で振り仰いだ男の手に握られているのは、鈍い光を放つ細身のバタフライナイフだった。
スタンガンで身体の自由を奪った後レイプをされてそのナイフで刺されて殺されてしまうのだという、ニュースでよく見聞きする事件の概要が脳裏を過ぎり、自然と涙が流れてしまう。
何でもするから殺さないでと懇願したとしても、きっとこの男は鼻で笑い飛ばしながら殺すのだろうと思うと命乞いの言葉も出てこず、目の前にしゃがみ込んだ男がナイフの切っ先を先程踏みつけた辺りに宛がったとき、リアがきつく目を閉じて愛する人たちの顔を脳裏に思い描いてしまう。
ジルベルトの手がリアに恐怖を与えるようにわざとゆっくり持ち上げられると、ナイフの切っ先が彼女のシャツのボタンをはじき飛ばしていく。
ぷつぷつと弾けるボタンの音がやけに大きく聞こえる気がし、何を興奮しているんだと自嘲したジルベルトは、シャツの間から見える白い肌に赤い筋を走らせたくなるのを何とか思いとどまり、今度は胸の谷間にナイフを立ててブラを難なく切り裂くと、その手を下ろしてタイツと下着を切っていく。
女性が助けを求める場合、命が掛かっていたとしても胸や股間を見せることは躊躇することで、それだけでも時間稼ぎが出来る事をジルベルトは知っていたが、命の瀬戸際に追いやられたときには形振り構わないことも良く知っていた。
だから彼女自身が助けを求めることを躊躇させるために服を剥ぎ取り、長い髪をざんばらに切るだけでも十分な効果はあった。
己が切り取った長い髪をトイレの床に投げ捨てながら、二年前も同じ長い髪を切った後にレイプした女のことを思い出してしまい、苛立たしそうに舌打ちをする。
「・・・あの時はあいつのメダイに残した指紋で足がついたからな」
まあ今回もここから足がつくだろうが時間稼ぎは出来ると笑うと、涙を流してただ身体を震わせるリアの肩を蹴り、トイレの床に倒れさせる。
最早悲鳴を上げることすら出来なくなったリアを見下ろしたジルベルトは、やはり白く柔らかな肌に赤い筋を残したい衝動を抑えるために拳を握るが、心の葛藤を抑えるために無意識にナイフを視界の端に見えた何かに突き立てる。
「キャァアアアア!!」
狭いトイレに響く悲鳴に我に返り、己がナイフを突き刺したのが彼女の白い太ももだと気付いて一瞬呆然としてしまうが、ナイフを抜いてしまえば返り血を浴びて面倒なことになりかねないと己に言い聞かせるように深呼吸を繰り返し、ナイフをそのままに立ち上がる。
ナイフを突き立てられた痛みに失神したリアを見下ろしながら一つ溜息をついたジルベルトは、意識を回復した彼女が逃げ出さないようにするため、口の端から出ているスカーフを引き抜くと、トイレの配管と彼女の手を括り付ける。
「運が良ければ助かるだろうな。チャオ、お嬢さん」
色を無くした頬を一つ手の甲で叩いたジルベルトは、あんたの持つ運が勝つかそれとも俺が勝つかと笑うと、楽しそうに肩を揺らしながらトイレから出て行く。
部屋の中央に無理矢理脱がせたスカートがあり、それを摘まんでトイレの中に投げ入れた後、何事も無かったかのように両開きのドアを開け、そこにぶら下がる診察終了しましたの札を裏返しにすると、鼻歌交じりの浮かれた様子でクリニックを後にする。
階段を下りつつ取りだした帽子を目深に被ったジルベルトは、迎えに来る部下との待ち合わせ場所に向けてアパートを出て行くが、地下に降りる階段にウーヴェの眼鏡が落ちていることに気付かないのだった。
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2017.06.15
暫く、みんなにとって痛い話が続きます。頑張れ、ウーヴェ。頑張れ、リオン。頑張れ、リア。


